邂逅
―― 1 ――
ゆっくりとナイフを突き刺した。確実に仕留めるために。
トクトクとナイフを通して脈動が伝わる。
このまま、手を離したら、ビクンビクンとナイフが上下動するだろう。
一瞬、手をはなしたい誘惑に駆られた。
俺はAを殺すために、ヤツの部屋にやってきた。あいつはすっかり油断して、
俺を部屋に招き入れた。俺が抜き身を取り出した後も、驚いた顔をしただけで、
さして抵抗もせず、なすがままにナイフを受け入れた。
俺は奇妙に落ち着いていた。
人は本当に驚くと何もできなくなるのだ。ぐさりと脇腹につきいれたナイフは、
しかし、致命傷にはならなかったらしく、Aは何ごとかつぶやいた。
ゆっくりとナイフを抜き、もう一度、もう一度と。
スローモーション。瞬きさえも10秒はかかる。
何度も腹を往復し、その度に俺は人間の急所を理解していった。
気づくと温かい鮮血が手にかかり、俺は血まみれになっていた。
このままでは家に帰れぬ。血まみれのままでは。
逮捕してくれと言っているようなものだ。
想定通り、Aの部屋の風呂場でシャワーを浴びて、Aの服を着て、Aのふりをして、
何食わぬ顔をしてマンションを出るつもりだ。エレベーターの監視カメラにも、
夜中にAが外出する姿が映るだろう。
俺は鼻歌を歌いながら、血まみれの服を脱ぎ捨て、風呂場に向かった。
今夜は最高の気分だ。羽があったらはるか上空まで飛んでいける。
シャワーを浴びながら、腹のあたりにしびれるような痛みを感じた。
何度かナイフを刺しているうち、Aのやつは、抵抗を試みたらしく
俺のTシャツはビリビリに破け、体にAの爪痕が残っていた。
(くそったれ!最高の気分が台なしだ!くそが!)
俺は悪態を吐きながら、シャワーヘッドを叩きつけた。動きとともに鋭痛が
体を襲う。死んでまでも俺を苦しめるなんて。
どんなに殺しても殺したりないやつだ。
俺は、体にこびりつくAの血を丹念に洗い流すと、風呂場を出た。
……!
おかしい……。
部屋をどこを見渡しても、Aの死体が見当たらない。
さっきまでそこに横たわっていたものが。
「そんなバカな!そんなことが……」
Aの死体がないばかりではない。Aの血も俺の服もすっかり消えていた。
夢でも見ていたのか?あまりの殺意に。あまりの欲求に。
俺は自分を見失い、妄想でも見ていたというのか。
あのリアルな感覚は未だに手に残っている。
あの鮮血。あの鋭痛。あの末期の表情。
全て鮮明に覚えているのに。その証拠が手元からすっかり消えている。
夢ではない証拠に、ここはAの部屋だ。ふだん使い慣れないシャンプーの
香りが、俺の頭から発している。俺の腰にはAの使い込んだバスタオルが
まかれている。
「いったいどういうことだ?」
―― 2 ――
「さて、これは困りましたね?」
唐突に後ろから声を掛けられ、心臓が飛び跳ねた。
恐るおそる後ろを振り返ると、妙な燕尾服のようなものを着こんだ男が
立っていた。男はちょっと小首をかしげるような格好で佇んでいる。
深緑の燕尾服は、彼にしか似合わないだろう絶妙な色合いだ。
蝶ネクタイをピンとはじくと彼は、
「これは困りましたね。まったくの椿事だ」
「おま……」
「お前は誰だ?ですか。まったく貴方はつまらない。並大抵の人間だ」
男は見下すようにちらりと俺を一瞥すると、マジシャン
のような手つきでパイプを取り出し、丹念に火をつけた。
「何の……」
「何の用だ?ですか。まったく見下げ果てた人間だ、貴方は。唯一の味方の
友人を殺し、そんな一大事件の渦中になんてつまらない質問をするんだ」
カッと頭に血が昇る。
一人殺すも二人殺すも同じだ。こいつも血祭りにあげてやる。
俺はそう思うと、腰のあたりに手をやった。
クソっ!まだ裸だった。
おさまりがつかず、俺は男に飛びかかった。
男はひらりと俺の鉄拳をかわすと、続けざまに侮蔑の言葉を投げかける。
「救いようのない方ですね。私を殴っても何も解決しませんよ。
それにホラ」
男は洋服のポケットから俺のナイフを取り出した。パチンと指を鳴らすと、
男の手元から霧のようにナイフは消えてしまった。
「こんなものに頼っていても、貴方は変わりませんよ。私の名前ですか。
そんな記号に何の意味もありませんが。仮にエニグマのエニちゃんとでも
しておきましょうか」
どこまでもイラつくやつだ。
エニちゃんは、ゆっくりとした動作で紫煙を吐きだした。人差指をピンと
立てると、彼は円を描くように歩き出した。
「まずは、パンツを履きましょうか。話はそれからですね。何?下着もない?
なんて無計画な方だ。人を刺殺するのに着替えも持ち歩かないなんて」
心底軽蔑するような目をして、俺をねめつけると、エニちゃんはAのクローゼットを
指差した。服を着ろ、ということらしい。俺は大人しく彼の指示に従った。
裸のままでは物事が進まない。こいつを口封じするにしても、素っ裸では不便だ。
「貴方は、友人のAを殺した。その感覚はどこまでもリアルで、とても夢を
見ているようではない。ところが、シャワーを浴びて部屋を確認すると、
死体も血も貴方の服までもここにはなかった。ここまでは、相違ないですね?」
まるで見てきたように言う。俺はAのトレーナーに腕を通しながら、新たな衝動を
抑えるのに必死だった。
こいつは全て知っている。Aの死体が消失した今、こいつさえいなければ……。
「貴方はまだ、夢でも見ているようだ。そんな殺意のこもった目で私を睨んでも
私は殺せませんよ。なに、私はサトリではありません。すべて貴方の顔に
書かれています」
「お前の目的は何だ?俺を告発して、ヒーローにでもなろうって肚か」
「そんなことをして私に何の得が?それよりもこの難問を二人で解決しましょう」
いつの間にとりだしたのか、エニちゃんは部屋においてあった灰皿にパイプをおき、
眼鏡の位置をもったいぶりながら直した。
俺は、Aの服を着込んで、とりあえずこいつの話を全て聞いてからでも遅くないな、
と思い直した。それに、何か掴んでいるらしい口ぶりに少し興味が出てきた。
「さて、本題に入りましょうか。
まずは、すべてが貴方の夢だった、もしくは幻想だったという説。これは
真っ向から否定されます。なぜならば、私という証人がいるからです。
証人がいる場合、裁判でも有力な資料になりえますね。
次に、実はAが生きていて、血まみれのまま逃げ出し、警察に駆け込んだという説
です。これは、現場に物的証拠の血痕が残されていないので、またあり得ない説だ
ということになります。ちなみに、血痕があるかどうかはルミノール検査薬で、
簡単にわかります」
というと、エニちゃんは、霧吹きのような容器を取り出して、あたりの床に
吹きかけ始めた。
「さあ、電気を消してください」
右手をスイッチの方に差し出し、俺に命じる。しぶしぶ部屋の電灯を
消した。するとどうだろう。Aのいた辺りに、青紫色の発光が散らばっていた。
ところどころ、拭ったような跡もある。
「どうですか。綺麗でしょう。廊下の方まで噴霧しても、ルミノール反応はありません。
命からがら部屋から這い出したとしても、一滴の血痕も残さないことは不可能ですね。
つまり、Aは自力で逃げ出したわけでもないのです。ならば、ですね、そこにはたった
一つの可能性が残されていますね。おっと、鰐が来て喰い散らしていったというのは、
なしですよ。あまりに非現実的なことは、このゲームではダメです」
―― 3 ――
ゲームだと、ゲーム……。
人の人生をかけた大勝負をゲーム扱いするのか?
あるいは、このまま逮捕され、一生を刑務所で過ごすことになるかもしれないのに。
こいつは遊び半分で話しているのか?
彼はふと憐憫の表情をして、
「ゲームです。事件はもう起こってしまったのです。過去の出来事は、過去として処理
するしかないのです。異論がありますか?
遊びです。ゲームです。怠惰で腐れた貴方の人生に一輪の花をそえてあげようと私は
努力しているのですよ」
そういうと、肩をすくめ、大きなため息をついた。
こいつに何を反論しても無駄だろう。この魔術師じみた格好をしたこいつには、人間
らしい感情などないのだろう。もっとも人殺しの俺にも人間らしい感情があるとは思え
ないが。俺は自嘲の笑いをもらした。
「自分を卑下することはありませんよ。貴方はあまりにも短絡的で、愚かで、自制心が
欠損しているため、悪い人間にだまされたのです。おかしいですか?」
俺の笑いを見て、エニちゃんは不思議そうな表情をした。俺の自責の笑いを、可笑しくて
笑っていると勘違いしているのだ。
「お前さんは、たいそう賢くて、偉いんだな。そうして心がない。俺たちのようなウジ虫の
ド底辺の人間をいたぶって楽しんでいるんだ」
「心がない?確かにそうかもしれませんね……」
彼は、長めの髪をかき上げると、小さめに呟いた。よく見ると、つやつやとした女のような
髪をしている。
「確かに私には他人の感情がよく分からない。そのことと事件の解明とはまったくの
無関連です。さ、続けましょう」
まったく意に介さない様子で、エニちゃんは左手を広げて顔の近くまで挙げた。
「幽霊説、夢説、本人逃亡説。これらは私の論証によってすべて否定されました。
さて、これらがすべて否定されるとなると、第三者が死体を持ち運んだというのが
一番しっくりくる解答ということになります。
不思議ですね。貴方はこの最も簡単な解答を真っ先に否定しました。何故でしょう」
「そんなのは簡単だ。俺の来る前は、客がきた形跡がなかった。Aが1人でこの
部屋にいたんだ」
「Aさんが1人でこの部屋にいたからといって、他人がこの部屋にいなかった証明に
なりますか」
俺の頭に大きな疑問符が浮かび上がった。
……こいつは何を言っているんだ?
Aが1人でこの部屋にいたなら、他人がいるはずがないだろう。
「仮にAを殺したいほど憎んでいる、もしくは殺したいほど邪魔に思っている人間が
この部屋にいたとしたらどうでしょう」
「いなかったといっているだろう」
ハー、と特大のため息をつくと、エニちゃんは再び質問した。
「この部屋に貴方とAさん以外の人間がいたとしたらどうでしょう」
「……だから」
「いたのです。現に私がここにいるでしょう」
「お前が…」
「もちろん、死体を運び出したのは私ではありません。このことは断言できます。
私と貴方とAさん以外の人間がこの部屋にいたのです。
服を着替えるときに気づきませんでしたか?」
俺の言葉を次々に遮って、彼は断言した。
服を着替えるときだと?
順を追って思い出そうとした。俺はAの服を取り出し、下着をつけ、
トレーナーを身につけ……
「クローゼットの中はよく確認しましたか?」
そういえば、クローゼットのうずたかく積まれた衣服の中に少し隙間があったような。
「彼は……仮に殺人者と名付けましょう。殺人者は機会を覗って、今か今かと
殺人の瞬間を待ちうけていたのです。クローゼットの中で息をひそめて。
そして、貴方がやってきた。殺人者の全身の血が沸騰したでしょう。
息を殺すのに精いっぱいだったはずだ。
貴方が無謀にも殺人現場を放置して、シャワーを浴びはじめた途端、興奮で
叫びだしたいところだったでしょう。暢気です。貴方は暢気すぎます」
「知っている。俺が愚かなことは。知っている。だから、そんなに責めないでくれ」
俺は頭を抱えて、しゃがみ込み、懇願した。耳をふさぎたい気分だ。
「ええ。貴方は愚かです。そして、それだけ純真無垢です。だから他人の甘言に
騙されるのです。そして、まんまと代理殺人を犯した。まあ、それはこの際
いいでしょう」
一つ深呼吸すると、彼は続けた。
「殺人者は、貴方がシャワーを浴びているところに、死体の処理をすることにした。
なんとも大胆なことです。貴方が5分で風呂場から出てきてしまえば、自分の計画が
露呈してしまうのですからね。
しかし、彼には自信があった。貴方がシャワーをなかなか終えないことを知っていた。
何故なら、彼の計画には貴方の行動や傾向もすべて含まれていたのですから。
殺人者は準備万端整えて、死体を運び出すことにした。死体を運搬するには
人の目が気になる。そのまま運び出すような愚かなことはしない。あらかじめ用意し
てあった、プラスティックシートなどで死体を包み、綺麗にパッキングしたのち、
段ボールの箱に入れたのです。引っ越し用の大きな段ボールに。この辺りは人形など
使って練習すれば、時間をかけずに包めるようになります。何しろ犯人はこの手法の
プロです。私にも経験があります」
ニヤニヤと不気味な笑いを浮かべると、エニちゃんは言い放った。
「殺人者の計画で、最も肝心で所要時間がかかるところは、血の処理です。この部屋
から血を綺麗になくさないと、この計画は成立しません。
どうやって処理しようか。
彼は頭を悩ませることもなく、これを使ったのです」
そういうと、彼は右手を頭上に掲げた。左手は矢印の形を作って、右手の方を
指している。彼の右手には、赤黒い液体が入った試験官が握られていた。血だ。
さっと右手を下ろすと、床にぶちまけた。跳ね返りが俺のところまで飛んできた。
汚ねえな、文句を言ってやろうとしたが、エニちゃんの右手にはまた違うものがあった。
白い粉のようなものが袋に入っている。袋を破き、白い粉をサーッと床にまき始める。
白い粉はじわじわと鮮血に染まり、固まりはじめた。
「どうです。この粉は、血液の凝固成分……フィブリノーゲンと化学反応を起こし、
糊化現象を誘発します。糊化した血液は、液体成分と固体成分に分離して……
まあ、理屈はどうでも良いです。これを見なさい」
彼は命じると、血液の塊に手を伸ばした。彼の手に握られた固体は、加熱された
モチのように柔らかく、プルプルとスライム状になっていた。赤く染まったそれは、
床に少し残った透明の液体とは、明らかに分離していた。
これは……。
「この魔法の粉を使えば、血液をあっという間に固体状に変えることができ、あとは
血しょうをふき取るだけで、あっという間に掃除完了です。
もはや、ものの20分で死体を運び出すことが完成するのです。
ここで一つの疑問が浮かび上がりますね?警察が本気で鑑定すれば、拭き残しの
血痕があったり、今のようにルミノール反応を容易に発見することができます。
死体がないところには、殺人現場がない。警察は死体や血痕がない殺人事件を
本気で捜査することはありません。捜査がないということは、貴方の利益になりは
すれ、不利益なことはないと考えられます。
こんなことをしても無駄じゃないかと。現場をこのままにした方が、彼にとって
多大な利益があるんじゃないかと」
「確かにそうだ。そのまま放っておけば、失踪したAがここで殺されたことを警察は
発見する。犯人が誰だか探し始める」
「そうです。少なくとも、危険を冒してまで、死体を動かすメリットはないように
感じられます。短絡的な思考では……
この犯人の動機が私にとっては最も難しいところでした」
―― 4 ――
「犯人の動機は何なのでしょうか。こんな大騒動を起こしてまで、死体を運び出す
メリットは?
犯人の目的は、憎んでいたA氏を、そして、何よりも貴方を陥れること
です。
どうすれば、効果的に一石二鳥を狙えるか。
こればかりを考えて犯人は四六時中過ごしたはずです。貴方とA氏双方共通して
恨みを抱いている人物に心当たりはございますか?」
エニちゃんは、一拍おくと、俺に考える時間をくれた。
俺は生涯はじめてに等しいくらい、頭を回転させた。俺の空っぽの頭は空転する
ばかりで、何もはじき出されなかった。
イライラする!
自分の無能っぷりに!自分の頭の弱さに!
「貴方はどうしてA氏を殺害しようとしたのですか?」
「俺は、俺は、Aが憎かった。Aは俺の彼女を、俺の彼女のK美を寝とったんだ!」
「ほう。K美さんはどうしてA氏と浮気を?」
「わからん。どうしてAなんかと……。
俺は、K美と結婚するつもりだった。K美を愛していたんだ。アイツがいない世界なんて
考えられない」
俺はブルブルと震えた。怒りが気体となって、今にも体中からあふれ出しそうだ。
熱湯ぶちまけたように室温が上がった。
「AさんとK美さんとの関係はどうやって知ったんですか?」
あくまでもクールに、冷めた目で彼は質問した。
「それは、Bが、Bが教えてくれたんだ。AとK美が、ホテル街で会ってるのを見た
ってやつは言っていた」
「Bさんが?間違いありませんか?」
「間違いない」
「証拠は。Bさんの証言だけですか?」
「ああ、そうだ」
エニちゃんは、しばらく思案して、納得したように肯いた。
「A氏とK美さんには、確認をとりましたか」
「そんなまどろっこしいことをするわけがないだろ!」
「A氏とK美さんを天秤にかけた場合、貴方が選ぶのは……」
「K美に決まってるだろ!」
俺はこの質疑を通して、K美との思い出を振り返っていた。
K美は俺の理想の女だった。最初に彼女に出会ったのは、スキー場だった。
真っ白なスキー場で、イエローのウエアを着けたK美は、とても目立っていた。
出会いはいつも突然で、この機会を逃すともう彼女を得られないと思った。
上級者用の急な斜面で、彼女は立ち往生していた。自慢ではないが、俺はスキーが
うまい。
得意面で、彼女に手を差し伸べたのが、きっかけだった。
彼女は、急斜面に憶して立ち止っていたわけではなかった。
そこから見える景色の美しさに立ち止まったのだった。
それに気づいた俺は、得意面が恥ずかしく、彼女の前から早々に立ち去ろうとした。
「待って」
ゴーグルの下の彼女の瞳はおかしくって笑っているようだった。
「そのことを聞いて、私の考えは確信に変わりました。貴方はやはり騙されたのです
B氏は貴方の性格をよく理解していて、それを利用してA氏を殺したのです。
自分の手を汚さずに……
K美さんを心から深く愛していた貴方は、A氏の息の根を止めることを選ぶ。貴方が
どんな方法で彼を殺すにせよ、死体を処理して貴方を混乱させようとした。そのことは
彼の計画に織り込み済みです。混乱した貴方は、急いで自宅に帰ろうとする。自宅に
帰ったところA氏の死体が貴方の目の前に現れる。貴方が最も驚く方法で。
狡猾なB氏のことだ。血まみれのA氏の死体を、この部屋にあった状態を
再現して置いておくでしょう。そして、もちろん、警察にも通報済みでしょう。貴方は
言い逃れできない状態で、警察に逮捕という寸法です。何せ貴方は実際にA氏を
ナイフで殺しているのですから」
エニちゃんは、氷のように冷たい調子で自分の推論を述べはじめた。
俺にとっては、寝耳に水の恐ろしい出来事だったが、彼女との淡い思い出に浸っていた
頭には、ハッキリと届いてこなかった。
俺が黙ってうつむいているのを見ると、彼は続けた。
「B氏はそこまで考えて、ほくそ笑んだに違いありません。目障りなA氏を消せるばかり
でなく、貴方を遠く刑務所へ、絶望に打ちひしがれたK美さんを自分の元へ引き寄せる
絶好のチャンスを得られるのですから。
自分はほとんど手を汚さずに、漁夫の利を得られるのですから。
彼の計画にも杜撰なところがあります。死後硬直が始まると死斑ができるの
ですが、死斑ができたあとの死体を移動させると、死斑が動いてしまうという点。
エレベーターの監視カメラに、不審な引っ越し用段ボールを抱えた男が映るという点。
この部屋を子細に調べると、点々と証拠が残っている点。
それら細かい点も、死体、凶器、犯人、現場、証言などの物的証拠が残っている場合、
警察は矛盾にこだわって捜査することはない、という確信にも似た自信によって、
実行に踏み切ったのです。足利事件や宇都宮事件などに確証を得たのかもしれません
がね。犯人が犯行現場が違うと言ったところで、大差がないように感じられますね。
警察の方には」
「俺が、まんまとBの口車に乗ったことによって、すべてヤツの掌で踊らされていた、
ということか」
「簡単にいうとそういうことになりますね」
「俺がこのまま行方をくらましたとしても、K美のところには戻れない、な」
「そうですね」
「刑務所に入っても、10年は出てこれないな」
「場合によっては、或いは」
どうしてこんなことになっちまったんだ。
俺は世界で最もK美を愛していて、最も彼女を幸せにできる男だと思っていた。
俺はK美のことを愛していたから、Aを殺した。
それが今では、K美に近づくこともできないなんて。
うなだれた俺を見て、エニちゃんは内ポケットから白いハンカチを取り出した。
ドラえもんみたいなやつだ。
俺は泣きながら笑った。
―― 5 ――
「ひとつ教えてくれ」
涙に暮れる俺を見下ろしながら、彼は肯いた。
「何でしょうか」
「お前はいったい誰なんだ?何故こんなところにいる?」
「それを聞くことは、貴方の人生に多大な不運をもたらしますよ。それでも……」
「いいから教えてくれ」
俺は彼の言葉を遮って、懇願した。
不運だって?これ以上の不運があるか。あるなら見てみたい。
俺は完全に自暴自棄になっていた。
一つ咳払いをすると、彼はこういった。
「Aの体を借りていたものだよ」
彼の顔を見ると、背筋が凍りつき、俺の目の前は暗転した。




