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白いひと

作者: 弥かろん
掲載日:2026/05/13

ある島の暮らしに想を得て書いた物語です。まずしい兄弟の兄が必死に暮らす話です。

 その日、海はやや荒れていた。獲物を追う船は大きく上下に揺れた。赤銅色の男たちが懸命に櫂を回している。その誰かの櫂が波からそれて跳ね上がり、少年の背中を強打した。少年はあまりの痛さに悲鳴すら上げることが出来ず、痺れた腕を押さえて身を丸めた。

「漕げ漕げ漕げ!」

 船頭がそれを見咎めて少年を叱咤した。少年は漕ごうとして痺れる腕を櫂に伸ばそうとしたが掴むことはできなかった。少年が漕げずにいる分、船は進行方向から少し左にそれた。蹲まっている少年を後ろに突き飛ばして大人がそこに席を占め、猛然と漕ぎ始めた。方向は修正された。獲物に再度接近する。

「ヤー」

 槍手になっている三人が声を上げて槍を放った。二本が当たり、一本は逸れた。逸れた槍を手繰り寄せてもう一度、突き立てた。獲物は暴れた。船は転覆寸前まで立ち上がり、そうして波頭から落下した。槍手の奮闘によって槍が頭部に五本突き立った時、獲物は海面に動揺を起こしてゆっくりと浮き上がった。「うぉー!」

 少年を除いた全員が雄叫びを上げた。少年は蹲ったまま薄目を上げて漁が済んだことを知った。

 浜辺には収穫を待つ村人たちが黒山の人だかりになって海に向かって一列に並んでいた。村人総員で引き上げた獲物は久しぶりの大物だった。獲物は村人にその者相当に平等に分けられる。それでもぼやぼやしていると取り分は少なくなる。捌き手の周りには村人が殺到している。少年も痺れる背中と腕を伸ばしてその後ろに付いた。捌き手はちらりと少年を見た。船での失策を思って少年は緊張した。しかし少年にも獲物は分け与えられた。肉より皮の部分の方が多かった。他の者より少なくはあったが取り分は取り分だ。少年は分け前を手にすると背中の痛みも忘れ頬が上気した。脳漿をバケツいっぱい手にした叔母さんの横を通り村人とは違う方向に少年は肉を抱えて歩んでいった。

 痛む背を庇いながら一足一足歩く。これだけあれば芋数十個には換えてもらえるだろう。それだけあれば次の漁がいつも通りあればどうにか暮らせる。いつも通りならば…。

 住処の洞窟に辿り着くと、少年は急に襲ってきた背中の鈍痛に跪ついた。早く肉を切り分け干さなければと思いつつ動くことが出来なかった。動こうとした時、背中を貫く痛みに少年は気絶した。

 目を覚ました時、弟が心配そうに自分を覗き込んでいた。

「兄ちゃん、どうしたの?」

 少年は痛みを騙し騙し身を起こした。

「学校から帰ってたのか」

 弟は七つだった。兄は十六だった。この兄弟は流行病で両親を亡くし、この洞窟に居着いたのだった。兄弟は何が何だか分からないままに村の外れのこの洞窟に住むしかなかった。弟のTシャツには「I♡NY」とプリントされている。海外衣料援助で兄がやっと手に入れたたった一枚のTシャツだ。それと緑色のジャージの短パンで弟は学校に通っている。兄は漁をする者がみなそうであるようにボロのふんどし姿だった。今どきは漁をするにもTシャツや短パンの者もいたが、この兄には最初からそんな物などなかった。弟の通っている学校は外国人が無料で開いている。兄は学校に行ったことがなかった。弟の話す外人の魁偉な様子も興味がなかった。頭にあるのはふたりの生活だけだった。

 背中の痛みはなかなか引かなかった。それでも干し肉の作業を終えて囲炉裏の前に座り込んだ。夕食の準備をしなければならない。兄はバナナを葉に包んで炎の中にそっと差し込んだ。

「またバナナ?」

 弟が指をしゃぶって呟いた。にこっと笑って兄は鍋を引き出し芋と残っていた先の漁で手に入れた干し肉をナイフで薄く削って放り込み煮始めた。弟はじーっとそれを眺めている。

「一度で良いから肉を口いっぱい頬張ってみたいよ」

 兄は応えることが出来ない。いつか自分が槍手になったら弟に好きなだけ肉を食べさせてやりたいと思う。一番の食事が干し肉を出汁にした芋の煮込みなのだ。獲ってきた肉にけして手を出してはならない。芋が買えなくなる。芋がなければ次の漁までの食料がなくなるからだ。塩も村人から買わなければならない。村人は海水を焼いて塩を作るがなぜかこの兄弟が塩を作ることを村人が許さなかった。塩を焼こうと火を炊いて岩場をうろうろしていると追い払われるのだった。漁に参加させてもらえるだけありがたいのである。なぜ漁には参加できるのか。両親の仲のいい船長の意向だろうと兄は推測する。祭りにも参加できる。だが塩を焼くのはダメだ。その区別が兄には分からない。それが世間というものなのだと思うしかなかった。

「ねぇ、ちょっとで良いから今日の肉、食べちゃだめ?」

「だめだ」

 兄は一言の元に弟のおねだりを退けた。弟のおねだりはためらい勝ちだが、兄にはそれが胸に矢のように刺さる。弟も自分も育ち盛りなのだ。弟は物心がついてまだ数年で今だけのことしか見えない。兄は違った。家計を預かる身だった。何をどれだけいつまで必要か。数ヶ月先、数年先を思って生きなければならないことを両親が亡くなって数年、身に染みていた。

 芋の煮込みを犬食いしている弟を兄はそっと見下ろした。背中の痛みは何がなし鎮まっていた。突き刺す痛みはなくただそこにあるという鈍痛が脈打っていた。弟は学校のことを話し出した。

「兄ちゃん、おれ、うんと勉強して医者になるんだ」

「そうだな」

「医者っていったら村長より偉いんだよ。村長がお辞儀してるんだ」

「それはほんとか」

 兄はただ相槌のつもりで言った。興味がなかった。村長も医者も兄にとっては自分とは別の世界の人間だった。

「ほんとさ! …だけど、おれあんまり勉強できなかったら学校の先生にしかなれないかも知れないな…」

 兄はクスリと笑った。まだ学校の初年なのに大きな希望と大きな失望を抱えている弟が可憐に思えたからだった。学校の先生になる。それすら兄にとっては分不相応な夢に思えた。今の学校を終えて、更に上の学校に行くためには島を離れなければならない。この兄の記憶の限り、この村から出た人間はいなかった。皆日常会話がやっと分かる程度で学校を辞め、皆漁師になっていた。兄はいつか見掛けた、肌の色は同じだが、すらりとした背筋の、外国語を巧みに操る教師をも別の世界の人間のように思っていた。所詮別の島からやってきた人間だ。この島の識字率は全く上がっていなかった。

 医者になる。教師になる。弟の夢は無邪気だった。兄は弟が愛しかった。その無邪気な夢が出来る限り長く続くことを祈っていた。なぜならそれが続く限り、自分も夢を見ていられるからだった。弟の存在自身が兄の希望だった。弟を失っては生きることが出来ないことを兄は自覚していた。

 洞窟の向こうは藍色の夜の帷が降りていた。真っ青な夜を迎えると、兄は今日も生きたと思えるのだった。愛しい弟は食事を終えると寝入って、息するたびに膨らむように脈動を繰り返して息づいている。それを見下ろしていると兄の胸は幸福感で満たされるのだった。自分も寝ようと身体を捻った時、再び背中の激しい傷みが襲った。弟を起こさないように四つんばいでしばらく呻きを堪えた。背骨が硬く身を貫く傷みに破れそうだった。少年は声にならない呻きを漏らしてころりと横になった。堪えていると傷みは徐々に遠のいた。しかし激しい今日の漁を終えた身体は眠ることを欲していた。ずくんずくんという傷みの中で少年はいつしか眠っていた。


 少年は自分がある種のかたわになったことを知った。岩場の海岸で魚を捕らえようとしてていた。ヤスで魚を狙って背中を反らせると激痛が襲うのだ。伸びきらない背でヤスを操っても魚はするりと逃れる。益もない投擲を繰り返して少年は打ちのめされてしまった。魚が捕れないかたわ。それがどういうことか少年はぼうっと考えた。漁は出来るだろうか。少年は櫂を操る仕草をしてみた。鈍痛は止まないがそれはできた。いつか直るかたわだ。少年はホッとして岩場に腰掛けた。魚は捕れなくても村の側を離れることは出来ない。いつ漁が始まる合図が出るか分からないからだ。兄弟の住む洞窟まで知らせにやってくる者はいない。魚も獲らず、少年は数日村の側でうろうろした。弟はいつも学校が終わると兄のいる辺りへやってきた。

「兄ちゃん、トビウオはとれた?」

「いや、獲らない」

「どうして?」

「おれは病気だ」

「今日も病気?」

 弟は不思議そうな顔をして兄を見返した。兄はその視線が身を貫くように感じた。しばらくして

「じゃあ、おれがやるよ」

 弟はヤスを掴んで海の中に入った。弟は盛んに投擲をした。もう少しのところで大物を逃した。それを潮に弟は海から上がった。少しもしょげていなかった。逃した魚がどれほど大物だったか、手振り身振りで兄に伝えた。「次は捕まえるよ」

 そういうと、兄には羨ましい身軽さで隣の岩に腰掛け、海の彼方の水平線に視線を向けた。兄も同じ方向を眺めた。何も仕事がない時は海を眺めて暮らす。それが村の習慣で村の人間の人となりだった。白い波頭が沖に湧き起こっては崩れる。風が海から陸に吹いていた。ただ日盛りがその沈黙を破ぶった。

「家に帰ろう」

 陰のないところで数時間も過ごしていたのだった。昨日の今日で獲物がそうそうやって来はしまい、と兄は思おうとした。

 足裏に触れる砂は焼けていた。影は真下に差した。砂場と岩が混じった道を弟は身軽に歩いた。兄はずっと遅れてその後を歩いていた。かたわはいつ直るのか。直ったかたわ者など少年は知らなかった。どっちともつかない不安が少年の胸に漂った。弟が叫びながら道を戻ってきた。少年はいつの間にか立ち止まっていた。

「兄ちゃん! 兄ちゃん!」

 弟は興奮していた。兄を引っ張るように小走りに歩く。ふたりの住む洞窟のほんの手前の岩にそれはいた。

 それは僅かに傾いた日差しを真っ向から受けて真っ白に輝いていた。まるで太陽を直に見たような輝きだった。しかしそれは太陽ではなかった。真っ白いシャツとサファリ帽、カーキ色の半ズボンに、これも白い水筒とズックの鞄を提げた、紛うことなき人間だった。それが岩から直接突出しているかのように頂点で光っている。ふたりを見下ろして、真っ赤な唇を開いて白い歯を覗かせている。その白さはふたりを圧倒した。

「童子様!」

 弟が混乱して叫んだ。兄は圧倒されながら「ひとだよ」と言った。「子供だよ」

 見たところその少年は弟より年上で、兄より年下に見えた。

「外国人の子供じゃないのか。お前見たことないのか」

 兄の冷静な言葉に弟は反駁しようと躍起になった。学校を運営している時々村にやってくる外人は白いというより赤く毛むくじゃらで、だから全然違うと。

 ふたりが問答している間にそれは岩場を降りてきて、気安い笑顔で近寄ってきた。差し伸べる腕は汚れひとつない真っ新なクリーム色をしていた。間近に見れば確かに肌の色を除けば何ということもない普通の人間で、弟は神様と言ったことに気恥ずかしさを覚えたようだった。それはふたりの前でしばし微笑んで立っていた。そして少し困ったような顔をしてから、しゃべり出した。兄弟には解されない言葉だった。それはいったん言葉を切ると、また違う言語を繰り出し始めた。兄の背中からおずおずと眺めていた弟が兄を押しのけ前に出た。そしてうんうんと頷いた。そして兄を振り返ると叫んだ。

「兄ちゃん、これ英語だよ!」

 弟は興奮していた。

「やっぱりオーストラリア人なんだろう」

 弟はちょっと拗ねたような顔をしたが、すぐそれに向き直ってしゃべり出した。もとより、単純な知っている限りの単語ではあったが、それは理解の表情を浮かべるともっとハイスピードでしゃべり始めた。

 突然、

「ウエルカム!」

 と弟が叫んだ。兄はびくっと身を震わせた。弟が振り返って

「挨拶だよ、英語で挨拶はウエルカムなんだよ!」

 と言った。それも笑った。兄は何か嫌な予感を感じた。

「関わり合いになるな。行くぞ」

 兄が弟を引っ張って歩き始めると、なんとそれは悠然と同じ方向に歩き始めた。弟はそれに向かって兄に引っ張られて伸びたTシャツの襟首から肩を出したままうんうん頷き盛んにウエルカムを連発していた。兄の願いを裏切ってそれは兄弟の住む洞窟までついてきた。洞窟を見ると何やら感嘆の声を発した。それは弟が誘うまま、洞窟の一角に座り込んだ。そして何やらしゃべり、通じないのを知ると残念そうにまた一言呟いてから、ズックの鞄を開け、両手に何やらひとつずつ掴んでふたりに差し出した。

「チョコレートだよ!」

 弟が叫んだ。兄はまたびくっとした。弟は躊躇わずに銀紙に包まれているそれを剥いてかぶりついた。

「あまーい! 兄ちゃんも食べてみなよ!」

 兄は興味本位から、恐る恐る銀紙を剥いてそれを口にした。兄は衝撃を覚えた。口を横に持ってゆかれるような強烈な甘さだった。兄は一口食べて口を押さえ、残した。弟はそれも取って貪り食った。悠然と微笑んでいるそれは水筒から飲み物をコップに注いで飲んでいた。弟が「モア、モア」というと鞄の底を開いて、もうないと示したいようだった。

 兄が

「こいつは誰なんだ。何しにこの島に来たんだ。大体何人なんだ」

 と弟に問うと、

「知らない。だって何話してるか分かんないもの」

 とあっけらかんと言った。そうしてそれに近づいて身振り手振りで遣り取りを始めた。兄は立ち上がると「薪を取ってくる。その前に帰って貰え」と言って洞窟を後にした。すると驚いたことに、それは一緒に立ち上がると住処の入口で少年に握手を求めてきた。少年は握られた手を振り切って追っ立てられるように小走りにその場を離れた。

 薪取りから戻ると、驚いたことにそれはまだ兄弟の住処にいた。弟との言葉の遣り取りはなく、ふたりは何かの板に視線を集中して注いでおり、おかしな音だけが聞こえていた。鳥の声でも動物の声でもなかった。兄は黙って背を向けて自分の仕事をしていた。一際高い奇妙な音がした後、弟が今まで息を詰めていたかのように「ぱぁ!」と声を上げた。ふたりはひとしきり笑っていた。そして弟は笑いながら兄の背を叩いて、

「兄ちゃん、すごいよ! 見てみなよ!」

 弟の言葉も終わらないうちに兄はおっ被せるように「ラジオだろ。おれだって知ってる」と言った。

「ラジオなんかじゃないよ! ゲームだよ!」

「音がするんだろ。ラジオのなんかだろ」

「ラジオじゃないよ。ゲームだってば。学校にある雑誌に描いてあった通りなんだ」

 兄はそれ以上反駁する知識もなく、言葉も持っていなかった。気乗りしない兄を弟は引っ張って来た。板の表面では色が踊っていた。何とも知れない物体が浮遊していた。弟が驚いている兄の手を掴んで、その人差し指をある一点に押し付け、そこから横に滑らせた。すると指から光が出て、光りは指の動きと連動して移動した。たまげた兄は指に電気が走ったかのように弟の手を振り解いた。そして自分の手のひらが無事かどうかをまじまじと見詰めた。弟は笑った。あれも笑った。

「これがプレイヤーの動きで、このキャラクターを動かすとバトルになるんだ」

「プレイヤーって何だ? キャラクターって何だ? バトルって何だ?」

 兄は本当は「それが何なんだ!」と言いたかった。それがおれらに何の関係があるんだ?と。

「知らないよ。プレイヤーはプレイヤーだよ。そう言ってるもん」

 兄のいない間に弟はあれとの急速なコミュニケーション能力を獲得していたらしかった。そのふたりの遣り取りの間、ゲーム機を差し出していたあれが、その機械をぱたりと膝の上に落として何か呟いた。弟は兄の憤懣を余所にあれに向き直り、じっと集中してあれの言葉を聞き取ろうとした。それはゆっくりと弟に向かっていろんな単語を繰り出した。しばらくして弟は会話の中に共通する、自分の知った単語をついに見つけ出した。

「イートって言ってる! 兄ちゃん、このひとお腹が空いているんだよ!」

 兄は「他人に食べさせる芋はない!」と怒鳴ったが、弟は「椰子の実取ってくる!」と言って外に飛び出していった。いつもの家の手伝いの時よりも勇んでいた。

 ふたりきりになると兄はどうしたらいいか分からず、気まずい思いをした。それは弟を見送って立ち上がっていて、その姿が消えると、兄に向き直りにこっと笑った。こちらも立っていた兄は否応なく自分とそれとの違いを思い知らされた。何もかもが新しいそれと、汚れきった赤銅の肌、腰にボロを纏っただけの自分。何故引け目を感じなければならないのか。骨と皮ばかりに痩せた自分に比べ、それの腕や足はほっそりしているものの薄く柔らかい脂肪に包まれてぽっちゃりしている。兄が自分の身体を縮込めるようにその場に座り込むと、それも腰を下ろした。そして流れるようにしゃべり出した。最初は尻上がりの言葉が続いた。疑問文だということは兄にも分かった。しかし兄が何も応えられないと分かると、普通の言葉を繰り出し始めた。兄は戸惑わずにはいられなかった。何故通じない言葉をこれは次々繰り出してやまないのか。それは白い腕を差し伸べ、少年に向かって謳うような言語を投げかけ続ける。少年はその顔から視線を逸らせることはできなかったが、一言もしゃべらなかった。通じないことが分かりきっているからだ。

 抱えて持って帰った小さな魚数匹を、弟は火を起こして椰子の葉に包んで焼き始めた。

焼き上がるとそれに手渡した。それは初めて戸惑いを表して受け取ると包みを開いた。弟がこうするのだとばかりに食べて見せた。それも恐る恐る魚を人差し指と親指で摘んで口に持っていったが、匂いを嗅いで顔を背けた。そして「のー」と言った。椰子の汁だけ飲んだ。弟は非常に失望したようだった。そうして弟は何をとち狂ったか、大切なとうもろこしで粥を炊き始めた。兄があまりのことに呆然として止める隙もなかった。兄の見つめる弟の背中は他人のようで、拒否的に兄に対していた。粥はぐつぐつと煮えた。弟は「椰子の実を採ってくる!」と言ってまた出て行った。兄はただ煮える粥を見つめていた。あれはただ無表情に弟が出てゆくのを目で追っていた。

 粥はいつもの夕の分量を超えていた。兄は凝然と粥を眺め続けていた。

 弟はあっという間に帰ってきて小さな椰子の実を抱えて息せきっていた。石で椰子を割ると、卑屈な笑みを浮かべて手渡した。粥も渡した。それは受け取るとぐびぐび飲み始めた。粥も差し出すと気持ち悪そうに少し食べ、また椰子のジュースを飲んだ。「ぷりてぃーぐっど」。弟はやっと柔らかい表情になって、再びそれの横に馴れ馴れしく腰を下ろした。そして自分も粥を食べ始めた。

 兄にとっては何が何やら分からなかった。何が分からないかといって、弟がいつもの弟でないことだった。弟とそれはまた短い単語で楽しげに話していた。そうしていても粥は冷める。冷めた粥はまずいのだった。兄はふたりから離れて粥を食った。

 ふたりはまた板に向かって遊び始めた。洞窟内にはいつまでもいつまでもピコンピコンギュルルーンという音が響き続けていた。兄はどうしたらあれを追い出すことができるのか分からなかった。兄は警戒的にふたりを眺め続けていた。どれぐらい経っただろう。ふたりに背を向けて入り口から外を眺めていた兄が空が藍色に地上が白く夕暮れが訪れていることに気づいた。兄が決然と立ち「もう夜の神がやって来たぞ! 早く自分の家に帰れ!」と怒鳴った。

ふたりはその語気に驚く様子もなくまた話し始めた。あれは視線を下向きにしくどくどと何か弟に口説いていた。手振り身振りも添えて。それは村のお婆さんが昔話をする仕草にも似ていた。その口説きの時間は兄の辛抱を強いた。弟がうんうんと頷いていた。弟は躊躇いがちに兄のもとに近寄るとこそこそと言った。「家がどこだか分からないみたいだよ」

「泊めることなんてできないぞ!」

 兄の語気の荒さにもそれは自若としてくつろいでいた。兄は計算していたのである。明日の朝、朝飯を出さなくてはならなくなる。とうもろこしが減るばかりだ。残りはごく僅かだった。ふたり分が三人分になる。兄にとってはそれは許されないことだった。兄がこんなふうに胸を焼く思いで残りの食料を思いやっていると、弟がまた小さく言った。

「それに…兄ちゃん。またイートって言ってる。さっき食べたのに」

 さすがに弟も戸惑っていた。さっきの分が今日一日の最後の食事のはずだった。

「何度も言わせるな! 他人に分ける食糧なんかない!」

 弟の顔が赤くなった。兄の言葉に強さに怒りを覚えたのだった。弟は今度は声をひそめず言った。

「兄ちゃん、チョコレート食べたでしょ」

 兄は口を噤んだ。

「チョコレートってすごく高いんだよ。たぶんとうもろこしの三袋分くらいはするよ。ううん、もっとかも知れない。何かお返ししないと神様に怒られるよ」

 あの食べ物とも思われない激烈な味の菓子がか。

「なんと言われてもダメだ!」

 弟は兄への侮蔑に顔が醜くなるぐらい顔を紅潮させた。これもいままで兄が弟に認めたことのない表情だった。兄は混乱した。その場を逃げ出したくなった。

「…水を汲んでくる」

 兄はそう言って立ち上がった。いつもの弟なら、晩に水を?と聞いてくるはずだった。

しかし今は赤く醜く顔を歪ませて黙って兄を見つづけているだけだった。兄はもう追ッ立てられるように洞窟を出た。振り向きやや及び腰でがなり立てた。

「帰ってもらえ!」

 あれは何にも言わなかった。弟は睨んでいた。

 とぼとぼといつもよりゆっくり岩から水がしみ出している岩場についた。村の井戸は使わせられなかった。兄は岩場草に腰を下ろし、持ってきたバケツに3リットルほどの水が溜まっていた。兄は身じろぎもしなかった。今日一日の弟の変化に更に混乱していた。兄に逆らうような弟ではなかった。どうして弟はそんなに変わってしまったのか。一人きりになると背中の痛みがぶり返してきた。じんじん、という痛みに思考を乗せて兄は黙って座り込んでいた。しかし時間が降り積もるのは自覚していた。弟はあれにまた粥を作るだろうか。いや、兄のいないところでそんなことをするわけがない。兄には自信がなかった。しかし兄は思い出した。あれは粥を好まない。全然食べていなかった。もう一度出されても食べないだろう。「のー」と言うだろう。兄は自分が百面相をしているのに気づいた。頬が引きつれるのが分かったからだ。楽観的になってほんの少し笑ったのだった。そうしてそれから溜息をついた。バケツに水を汲み、帰り道を辿った。

 臭いは洞窟に入る前に気づいた。獣臭い臭い。兄はバケツを取り落とした。洞窟には肉の臭いが充満していた。弟が兄を振り向いて目を輝かせた。

「兄ちゃん、肉なら食べられるって!」

 その弾んだ声にそれは「らいく、びーふ」と親指を立てた。ふたりの唇は油でてらてらしていて、炉の火が燻っていた。干していた肉は脂身を避けて赤身のところだけ矩形に切り取られ、旨いところだけ喰ったらしく炉の周りには食い散らかされた肉片が散らばっていた。

「…喰ったのか」

「うん。喜んでくれたよ」

 干場にはろくに肉は残っていなかった。大事に干して二日後には市場に持ってゆくはずだった肉が無惨な姿であった。

「市場に持ってゆくやつだったんだぞ!」

 弟はとたんに冷たい目をして「だってしょうがないでしょ」と言った。そして

「兄ちゃん、ちんちん出てる」

 と咎めるように言った。やせ細った身体に巻き付けたふんどしは緩んで横から陰茎が覗いていた。背中の痛みのために良く負けなかったこともある。兄はとたんに卑小感にまみれた。弟は兄にこんな思いをさせるような人間ではなかった。ふんどしが緩んで陰茎が覗いていることがそんなに恥ずかしいことか、俺らはこうして生きてきたんだぞ、と兄は言いたかったが気持ちが言葉にならなかった。言葉にならない気持ちは役に立たなかった。ただただ恥ずかしく情けなかった。

「…!」

 言葉を発しようとしたとき、外が騒がしくなった。松明の光りがチラチラ見えた。走ってくる大人たちも見えた。大人たちが洞窟に入るやいなや兄は村人にさんざんに痛めつけられた。殴られながら棒で打たれながら聞き取れた言葉は「かどわかし」「恩知らず」。ずたぼろになって横たわると、あれが進み出て「のー」と言った。気づくとそこには赤い外人もいて、それに優しげな言葉をかけ、抱き寄せた。あれは何か大人の外人に訴えかけていた。大人の外人は黙って聞いていた。そこには学校の教師もいた。外人と話し合っていた。言葉の分かる教師が通訳した。あれは岬に泊めてあるクルーザーから陸に探検に出て迷子になった者らしかった。

「ーー氏のご子息はあなたにはたいへんにお世話になったと言っています。岬に泊めたクルーザーに招待したいと」

 教師も外人もあれも弟を見詰めていた。血まみれになり、ふんどしから陰茎が露出した兄のことではないことが兄にもはっきり分かった。弟は曲がりなりにもシャツとパンツをはいている。大人に乱暴される兄をかばおうと両手でつかみかかっていた弟は、そう言われるといいの?とでもいうように兄を見たが、外人に振り向けた顔は輝いていた。

「二日間だって」

 横たわり意識もほとんどない兄に向ける顔ではなかった。兄は狭い視界で弟を見た。

「兄ちゃん、大丈夫?」

 兄は無理にゆっくり体を起こし、あぐらになって頷いた。兄に乱暴した村人は外人の背後に遠景として退いていた。

「じゃあ、行ってくる!」

 村人も外人もすーっと洞窟から立ち去った。残った兄は再び身を横たえ、痛みに耐えた。そして昏睡した。

 目が覚めたのはもう日が高かった。洞窟にはまだ肉の臭いが残っていた。肉を食べたことをあれは言うだろうか。外人は肉は食べない。食べることは罪だと言われている。知らずに食べたことが知れたら、弟は酷い目に遭わされるのではないか。そんなことを考えながら、動く体の部分を探して荒らされた肉を確認に立ち上がった。酷いものだった。それをなんとか見栄えのよいものにしようと削ったりもし、干し直しもした。明日は市場の日だ。そう思ったところで昏倒した。意識を失った。  

次に目が覚めたとき、まるで数年も経ったような気がした。記憶が途切れているのだ。市場に行かなければならない。しかも近場の市場は女どもだけの市場で子供の自分は相手にされない。ずっと遠い市場に行くしかない。それなら今から出発しなければ間に合わない。兄は無惨な思いで干し肉を集めた。出汁取りになら使ってもらえるだろうか。とにかく干してあるだけの干し肉を籠に入れ、それを背負って洞窟を出た。背中は板のようだった。手足、胴には新鮮な痛みが残っていて、背中との違いに吐き気がした。それでも一歩一歩兄は道を歩んだ。目的地は目的地と設定できないほど遠かった。兄はただ一歩一歩歩むしかなかった。真夜中に出発して、空はまだ真っ青だったが、兄の心は焦った。その場で足踏みするような捗らない足取りでいると、あっという間に地平に太陽が現れた。膝は伸びず、足下は石ころばかりで歩は進まなかった。朝の日差しだというのに兄の神経に障った。森に入って日陰に入れば楽になる、と自分に言い聞かせた。確かに森にはいると日陰になって気分的に楽だったが、日差しで紛れていた痛みが存在を主張する。身体じゅう斑に鈍痛があった。引き返そうかと思うほどそれは進むごとに気持ち悪く、自分の身体がいつもと違う肉のずだ袋になったようだった。いちいち考えなければいいのだ。兄は思った。そうして本当に考えなくなった。

 進むたび、足下を過ぎてゆく羊歯の葉の塊をなんとなく数えていた。羊歯はいつも同じ形でどれほど進んだのかの基準にはならなかった。時々、獣道の森の先に目をやった。しかし森は深くほんの十数メートル先しか捉えることはできなかった。兄はふうっと溜息をついた。そのことにびっくりした。動揺した。こんなところで溜息をついていたら、目的地には決してたどり着くことはできない。できないと思ったことがショックだった。戻れという誘惑が全身を覆って抗えないほどだったからだ。兄は道ばたに座ってくうーと唸った。この誘惑を払わなければ旅は耐えられないものになる。そこかしこの身体の痛みから逃れるように手足を揺すり、身体を地面にこすりつけるように転がった。そうして耐えていると、突然全身に脱力感が満ち、兄はぐったりと横たわった。真っ白な時間が過ぎた。どれほど経ったかわからないまま、しばらくすると兄は立ち上がり歩き出した。

 それからは早かった。本当に何も考えず歩いたからだ。森の様子で目指す場所が近いことが感じられた。早朝の市に間に合いそうだった。半日じゅう歩き抜いたのだ。道幅は広くなり、ときどき小屋も現れた。市場が近いのだ。市まで辿り着くまでの時間も見当が付いた。とたんに楽になった。ただ歩きつづければいい…。

 兄は都会と捉えていたが、役場があって、板張りでない建物がちらほら見えるくらいの純然たる村だった。その広場で市が開かれる。まだ売り物のひとたちは集まりきっていなかった。兄は慎ましい樹木の下に筵を敷いて干し肉を並べた。すぐに税を取り立てる役人がやってきて干し肉を手にとってためつすがめつして一番いいのを持っていった。あとはただじっと待った。人がたてこんでくると兄は期待と不安に頬を赤らめ、顔を上げた。何人かのひとが兄の筵の前に立ち止まりものを物色した。皆、首を振って立ち去っていった。ここには何度も来ているがよそ者の兄はいつも緊張した。ある時はその場所は自分の場物だと追い立てを食ったこともある。いつまたそんなことがあるかも分からない。そしていつも買いたたかれた。兄は膝をグッと寄せて、買い手が来るのを持った。

 少し離れたところで盛んに売り買いがされていた。塩だ。塩さえあれば…。

 そんなことを考えていた兄は自分の筵の側でいつの間にか煙草を吸っている男に気づかずにいた。兄はビクリとした。男は兄を意識してもいないように悠揚と煙草を吸っていた。兄は男の側の身体が燃えるように感じ、顔を伏せた。ものは売れもせず、ずいぶん経った。男ともっと距離を取るために視線を上げた時、男と目があった。兄は視線をはずせなくなった。男はそんな兄の様子を気にすることもなく見詰めていた。そしてひとこと

「煙草吸うか?」

 と言った。兄はぶんぶんと首を振った。その時、聞き取れない言葉で何かを捲し立てる声が起こり、人の群れの中から横縦じゅうぶん、でっぷりと太った女が現れ、男に向かって激しく言い募った。男は黙っていたが、太った女が行け行けとでも言うように手を振ると、追い立てられるようにその場から腰を上げ、どこかに去った。兄はただびっくりして見ていた。一瞬にして怒気を収めた太った女は兄を優しげに見下ろし言った。

「あんた、全部巻き上げられるところだったんだよ」

 兄は真っ青になった。女はなおも優しげに「こんな子供にほんと、まぁ」

 と男の去った方を見やり言った。そして

「あんた、何売ってるの」

 と尋ね、干し肉を見下ろした。

「こりゃ、ひどいねー」

 干し肉をひっくり返しながら言った。

「いい、いい。わたしが買ってあげる。芋はこのくらいでいいだろう? とうもろこしはこれだけあればいいかね。バナナもいるのかい?」

 兄は急な展開についてゆけなかったが、黙って頷くしかなかった。

「これじゃあ、これがせいぜいだよ。我慢するんだね」

 太った女はざざーっと干し肉を掬い取って籠に入れると、その代価の品物を兄の前に積み上げた。そしてすぐと立ち去った。兄はしばらくぼんやりして、やっと心づくと積み上げられた品物を改めた。芋は黒く小さく、数じたい少なかった。とうもろこしも粒を外していないために嵩張って見えたが、あまりよいものではなかった。しかし文句は言えなかった。兄はその場でとうもろこしの粒を外し袋に詰め、売り物もなくなったので筵を巻き取り、市を出た。

 兄は歩を進めながら計算をした。手に入れられた物では一週間ほどの食料にしかならない。すぐにでも漁がないときつい。兄の心臓は遅ればせながらドキドキしてきた。皮膚がチリチリした。しかし今そんなことを考えても仕方なかった。今日、漁はあるだろうか。そうだとしたら漁に行けない自分は分け前をもらえない。その次の漁はいつだろう。そして自分はいつまで漁に参加させてもらえるだろうか。籠の重さに片足引きずりながら。兄は市を出た。片足の膝が固まってしまったように滑らかに回転しないのだった。それでも一歩一歩兄は帰途を急いだ。そしてしばらくしてあの煙草の男と太った女はグルだったのではないか、と卒然と覚り背中がぴりぴりと粒立った。

 帰り道は行きより辛かった。歩くうち夜が明けてゆく行きより、大要が照り返す帰りは身体の節々の痛みを増すように思えた。それでも道中の中程の峠道に差しかかるとホッとした。兄は歩を緩めた。たぶんそこに油断があった。引きずる足がよろけた。彼は岩に足を取られた。籠の中身が辺りに散らばった。一部は峠の下に小気味よく弾んで転がり落ちていった。

「芋が、芋がぁ」

 伏し倒れながら彼は手足をばたつかせて唸った。目の前の地面を掻き、散らばった食料を囲い込もうとした。ようよう体を起こしたがもう食料は坂の下に小さな黒い点となって消えていた。次の瞬間には鼬のように俊敏に立ち上がると周りに散乱した食料を拾い集めた。籠の中身はほぼ半分に減っていた。頭の中で何かがグルと回った。本当の目眩だった。

洞窟に着くまでどうやって歩いたのか彼は覚えていなかった。入り口に倒れ込むように入り込み、食料の入った籠も放り出して彼は横たわった。

 ーーーーー

 洞窟に「おっ…おっ…おっ…」という声がくぐもって響いていた。彼は当初それが自分の泣き声だと気づかなかった。気づいてもそれを抑えることはできなかった。

 弟が帰ってこない。帰ってきてももう弟は以前の弟ではなくなっているかも知れない。

 おっ…おっ…おっ…

 両親が亡くなったときも泣かなかった彼はうまく泣けなかった。身体はぴくとも動かせなかった。だが嗚咽するたびに胸郭が持ち上がってそれが身体の痛みを誘発した。

 おっ…おっ…おっ…

 身体の痛みは耐えられなかった。彼は内蔵にダメージを受けていたのだ。彼は嘔吐した。そしてぐらりと寝返りを打つと、もう命の火は消えていた。眼を開いたまま彼は絶命した。これまで生きてこれたこと自体、本来無理だったのだ。ではなぜ彼は生きてきたのか。

 たまたま芋があったから生きていたのではなかった。漁に参加させてもらえたから、生きながらえてきたのではなかった。両親が死んだのは数年前ではなかった。一年半だった。彼にはそれが数年に思えたのだ。

 命の火の消える一瞬前、彼はあの外国人の子供が弟が言ったように本当に神様だったのかも知れない、と思えていた。山の神様、海の神様が迷った外国人の身体に取り憑いて自分の目の前に姿を現したのかも知れない、と。弟はその幼いだけに鋭い感受性でそれを捉えたのだ、と。近頃の彼は海に向かっても山肌を歩いていてもそれぞれの神に畏敬の念を抱くことさえなかった。生活のことで頭がいっぱいだった。それを神は罰するために外国人の子供となって現れたのだ、と。

 一匹の蝿が開いたままの彼の眼球に取り憑いた。しかししばらくすると蝿は飛び去った。

  《了》

 

日本にはありえないような話ですが、同じく貧しい暮らしをしている人たちを知っています。この島の暮らしに仮託して書きました。

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