「 みんな」という名前の神様
この国には全くタチの悪い宗教が存在する。「みんな」という神様である。
虚淵玄という作家が言ったことである。ネット検索すると今でもおおよその原文は出てくるので読んでみてほしい。
同調圧力によって秩序を整えている社会を指して、「みんなという神様」と切り込んだのだろう。否定は確かにしようがなく、日本の社会は大いに同調圧力をもって平穏を保とうとしてきた。
もうちょっとポジティブに言うと「和を以て貴しとなす」と聖徳太子のようなセリフになるだろうし、若干照準を甘くしていいなら、吉本隆明の「共同幻想」なんかもそれにあたるだろう。
良し悪しはともかく、実体があるかないかわからない「みんな」という存在に、我々は善の所在や秩序の源を求めてきた。これからもある程度はその営みは続き、「みんな」が望むこと、望まないことは、社会のある程度の指針として機能し続けるだろう。
そして、高校時代に虚淵玄の「みんな」という神様、同調圧力という淫祠邪教、という、いささかとんがった主張をふーんと眺めた私は、今この歳になってから、「みんな」という神様に思いを馳せることが多くなった。
結論から言おうと思う。「みんな」の形作る同調圧力は、そのすべてが悪いものだとは言い切れない、そう思っている。「みんな」による同調圧力は時として鬱陶しい。私だってそう感じるときがある。だが、人間というものと次から次へ出会い、その多様さに驚いたり、尊敬の念を抱いたり、あるいは嫌悪したりするとき、これだけ違いのある人達をある程度まとめて社会の中に抱き抱えるためには、共通項を能動的に作らねば皆が皆、相互いに目の前の誰かを攻撃し続ける酷く殺伐とした世の中が暗澹と続くだけの世界になってしまうと、そう思う。
ヒトは当然のことながら、そんなに誰も彼ものことを受け入れられるほど広い心など持っていない。私も大学時代にイスラームへの改宗を迫られてかかわりを絶った、南アジアからの留学生だったクラスメイトがいたし、逆に私の生まれ持った性情のいろいろが気に食わぬと衝突した人間も少なくない。愛も平和も条件付きなのは別に恥じることでも何でもない。それでもどうにか、争いごとを避けて平穏に暮らそうと願うなら、「みんな」という神様のご利益にあやかることになるだろう。ひとえに、不完全な自分と多様なヒトの生き方とをすり合わせるために。
淫祠邪教と断ずるには、あまりにも霊験あらたかすぎる「みんな」という神様。まこと幸運なことに、我々は「みんな」とどのように関わってもよい。大切に敬うのもけっこう、もしも足蹴にしたって命まではとられない。古今東西のあらゆる神様のなかでは、「みんな」とは、比較的程度の良い一柱ではないかと思うのだが、いかがだろうか。
同調圧力という言葉自体が、あってはならぬ巨悪のように扱われることもまた多いのだが、最近はそれに助けられていることもまた多いよなと感じるようになった。極端に言えば道徳だってそうなのだから。中庸などというとちょっとおこがましいが、「みんな」とはうまく付き合えばご利益の方が多いはずだ。




