007 「え? あいつから聞いてないの?」
僕は学校が終わった後、例の十字路を真っ直ぐ歩いていた。
今日はバイトの初出勤日。緊張しているため、足取りは妙に重い。
楽しみじゃないと言えば嘘にはなるが、かと言ってうきうきするほどのものはない。
まあ、勇者ちゃんに会えるのが楽しみなくらいなので仕方ないんだけど。
暫くもくもくと歩いていると目的の赤い看板が見えてきた。
今日は魔王君がいないため、退屈だったけどもうすぐである。
「さて」
僕は歩きながら呟いた。
独り言である。
「やっぱり、緊張するね」
近付いていく度にどきどきする。
初めてづくしだから、緊張するのは無理ないし。心配にもなるさ。
ちゃんと出来るのだろうか? とか、ね。
あー。勇者ちゃんの前で恥かかないかなぁ。とかも。
そんな事を考えながらついに僕は店の前に辿り着いた。
「すーはー」
ひとつ、深呼吸。
これは緊張した時にする癖だ。昔から試合の直前とかによくやってる。
「よし」
気持ちが落ち着いたことを確認し、僕は扉を開く。
以前と同じように店に入ると同時に音が鳴り響く。周りを見れば時間帯が違うためだろう、そこそこに繁盛していると言える人数の客が店内を占めていた。
「あら、来たのね」
今回は少しも間をおかずに勇者ちゃんが出迎えてくれた。
……とびっきりの笑顔で。
「ええ、お世話になります」
僕はドキッとした事を隠そうと、努めて冷静に頭をぺこりと下げた。顔が多少赤くなっているかもしれないので、ついでにそれも隠す。
「それじゃ、とりあえずこっちに来て」
多分勇者ちゃんはそれに気付かず、前と同じように僕を事務室へと連れて行ってくれた。
今回は前とは違い、数回扉をノックすると一緒に中へと入ってくる。
勇者ちゃんがこっちに来ても問題ないのだろうか。
「今店長が厨房で働いてるから、とりあえずこれ着て」
そう言ってロッカーからユニフォームを出してくれた。
「……ということは、ゆう……あ」
僕はユニフォームに手を伸ばしながらふとある事に気付いた。
魔王君は公認のニックネームだけれど、勇者ちゃんは公認じゃない。
というか、そもそも僕は名前を知らなかった。
「えっと」
ユニフォームを持ちながら僕は少し考える。
どうやって名前を聞こうかと。
「ん?」
「そういえば、お名前を伺ってないです」
もじもじしてる僕に反応してくれたので、ちょうどいいと思い僕はストレートに名前を聞くことにする。
「そういえば言ってなかったね。アイリスって言うの」
そう言って勇者ちゃんはにっこり笑う。
アイリス、それが彼女の名前らしい。まあ、西洋風の顔立ちをしているので何も違和感がない。
「へえ、海外の方ですか」
事情はなんとなく察しているが、僕は無難に返答する事にした。
「え? あいつから聞いてないの?」
のだが、勇者ちゃんから意外な切り返しが来た。
「あいつ、とは?」
僕はそこまで察しが悪いわけじゃない。が、ここはとぼけてみようと思ったので僕はとぼけることにする。
「あの場にいたんだし、あいつが隠さないってのは分かってるから。……結構慎重なタイプ?」
「まあ、石橋は叩いて渡るタイプです」
「そう」
「というか、お二人は仲がいいんですか?」
と、今度は僕の切り返しに勇者ちゃんが目を丸くして驚く。
「なんでそう思うの?」
「え? なんでって、発言が仲良さ気に聞こえますよ」
僕はとりあえず、上着を脱いでインナーで着ていたTシャツ一枚になる。
このままユニフォームを羽織っても問題なさそうだ。
「そんな風に聞こえた?」
「なんか、理解してるって感じですかね。そもそも、あいつって言ってる辺りからそれなりの仲だと思いますけど?」
上着を羽織って僕は肩を回したりしてみる。サイズはちょうどいいようだ。
さて、次はズボンを履き替えたいのだが、
「アイリスさん」
「…………ん?」
思考の海へと意識を飛ばしていたのか結構な間を置いてから勇者ちゃんは反応した。
「少し気まずいです」
そう言って僕はズボンを彼女に見せる。
それを見てはっと気付いた勇者ちゃんは顔を少し赤に染めながら体を後ろに向けた。
「いや……それってお互いに気まずくないですか?」
僕はあまり気にはしないけど、なんかこれはこれで気まずいような気がする。
いや、距離が近いからやっぱり気になる。
「あー……もう少しでいいので離れてもらってもいいですか」
男子が言う台詞じゃないような気もするが、気になるのだから仕方ない。というかハズイ。
「ん」
勇者ちゃんは短く僕に返事を返すと、すすすっとそのまま前進してくれた。
距離としては恐らく三メートルくらい離れたのではないだろうか。
勇者ちゃんが離れた事により、気まずさがマシになったので僕は急いでズボンを履く。
ズボンの色は黒だがYシャツに関しては薄い水色である。性別によって色が分かれるんだろう。
「終わりました」
ちゃちゃっと着替えを済ませ、僕は勇者ちゃんに話し掛ける。
「ん」
いつも通り短く返事を返した勇者ちゃんはこっちを向き直り、僕にサロンを手渡す。
「初めてだろうから付け方を教えてあげる」
……台詞にそこはかとないエロスを感じた僕は、健全な男子だと思う。
「まず、前のほうにクロスさせて」
自分のサロンを解いた後に、手本として目の前でサロンを結び始める。
比較的簡単な結び方だったため、難なく僕はクリアした。
「なるほど。これは解けにくいですね」
「でしょう?」
ニコッと笑って誇らしげに勇者ちゃんは微笑み掛けてくれる。
「さて、準備も出来たことだし。行こうか」
最後に長細い紙を機械に通して、勇者ちゃんは出口へと歩き出した。
僕は勇者ちゃんの後ろを静かに着いていく。
今の姿はどこからどう見ても店員そのものである。このまま店内に顔を出すというのは酷く緊張する。
先程までとは比較にならないほどの緊張を感じながら僕は店内へと足を踏み出した。
「いらっしゃいませー」
扉を抜けてから勇者ちゃんは声を出す。
「出て来た時はいらっしゃいませって言ってね」
「あ、はい」
どうやらそれがルールのようだ。
「じゃあ、まずは厨房の人に挨拶ね。店長もいるから出来るだけ元気に」
「はい」
そのまま勇者ちゃんに着いていって、すぐ近くにある扉を開けるとそこが厨房だった。
「店長。新人さんが来ましたよ」
「よ、よろしくおねがいします」
勇者ちゃんは僕の横に立って店長さんに伝える。
厨房内ではさすがにキセルなんて吸わないのだろう。至って真面目な格好、表情で店長は仕事していた。
因みに厨房のスタッフの服装はコックコートのようである。帽子は被っていないが女性は髪を結んでいる。
「おお、来たか。ちなみに挨拶はおはようございます、な」
店長はこちらに視線を軽く向けると少し笑いながらそう教えてくれた。
「おはようございます」
「よろしい」
僕の言葉に満足そうに店長は頷く。
「さて、悪いが見たとおり私は忙しい。今日はアイリスに教えてもらえ。まあ、アイリスも新人だから分からない事もあるだろうが、分からなければ土屋に聞け」
「わかりました」
「だが、土屋も今日は色々と忙しいからな。教えることは難しい。だから、分かる範囲でいい頑張って教えてやってくれ。ま、アイリスは優秀だから基本的には問題ないだろう」
「いえいえ、あたしなんてまだまだです」
嫌味にならない程度に笑いながら、勇者ちゃんは店長の言葉をやんわりと否定する。
だが、店長の反応を見るからにお世辞ではないのだろう。謙虚なんだなぁ。
「とりあえず、そんな感じだ。誠。早く一人前になれよ」
「はい」
「よろしい。んじゃ、行って来い」
そう言って店長は笑いながら出口を指差す。
僕たち二人はお互いに返事を返し厨房から出て行った。
最後に見えた店長の姿は真面目に仕事をこなす、出来る女って感じだ。素直にカッコいいと感心してしまう。
さて、店内に戻ってきた僕はまず注文の取り方から学んだ。
「これで注文を打っていくの。慣れないうちはどこに何があるのか分からなくて焦りやすいみたいだから気をつけてね」
「はい。……って、みたいだからって?」
「ん? ああ、あたしはすぐに場所覚えちゃったから」
つまり、他の人から聞いたことだけど自分には当てはまらなかったのだろう。
ますます優秀なのだという事が分かってくる。
まあ、とはいえ。
「僕にも当てはまりそうにないですね」
「ん?」
「覚えたんで、大丈夫です」
カコン、と僕は機械――ハンディと言うらしい――を閉じて勇者ちゃんに笑みを向ける。
勉強ジャンキーと呼ばれてもおかしくないほど色んな事を調べ、覚えてきたのだ。これくらいの量すぐに覚えられる。
「へえ。それじゃあ、軽く練習してみようか」
勇者ちゃんは感心したような表情を浮かべ、自分の持ってるハンディを開いて注文の打ち方を教えてくれた。
打ち方を教えてもらったら、次は実践である。
いきなりお客さんの注文をとるような事はしないで、勇者ちゃんの言ったメニューをカコカコ、と僕が打っていく。
「本当に覚えたのね」
スムーズに打っていく僕の姿を見て再び感心した表情で勇者ちゃんは微笑んでくる。
「これは教えるほうも楽そうね」
そう言って笑った顔は子供のような無邪気な表情だった。
と、その時である、入店を知らせる機械音が店内に響いた。
「着いてきて。いらっしゃいませー」
僕に短くそう伝えると入り口のほうに勇者ちゃんは向かった。
「いらっしゃいませー」
対する僕も掛け声を出しながら勇者ちゃんの後を追う。
僕は今日一日、勇者ちゃんの後を追い、一日の流れと接客の仕方を見て学んだ。
最後のほうでは僕も自らお客さんに接客し、ミスする事無く何度か業務をこなす事が出来た。
こうして、僕の始めてのアルバイトの一日目は終わった。
「お疲れさん。……ああ、これタイムカードって言うんだが、出勤と退勤の時に忘れずに押して帰るんだぞ」
「わかりました」
ピッ、ガガッ、と音を立ててカードに時刻と日付が刻まれる。さっきは気付かなかったが勇者ちゃんがやってくれたのはどうやら僕のだったらしい。名前も書いてある。
カードを元にあった場所に戻し、僕は着替える。
隣に店長がいて気まずかったが、勇者ちゃんのときみたく言う事が出来ずに僕は若干の恥ずかしさを感じながら着替えた。
「それじゃあ、今日はお疲れ様でした」
「おう。次のシフトだが、明日も大丈夫か?」
「あ、はい。大丈夫です」
「一応、明日に仮シフト出しとくから。駄目な日があったら遠慮なく言ってくれ」
「わかりました」
「んじゃ、お疲れさん」
「お疲れ様でした」
僕はぺこり、と軽く頭を下げ部屋を後にする。
店内に出ると勇者ちゃんが食器を片付けてるところだった。
「お疲れ様です」
「あ、お疲れ様」
「僕、明日もみたいなんですけど」
「ほんと? ならあたしと一緒だね。明日もよろしく」
「よろしくお願いします」
お互いに笑みを浮かべながら頭を下げる。
明日も勇者ちゃんに逢える。そう思うと思わずガッツポーズをしてしまいそうだ。まあ、心の中でだけどね。
最後にもう一度お疲れ様と伝えて僕は店を後にした。
外に出れば日も暮れていて、夜風がひやりと体を冷やす。
「さて、明日も頑張ろう」
僕は店の前で一度伸びをした後、帰路へと足を進めた。