竜柩の騎士
砂嵐が吹き荒ぶ、枯れた大地。強風に煽られる中、馬を連れた男がゆっくりと西へ進んでいる。風除けのマントの下に黒い軽鎧を着込み、腰に一本の剣を佩いている。
彼はとある王国の騎士であった。
伴であり友でもある栗毛の馬は、鞍の上に大きな荷物を背負っている。騎士自身も旅に必要な最低限の荷を担いでいるが、それとは別だ。鞍の上の荷物は一見すると布の塊に見える。おそらく大事なものなのだろう。
やがて、砂塵の向こうに町らしき影が見えてきた。崩れた防壁。支柱に引っ掛かったまま棚引くテント。
残念ながら既に廃墟となっていた。近付いて調べてみるが、野盗の気配はない。屋内まで荒らされていることから、とうに金目の物を奪って去った後なのだろう。焼かれた建物も多いが、屋根が残っている家もあった。運が良い。今日はここに泊まるとしよう。
騎士は馬のたてがみをポンと撫で、布の塊に向かって呼びかける。
「生きてるか?」
するともぞもぞと布が動き、中からひょっこりと幼い子供が顔を覗かせた。波打つ長い金髪。広いおでこが可愛らしい、十歳くらいの少女だ。空のように澄み切った瞳が印象的で、子供らしい無邪気さの中にどことなく高貴な雰囲気を湛えている。
騎士は草原で馬を乗り回していた自分の子供時代を思い出しながら、「生きているならいい」と、子供の頭を再び布の中に押し込むのだった。
それから、屋根のある空き家を選び、馬を入れた。荷から干し草と水を取り出し、なみなみと器に注ぐ。どちらも貴重品だが惜しみなく振る舞う。鞍と轡を外した馬は、嬉しそうに鼻先を水につっこむ。こちらまで嬉しくなる勢いの良さだった。
体毛に纏わりつく砂を取り除きつつブラッシングする。その様子を、少女は興味深そうに眺めていた。
馬の世話を終えると、次は自分たちの食事だ。騎士一人なら携帯食でも構わないが、今はそうも行かない。
「ほら。粥を作ったぞ。食え」
火を起こして炊いた麦を一つしかない器によそい、少女の口元へと持って行く。少女は素直に受け取ったもののすぐには食べようとせず、ふんふんと匂いを嗅ぐだけだった。警戒しているのかもしれない。騎士は匙を取り、鍋から直接麦粥を掬って口へ運ぶ。それを見た少女は、ようやく器に口をつけた。
そこまではよかったのだが、せっかく頬張った粥を口内で飴玉のごとく転がしはじめるではないか。いつまでもモゴモゴしているのに呆れて、騎士は思わず表情を崩した。
「噛むんだ。こう」
粥を自分の口に入れ、分かりやすく顎を上下してみせる。少女は大きな瞳をぱちくりと瞬いたのち、彼の真似をしてゆっくりと顎を動かしはじめるのだった。
「そう。それが噛むってヤツだ。――ハァ、なんで俺がこんなことを」
我ながらさぞかし情けない顔をしていることだろう。
だが、愚痴を吐きたくもなる。子守をするために国を出たのではないのだから。
少女と出会ったのは、とある遺跡に備えられた小さな祭壇だった。彼がそこを訪れたのは探し物のためだ。天井がなく――あるいは空にとっての床がなく、青空と一体化した古代の祭壇。いかにもな場所だったが、探し物は見つからなかった。代わりに拾ったのがこのお荷物である。
さすがに魔獣の出る中に子供を置いていくことはできず、近くの町まで連れ帰った。そこで引き取ってもらおうとしたのだが、何故か少女は騎士の裾をきっちりと掴んで離さない。それを良いことに、町の連中は彼に迷子を押し付けた。面倒事はごめんだとばかりに。
結局、次の町まで連れて行く羽目になってしまった。
過酷な旅である。子供を道連れにするなど常識がないと言われても反論できない。
だが、引き返すつもりのない騎士には他に方法がなかったのだ。
一体どうすればよかったと言うのか。
(彼女なら、小さな子供を見捨てるなんて信じられないと言って怒るのだろうな)
青海の瞳をした小柄な女を思い出し、懐かしさに胸を痛める。
彼の婚約者は、今、重罪により捕らえられている。既に死刑を言い渡され、牢で執行を待つ身だ。
騎士の旅の目的は、彼女を救うことである。
国王が約束してくれたのだ。伝説のドラゴンを探し出し、殺して証の宝玉を持って帰れば婚約者の罪を許すと。
いくつもの小国を束ねる王の言葉だ。偽りであるとは思わない。
騎士は約束を信じ、たった一人で旅に出た。ドラゴンがどこにいるかも知らないまま。伝説と言うだけあって、その姿を見た者は非常に少ない。一説には絶滅したとも聞く。ドラゴンを見たことはあるかと尋ねただけで笑われたこともあった。
それでも希望はある。大陸に残された数多くのドラゴン伝説を追っていけば、いつか必ず本物のドラゴンに行き着くはずだ。
……とは言え、国王はいつまでも待ってくれないだろう。早く使命を果たして帰らなければ。
「次の町に着いたら、お前を置いていくからな」
可哀想ではあるが、やはり子供は邪魔だ。非情に徹して宣言する。
少女はまだモグモグしていた。
「……噛んだら飲み込め」
指示すると、ゴクンと大きな音を立てて飲み下す。素直なのはいいことだが、人としての常識はまるでない。今までどうやって生きてきたのやら。前途多難を予感する騎士であった。
それから二日後、山を迂回する荒野を抜けて西の草原へと辿り着いた。水や食糧はほとんど消費し、食事は不味い携帯食で賄っていた。だがここなら狩りができるし、水もどこかで補給できるだろう。馬の餌にも困らない。実のところ、それが一番ほっとする。
日が暮れる前にキャンプ地を決めて火を起こした。近くには森と川がある。夕餉は魚を獲って焼いた。塩も香辛料もないが、携帯食に慣れた舌は敏感に旨味を感じ取る。久しぶりに人間に戻った心地がした。
服を着たまま川へ飛び込もうとする子供を止めるというハプニングはあったものの、無事に一日を終えようとしていた。
さすがの騎士も疲れを溜めていたのか、火の番をしている内にうつらうつらと舟を漕いでいる。
空の色はとうの昔にダークブルーへと入れ替わっていた。虫の光を集めたような天の川が、南西から北東へ流れている。
森からは点滅するような梟の声が聞こえてくる。
不意に、その声が途切れた。
騎士はぱちりと目を開ける。
「…………」
傍らの剣を取ると、静かに立ち上がる。それに気付いた少女も眠たげな目を擦って起きるが、騎士は低い声で言い放った。
「森を見てくる。お前は草叢にでも隠れていろ」
少女はコクンと頷き、四つん這いで近くの茂みに分け入っていった。何も問わないところは面倒がなくてありがたい。
騎士は足で土をかけて残り火を消すと、真っ暗な闇の森の中へ迷いなく走った。明かりのないことは大した問題ではない。草原で育った彼にとって、一日の半分は暗闇だったからだ。
木々の合間を掻い潜って進み、ある程度行ったところで木の根本に身を隠す。
数秒後。
風に擦れる木の葉の音。その音に紛れるように忍ぶ、複数の足音が近付いてきた。知った上で聞き耳を立てていないと気付けなかっただろう。
気付いた時点で騎士の勝ちだった。
騎士が隠れる木陰と何者かの足音。二つの距離が最も近付いた瞬間、騎士はぱっと飛び出すと同時に剣を突き出した。手応えがあり、近くから高い悲鳴が上がる。
空気が変わるのが肌で分かった。
敵の数は四、五人。敵――でいいだろう。野営中の人間に気配を殺して近付く輩など、殺されても文句は言えない。
「荒野を抜けてきたばかりの旅人を襲うとは、野盗にしては見る目がないな」
「……ちっ」
残った敵が一斉に動いた。今のはただの舌打ちではなく合図だ。澱みのない動きと判断から、かなり手慣れていると考えられる。
(こいつら本業だな。さて、どこの手の者か)
職業柄、恨みを買った覚えはいくらでも思いつく。個人的な恨みから国家間的な憎悪まで様々だ。単独行動しているという情報をどこからか掴み、襲撃を目論んだか。十分有り得る話だ。
しかし、敵がプロなら騎士も相当なものである。多数を相手にしているにもかかわらず、挑発する余裕すらある。
言葉もなく次々に襲い来る刺客たち。
得物は森の中でも取り回しやすい短刀。対して騎士が手にするのは長剣で、狭い場所で振り回すには分が悪い。
だが騎士は巧みに腕の線に沿って剣を振るうと、真っ直ぐに突き出された短剣を弾き飛ばした。間髪入れず足蹴りで目の前の敵を突き飛ばし、左手からの上段攻撃を首を曲げて躱す。そのまま流れるように腕を取ると、右手に持った長剣で相手の脇腹を斬りつける。敵は悲鳴もなく血を噴いて背後に傾いだ。
休む暇はない。
瀕死の仲間を盾に、三人目が襲いかかる。不意を打ったつもりだろうが、甘い。普通の人間ならいざ知らず、騎士は暗殺者並みに暗中で動ける化け物だ。騎士は二人目の手からもぎ取った短剣で、淀みなく三人目の喉を突いた。敵の剣も騎士の籠手を掠めたが、対する騎士の一撃は致命傷。実力の差は明らかであった。
ここまで一分と経っていない。
その間、最後の一人だけは動かず様子見に徹していた。
攻撃の合図を出した男だ。全身黒尽くめ。目だけ露わにしている。細身だが、服の下は相当鍛えているだろう。立ち位置的にリーダー格であろうと思われた。部下が殺されても傍観していたのは、何か意味があるのか。
双方睨み合い、ヒリヒリとした空気が走る。
静かに戦いを見下ろしていた梟が「ホーウ」と一声鳴き、枝から飛び立った。
刺客が大きく地面を蹴り上げ、ジャッ……と土や石ころの擦れる音が暗闇に響いた。騎士は避ける暇もなく、真っ向から土塊を被った。反射的に手で顔を庇っていた。土が目に入れば痛みで動けなくなっていただろう。目潰しの効果は視界を奪うだけではない。
追撃に反応したのはほとんど勘だった。自分だったらこう動くであろうという予測。対応されたことに驚く気配が伝わってきたが、それで攻撃が止むわけではない。素早い身のこなしと高度な体術、そこに短剣術を織り交ぜ、騎士を防戦一方に追い込む。
背後に、突如気配が生まれた。
「っ!」
騎士は咄嗟に体を捻り、致命的な一撃を躱した。すれ違いざまに膝に蹴りを入れたものの、少し体勢を崩したに過ぎない。だが、牽制にはなった。
騎士は剣を持たない左手で脇腹にそっと触れた。完全に避けたと思ったのに、服が浅く裂けている。相手を見れば理由が分かった。
「鉤爪か」
敵は短剣を持っておらず、その代わり両手に鉤爪を装着していた。短剣よりも刃の数が多く、狙える面積が広い。短剣を想定していたが故に、完全な回避にならなかったのだ。ただ、服だけで済んだのは運が良かった。掠めただけで動けなくなるような毒を塗られていたら、さすがに危うかったところだ。
いずれにせよ、拮抗から形勢不利へと転じたのは間違いなかった。前と後ろ。一人は強敵。もう一人も決して油断はできない手練れ。しかし、それでもなお騎士の自信は揺らがない。彼は剣先をリーダー格の男へ、左半身を鉤爪の刺客へ向けたまま、ゆったりとした口調で宣言した。
「今度はこっちの番だな」
同時に、敵が動く。騎士よりも先に仕掛けるつもりだ。だが、リーダー格の男だけは咄嗟に気付いた。騎士の言葉が誘い出しであることに。
騎士は左腕をしなやかに振り上げ、鉤爪の刺客へ何かを放った。素直に直進していた刺客は騎士の不意打ちをまともに喰らい、体を仰け反らせる。
騎士が投げたのは石礫だ。先程、目潰しに飛ばされたものを受け止めていたのである。
既に騎士は鉤爪の刺客へ向かって走り出していた。後ろから短剣を持ったリーダー格が襲いかかるが、後少しというところで空を切る。だがチャンスなのだ。諦めずに渾身の力で踏み込むと、標的の背中を下から突き上げようとして――
「ウッ」
短剣が貫いたのは、仲間の心臓だった。信じられないと言った目で、自分を刺したリーダーを見ている。その目から次第に光が失われていき、力なく四肢が垂れる。巻き込まれる前に仲間の死体から短剣を引き抜き、騎士を探すが。
(いない!?)
標的の姿がどこにもなかった。
まずい、と本能が危険を叫んだその瞬間、首筋にひやりとしたものが添えられる。眼球を動かして確認すると、案の定、王国騎士が持つ鋼鉄の剣だった。
――暗闇を巣とする暗殺者が、暗闇に乗じて背後を取られるとは。
刺客は己の敗北を悟った。
「自分たちが何者か、答える気はあるか?」
「ない」
「そうか」
最後の一人を殺したのち、騎士は改めて明かりを持ってくると刺客たちの死体を検分した。予想はしていたが、所属が分かるようなものは一切持っていない。入れ墨などもなかった。刀傷や火傷、手術痕、生々しい傷痕を見てしまったくらいだ。
だが一つだけ、調べている内に思い出してくるものがあった。
「短剣と鉤爪……」
昔、この組み合わせを操る者と戦ったことがある。故郷を出たばかりの頃。騎士になる前。ほんの少しの間関わった組織が、この手の者に襲撃を受けた。その戦いに巻き込まれたのだ。
(奴らは王国の暗部だった)
暗部は国王直属の秘密部隊。国王にしか従わず、国王の命令ならば躊躇なく死を選ぶ、そんな連中だ。
思えば、戦い方もどこか似通っていたかもしれない。当時は彼自身未熟だったため、かなり苦戦したものだが……。
(まさか、王が俺を? ……どういうことだ。俺は、国王の指示で、ドラゴンを……)
もし今日襲ってきた者たちが王国の暗部ならば、国王が騎士の殺害を命じたことになる。
だが、そんなことは有り得ない。
王自ら約束したのだ。ドラゴンを殺してくれば、婚約者の罪を許すと。
あれは嘘だったのか?
(最初からそのつもりだったのか? 約束を守るつもりなどなく? それとも、国で何かが起きた?)
王たるものが嘘を吐くなど信じられない。信じたくない。
もしも約束に意味がなかったのだとしたら、彼女はどうなる。無実を叫んでも黙殺され、冷たい牢獄に閉じ込められた。彼女を救う手立てはたった一つ――だった。だが今、その道筋が足元から崩れ落ちようとしている。
何が真実で何が希望なのか。
分からない……。
気付けば焚き火の跡に立っていた。ふらふらとした足取りで、どうやって戻ってきたのかも覚えていない。
頭上には満点の星空が広がっている。まるで大地を呑み込まんとする、一つの巨大な獣のように。
「教えてくれ。彼女は無事なのか――?」
獣は何も答えない。ただ冷たい吐息で騎士の頬を撫でるだけ。
その時。
ガサガサと背後で茂みが揺れた。
のろのろとした動作で振り返ると、少女が四つん這いで出てくるところだった。存在をすっかり忘れていた。騎士の言いつけを律儀に守っていたのか、絹糸のような金髪に小枝や葉っぱをたくさんくっつけている。
少女はとすとすと騎士の足元まで歩いてくると、何も言わずに彼を見上げた。彼もまた、光の入らない瞳で少女を見つめた。
変な子供。泣きもしないし、笑いもしない。言葉を話すこともない。言語を知らないのかと思いきや、こちらの指示や警告には反応する。
なぜ石の祭壇で眠っていたのか。
なぜ親を恋しがる素振りも見せないのか。
全部、どうでもよかった。
騎士にとって少女はお荷物なだけで、他に託せる者がいないから仕方なく面倒を見ているに過ぎない。
ただ瞳の色だけは彼女と似ている、小さな女の子。
「――なんだ?」
少女が口をパクパクさせて、何か言いたそうにしている。だが声が出ないのか、それとも出し方を知らないのか、空気が漏れる音しか出ない。
初めての出来事にやや戸惑っていると、突然少女が騎士の左手を取った。真っ黒な籠手に包まれた厳しいそれに頬を寄せて、すりすりと擦り付ける。
当然のことながら、頑丈なグローブを嵌めた手は温もりなど微塵も感じない。あるのは僅かな重みと困惑のみ。
なのに――騎士の頬に一筋の涙が伝った。
自分のものではない他人の存在をこれほど身近に感じたのは、旅に出て以来初めてのことだ。
ドラゴンの痕跡を追いかけては落胆し、もう一度噂を掻き集めては奔走し。そしてまた落胆し。
希望と絶望を繰り返していく内に、彼自身が誰よりも己を孤独にしていた。
だけど今は一人じゃない。
旅の目的とは何の関係もないこの子供が、幸いにも傍にいてくれる。
こんな観賞を抱くなんて、弱っているのだろうか。心が。
それなら……仕方がない。
騎士の涙に気付いた少女が、不思議そうに手を伸ばす。彼はその手を遮って、乱暴に頬を拭った。
「なんでもない」
前に進むしかない。何があろうとも。
国王は約束を守るつもりがあるのか否か。国に戻って確かめたい気持ちはある。だが使命を果たさぬまま帰ったら、確実に婚約者は処刑される。ドラゴンを殺した証拠を持ち帰れば助けられるかもしれない。今は一縷の望みに賭けるしかなかった。
草原を抜け、道なき道をゆく。やがて、その終わりが見えてきた。
「天に向かって聳える牙のような山……あれだな」
頂上は雲がかかっていて地上からは見えない。そここそが目的地だ。
竜の目撃情報があった山である。何十年も昔の話で、実際に見たという者は既に死んでいた。その孫が情報源だ。正直、信憑性は薄い。だが孫である男性は祖父の話を信じていた。なんでも、彼の爺さんは白銀に光る大きな鱗を生涯大事にしていたらしい。竜の鱗だ、と言って。
二人の男が信じたものを、騎士も信じてみることにした。
一方で、別れがあった。
これ以上馬を連れて行くことはできない。険しい崖を登ることになるかもしれないし、凶暴な魔獣もいるだろう。連れて行って途中で置いてけぼりにするよりは、まだ草原に放った方が生き残る可能性は高い。
騎士は鞍と轡を外し、丹念に蹄の手入れをした。それから、旅を助けてくれたことへの感謝を込めて鼻面にキスをした。唇を離すと、待ってましたと言わんばかりに今度は少女が馬の顔に手を伸ばす。馬も心得たもので、少女がぎゅむ~っと額をくっつけている間、大人しく頭を垂れていた。
その微笑ましい様子を、何とも言えない表情で見守る騎士。
不運なことに、人里にはついぞ辿り着かなかった。どこかの町で少女を引き取ってもらう予定だったのだが、こればかりは仕方がない。騎士が自分の目的を優先した結果だ。
(まあ町の人間が善良とは限らないし、俺が守ればいいか)
それよりもドラゴンだ。もし本当にこの山にいるのなら、必ず倒して証拠を持ち帰る。明るい未来を祈りつつ、騎士は少女を伴って山に入っていった。
初めて足を踏み入れる地だが恐怖はない。もしかしたら生きて帰れないかもとは思う、いつも思っている。
不安は恐怖になる前に切り離す。放って置くと、いずれ足元に蟠って体中を絡め取るから。狩りの訓練中に師父から学んだことだ。
ただ、さすがに初めての登山は命懸けの域を越えていた。油断すれば迷う。登っているつもりがいつの間にか下りになる。川を回り込もうとすると崖に阻まれる。おまけに、暗くなると平地以上に身動きが取れない。夜は休めると思いきや、たまに魔獣が襲ってくることもあるため本当に油断できなかった。
そうやって神経を擦り減らしながら歩いて、二日目。
「元気だな、お前は」
騎士の後ろをぴったりと付いてくる少女に向けるのは、疑念と感心が半々に入り混じった眼差し。少女はきょとんと見返してくるが、そこが既におかしい。
何故息一つ乱れていないのだ? こっちは子供を背負って登る覚悟でいたというのに、その必要がないばかりか、むしろ早く早くと急き立てられているような錯覚さえ覚える。
馬で移動している時もそうだった。彼は馬の上で育った人間だから特に何とも思わなかったが、乗馬に慣れていない人間は常歩でも長時間続けば体力を消耗するものだ。それをこの少女は平気な顔でこなしていた。一日に数時間、場合によっては朝から夕方までずっと馬の上で揺られていたにもかかわらず。
騎士みたく騎馬民族の出身なのであれば納得も行く。しかし、同じ調子で登山もこなすとはどういう身体能力をしているのか。
「お前はいったい何なんだ? 化性か?」
少女は無表情でカクンと首を傾げる。悪意のないその仕草に、騎士の目元が自然と緩む。
「まあいいか。人であろうとなかろうと」
行程はさらに続いた。鍛えている騎士でさえ息切る辛さ。休憩を挟みつつ登り続けた。標高が高くなると、だんだん呼吸が苦しくなってくる。話には聞いていたが、地表とこれほどの違いがあるとは。もはや大地より天空に近い感じがする。
その分、眺めは素晴らしかった。
太陽の光を浴びて黄金色に輝く草原。雲が大地に影を描き、ゆっくりと動く様。遠く東には薄っすらと山並みが連なり、騎士たちが苦労して越えてきた荒野の出口までもが見晴らせた。
「随分遠くまで来たな」
騎士が命を預けた王国は荒野の遥か東にあり、故郷の草原はそれをさらに越えた先。郷愁はある。だが、騎士はその思いに固く蓋をした。今考えるべきは故郷ではない。最愛の女性を救うことだ。この山にドラゴンがいるのなら、それを倒すことが未来を開くための鍵となる。
遠い景色を睨みながら別の思いを馳せていると、背後から軽快な足音が聞こえた。どこをほっつき歩いていたのやら、少女が両手を差し出すような格好で駆け寄ってくる。どことなく一生懸命なのは、手の中のものが落ちないよう神経を使っているかららしい。
得意気に掲げる両手に持っていたのは、透明に揺らぐ清水だった。思わず驚いて少女の瞳を見返す。
「見つけてきてくれたのか?」
こくこくと頷く少女。騎士のために頑張ってくれたのだろう。疲労はあまり見せないようにしていたが、少女は微かな変化を敏感に感じ取っていた。
「ありがとな。お前もちゃんと飲んだか?」
少女は再び首肯する。もちろん、と言うように。
騎士はふっと笑みを零し、水の入った器を受け取った。
だが、すぐに違和感に気付く。つるりとした感触の器は騎士の記憶にないものだった。割れやすいもの、壊れやすい食器は旅に向かないので持たないようにしている。これは明らかに騎士の持ち物ではなかった。
かすかに揺らすと、水の底が白銀の光を反射する。
「これは……」
中身が溢れないよう持ち上げて太陽に翳す。すると、器の縁が貝みたく虹色の輝きを放った。
なんとも幻想的で、美しい。まるで一流の鍛冶師が打った最高の剣のような機能美を感じる。人が作ったものではない。特異な経歴を辿った鉱石か、あるいは魔物から自然と剥がれ落ちたものだろう。
まさかとは思う。が、しかし――。
「ドラゴンの鱗……?」
頭の片隅に、白銀の鱗を大事に抱える男の姿がちらついていた。
息が上がる。自分の呼吸音すらも、叩きつけるような風の音に呑み込まれる。喉が渇くあまりか、唾に血の味が混ざっている。
周囲は森林限界を迎え、植物の乏しい砂礫地帯へと変貌していた。空が近い。雲のない真っ青な天が頭上からのしかかってくる。空の下にいるというより、空の中を歩いているみたいだ。
ドラゴンの鱗らしきものを発見して以来、騎士は言葉もなくただひたすらに前を目指して歩き続けていた。
(もうすぐだ。もうすぐ)
ドラゴンの目撃情報。白銀の鱗。人知を超えた領域。これだけ条件が揃っていて、何も待ち受けていないはずがない。
今度こそ本物のドラゴンを見つけ出す。伝説を討って王都へと凱旋し、婚約者を牢獄から解き放つ。それでようやく長い旅が終わるのだ。
無言で歩を進める足の裏に、僅かな振動を感じた。
地震? がけ崩れ? それとも魔物か?
いずれにしても、山の尾根で避難する場所などない。警戒を高めていつでも動けるように身構えた、その時。
ガラガラガラッ――と足元の砂礫が崩れはじめた!
「っ! 走るぞ!」
騎士はこんな時でも動じず突っ立っている少女の手を掴み、前方へ向かって駆け出した。足場が悪く、速力は出ない。とにかくできる限り遠くを目指す。
だがしかし、背後で無視できない程の強い気配が生まれ、騎士はズザッと滑るように足を止めた。本能が警鐘を鳴らす。焦った顔で振り返れば、地面が大きく盛り上がっている。砂礫がザアッと雪崩落ち、煙の中から巨大な白骨のドラゴンが姿を現した。
――スカルドラゴンだ。長い年月風雨に晒されたドラゴンの死骸に精霊が宿り、擬似的に生命を得た存在。魔物の一種である。
これがいるということは、ドラゴンが棲む山という噂は真実だったようだ。
「コイツの翼、昔は白銀色だったのかもしれないな」
口角を上げて皮肉を吐き捨てる。
緊張、重圧、戦慄、そして失望。スカルドラゴンはドラゴンの死体を再利用しただけであって、真にドラゴンとは呼べない。――騎士が求めるものとは違う。
失意に身が重くなる騎士の前方で、スカルドラゴンの顎がガコンと開いた。考え事をしている場合ではないと防御の姿勢を取るが、一歩遅く。
ガアアアアアアアアアア!!!!
スカルドラゴンの咆哮が大気を震わせた。
声帯もないのにどうやって発しているのか。そんな疑問も湧かないほどの圧力を前に、人間は無力だった。
全身が金縛りに遭ったみたいに身動き取れない騎士へと向かって、スカルドラゴンは前肢を高く振り翳す。
迫る巨大な影。
駄目だ。このままでは押し潰される。
「う、おおおおおお!!」
気力を振り絞って雄叫びを上げる。パチリと電流が走り、硬直していた筋肉が動いた。
間一髪、振り下ろされた前肢を真横に跳んで躱す。騎士の立っていた場所が抉られ、衝撃で砂煙が舞い上がった。
騎士はゴロゴロと地面を転がったのち、反動を利用して立ち上がった。
(あの子は!?)
砂煙の中目を凝らすが、少女の姿が見当たらない。思い返してみるが、スカルドラゴンが咆哮した辺りから少女の手の感触が消えた気がする。まさか、スカルドラゴンの攻撃に巻き込まれたか。
しかしゆっくりと考える暇もなく、再び前肢攻撃が騎士を襲った。
体さえ動くなら、回避くらいどうということもない。騎士は連続して襲い来る攻撃を躱しつつ、必死で少女の姿を探す。が、そんな彼の焦りを嘲笑うかのようになかなか見つからない。
(いないか……。クソッ、不甲斐ない!)
あの子を危険な場所に連れてきたのは自分だ。守る義務があった。なのに手放してしまったのは、他でもない己の力不足だ。
だが今は嘆いている場合でないことも事実だった。
(先にコイツを片付けなければ、探しようがない)
手当たり次第に地面を穴ぼこだらけにしている、骨の魔物。コイツが好きに暴れているせいで、周囲には粉塵が立ち込めている。そのせいで見通しが悪く、移動がしにくい。下手すれば滑落も有り得る。暗闇よりも最悪だ。
しかし、騎士は逃げ回りながらも活路を見出していた。
このスカルドラゴン、同じ場所から一歩も動いていないのだ。攻撃に使うのは専ら前足。後ろ足は礫岩と礫岩の隙間に踵まで埋もれている。
もしかすると、動かないのではなく動けないのではないか。
最初、スカルドラゴンは地面を割って現れた。精霊が宿ったのは、地中に埋まった白骨死体だったのだ。精霊の属性も関係しているのかもしれない。
(理由はどうでもいい。本当に奴が移動できないのだとしたら、こっちが主導権を握ることはできる!)
今現在、スカルドラゴンは移動できないという欠点を強攻撃の連続で補っている状態だ。対してこっちは、時間が経てば経つほど足場を失い不利になっていく。だから、その前に流れを変える。
スカルドラゴンが左前肢を高く振り上げた。空が爪の形に黒く染まる。
(今だ!)
足が振り下ろされた瞬間、騎士は体全体をバネにして前方へ飛び出した。
直後、背後で地面が抉られ足元が揺れる。だが騎士は構わずに走り続けた。左前肢の攻撃後、スカルドラゴンの体は左側へ傾いている。バランスを取るため、今度は右前肢を振るか左前肢を元の位置へ戻すだろう。それよりも早く背中側へ駆け抜けるのが騎士の狙いだ。
が、そこへ第三の行動が襲いかかる。
尻尾だ。
鞭のようにしなりながら、地面スレスレを這うようにして飛んでくる!
元より戦に懸けた命。この程度の窮地は何度も乗り越えている。
「っ! ら、ああッ!」
騎士は裂帛の気合を込めて剣を一閃した。
刹那の接触。
空を舞う尾椎。丸太のように太いそれは一瞬太陽の光を遮ったかと思うと、先端からボロボロと崩れていった。まるで光に浄化されるかのように。
だがまだ終わりではない。
尾を失ったとは言え、スカルドラゴンは未だ健在だ。四本の足で踏ん張り、骨だけの上半身を捻って騎士に吼える。
「ガアアアアアッ!!」
「うるさい、んだよっ!」
騎士は再び剣を振り、左後肢の一部を砕いた。その衝撃でスカルドラゴンは体勢を崩し、さらには砕けた部分から破断が広がる。ついに左後肢が完全に砕け散った。
土砂崩れのような騒音を立てて、スカルドラゴンが横転する。ちょうど倒れ込む先にいた騎士は慌てて飛び退った。
スカルドラゴンの動きが目に見えて鈍い。支えの一本を失っただけでなく、おそらくはその足から魔力を吸い上げていたためだろう。供給源の半分が断たれたのだ。
「なら、もう一本も……!」
右後肢を同じように砕けば、ただの白骨死体に戻るはず。
スカルドラゴンはしぶとくも両前肢で立ち上がろうとしている。そうはさせるかと、騎士は尻尾のない後方から回り込もうとした。
しかしその時、信じられない光景が目に飛び込んできた。
スカルドラゴンの目と鼻の先。ほんの数歩離れたところで、少女が地面に座り込んでいるではないか。いや、座り込んでいるというより、たった今起き上がったというべきか。
頭の天辺から爪先まで全身砂まみれの少女は、水から上がった犬のようにブルブルと体を震わせて砂埃を払った。呑気に。すぐ近くに凶暴な魔物が口を開けているというのに。
「まずい……」
スカルドラゴンは低い体勢で踏ん張り、大きく口を開けた。あれはブレスの予備動作だ。
狙いは騎士であろうが、その直線上には少女がいる。しかもスカルドラゴンのすぐそばだ。騎士が左右に逃げたとしても確実に巻き込まれる位置。
騎士は即座に剣を収めると、少女に向かって走り出した。スカルドラゴンからすれば敵の方から近付いてきてくれるのだ、美味しい展開だろう。
夥しい牙が生える口内に赤黒い光が集まる。不吉で禍々しく、世界の終わりを告げるような輝き。
騎士は真っ直ぐ手を伸ばした。騎士に気付いた少女も、母鳥を見つけた雛のように両手を上げる。その小さな体を抱き上げ、全力で横に跳んだ瞬間、禍々しい炎が背後を焼いた。
足に激痛が走り、騎士は歯を食いしばって堪える。少女を抱きしめる腕に我知らず力が入る。肩から地面に激突し、幾度も転がり回る間も、彼は少女を離さなかった。
足が焼けるように痛い。いや、実際に焼けているのだろう。あまりにも痛みが大きすぎて、右足なのか左足なのかも分からない。両足かもしれない。とにかく足だ。体の下の方から何かが焦げる匂いがしている。いっそ切り離してしまいたい衝動と戦いながらも、立ち上がろうと必死に藻掻く。
まだ戦うつもりなのか、と騎士の中の弱さが囁く。足を負傷して、もはや勝てる見込みなどない。諦めて死を受け入れた方が楽だ。
しかし。
薄暗く靄がかる視界の中、心配そうに覗き込む少女が映る。そんなことをしている場合ではないのに、生理反応で滲んだ涙を拭おうと騎士の頬に手を伸ばしている。
その小さな肩越しに、赤黒いブレスの残滓を牙の端に残したスカルドラゴンが見えた。丸太ほどもある太さの腕骨を死神の鎌のようにゆっくりともたげる。
「に、げ、ろ……」
その言葉と頭上を覆う影に何かを察したのか、少女が振り返る。
青い視線が自分から逸れたことに、騎士はほっと安堵の息を吐いた。
これで少女は逃げるはずだ。スカルドラゴンは自力で移動できない。ブレスも連発はできないだろう。子供一人で山を降りられるか分からないが、この子は普通の子供じゃないからきっと大丈夫。
――だが、少女は逃げなかった。すっくと立ち上がると、挑むようにスカルドラゴンと対峙する。その後姿はさながら勇敢な戦士のようで。
騎士は信じられない気持ちで、まだまだ幼い背中に目を見張った。
馬鹿、やめろ。無茶だ。お前なんかじゃ壁にもならない。二人仲良く潰されるのがオチだ。
頭の中を怒涛の勢いで罵声が飛び交う。
騎士は渾身の力を腕に込め、上半身を持ち上げた。足の熱さも痛みも、今だけは気にならない。ここで立ち上がれなければ何が騎士だと、己を叱咤する。
それでも、スカルドラゴンの爪が落ちてくる方が早かった。
絶望が騎士の世界を塗りつぶした――かに思えた。
突然、少女が天を仰いだ。迫り落ちる爪の隙間から覗く空に向かって、高く高く、澄んだ声で叫んだのだ。
この時初めて、騎士は少女の声を聞いた。人の声というより甲高い鳥の鳴き声だった。
(この声は……)
不快ではない。だが何故か胸がざわつく。
これは、そうだ。戦場で仲間の将校が討たれた時。あるいは強敵の接近を予感した時に感じたものに似ている。
鋭い爪の切っ先は、少女の金髪に触れるかどうかというところで止まっていた。後少し押し込めば、少女の頭部には大きな穴が空くだろう。
だが、スカルドラゴンはそうしなかった。
できなかったのだ。
(なんだ……この気配はっ)
――太陽が落ちる。
そう錯覚するほどの、強烈な威圧感。それが強制的に体を支配する。騎士も、そしてスカルドラゴンも――少女以外の全てのものから力を奪っていた。
バサッ――
空が、翳った。
雲が太陽を隠したのか――否。
急激に日が暮れたのか――否。
見てはならないと警告する本能に相反して、騎士の視線は影の正体を辿っていた。
「…………」
言葉にならない。
必ず見つけ、必ず殺すと誓ったはずなのに。
いざ本物を目の前にすると、地に根を張ったように足が動かない。剣帯に掛けた指が震える。息をしようとするだけで、肺に刃物の欠片みたいなものが混じる。
――伝説の王者が、遥か高みから彼らを見下ろしていた。
左右の翼を広げた大きさは優に城壁を超える。影の中に暗く沈む鱗は、太陽に照らされると白銀の光を弾き返した。
遺跡の壁画に描かれていた姿そのもの。万の兵を相手にしても決して墜ちることのない空の代弁者。
「ドラゴン……」
騎士は掠れた声で呟くと、グローブを嵌めた手で剣帯をぎゅっと握り締めた。
幸か不幸か、ドラゴンは騎士を見ていない。彼あるいは彼女が敵と定めたのは、憐れなスカルドラゴンであった。
竜の成れの果て。かつての同胞に何を感じているのか、鱗に覆われた顔からは窺い知ることができない。だがその結末は明らかだった。予感などという生温い未来予測を越えて、現実は着実に構築されていく。
ドラゴンが大きく口を開き、鋸のようにずらりと並ぶ牙が見えた。
瞬間。
尾根を、嵐が貫いた――!
鼓膜が破れかねないほどの暴風が吹き荒れ、美しい景色が一変する。風が大地を切り刻み、そこそこ大きな石さえも軽く吹き飛ばされていく。姿勢を低くし踏ん張らなければ、騎士もあの石の二の舞いとなっていただろう。
瓶の中に入れてぐちゃぐちゃに振り回されるような感覚に、吐き気が込み上げる。
直撃を免れて、これだ。まともに食らっていたら四肢が千切れていたに違いない。
真正面から咆哮を浴びせられたスカルドラゴンは、形を失いつつあった。まるで岩が砂となるように、ボロボロと崩れて風に流されていく。嵐が収まる頃にはほとんどが尾根の一部となり、最後に残された頭蓋骨の一部がドサリと重い音を立てて地面に転がった。
――圧倒的だった。
反撃の二文字が浮かんでこないほどの、圧倒的な戦力差。生物としての格が違うとはこのことだろうか。真っ向から勝負を仕掛けても、勝てる道筋がどこにも見えない。
ドラゴンはゆっくりと降りてきた。小鳥が枝に留まるがごとく、軽やかに。スカルドラゴンを一撃で葬り去ったことなど、意識すらしていないのだろう。
不思議と風圧は感じなかった。が、それはそれとして騎士は生きた心地がしない。次は自分の番かもしれないのだ。どのように殺されるのか。爪で切り裂かれるのか、あるいは牙で食いちぎられるのか。いずれにしても、ただでは死ぬまい。騎士は緊張に喉を鳴らしながら、剣の柄に手を掛けた。
ところが、次に映し出されたのは彼の不安を裏切るような光景だった。
少女がぴょんぴょんと飛び跳ね、ドラゴンに両手を振っているのだ。まるで親しい友人や家族にするように。
振り返った少女は満面の笑みだった。初めて見る表情に騎士は呆気にとられ、口を開ける。
少女はきらきらと輝く瞳でにっこりと笑いかけると、騎士の腕を取った。大丈夫だよ。こっちにおいでよ。そんな言葉が聞こえた気がした。
尾根に降り立ったドラゴンは長い首を傾げ、少女と騎士とを見比べた。やがて、徐ろに騎士へ鼻先を近づけた。馬が匂いを嗅ぐ仕草を思わせるが、感じるのは親愛ではなく緊張。
間近から見つめる、その円な瞳。空のように曇りなく、水面のように静かで深い青。
少女の瞳と全く同じ。
刹那、騎士は全てを理解した。
古の祭壇で眠っていた、喋れない少女。
呆れるほどの無知。
騎士の足にも負けない無尽蔵の体力。
極めつけは、ドラゴンを呼んだあの鳴き声。
ドラゴンは少女の母で。
少女はドラゴンの子供なのだ。
それでも分からないことはたくさんあった。
何故少女は母親と別れ、一人で遺跡にいたのか。何故ドラゴンではなく、人間の子供の姿を取っているのか。何故今まで母親を呼ばなかったのか。
しかし、それらは些細な疑問だ。どうでもいいとまでは言わない。ただ、騎士にとっては目の前にある事実だけが重要なのだ。
(ドラゴンを殺せば、彼女を救える)
それが国王との約束。不安はあれども、ただ唯一の希望。
(今なら)
今なら、この瞳に剣を突き立てて致命傷を与えられる。ドラゴンといえども、目は急所であるはずだ。剣を根元まで沈めれば、切っ先は脳に届くだろう。
もしくは。
――騎士は見開いた目で、自分に抱きつく少女を見下ろした。
この娘もまたドラゴンであるならば。
ゴクリ、と喉が鳴った。
成体よりも肉は柔らかいだろう。騎士の剣なら、腕でも足でも斬り落とせる。やってみせる。母ドラゴンは怒るだろうから、娘を質に取るか。そして、安全な場所まで逃げてから娘を殺す。
殺す……?
本当に、殺せるのか?
自分の残酷な思考が信じられない。短いけれど、一緒に旅をしてきた仲間だ。辛い時は慰めてくれた。悪い娘じゃない。とても優しい子だ。
なのにこの手で殺すのか? あるいは、大事な母親を奪うと?
息が苦しい。呼吸が浅い。瞬きもできない。
乾いた眼球が、あどけない少女を、彼女の母親を映し出す。
その向こうに、懐かしい微笑みを浮かべた彼女の幻が浮かぶ。
婚約者を助けたい。俺を愛してくれた人。俺が生涯愛する人。彼女を救うためならなんだってする。たとえどんなに卑怯なことでも。
だが、慈悲を顧みない手段は永遠に騎士の心を汚すだろう。一生打ち明けられない隠し事となって。彼女が笑っている横で、自分は重石を抱え続けるのだ。
その覚悟が自分にはあるのか?
どうする? どうする――?
騎士は片方の腕を温かな少女の背に回し、もう片方の手で冷たい剣を握りしめた。




