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別雷神-WAKEIKAZUTHINOKAMI 地獄へ転がり落ちた男の物語-

作者: 木下雄飛
掲載日:2025/09/30

いまは自分には、幸福も不幸もありません。 ただ、一さいは過ぎて行きます。 自分がいままで阿鼻叫喚で生きて来た所謂「人間」の世界に於いて、たった一つ、真理らしく思われたのは、それだけでした。──『人間失格』太宰治〈第三の手記(二)〉



             


 




第一章 懺悔


 大学一年生になった年の春に僕は被災地でボーイスカウトのメンバーとして復興支援のため瓦礫撤去の作業をしていた。

 災害の現場で津波により変形した大地に一歩足を踏み入れた時

「僕は地上の果てを見に来ている」

 と言う嘘のような感覚──自分の中の途方もない虚無に満ちた混沌とした気持ち──が心の奥の方にあることを初めて知った。

 シャベルを用いて津波で流された集落を捜索しているとエアコンのホースや、ロシア人のような風貌をした金髪の人形、片方だけのサンダル、家のレンガなど土砂にまみれたグッズが次々と出てきた。

 大東文化大学で考古学の研究をしている教授に白く細長い塊を見せるとさも当たり前かのように

「仏さんだよ」

 と言って彼は手を合わせ数一〇秒間無言で白骨の塊に対して畏敬の念を込めているのか手を合わせて拝んだ。

 その日の晩にボーイスカウトがキャンプサイトとして利用している野坂さんという地元の鍼灸師の方の家の庭で晩餐会が営まれた。

 サザエやアワビ、ソーセージ、地元の和牛などの豪華なメニューが網の上で無造作な格好で焼かれていた。

 僕は昼間に見た陰鬱としたセピア色の景色と夜に見た祝祭的なポジティブな色の光景の二つの世界に極端な格差を感じて内心身悶え圧倒されてしまった。

 そのことを晩餐会の主催者である野坂さんに伝えるとどういう意識で言ったのかその頃の僕にはわからなかったが

「君のような若者に日本を引っ張って行ってもらいたい」

 と強い言葉で激励され力強い握手を求めてきた。

 次の日は桜の植樹をS市の地元の方と一緒に行った。

 合計で二五本から三〇本近くの桜を地面に穴を掘って植えていった。

 禿頭のメガネをかけた特徴的な見た目の町長は

 「五年後の春にこの桜は満開になると思います。そしたら見にきてください。それが復興支援になります」

 彼はまるで五年後にここに来ることがここに集った人々のあたりまえの使命かのように演説していた。

 ──僕はその場で彼を糾弾する力はなく苦痛な気持ちで凝視していたがそれはダイレクトな表現で言えばただ復興を「桜」という象徴で覆い尽くす「単純化」であって強弁すれば彼の演説は「政治家の欺瞞」だと感じそれは亡くなった方が大勢いることを「桜」を用いて美化している言葉で汚い言葉で言えば「震災で甚大な犠牲者を出したあなたは〈桜〉など植えていないで一生牢屋で〈罪〉を贖った方がいい」とさえ思ってしまった。

 僕は帰りのバスの中でカブスカウトの元気いっぱいな小さい男の子の写真をデジタル・カメラで撮った。

 この子が大人になる時には一体どんな日本になっているんだろうと思ったのと同時に僕が〈地上の果てを見に来ている〉ことがこの子たちの将来に一体どんな役に立つのだろうと切実に思い感慨が込み上げ涙腺が緩み少し涙が出た──その時のデジタル・カメラは公園のトイレに忘れて失くしてしまったから今手元にはないのだが。

 被災地から帰ってきた次の日から僕は「地球上の全ての生命を本当に救うために学習をしよう」とこころざしてギアが切り替わったように今までよりも数一〇倍真剣に学業に取り組むようになった。

 そして大学の図書館でたくさんの小説や哲学書を読んだ。

 マックスウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』とエマヌエル・カントの『純粋理性批判』、プラトンの『ソクラテスの弁明』の三冊は特によく読んだ。

 そして最終的な結論として

 「被災地で今も苦しんでいる人々や世界中の困っている人々を法律で救いたい」

 というのが根源的な動機となって大学一年生の夏僕は司法試験を受験することに決めた。

 大学の夏休みに全学年参加の法律合宿がK市であった。

 僕たちは四日間不眠不休で大学が借りた合宿所に缶詰状態になり勉強した。

 最終日僕は鍵を無しくたが弁護士の雁屋先生の協力で見つけるという小さな出来事をひき起こした──今思えばそれが「予兆」であって「すべてのはじまり」だったのだ。

 タクシーで僕らのグループは大学の皆から遅れて合宿所の最寄り駅に行きその場で他の人々とは解散した。

 僕は電車を乗り換える時誤って切符をなくしたのでみどりの窓口の駅員に相談に行った。

 すると

「朝鮮人かフィリピン人の不法入国者だろ!」

 と駅員から一方的に怒鳴られて警察に保護され留置所に入れられた。

 僕は六時間牢の中に閉じこめられて混乱し叫び助けを求めていた──後で聞いたが牢屋の中ではトイレを舐めたり裸になったり狂喜乱舞していたらしい。

 警察署の中では蝉の声が鳴る中剣道の竹刀のぶつかりあう音がしきりにしていたのが印象的だった。

 家族が迎えにきて釈放されたが翌朝僕は布団の上で気を失って大学へ行く時間になっても起きなかった。

 救急車が家に来て熊谷の病院へ運ばれ二日間生死の境をさまよった。

 桃源郷と呼ばれる死ぬ前に見ると言う風景を観てキラキラした美しい彼岸に行こうと船で川を渡っていたが背中を誰かに掴まれて目の前の世界が完全な暗闇に染まった。

 「パッ」

 と目を開くと病院だったので

「僕は死に損なってしまったのだ」

 とありえない妄想かもしれないが一瞬死んだ時のことを考えてしまった。

 その後も転院はしたが一ヶ月ほど入院生活は続きずっとベッドの上で白い天井の模様だけを見て過ごした。

 「世界が終わった」とパニック障がいをだったと発言しているSEKAINOOWARIのFukaseさんと同じようなようなことを考えていた。

 退院の時も病名はつかなかったが、「脳炎」の疑いがあることを主治医に告げられて髄液をとられ北陸の方にあるという国の研究機関に検体が送られた。

 大学一年生の秋から冬にかけての記憶がほとんどないが散歩をしていたこととトム・ハンクス主演の映画──たしか作品名までは定かではないが記憶を辿って今思い返せば『プライベート・ライアン』と『フォレスト・ガンプ』の二作品だった──を観ていたことは印象的な場面として朧げながら記憶に残っている。

 大学二年生になると法律学のゼミが始まり長岡先生の民法のゼミに入った。

 島津さんという女性を好きになり積極的にアプローチして食事に誘うことができたが彼女は

「私つきあっている人がいるけん。城崎君にもいい人がいると思うんよ。じゃあね」

 と言い残し一緒に頼んだナンとインド風カレーライスを先に食べ終わると彼女は授業に遅れるからと叫びながら九段坂を薙刀全国一位の脚力を存分に生かしてものすごいスピードで走っていった

 その年は地獄の絶望と同時に甘い恋を味わった特別な青春の時だった。

 高校の同級生のモモタムと高円寺を巡ったり先輩の密子さんとデートしたり他の人が聞いたら羨ましくなるような話がたくさんあったのだが体調は徐々に悪化しその年の秋頃言動の乱れが再び起きて病院に行き入院した。

 僕と母は診断名を聞くために診察室に呼ばれた。

「正直なんの病気かよくわからないですが統合失調症だと思います。いいですか?」

 と二人とも一度も聞いたことのない疾患名だったのでポカンとしながらよくわからないまま頷いたらカーテンコールのないまま突然自宅療養の日々が始まった。    

 僕は半年間大学を休学しほとんど喋ることなく眠り続けており二〇年間生きてきてこんなに寝たのは初めてで僕は風呂にも入らずただシンプルに眠り続けた。

 まるで魔法にかけられたグリム童話の『茨姫』ようでもあった。

 あまりにも寝るので両親は心配して病院に何度も電話をかけたが主治医の羽柴先生からは

「休息期ですから」

 と言われるだけだったらしい。

 一ヶ月に一回の診断の時以外僕は懇々と寝続けた。

 四月になり大学三年生になる頃僕はやっとのことで布団から起きて学校へ行くようになった。

 その前まで寝てばかりいたのにいきなり学習ができるようになるかと言うと大学の勉強はそんな甘いものではなく一週間に一度東京大学で政治学の博士号を取得した半藤俊文先生のゼミで国際関係論を学ぶ以外は上手く学校──もっと言えば社会という空間──に馴染むことができなかった。

 半藤俊文先生のゼミでは『硬化政治』や『その場しのぎの民主主義』などの国際関係論の本を読んだ。

僕は難民と紛争解決についての論文を一本書き大学四年生になった。

 二〇一七年は僕の人生における本当の意味でターニング・ポイントだった。

 その頃には活動的な体力をとり戻しつつあり毎日学校に行っておりちょうど新聞で芥川賞作家Hの新作長編の連載があり僕は毎日一番早く図書館に行き次の展開を楽しみにしていた。

  同じ時期に偶然その芥川賞作家Hが大学の前のコンビニの前にある歩行者用信号機で止まっているのを見つけた。

 その時はただの一瞬の出来事だったが将来この邂逅が文學界の歴史になっているかもしれない──今は根拠なき妄想だが。

 彼の鍛え上げられた巨大な身体に驚嘆すると共に実際に芥川賞作家Hが存在したことに畏敬の念を感じて僕は彼を呼び止め握手をした。

 何故だかわからないが一週間後芥川賞作家Hはまた同じコンビニの前の歩行者用信号機の所にいた。

 僕は

「なぜまた君がいるんだ?」

 と訝しげにこちらを見つめる芥川賞作家Hを再び呼び止めて握手をした。

「次回作は?」

 と聴いたら

「そろそろ出ます」

 と去り際の彼に言ったら右の拳をワンピースの麦わら海賊団のように天に突き上げてからゆっくり左右に振った。

 僕はその日から熱心に小説の習作を書くようになった。

 芥川賞作家Hに会ってから次第に自分の夢が弁護士から小説家へと変化していった。

 芥川賞作家Hの演劇を観に行ったり彼のサイン会へ行ったりした。

 それから三ヶ月後お金が払えない現実と、基礎的な学問を学んだという自信、そして病気による学習の困難の三つが理由で僕は大学を自主退学した。

 後述するが二〇一七年から二〇一八年まで僕は国立能楽堂第十期能楽(三役)研修生として能楽を学んだ。

二〇一八年三月から二〇一九年中盤まで約一年半僕は暇で暇で仕方なくて僕は映画三昧、読書三昧の〈伝説の一年〉を過ごした。

 恵比寿の野外上映会に五、六回行ったり新作映画も五本以上観たり、本も百冊以上読んだり精力的にインプットの量を増やした時期だった。

 恵比寿ピクニックシネマで観た『ニューシネマパラダイス』と恵比寿と所沢を行き帰りする間に読んだ夏目漱石さんの『虞美人草』は僕にとってその後の生涯に影響を与える鮮烈な徴を残した。

 映画と本に触れていない間はほとんど寝ているか散歩をしているかだった。

 この頃から白と黒のコントラストがはっきりとしている可愛い見た目のボーダーコリーの月を家族として迎え入れ散歩も賑やかになった。

 僕はずっと具合が悪かったので月と窓辺に座って外を眺めている日々も多く人生の中で他人との交流が断絶した一年間だった。

 二〇一九年中盤になると僕の健康状態はさらに悪化し二ヶ月以上の入院が二度あった。

 僕はこの年の後半に国際医療科学研究センター病院で治験を行なった。

 統合失調症の新薬の治験に参加し臨床心理士が専属で僕について彼が触った青いブロックを順番に触ったり今の総理大臣の名前などを答えたり今日の日付を言ったり思いつく限り動物の名前を言ったりする作業を三ヶ月間行なった。

 協力費として病院から二万円をもらった。

 お金のことよりも印象に残っているのは目の前に医学博士号を持った偉い教授が来てこう言ったことだ。

「君は言語能力や創造性に優れている。

芸術家になればフィンセント・ファン・ゴッホやパブロ・ピカソ、夏目漱石や、芥川龍之介のように偉大な人間になれる。普通の人がIQ一〇〇くらいだとしたら君はIQ一二〇から一五〇くらいだ。この数字は天才だけが持つものだ」

 僕は医学博士の偉い先生から「天才の知能」と告げられたがその後も悶々とした日々が続くことに絶望感を抱きその当時は素直に喜ぶことができなかった。

 しかし前向きな感想を伝えてもらったことで些細な変化かもしれないが気持ち的には楽になった可能性もある。

 その年の九月に僕は日本最大手のアパレル企業の面接を受け合格した。

 最初の頃は社員で副店長の藤子さんに怒鳴られ続けた。

「掃除もできねえのか。お前は何ならできるんだ。役立たずがそこに突っ立ってろ」

 江戸っ子カタギの完全なべらんめえ調のパワハラだった。

 僕はレジ打ちができず服も畳めず売り込みもできなかった。

 僕にとって良かったことは有線で流れる緑黄色社会のAlright!!を毎日毎日延々と聞けたことだった。

 そのうちに人気スノーボーダーとコラボしたモデルのハイブリッドダウンを売るようにと任され試行錯誤しながら売り込んだ。

 一週間ほどは一着も売れなかったが二週間目には週二着売れ一ヶ月後には一日十着売れるようになった。

 田沼店長の口癖は

「八百屋が野菜を売るように、魚屋が魚を売るように、肉屋が肉を売るように、洋服をナマモノだと思って売ってください」

  だった。

 二ヶ月後僕は休みがちになり仕事にも定着せず再び体調を崩してアパレルを辞めた。

 三ヶ月ほど自宅で休んでいた時に新型感染症のパンデミックが起きて往年のお笑い芸人が亡くなったとのニュースがあった。

 子供の頃からつい先週まで見ていた芸能人が唐突に死んでしまうようなことがあるのかと思うとともに新型感染症に対して強い恐怖心を抱かずにいられなかった。

 東京五輪は一年間延期が決まった。

二〇二〇年七月僕は昨年と同じアパレルの本店に就職した。

 僕は二〇一八年ごろから芸能活動を始めそれからプロダクションに所属することが決まり芸能の仕事をした。

 最初の映画の撮影では日生劇場で『蝶々夫人』を観劇する一人として蜷川実花監督作品映画『人間失格』に出演した。

MUSIC STATIONではスタジオで観劇する群衆を演じた。

 RADWIMPSのライブやSEKAINOOWARIのライブを観たりカズオ・イシグロ原作のドラマ『私を離さないで』などのドラマの試写会に行ったりすることもあった。

 間接的な形ではあったが有名人に立て続けに会ったことで芸能人は選ばれた人だけがなれるハイレベルな仕事だと確信を持った──最も鮮烈な記憶に残っている人生のハイライトだが──スタンドインとして製薬会社のCM撮影にも参加した。

 ある貸しスタジオで行われたCM撮影では某雑誌の男前ランキングで一位を獲得するなど国宝級イケメンと言われる超人気アイドルと仕事をした。

 彼はセリフを言う時も歌っている時と完璧に同じ声でまさに王道のアイドルという感じで同じ場所にいることに対してふいにツラツラと涙が出てきて生で正真正銘のアイドルを観たことではじめて彼らの「推し活」をしたくなる人たちの気持ちがよくわかった。

 全然僕は何にも役に立てなかったが髭の伸び切った汚い革ジャンを着た低音ボイスの監督に

「できてるじゃん」

 と背中を叩かれたり黒い帽子に黒い眼鏡をかけたTheBreakthrough Company GOのクリエイティブ・ディレクター三浦 崇宏さん似のプロデューサーに同じ動作を反復して失敗しすぎて完全に僕が悪いのだが

「もういい加減お前の演技飽きたわ」

  と悪態をつかれたり結果としては映像として形になったが何度もミスをして演技は僕には向いてないし完全に僕はアイドルにはなれないとプロの芸能人に完敗し挫折を味わった二日間だった。

二〇二一年六月にアパレルを辞めると決意し渋谷のディーン・アンド・デルーカで人事の山岡店長に辞意を伝える電話をした。

 結局は現実に存在する病への恐怖心が一番の原因となりアパレルでの仕事を辞めることを決断した。

 その日の帰り明治神宮に参拝し神宮球場まで行ってヤクルトスワローズの試合を外から眺めた。

 翌週「幻覚幻聴あり妄想酷い」と主治医に診断され入院することになった。

入院先は三鷹の病院だった。

 新海さんと言う頭にタオルを巻いた髭が伸び放題の男性患者が同じ病棟にいて彼に僕はこう告げた。

「どうしても芥川龍之介賞をとりたいんです」

「だったら小説を書け。一〇四で文藝春秋に電話しろよ」

「書いている作品があるので見てもらってもいいですか?」

「俺はお前と違って馬鹿なんだよ」

 その日僕は汗でビショビショになった鈴木エミさんのブランドLautashiのマウンテンパーカーを柔軟剤をたっぷり入れて洗濯した。

 すると後ろから

「春のうららの隅田川」

 と気持ちよく歌う声がして振り向くと九〇歳以上のお婆さんがいた。

 彼女は明らかに僕に対して

「敵が来たよ!」

 と言い僕の柔軟剤の匂いを空襲警報か何かと勘違いしたのか大声で叫んだ。

 僕は入院中河西さんという男性や並木さんという女性と仲良くなった。

 並木さんは

「息子を武蔵高校に入れたの。もう私の役目は済んだの。自殺するわ」

 と深刻な表情で泣きながら叫んでいて彼女が死なないように僕は必死で止めた。

 河西さんはエアジョーダンを履いていてエンポーリオアルマーニの時計を愛用していた。

 河西さんは常に怒っていて僕に

「医者とか看護師とかエリートはいいよな。お前は絶対エリートになるなよ」    

 と釘を刺してきた。

 彼は東海大学出身で宇宙工学を専門にしていたらしい。

 彼自身がエリートになれなかったことを後悔するような若干不穏な響きのある言葉の言い回しだった。

 僕は病院に入院している間毎日アロハビーチさんや河西さんとポーカーやオセロなどのボードゲームをプレイした。

 その時に春風さんの話が出てアロハビーチさんに僕はこう言った。

「あの人王様きどってるんですよ。自分を芸能人か何かだとと思っているんですよ」

「そうだよ。常識じゃないよ、病院で結婚するなんて」

 その翌日僕は春風さんに

「お前俺の悪口を言ったか」

 と問い詰められたが言ってないと嘘をついた。

 ある日河西さんが雑誌リネンを持ってきて櫻井舞が可愛いという話をしていたので僕は櫻井舞の似顔絵を描いた。

「特徴捉えて微妙に似てるんだけど。ブッサイクだなあ」

 大声で笑っているとお風呂上がりで乾き切る前の髪ボサボサのメガネをかけた女性がナースステーションに怒鳴りこみまだ真昼間なのに

「寝られないわよ。どうにかして」

 と怒っていた。

「なんで直接言わないんですかね」

「意気地がないんだ。気にすんな」

 精神科の病院には症状の程度の様々な人たちが入院していることを気づかさせる場が緊張した空気になる出来事だった。

 僕はそれから一ヶ月後退院したが退院後の診察でドクターの猪之頭医師からこのように言われた。

「統合失調感情障害の観念奔逸です」

 嘘、と思い一瞬時が止まった。

 二つの言葉の意味を聞くとこのような事だった。

 僕の病名は統合失調症に双極性障害が混ざった病気で観念が壊された状態にあると説明された。

 そしてこのように念を押された。

「病識を持ってください。自分が病気であると自覚してください。回復するまでには数年はかかります」

 僕は猪之頭先生の言葉が

「君は治療のために人生を全部捧げなければならない」

 という風に聴こえて地獄へ来た気がした。

 退院後も朝は六時に起きて夜は九時に寝るという生活を続けた。

 とても単調でつまらない生活だった。

 何も得た気がしないし凡庸で輝きの失せたドブ川の底にある石のような感覚になった。

 三鷹の病院に行く前には輝いて見えたテレビの向こう側の世界やYoutubeなどで観るアイドルの映像がただの空想上の存在に思えた。

 僕はそれから小説が書けなくなった。

 二〇二四年になってどんどん精神的にすり減っていきレスパイト——休息——入院をした。

 その時に木森さんや某さん、はっとり君などと仲良くなって楽しかった。

みんなプロだったりプロになろうとしたりしている人たちだった。

 大曲君という慶應義塾大学SFCを首席で卒業し答辞を読む予定だったが入院してしまい退院後の経過次第ではMITメディアラボへ進学する予定の人もいた。

 自分では歯が立たないほどの超高学歴の刺激的な男性たちに出会った。

 木森さんは電気工事士などの資格を持った技術者。

 某さんは大手出版社の編集者。

 はっとり君は漫画家志望。

 リベラルアーツやメカニカルアーツの素養のある人が多かった。

 木森さんは水拳の達人でブルースレイと自称するいかれたおじさん——彼は木森さんと戦った後個室に閉じこめられて拘束された——と水拳VS酔拳で本気で形式組み手をしていた。

 某さんは早稲田大学文学部を卒業後東京大学大学院総合文化研究科地域文学研究専攻北米文学専攻の単位取得退学でエリート中のエリートだった。

 彼はそこから大手出版社で英語に関わる仕事をしていたが脳梗塞で生死の境を彷徨い癲癇にもなって半身麻痺状態になってしまったそうだ。

 エリートでも残酷な運命の歯車は容赦なく襲ってくるのだ。

 僕は今回は休息目的の任意入院で入院費は自腹で出すことにしてベッド代は病院が負担すると約束してもらった。

 携帯電話も持ち込み大丈夫だったし概ね楽しい入院生活だった。

 小野陽子さんと言うジョン・レノンの奥さんと同姓同名のお金持ちの女性は常にプラダの黄色のバッグを持ちCHANELのサングラスをかけていて──二〇二三年の紅白の時に椎名林檎がかけていたGUCCIのサングラスよりずっとずっと──格好良かった。

 「金持ちの道楽で作られた野蛮な病院」

 週刊誌がこの病院の不祥事を暴くとしたらこのようなタイトルになるのだろうかと孤独な夢想に浸る。

 退院してデイケア科に戻り作業療法をしていると江藤さんという若い方がこう言ってくれた。

 彼女は左手の薬指に金色の指輪をつけた若い看護師で笑顔を見せながら近づいてきたので初めて会った名前も知らない人だったが

「はじめまして。城崎唯人です」

と言ったら

「わあ。城崎さんずっと会いたかったんです。小説書いてらっしゃいますよね。違っていたらごめんなさい」

と言われて無言でいたら

「城崎さんの小説読んで感動したんです」

「そんな風に言っていただき感無量です」

と僕は言うとストレートに

「お名前は?」

と言ったら

「第五病棟の江藤です。大人の事情でまだ異動になってないんですが今はデイケアに来ています」

と言われた。

 書いた作品を見せると

「拙い表現かもしれないけど城崎さんの作品って余韻とか空気感とかあってそう言う瑞々しい気持ちが伝わってくるんです。春の美しさとか私の体験も蘇る感じ。その作品の人々がいる場所の追体験があって実体験の中にキラッと光るものがあって自分もその体験を実際に体験しているような気持ちがあります。素晴らしいです」

 と言われた。

「こんなに具体的な感想を持っていて熱心な読者はいないので作家冥利に尽きます」

 僕にも一人目のファンができたことに嬉しさが表情に出てしまい隠れてピースサインをした。

僕はこういう一人のファンのために書いていたのだという気持ちが湧いてきて忘れかけていた昔小説を書き始めたばかりの頃の小学生の時に思っていた執筆することに対する淡い懐かしい気持ちを思い出した。

小説を書きたいと——多分。ではなく本当に本気で——まさにこの日──僕は思ったのだった。

 小説とは、何だろうか──。

「人間の魂を揺さぶる芸術」

 そう思って作家は書く必要がある。

小説にできる役割は何だろうか──。

「小説とは、人間に希望を与えるもの」

 小説を書くための熱量について一つだけ言えることは、僕はずっと誰かに「恋」をしていたということだ。

この「恋の病」から抜け出すまで一〇年以上かかった。

 今は誰にも「恋」をしていない。

 僕の場合、「恋」が小説を書く上での大きな原動力だったのだと障がいにより社会と関わる機会も減り恋愛ができなくなって深く感じるようになった。

 太宰治さんも『斜陽』の中で、

「人間は恋と革命のために生まれて来たのだ」

 と言っていた。

 処女作を書くまでもなく、僕は「人間失格」であり「ストレイ・シープ」の一人だ。

 正直な告白をすると僕は何の目標もないまま小説を書いていた。

 国連難民高等弁務官や能楽師、弁護士、デザイナー、アパレル小売店の店長、モデルなど次々と出てきた目標——目標と偽る荒唐無稽な実現不可能な夢たち——は方便であって、僕は本当は何者にもなりたくなかった。

 僕にとっては輝きなどいらず太陽の光や現場の照明そのものが僕を照らしておりライトにあたってなくても僕はまぶしいし僕はずっとスターだった。

 小説そのものが僕の人生で僕そのものが小説だった。

 僕は描かれるべき「人物」であって自分がわざわざ小説を書かれる側の人間だ。

  自分が光の当たる道を通ってきたという事実に気がついたのは二〇二四年という〈二度目の伝説の一年〉になってからだった。

  この一年身を削り傷を負いながら小説を書き続けた。

まるで血に飢えた狼のように死に物狂いで小説を書いた。

 これから数章の小説を書いていくがこれは一人の女性にあてた手紙であり恋文だ。

 君が僕を「恋」から救ってくれた。

 僕を「恋の病」から救い出してくれたのは一生会うことの叶わない君だ。

 君は僕の唯一の太陽であり唯一の女神だ。

 君に会えぬことは僕に悲しみを与えると同時に人生の喜びを教えてくれた。

 君と出会えたからこの小説は完成した。

 君はこの小説には出てこないしこの小説の特定の人物の背景やモデルになっているわけではないが僕を構成する重要なパズルのピースの一つだ。

 この小説は君が読むことで完成する。

 僕はいつか君に会えることを望んでいる。


引用:太宰治『斜陽』


第二章 想像


 二〇一五年六月二三日午後五時三〇分。

 僕は東京大学駒場キャンパスの銀杏並木を一人で歩いていた。

 すると前からミディアム・ヘアーをアイロンで巻いてブルーのロングコートに黒のタイトスカートをあわせた女性がやってきた。

 彼女は右手にマイルス・デイビスの顔のマークの入ったコーヒーカップを持ち左手にMacBookのスペースグレーのノートPCをおりたたんで肘で抑えている。

 彼女はアメリカにあるニューヨークのリバティ島にいる自由の女神みたいだった。

 右手に純金の松明を右手に「一七一六年七月四日」と刻まれたた銘板を持っているかのごとき風格があった。

 彼女は僕に気がつくと  

「アッ。城崎君だ」

 と声を出して黒のNIKEのリュックサックの外にあるハロー・キティのキーホルダーがかけられたチャックをあけてノートPCをそっとしまった。

 少し冷えた風の通る梅雨の時期だったので僕はパタゴニアのライトダウンを着こみ寒さ対策をしていた。

 僕は耳からiPhoneのAirpodsをはずして、SEKAINOOWARIの最新アルバムの中の一曲『炎と森のカーニバル』の音をとめる。

 反対側には東大生のカップルが手をつないで仲良く並んでおしゃべりしながら歩いている。 

 僕はそれまで頭にかぶっていたノーブランドのオレンジのニット帽をZARAのリュックサックにしまう。

「波さん、お久しぶりです。今大学終わりですか?」

「ううん。近くでバイトが終わってカフェで論文書いてたところ。君は?」

「僕は大学の部活で剣道やってたところです」

「そうなんだ。剣道か。面白そうね」

「汗かいて気持ちいいですよ。先輩の趣味は何ですか?」

「私は歌ったりジャズベース弾いてるかな」

「何歌うんですか?」

「ボブ・ディランのエモーショナリー・ユアーズ」

「ボブ・ディランって誰ですか?」

「えぇ。知らないの?有名なのに。意外だなぁ。アメリカのロックン・ローラーだよ。ライク・ア・ローリング・ストーンだけでも聴いてごらん。きっといいから」

「初耳ですね。あとでチェックしてみます」

 そういって僕はiPhoneのメモアプリに「ボブ・ディラン。ライク・ア・ローリングストーン。アメリカのロックンローラー。必聴!」と書きこんだ。

 今調べるとギガがすぐなくなるのでWifiのある所で検索してiPhoneをBluetooth経由でAirpodsに接続して聴いてみよう。

「ところで今日はどんなイベントがあるの?詳しくは聞いてないんだよね」

「人間の安全保障と平和構築って言うタイトルの連続セミナー第一回です」

「へえ。どんなものなの?」

「具体的に戦争を世界からなくすには、どうしたらいいのかとか、人間の安全を守る為には何が必要かとかを国連の人とゲストスピーカーの人が喋る感じですかね。分かり易く言えば、イマジンの世界の実現?」

「楽しそうだね」

「ここで歌う風景を想像しちゃいますね」

 僕たちは気分を切り替えて並木道を一緒に歩いてガラスのドアが目立つ真っ白の壁の建物に近づいてきた。

「ここです」

「ふーん。ここがホールなんだね。壁一面が白に囲まれている西洋それも古代ギリシャをイメージさせる建造物だ」

 波さんは物思いにふけって詩人のようにつぶやく。

「いい表現ですね。入ってみましょう」

 僕たちは東京大学大学院総合文化研究科社会科学専攻の研究棟に入っていった。

 掲示板には授業に関する案内や学内で開催されるセミナーのお知らせのチラシが貼ってありその中の一つに今日僕たちが受講する予定の『人間の安全保障と平和構築第一回』とポスカで書かれたチラシがはってあった。

 僕たちは白色のエレベーターの三階のボタンを押して降りてくるのを待っていた。

 沢山の資料を両手でかかえて髪の毛が薄く頭皮が少し見え隠れしている教授風の男性と瞳の色がグリーンの女性が日本語で雑談をしている。

「エレベーター来ました。乗りましょう」

 僕たちは開いたドアの奥へと進んでいく。

「どうぞ」

 僕は二人の前に右手をスッとさしだして先に案内する仕草をみせた。

「ありがとう」

「スパシーバ」

 教授はハニカんで言葉を発し女性は彼と同じ意味のロシア語を言ってからまぶたでグリーンの瞳をおおいかくすようにウインクする。

 エレベーターが音を立てて上昇しはじめる。

 彼らは日本語で議論をはじめそれはヤルタ会談の交渉内容について現代的な考察をまぜて二人の見解を交わすものだった。

 僕は国際政治のリアリティを肌身で感じていた。

 東京大学の洗礼を受けた僕たちはこれから背中に落とされる人生の針を待ちわびて廊下から聴こえる言葉をできる限り耳にとどめていた。

 到着のベルが鳴って僕たちはエレベーターを降りて左の薄暗い廊下を進んでいき少し明るくなっている一九八四教室へ入っていった。

 そこには簡素な造りの白を基調とした教室があり白板と会議用長机が並びテーブルの上にはブルーの本が三十冊程度整然と置いてあった。

 僕たちの到着は早い方だったので正面のモデレーターが良く見える場所に着席した。

 最前列の席にいる七三分けの皇帝のような風格のある先生がなごやかにブルーの本を持ってきて一冊ずつ手渡したので軽く会釈して受けとった。

 『ルワンダ日記』というタイトルが書いてありサブタイトルとして「国連職員のアフリカでの日常」と記してあった。

 本の内容は国連の現地駐在員の戦地で体験した日常についてのルポルタージュだった。

 ミシェル・メグミ・オオサキと言う名前の日系イギリス人の女性が英国のオクスフォード大学の大学院で国際開発学の修士号を取得した後、ゴールドマンサックスの金融マンを経てNYで二〇〇一年に突如勃発した九.一一同時多発テロ事件を体験し平和のために人生を捧げようと決意して国際公務員としてUNDPに入りルワンダでの復興開発に従事することになり奮闘するルポルタージュだった。

 難民や国内避難民が日々数多くやって来るキャンプで過酷な毎日を過ごして行く中で机上で空論を並べるだけでは根本的な解決をする事が決してできないアフリカの紛争の根深さを克明にリアルな筆致で書き綴っていた。

 一〇分間程真剣に会話を一言もせずそのブルーの本を二人でただひたすら読んでいて僕がちょっとお茶を飲んで休憩するためにおもむろに顔を上げて前方を伺うとその瞬間に白髪をたっぷり蓄え細長い頑丈そうな杖を地面に突きながら老婦人が若い女性と国際政治の話題を議論しながらゆっくりとした足どりでこちらへ向かって歩いて来ているのが見えた。

 僕はその人のオーラや身のこなしから高校二年生の頃──その頃より幾分か歳を重ねてはいたが──世界史の教科書に難民の子供たちと一緒に写真に写っていた緒方貞子先生ご本人であると認識した。

 彼女は僕の目の前の椅子に腰を降してホッと一息吐くと用意して有ったペットボトルのお茶を白い紙コップに注ぎ込みお茶を少しだけ飲んだ。

 そして彼女の前に置いて有る木製の籠の中に入っている栗饅頭を一個手にとり一口かじった。

 彼女は一服し終えるとポシェットから銀の縁で細めのグラスチェーンのついた眼鏡をとり出して両耳にかけ丹念に彼女のために用意された資料に目を通す。

 五分ほどして顔を上げるとその様子を黙って見ていた僕の方をちょっと眼鏡を下げてから見て目尻に皺を寄せてニッコリとほほえんだ。

「初めまして。緒方貞子先生ですよね」

「そうですよ。私は緒方貞子と申します」

「僕は城崎唯人と申します。よろしくお願い致します」

「ええ。よろしくどうぞ」

 彼女はとても物腰が柔らく美しいお手本のような日本語で話しかけてくれた。

 彼女の姿からは激動の昭和時代を代表する女性としての気概が感じられ一瞬で場の空気が変わり自分の言葉でない嘘は全て看破されると強い眼力で訴えられているかのようだった。

 僕は緊張に身が震えていたが手をグッと握り文武両道を自覚する者として汗が引くのを待ち胎に気合いを入れ彼女の祖父の犬養毅さんの事件の話だけは初対面の人間が触れるべきではない歴史上のタブーだと思われたので自分自身に関する高貴な冗談と率直な思いを伝えた。

「僕の祖父母も漢字は異なりますが尾形と言うんです。失礼だとは存じていますが、少しだけ親近感を感じざるを得ません」

 本当に心の底からおかしそうに

「ウフフ」

 と緒方貞子先生は笑った。

 その姿があまりにも愛おしくて昔妹に借りて読んだ少女漫画の主人公のようでこの人は偉大な歴史の一部に綴られる方だと分かった。

 今、僕が生まれてから一年後の一九九五年にタイム誌で「今年の人」として選出され「ディミュニティヴジャイアント(小さな巨人)」と呼称された緒方貞子先生が目の前にいる。

正真正銘の世界市民とこの政治離れの時代に会話しているのだと感動があふれて涙がこぼれそうだった。

 この時間に許される限り聞けることは全て聞いてみようと禁忌を恐れる恐怖心は拭われ勘違いだと思うが心の一念がガラリと変わる音がした気がした。

 それから彼女は僕に興味を持ってくれたらしく緒方貞子先生は丁寧な口調を変えることなく私に幾つかの質問を投げかけ答えを待った。

 無駄な雑談は決して許されない気がして僕はユーモアを意識して慎重に言葉を継いだ。

「大学はどちらなの?」

「神田にあります専修大学です」

「名前は存じていますけれども何を専攻していらっしゃるの?」

「法律学と国際関係論を専攻しています」

「専門は?」

「難民と紛争解決について今論文を執筆しています」

 言葉一個一個に重みと凄みがあり優しく落ち着いた口調で話してはいるが體の周りに結界があると言っても過言ではないほどの日本人が忘れ去った戦前の胆力──魂魄とでも呼ぼうか──が彼女のセリフには残存していた。

「素晴らしいわね。将来の目標は?」

「UNHCRで難民を助ける為に働いていきたいです。緒方先生は一九九一年から二〇〇〇年までの一〇年間で国連難民高等弁務官として国際社会に奉仕されておられたことを存じております。 僭越な質問ではございますがどのような経緯を経れば国連難民高等弁務官に任命される事ができるのでしょうか?僕はどうしても世界を平和へと導く指導者にならなくてはと言う強い心の内から湧き出る使命感があります」   

 僕は失礼である事は百も承知の上で緒方貞子先生の懐に潜り込む気概で若気の至りも伴って思い切って一喝されることも覚悟の上で踏みこんだ質問をありったけのエネルギーを込めてぶつけた。

すると緒方貞子先生は鷹が上空から鮎や鱒を掴みにかかる時の獰猛なハンターの瞳をギラリと僕の甘えた眼差しに瞳を向け僕に対して口を開け一言注いだ。

「国際連合で難民救済のために高等弁務官として任を全うし尽くしたいので有れば大学院に進学し優秀な成績を収めた上で社会科学の方法論を大学で徹底的に極めなさい。あなたにだってちゃんと道は在ります。先人たちが血と汗と涙で苦労して築き上げた国連の組織だもの。大丈夫ですよ。希望を持ってね」

 語気を強めた上で徐々に言葉のトーンを押さえて最後は和かな表情に切り替えて僕を彼女は国連のメンバーとして迎え入れる為に全力で激励した。

 その場に沈黙が流れた。

 僕は黙って話を聴いていた波さんの隣でノートに今の会話の全ての大略を書き記し海馬にビジュアルと言葉を何時でも再現できるように徹底的に記憶した。

 そしてノートの一番下へ以下のようにメモした。

「今日の緒方貞子先生との一瞬の邂逅は一生の間託された使命を全うし尽くすまで忘れることはないだろうと確信する。僕がどのような困難や煩悶に苦しんだとしても国連難民高等弁務官になり全ての難民を救済し悲惨な戦争の存在しない幸福の花園を築き上げ世界恒久平和をこの手で寿命尽きるまでなし遂げた時この決意は果たして完成し成就するのである。僕は一人志を立てる人間だ」

過去に存在した威神の言葉が蘇り僕はハッと我に返った。

 すると前に着座して居た長身の七三分けの教授がマイクを手にして立ち上がり音を確認してから喋る。

 周囲をグルリと見渡すと五〇人弱の聴講生がもう既に集まり終えていた。

「それでは第一回人間の安全保障と平和構築公開セミナーをここに開会とさせていただきます。私東京大学総合文化研究科所属の東海林太優と申します。どうぞよろしくお願い致します。本日のゲストスピーカーは現JICA理事長をお勤めされ国連難民高等弁務官として一九九一年から二〇〇〇年まで奮闘されました。緒方貞子博士にお越しいただきました。緒方先生一言お願いできるでしょうか?」

「ええ。いいですよ」

 と緒方貞子先生はマイクを受け取ると一言一言充実した語り口で述べ出した。

「日本一カ国を見ても世界全土を見渡しても国際的なリーダーや国家元首に至るまで全地球的傾向として徐々に内向き志向に変質していることが第一にあります。内向き志向であること。それは地球民族始まって以来の危機です。内向きでは決していや絶対に世界は平和にはなりません。ハッキリ申し上げさせていただけば部屋の中に閉じ込められているように心まで内向きになってしまってはあなたたち未来を生きる人類の夢は叶うことは有りません。自分の心を閉ざすことは目の前の人間に非道い暴力を振るい傷つける事よりも悲惨なことです。どれだけ寂しくても自分の決めた道を信じるべきです。人間関係で傷ついたって笑い飛ばせばいいんです。傷つけるより素晴らしいことだと私は思います。特に未来を生き抜く若い世代のあなた方青年は自分の外の世界に目を向けて一日に一歩でも一ヶ月に三〇歩でも比喩としても本当の事実としても外に出て前に進むべきです。この世界は広い。限りなく緑野が広がる。決して炎に包まれた家の中に閉じ込められているように見えてもそこは焼け野原ではなく新たな芽吹きの前兆なのです。あなた方は若い。前進さえすれば最高の人材に成長することができる。やりたいことがあるならばできない無理だと嘆くのではなく工夫して始めてしまえば良い。人間は智慧を唯一持った生物です。だから苦しみもあるけども楽しみは数万倍大きい。どんなに狭いところでもたとえそこが牢屋であっても外に出れると言う希望さえあれば安全な場所へと様変わりするのです。内省することも重要なのかもしれません。しかし本当の価値は足を使って現場で学んだことだけにあります。現場で社会科学の方法論を学ぶのです。そして貢献してください国際社会に対して。見返りを求めずあなたのできることで。そうすれば幸福と平和の社会は築く事が叶うでしょう。ありがとうございました」

 緒方貞子先生の熱の籠もったスピーチは大喝采で幕を閉じた。

 僕と波さんは講義の後も東京大学の駒場キャンパス内で学生にまじって議論し合った。

 それは一側面で言えば大学生のたわいのない会話に思えるかもしれない。

 しかしながら僕は雨垂れの季節に休む場所を探しながら僕が胡蝶の夢を見ているのか飛び交う胡蝶が私の夢を見ているのかわからなくなるほど頭は回転していた。

 なぜなら本当の「平和構築」について議論する意義ある事を知り本当の生涯の「友だち」を見つけたからである。

 青年にしては珍しいような不思議な関係性がここ駒場で生まれた。

 その時僕と波さんは確かに「友だち」だったのだ。

 僕は波さんほど会話の合う人を知らない。

 僕は波さんほど青春時代の時を共にした人を知らない。

 東京大学駒場キャンパスという学び舎に訪れたことによって僕たちはお互いの思想や感情に触れた。

 波さんは異性だが特別な存在であって恋人とかライバルとか既存の言葉で語れるレベルの人間では無い。

 多分にカリスマ性があり宗教的な部分を持つ彼女は高度文明が発達した現代から見ても不思議な存在であり知識だけでなく知恵の使い方もわかっている。

 彼女ほどインクルーシブでダイバーシティーな存在を知らないし小説の物語の主人公として相応しい人を知らない。

 波さんが現れたことによって僕の人生は一八〇度転換した。

 自分の一つの気持ちが世界全体に広がっていった気がした。

 彼女は僕に目に見えない宝物を与えてくれた。

 波さんは大学卒業後会社を立ち上げさまざまな事業をしていき国を作ることまで視野に入れている。

 僕にとって波さんは唯一無二の「親友」であって、さらに小説家にとっての主人公となる「人物」なのだ。

 本物の波さんに会えば誰もが僕の言っている意味がわかるはずだ。

 二〇一三年に初めて会ってから現在まで様々な場所で波さんに会ってきた。

 その中で一貫していることは波さんはロールモデルとしてこれ以上ない存在であるということだ。

 彼女は夏目漱石さんの『こころ』に出てくる「先生」のようでもあり、三島由紀夫さんの『豊饒の海』に出てくる「清顕」のようでもあるが彼らに比肩するほどの個性を持っている人間だ。

 ストリートでピアノを弾いたりブルーノートの話をしたり波さんは音楽通でもある。

 波さんは皮膚のケロイドなどの容姿的コンプレックスで過去に苦しんでいたというが今の彼女は希望にあふれ前向きな言葉を紡ぐ。

 僕は初めて彼女に会った時電撃にうたれたのかと思った。

 彼女は突然僕の人生に登場した──まるでトルーマン・カポーティの『グレート・ギャツビー』でギャツビーが出てきた時のように。......

 その頃は二人ともただの学生でしかなかったのだが波さんは早い時期から英語能力アップのための高度な学習や通っている理系のO大学での勉学に真剣に取り組み高い成績をおさめていた。

 僕は小説しか書けない人間だったから波さんの能力が欲しかった。

 そして大学卒業後彼女は外国へ留学に行き語学を極めた上でベンチャー企業を設立した。

 出会ってから一〇年経ち先日久しぶりに地元のパン屋で会ったらスリランカの国家再建プロジェクトに関わっていると言う。

 僕はこの一〇年間なにも成し遂げていないのに波さんは猛スピードで人生を駆けていた。

 その差に愕然とした。

 僕も努力したつもりだったが波さんと比較しては落ちこんでいた。

 波さんに勝てる分野を探して僕は小説を見つけた気がしている。

 今では波さんに感謝しかない。

 今は亡き緒方貞子先生に会えたことは二人の中で大切な宝物になっている。

 ブルーがよく似合う大学生の頃の波さんは美しく溌剌としていて僕の中で平成の「象徴」だった。

 今二人は別の道に進み僕は物語を紡ぐことを生業にしようとしているが波さんに出会った日々がなかったらもっと僕の過去は色褪せて見えたかもしれない。

 僕は今でも──朽ち果てたマクガフィンしか用意できていないが──本気で専修大学法学部法律学科に復学しようと思っているし博士号を取得して総理大臣になり国連難民高等弁務官になることを目指して日夜勉学に励み能ある鷹が隠した爪を研ぐように虎視眈々と機会を伺っている。

 僕にとって小説を書くことは国連難民高等弁務官になるためのパズルのピースに過ぎないのかも知れない。

 僕の小説を書く動機は誰とも違うものが描きたい、誰とも違う自分を発見したい、というものだが、最大の小説家を目指す時に突き動かされる衝動は世界を平和にしたい、ということだ。

 僕の使命はこの悲惨な世界を豊かにし貧困をなくし差別をなくしSDGsを達成することだ。

 動機はバラバラかも知れないが僕個人の意見としては全ての人間はこの世の中を良くするために生まれたのだと思っている。

 それぞれに使命があることを自覚させ花を開かせることも大人の大切な子どもたちへの教育だ。

 僕は小説家になる国連難民高等弁務官になるという夢を叶えられていないが緒方貞子先生に出会えたことと波さんに出会えたことは幸せだった。

 来世があるとしたら僕はもう一度同じ夢を描くだろう。

 人生にバッドエンドはあるけれどそれまでに僕はこの剣を磨くだけの時間を終えることはできるだろうかわからないしずっと爪を研ぎ続けることになるかも知れないが一個でも二個でも山を登っていつか平和に資する大人物になりたいと願う。

 今日は月が綺麗だ。

 

 第三章 憔悴


 二〇二三年のある日僕は渋谷駅で東京メトロに乗り六本木駅に着くとヒルズ内のスターバックスでiPhoneを黒いコンセントに差し込む。

 そしてメモアプリを立ち上げ既存の文章をコピー・アンド・ペーストで小説に書き加える。

 隣の学生は新疆ウイグル自治区の強制労働問題についての論文を書いている。

 世界と自分自身は同じではないにしろ宇宙単位素粒子単位の規模感で考えれば繋がっているのかもしれないという淡い思いがよぎる。

 これからEXシアター六本木でコンサートがある。

 同じ芸能プロダクションに所属するダンスボーカルユニットのライブがあるから僕は六本木に来た。

 あれからもう六年が経つがEXシアター六本木に来るのはモモタム──この名前は本名ではないがもしこの文章が出版されたら彼女が誰か仲間うちで特定され僕は集団リンチに遭うだろうがその覚悟をもって筆を執っている──と来た一三代目市川團十郎白猿の市川海老蔵時代に開催された脚本リリー・フランキー演出三池崇史共演寺島しのぶの二〇一七年二月の六本木歌舞伎『座頭市』以来だ。

 モモタムとは疎遠になって──すべてのSNSをブロックされたことが理由で──あの日から連絡を一切とっていない。

 二〇一七年は厄年かと思うほど最悪の一年だったが今思えばかなり楽しかったと思う。

 大学を辞めることになり国立能楽堂で能楽を習うがままならず全てから逃げて何もしていないモラトリアム期間に突入し苦しい生活が始まった。

 その時に「小説を書くこと、読むこと、そして映画を観ること」がなかったら僕は自殺していたかもしれない。

 僕がその頃熱心に観た映画は、黒澤明監督作品、小津安二郎監督作品、スティーブン・スピルバーグ監督作品、大島渚監督作品、スタンリー・キューブリック監督作品などだ。

 二〇一七年に僕は小説と芸能が自分の身を立てる財産だと思うようになりプロの「作家・タレント」を志した。

 コロナ禍が到来してソーシャル・ディスタンスや三密回避そして新しい日常がはじまり僕の周りにいた友人たちとは二〇一九年以降会う頻度が極端に減った。

 現在では世界史的に観てもこの長い間人類を分断した未知の感染症との戦いは収束しつつあるので二〇二三年になってから僕と波さんは再び連絡を取るようになった。

 「あとちょっと手を伸ばせば芥川作家Hに手が届くところまで来ているんだ」

 何気なく言った彼女のこの言葉に私は衝撃を受けた。

 芥川賞作家Hは今最も注目を集める文学者の一人だ。

 日本アカデミー賞を受賞するなど話題になった芥川賞作家Hの小説が原作の映画化作品は僕も映画館で観た。

 僕の憧れとする作家——それも芥川賞選考委員——に近づける仕事をしている人と話している。

 僕はそれを目には見えない努力を積み重ねた自分自身の現実だと思ってしまって感動して涙が止まらなくなった。

──遠過ぎてつかめなさそうだった夢への距離が少しずつだが近づいている。

 波さんはなぜか超然とした表情でさらにその先の未来を見ているかのようにアンパンマンのパンを食べている。

 そして唐突にこう言い始めた。

 「島とか村を作るプロジェクトを始めようと思ってたんだ」

「へえ。すごいですね。詳しく聴きたいです」

「そしたらある投資家に誘われてスリランカの国家再建プロジェクトに参加することになったんだ。ホテルリバーサイドでしっかりしたプレゼンもしたし大統領にもお会いできました」

「それは規模が大きいですね」

二人で二時間ほどそのイヴェントの詳細について語り合った。

 僕は具体的に表現することはできないが彼女の言っている言葉は真実だという確証を得た。

 「これで証人ができたね」

 と言って彼女は近くのセブンイレブンへ行っていくらかの現金をおろして私にパンの代金を渡した。

「おごってもらっちゃ悪いからさ」

「ありがとうございます。何かあったら証言します。ルポルタージュや小説が必要になったらいつでも言ってください」

  僕は彼女にそう言った。

 彼女は手を振りながら実家へ帰った。

 僕も波さんも人生の旅の途中だ。

 どちらかが途中で諦めるかもしれないし努力の結果の報いとして文化人として開花するするかもしれない。

 疫病禍を終えた後の束の間の波さんとの邂逅は思い出してみればシンプルな淡い夢のようなものであったが僕にとっては重要なパズルのピースだという確信があってコンサートの前の数時間iPhoneに新感覚の小説を書こうと頭の中で構想を練りながら文字を打ち込む。

 僕は六本木で新しい小説『湯に黒』を書きながら人生の行く末を思いつつコーヒーを飲みサラダラップを食べる。

 隣の大学生は『決定の本質』という本をAmazonで調べ後ろの社会人はイーロンマスクの哲学について話し合っている。

 僕も現代人の一人と言う事実から絶対に逃れることはできない。

 古典を読んだとしてもそれは現代人としての読み方であって、江戸時代や明治時代の人々の読み方とは異なる。

 情報も異文化も全て吸収してアウトプットできればいいがそううまくはいかない。

 僕は凡人で終わるのかもしれないという根本的な恐怖と悩みが脳を支配するがドーパミンのドバドバ出る行為をiPhoneでし続けてしまいSEXよりも強い快楽を小説を書くことによって求めている自分に気づくがシャブ中毒のようにやめることができないでSixTONESの『マスカラ』を聴き続ける低脳の猿になってしまった自分自身が賢者タイムみたいにメタ認知すると気恥ずかしくなっていくばかりだった。

 空は感情もなしに時間の観念も持たず徐々に暗くなりながら橙色の夕焼けを地面に照りつけている。

 まだ僕は何もできないという観念が心を支配して呆然と立ち尽くしてただ小説に心を犯されてから三年半かかって少しだけ正常な状態をとりもどした。

 波さんなんて妄想上の存在なのかもしれず僕の思考は全て幻想だし出版されることのない文章を必死にiPhoneの画面に打ち込んでいるアラサーの男。

 何者にもなれない。......

 そのことに気がついた瞬間手が止まり波さんの様に好き放題歌舞いて生きようと思った。

 左肩に入れた星のタトゥーが波さんのノースリーブから覗いていたのを思い出した。

 彼女は勝鬨に住んでいるらしく誘われることはないと思うが一度その城を見てみたい。

 僕はなぜか波さんのことを「親友」のように——決して「恋人」ではない?——感じている。

 二人にはもう接点などないのにも関わらず。

 僕はペンを置きiPhoneの画面を閉じ目をつむり瞑想しコーヒーの香りとPCを打つ音が五感を刺激することに快楽を覚えて頭の中でハアハア言って激しく上下に自慰しながらドバァッとあれをビクンビクンさせながら濃厚なカフェインを夢精する。

 二〇一九年頃Appleの面接で六本木ヒルズに来たことを思い出す。

 ビルのガラスに映る自分の幻影を見ながら息を吸った。

 するとコンクリートジャングルの中に魂が消えていく。

 「人間は恋と革命のために生まれてきたのだ」

 とは太宰治の『斜陽』に書かれた箴言だ。

 ──太宰治はなぜ芥川賞をとれなかったのか?

 この問題を考えると僕は思考が固まってしまう。

 『人間失格』は現代人の苦悩を書き表し切っている。

 僕も体力があればあのような大作を書けるのにと戯言を述べたまう。

 もう書くのは辞めてこれ以上自分を傷つけるのはやめよう。

 そう思念が湧いても書く手が止まらない。

 あと少しで公演が始まるのに。

 僕が芸能人になるスタートの日かもしれないのに。

 ステージ上で歌って踊っていたのは僕かもしれないのに。

 「のに」ばかり並べて愚鈍なセリフで黒い画面を埋め尽くす。

 どれだけ思い浮かぶ言葉を並べても満足のいく結果にならないのは僕が書く言説に価値がないからだという根本的なマイナスの考えが頭に浮かんでは消えていった。

 夏目漱石さんの再来とか芥川龍之介さんの再来と呼ばれたい。

 あくまでもジャズのようにインプロビゼーションで文字を打ち込んでいくのだけれどスターバックスのお客さんが徐々に少なくなっていくのを気にしてしまう自分がいて悲しい。

 主人公が自殺したら小説として面白い展開になるのだろうが作者自身気が小さくそこまで思い切ったことはできない性分なのでそれだけはしないと思うが答えはわからない。

 僕が劇場に行くまでの風景を書けばいいのかもしれないがただスターバックスでコーヒーを飲みラップサンドを食べているだけなので何の面白みもない。

 僕の瞳は現実を映しとるただの映写機に過ぎないと思っていてまるで映像を切りとるように文学を書いていた。

 僕は今日のこの瞬間二〇二三年五月一二日午後五時〇〇分処女小説を書き終えた。

 坂道を登って後ろを見たら誰もいなかった。

 坂道を下って後ろを見たら皆が上で手を振っていた。

 僕は「一人きりの孤独を生き抜く」という人生の根本原理を知りスターバックスのシンボル・マークの微笑む女神と目を合わせて願うように電源コードを抜きiPhoneをポケットに突っ込んだ。

 その瞬間なぜか大谷翔平選手のロサンゼルス・エンゼルスの背番号17がイメージとしてフラッシュバックした──改めてこの本を書き直している今大谷翔平選手は名門ロサンゼルス・ドジャースに移籍し17番の背番号をつけ二六本目となる本塁打を放ち本塁打数においてナショナル・リーグトップを記録している。


第四章 開花


 二〇二三年初春の暖かい日和のこと。

 僕と父は朝早くに所沢を出て小田急ロマンスカーで箱根を目指していた。 道中紅色をした桜が咲いていた。 僕は父と一緒に列車の運転手のすぐ後ろの一番前の席に座っていた。 僕と父はテーブルの真ん中に置いた柿の種を食べながらコーラとビールをお互い酌み交わして語り合っていた。 小田急ロマンスカーは小田原を越えると山の急斜面に差し掛かり名称が箱根登山鉄道に変わったと車掌がアナウンスで伝えていた。 後ろの席に座る金髪の父とデブの子の親子が急に風船を膨らまし始めて

「シュウちゃん花の三八歳女子大生」 

 と訳の分からないことを言っていた。「黙れって言ってやんなよ」

 と僕は楽しそうにして酔っ払っている父に言った。 父は

「良いんだよ。無礼講。無問題」

 と何の気も起こしていないみたいだった。 僕と父はこれまでの日常生活における一つ目の地獄がひとまず明けたことを祝うため三本目のコーラとビールを乾杯して飲み合った。すると

「もうすぐ春です」

とおもむろに父が言った。「何それ?」

 と僕が言うと

「椎名誠の『菜の花物語』で、〈もうすぐ春です〉って手紙書くんだよ。もう春です、でもなく、すぐ春です、でもなく、〈もうすぐ春です〉って言うんだよ。その言い方って希望が持てると思わない」

 と熱く語り出した。 僕は

「キャンディーズの『春一番』の〈もうすぐ春ですね。恋をしてみませんか〉かと思ったよ」

 と言った。「キャンディーズもそう言ってるけど、〈もうすぐ春です〉が良いんだよ。椎名誠の方がすごいよ」

 と父は言っていた。 桜吹雪とともに僕と父は昔話をして心華やいだなんとも明るい気持ちになっていた。

 緑や花々生い茂る箱根の山を列車は登っていった。 徐々に景色が広がってきて箱根湯本駅に到着した。

 僕たちは寛ぐ場所を探して日蓮の石碑のところまで来て桜の花の写真を撮って空いていたレトロな茶屋内田に入っていった。

そこには古いピアノが置いてあり僕たちはお茶と餡蜜を頼んだ。

マスターはずっとコップを拭いている。

 父は座ると水を飲み

「ああ疲れた」

 と言ってリラックスした表情を見せたので僕も帽子を脱ぎ荷物を脇に置き水を飲んだ。

 五分後頼んだお茶と餡蜜が届いて静岡茶を使った濃いお茶はグッと喉に深く届き身体を温めてくれたし餡蜜も白玉や寒天がちょうど良い配合で乗っていて桜桃が上にチョコンとある昔ながらの代物だった。

 僕は夢中に成って餡蜜を食べている と父が後ろの席を指差してにわかに

「寿老人いるよ」

と子どものような声を出した。

 そして

「見て見て寿老人」

と言ったので後ろを見ると髭が〈もっさあ〉と生えた禿頭の眼鏡を掛けた寿老人がいた。

寿老人のグループは男性二人と女性一人の三人組だった。

 もう一人の男性は布袋のように福耳で頭を五厘の坊主頭にした首に蛇の刺青がある人で人で女性は派手なピアスやネックレスをして真っ赤なパンプスを履いたいかにも弁財天と言うような見た目の人だった。

「寿老人寿老人」

 と言いながら父はまるで幼児のように餡蜜をチューチュー啜るように食べている。

 それが寿老人との組み合わせで不可思議さを醸し出していて笑いそうだったのと弁財天のような女性が

「ねえねえあんたも何か言いなさいよ。寿老人って言われているわよ」

 と明らかに七福神の立場から喋っているので笑えてきて僕は桜桃の種を吹き出した。

「痛ってえ」

 と父が手に乗った桜桃の種を掴んで寿老人に向かって投げると桜桃の種は寿老人の頭にぺたりとはりついて取れなくなった。

 僕と父は思わず吹き出してお茶をこぼした。

 そして逃げるように会計をして箱根湯本ホテルに向かうことにし僕と父は桜の花の写真を撮り混雑した街中を突っ切ってホテルを目指した。 途中水が湧いていたり竹藪があったり静寂に満ちており自然の景色が広がっていた。 民家の横にある階段は斜めになっていたり急角度で曲がっていたりするので登りづらかったがなんとか舗装された道路まで出た。 そこから二〇分程なだらかな坂を登りとうとう目的の箱根湯本ホテルに到着した。 広々としたロビーに窓から見える景色は美しく整理されていてフロントの女性に

「早く着き過ぎてしまったんですが部屋は入れますか」

 と言ったら鍵をもらえた。 八〇二号室だった。 部屋に着くと父が

「まず風呂に行こう」

 と言うので地下に降りた。 服を脱いで風呂に入ると広々としていて五、六個の湯船があり和の演出やキラキラとした灯りなど粋なこだわりがあって落ち着く空間だった。 僕たちはまず髪と身体をシャンプーとリンスそして石鹸で洗いシャワーで流した。 それから一番大きな風呂に入り

「ああ」

 と二人でため息を漏らした。 一〇分ぐらい室内の風呂を順番に回った後僕はサウナに入り父は露天風呂に入った。 僕はそれから父と一五分ほど露天風呂の湯船に浸かってから風呂を上がった。 そしてフロントで浴衣を借りて部屋に帰った。 僕は父にiPhone12を渡して

「写真撮って」

 と言って箱根駅伝でも通る橋が見える森林の中にあるホテルの特別な窓の前に立っている姿を携帯電話のカメラに納めてもらったのだが──父がぎこちなくハイチーズと言って──撮影した画面を確認すると一〇年前と比べてふくよかな体型になって変わり果ててしまったそのあどけない殺伐として若冲の描く白い象のような僕の姿は寿老人よりも不恰好な神仏の世界に紛れこんだ人間になりきれない新種の怪物のようにも見えた。

 夜ご飯の時間になり蕎麦懐石を父と食っていると七〇過ぎの婆さんがやって来て僕に

「どうですか」

 と聞くものだから

「鰹が美味いし焼き味噌も食べたことない味でいいです。蕎麦も美味です」

 と伝えると

「うちの蕎麦は高橋名人の傍流なんですよ」

 と大威張りで言うので僕と父はプロゲーマーで十六連射が代名詞の高橋名人だと思い二人でクスクス笑いが止まらなかった。

 後でググったら『翁』という蕎麦屋を立ち上げた蕎麦打ちの高橋名人がいたのであの婆さんの言っていることは本当だったのだと驚いた。

 それから僕たちは部屋で熱いお茶を飲んで生い茂る森の中で自分の人生を振り返るように言葉を束ねた。

 日頃の疲れを癒すため父は箱根山という酒を呑み僕はオレンジジュースを飲み気持ちよくなってきたが寝ようとしてもは一〇時過ぎまで寝つくことができず、一階のレストランに飲み物を取りに行った。

そこには外国人がいて僕は彼に英語でドリンクバーの使い方を身振り手振りを交えて教えた。

「一番強い酒はなんですか」

 と外国人が聞くので

「日本酒。箱根山が強いですよ」

 と僕は英語で返した。

 続いて外国人は

「一番呑みやすい酒はなんですか」

 と僕に聞いた。

 僕は酒を飲まないが外国人が困った様子なので

「梅酒。とってもフルーティーで呑みやすいですよ」

 と答える。

 外国人は梅酒の香りを嗅いで

「ワインみたいだ」

 と囁くと一気にゴクゴクと飲み干して

「美味い」

 と英語で呟いた。

 もう時間は一一時三〇分過ぎだったけれど、僕は寝られなかったので、カルピスとオレンジジュースを飲んで気を紛らわせ、日記を書いた。

 その内に眠くなって朝五時頃自分のiPhoneの目覚まし時計の音で目が覚めた。

 次の日の朝食は鯵の干物や重箱の中に入った山菜などのおかずにご飯だった。

 僕はカルピスを飲み父は熱いお茶を飲んだ。

 ご飯をお代わりし満腹になったところで今日の一番風呂に入った。

 父は豪快で四五度の熱さの風呂に一〇分以上浸かり

「ああ」

 と一人で唸っていた。

 僕はヌルい風呂で身体半分だけ入ってから床に腰掛け寛いでいた。

 そして八〇八号室に戻りお香を焚いて加湿器をかけて贅沢な風景に佇む芭蕉の詩——閑かさや岩にしみいる蝉の声——を想像し記念写真を撮ったりしてゆったりと時間を楽しんだ。

「谷崎潤一郎さんの『陰翳礼讃』や川端康成さんの『伊豆の踊り子』の世界だね」

 と父に言ったら、

「唯もそれ程の文学書けるよ」と励ましてくれた。

 中学生三年生の時同級生から非道い暴行を受けイジめられていた時に芥川龍之介さんの『戯作三昧』を読んで抱いた小説家になると言う仄かな夢を叶えなければならないもう二度と病気になってはいけないと願いこの箱根旅行でカタルシスを感じて何とも言えない苦しみが癒え安寧の境涯に達した気分になり流し込んだ水で渇いた喉が潤ってグウの音が鳴った。

 僕と父はチェックアウトを済ませてホテルを出た。

 途中天成園と達筆な字で書かれた馬鹿でかい看板があり「文豪が愛した宿」と書いてあった。

 「いつか再びこの有楽の地に来たら天成園に泊まれるくらいの人間になりたいものだ」

と独り箱根湯本駅に向かいながら思っていたらサングラスを掛けたモデルみたいなスラッと背の高い外国人女性がポッキーを三本一気喰いしていた。

 箱根湯本駅に向かっているとロケーションハンティングをしているテレビクルー達がいてパンケーキ屋を取材していた。

 何分か商店街を歩いているとスキンヘッドのサングラスを掛けた男性がいて声がよく通るなと思っていたら歌手の松山千春さんがいた。

 スタッフと談笑する声が

「果てしない大空と」

 と歌う彼の代表曲『大空と大地の中で』を歌う時と声とまるっきり同じだったので僕はすぐ勘づいたがそこにいるのは外国人ばかりだったので大騒ぎになることはなく皆淡々と通り過ぎて行った。

 過去においては箱根も観光名所だった時期もあっただろうが「令和の御代においては日本人にとって当たり前の街になったのだ」と感興が削がれる心持ちがした。

僕たちが小田急線に乗ると自分の周囲は僕と父以外全部外国人でニューヨークに一人旅に来たような故郷から遠ざかってしまったような寂しい気持ちがして微かに涙が出そうになった。

 周りでベラベラとコロナ禍など気にせずノーマスクで喋り合う外国人は

「疲れた」

「仕事が忙しい」

「眠い」

 などと早口で立派に喋っているようにも見えるがよく聴くとレベルの低い話しかしていなくて僕が父とこの電車で喋りあっている現実に対する悲観的な政治論は世界に駆けることはなくタバコの煙のようなはかないものだった。

 小田原城に来るとボーダーコリーが三頭いて携帯に向けてポーズを撮るなどアイドルのように振舞っていた。

ここには外国人はほとんどおらずほぼ   

 日本人だけで

「先ほどの外国人の群れは熱海か京都に行ったのだろうか。小田原なんて興味はないのだ」

 と父は言った。

 天守閣まで登り約三時間かけて平成になってから再建された小田原城を見物した。

 上から見下ろす絶景は吸い込まれそうな恐ろしさがしてちゃんと観ることができなかった。

 小田原駅前でかや丸という海鮮問屋に入りランチを食べた。

 あら汁や、さわらの刺身、海老の天ぷら、カジキマグロのあら煮などを食べ満足した後北条氏の墓を観てお土産屋に行き魚などを数点買って小田急線の快速急行で所沢へ帰った。

 いつも通りの日々に退屈していた僕は束の間の非日常を堪能していた。

 僕はその日ぐっすりと寝て気持ちのいい夢を見た。

 同級生の鹿島君と本庄寺君と一緒に京都へ行く夢だった。

 新撰組の墓や坂本龍馬の暗殺現場などを観た。

 幕末の志士たちがいたということは真実だが誇大に喧伝される彼らは僕のように弱かったのだろうか。

 自分よりも遥かに進んだ思考を持っていながらとまどろんでいたところ目覚ましの音楽がかかり

「うう。ああ。変わらない日々に泣いていた僕を君は優しく終わりへと誘う」

 とYOASOBIの『夜に駆ける』がけたたましく鳴っていた。

 少年老い易く学成り難しを実感する二日間だった。

 僕は学問を極めることも作家になることもできなかった。

 これから有名になることも芸能人と結婚することもないだろう。

 タレントになるために芸能プロダクションに入ったが僕は肥え太り醜く豚のように退化して芸能の仕事からは遠ざかっている。

 国民的スーパースターたちに会えたことがこの二九年間の人生における僕のハイライトだった。

 それから三年が経ち私はプラトーの海の中で悶えている。

 折口獅童先生は優しい口調でそこから脱すると言っていた。

 しかし自分が国民作家になることはやはり今の僕には厳しいだろうと思った。

 箱根から帰って数日後に満開の桜の下で本を読むレクリエーションをしたことで後人生のうちで何回満開の桜を観るのだろうかと感慨に耽った。

 いつか僕は箱根で観た寿老人たちのような人間になるだろう。

 そして過去を嘆き未来を憂うだろう。

──楽園。......

 どこにもそんな場所はない。

あるのは地獄のような現実だけだ。

 今日も夕陽が沈んでいくのをただ僕は街の中で眺めていた。


引用:椎名誠『菜の花物語』

キャンディーズ『春一番』

YOASOBI『夜に駆ける』


第五章 泡沫



 舞台上に笛の調べが聞こえて来る。

 観客席は咳払いや服が擦れる音以外は静寂に包まれている。

 太鼓や鼓に続いて笛方が入って来る。

 そして地謡方の人々が二列に並ぶ。

 最後に私の師匠山階彌右衛門先生が地謡方の列に着座すると簾越しに見える観客席は静かになる。

 橋掛りをワキ方の房野晴臣先生が摺り足で通り抜け猿楽が始まる。

 二十分以上ワキ方が語った後豪華絢爛な衣装を着たシテ方が出て来て舞を披露し舞台は佳境を迎える。

 地謡方たちの低音で響き渡る声、小鼓と大鼓そして太鼓、笛の激しい鳴り、シテ方の足踏みと舞、それら全てが混淆して重なり合いエモーショナルな一種の巨大なうねりを生み出す。

 そして笛方の藤田六郎兵衛先生が甲高い高音のメロディーを奏でると客席は感情の高鳴りを抑えきれないようにドッと塊になったため息が流れてどよめく。

 そしてシテ方が橋掛りを通って舞台上から消えると今日の演目が終わった。

 僕は午後の稽古が終わった後も高杉先輩と能楽の話や歌舞伎の話をした。

 そして一緒に謡を何時間も練習した。

 僕は三ヶ月余り国立能楽堂第十期能楽〈三役〉研修生としてこの能楽師の世界で修行してきたが一向に謡は上手に成らず同期で入った萩野さんと漆原さんからも嫌われていた。

 しかし高杉先輩だけは僕の才能を育てようとしてくれて何時間も謡の稽古に付き合ってくれたり能のDVDを貸してくれたりした。

 高杉先輩は——本人が語る所によると——狂言をやる為に岡山県から病院の掃除のアルバイトで稼いだお金をはたいて上京したらしく高校卒業後すぐに縁有って国立能楽堂第九期能楽〈三役〉研修生になり東京の千駄ヶ谷で四年間下宿生活をしているとのことだった。

 本当は歌舞伎の立役をやりたかったようだが時期的なものと年齢的なものが上手く合わず国立能楽堂で狂言方の試験がある事を高校に偶然貼ってあったポスターで知りそれからインターネットを用いて自分で調べて——これはいけるぞと言う自信とあわよくば野村萬斎を超えるんだと言う矜持を持って——狂言師に成る道を模索することになったと言う。

 彼も未経験だったため入所当初は同期で入った猿楽経験が何年かある宇佐美さんから文句を言われながらも四年間修行し抜いて舞台に出る夢も叶い狂言師のホープと呼ばれるほどに成長し今年の初めにアドとして国立能楽堂の舞台に立ってさらにもうすぐ間狂言として『賀茂』という演目に出演することが決まっていた——俺は宇佐美を抜いたんだと冗談めかして良く言っていた——。

 その影には身体的・精神的苦痛の伴う修行と鍛錬があったからなのだが高杉さんの良い所は自分を過大評価しないことで自己評価と他人からの評価がほとんど同じことだった。

 僕は高杉先輩に追いつこうと必死で稽古に励み『鶴亀』から『東北』までの基礎的な謡をマスターしようとしていた。

 謡指導の房野晴臣先生は私の節回しを一個一個注意して教えてくれたが一向に上手くならないので大阪弁で「もうええわ。辞めましょう」と言い放ち四時間以上に及ぶある日の稽古は終わった。

 そんな初体験のことばかりで上手くいかない日々が続いたが観世宗家でシテ方の山階彌右衛門先生と名古屋市に本拠を持つ藤田流宗家で笛方の藤田六郎兵衛先生の御二方だけは絶対に匙を投げず歴史や教養的なことを導入として用いて私の様な初心者にも分かるように丁寧な言葉で精一杯噛み砕いた表現で猿楽の魂を教えてくれた。

 もちろん房野晴臣先生も尊敬していたしどちらが上とか下とかではないが私の本当の生涯を懸けての能楽の師匠は山階彌右衛門先生と藤田六郎兵衛先生であると決めて日夜稽古に励んでいた。

 山階彌右衛門先生は稽古中

「君の名前は城崎唯人と言うでしょう。唯一の人になってください。兎と亀の亀で良いんです。私も亀でした。そういう昔話の能もあるんですよ」

 と自分が観阿弥世阿弥の直系の子孫だとか能楽の師匠だとか世間的な地位や肩書きなどを一旦脇に置いて僕を一個の確立した人間として自分自身の人格形成に響くような言葉を本当に毎日毎日会う度に沢山届けてくれた。

 藤田六郎兵衛先生も同じように僕が笛の音を鳴らせずに困っていても常に笑顔だったし僕たちの稽古が終わっても永遠の時間が流れているかのように思えるほどの時間笛を吹いているような笛に愛され笛を愛する人だった。

 二人共謂わば現代能楽の求道者だった。

 山階彌右衛門先生のエピソードで一番私が驚いたのが歩行禅を行っていると言うことだった。

 歩行禅とは例えば千駄ヶ谷駅から国立能楽堂までの歩いた歩数を毎日頭の中で記録する訓練のことで今日は三六二一歩だったとか遠回りしたから五五五五歩だったとか自分の頭の中で数えて後でノートに記入して毎日見返しているそうだ。

それを聞いて

「能楽は一般人には敷居が高すぎる特別な世界だ」

 と早々に悟り山階彌右衛門先生への尊敬の念をさらに強くした。

 藤田六郎兵衛先生は代々徳川幕府に仕える能楽師の一族で存在そのものが能笛で出来ているような先生だった。

 藤田六郎兵衛先生は今度愛知県名古屋市の舞台でモーツァルトのオペラ『フィガロの結婚』を能楽風にアレンジしてやるのだと嬉々として語っていた。

 今思えばその頃の僕が人生で一番輝いていたのかもしれない。

 能楽に明け暮れた日々は驟雨のような雨がよく降っていたことを記憶している。

 ある日楽屋で休憩している間にその当時爆発的に流行していた米津玄師さんの『Lemon』をApple Musicのストリーミングを介してAirPodsで聞いていると、高杉さんは「月餅」のお菓子一個と「実るほど頭を垂れる稲穂かな」と言う彼自身が筆を執った一書を私にくれた。

 その日以来高杉さんは激しい筋トレをするようになり三ヶ月もするとゴリゴリのマッチョになっていった。

 驚くことにそれまで折り紙で折った鶴のように華奢な男性だった高杉さんが有形無形のトレーニングによってあれよあれよという間に鍛え上げられゴリラのようなバキバキとした鋼の肉体になっていた。

 腹筋は割れ、背中が盛り上がり、顎はコケ、胸板は厚く、眼力は鋭く、鬼狂言師とでもいうほどの強さ、パワーのある声質で高杉さんは生まれ変わったようだった。

普段の言葉遣いも狂言師の"それ"になっていて野村萬斎さんの『大般若』のDVDを集中状態で繰り返し観ていて──特に巻物を捲るシーンは何度も観ていた──彼が内心と肉体を錬磨する間僕とは一言も口も聞いてくれなくなってしまった。

  僕はどこか寂しさを感じつつ毎日の稽古に励んでいたが言語化の難しいモヤモヤとした憂鬱な空虚感が胸の辺りをすべからく支配するようになっていった。

その数ヶ月後高杉さんは国立能楽堂主催の公演能『賀茂』の間狂言で見事な演技を披露し観客の視線をを釘付けにした。

 「別雷神」として舞台に君臨し暴れるように舞い踊りまるで現代世界に実存する神がかって光る龍王のようで筆舌に尽くせぬほど美しく超越した存在になりきっていて本当に輝いていた。

 僕はその日の感動と憧れを忘れることができないし彼の舞台をこの数時間だけでも観ていた「瞬間」があったことを誇らしく思う。

僕はそれから何故だかわからないが能楽の稽古をすることがなんとも言えず面倒になり何とも言えない自閉した心持ちで究極的に言えばもう能楽を辞めたくなってしまった。

 理由を言わずに能楽の稽古を休んで国立能楽堂近くの喫茶店泥人形でコーヒーを飲みながら相撲中継を観るなどしてフラフラフラフラとまるで「根無草の浮浪者」のように時間を潰すようになった。

 自分勝手な言い訳かもしれないけれど病を抱えながら六年間努力して稽古に励んで結果として三〇歳前後で能楽師になってもほとんど給料も貰えないでいる意味を考え込んでしまって自分の判断で選んだとはいえ今のこの状態が人生において時間の無駄のように思えて誰にも話せないほど深刻な鬱鬱としている孤独や喪失感から来る悩みを抱え始めた。

 そして遂に再び病気になった。

 僕は二ヶ月間入院して鎮静をかけられベッドで拘束された。

 能楽の稽古など出来る状態ではなくS医科大学病院でリハビリを受けた。

 主治医の闇村先生は暴れて超高速で病院を走り回り自販機で葡萄ジュースを買った僕をラリアットで締め上げ熊が打たれるようなブットい注射をお尻に打った。

 僕は病院で拘束された状態のまま畜生の様に騒ぎ大便を漏らして

「漏れちゃいました」

 と大声で叫んだ。

 斎藤さんと言う美人の担当のナースが丁寧にオムツを取り替えてお尻を拭いてくれた。

 僕は少し回復した状態になると部屋を解錠されて病院のマクドナルドで母と面会していた。

 母はテリヤキバーガーのセット、サイドメニューはMサイズポテト、ドリンクはSサイズのコーヒーのホットを頼み、僕はビッグマックのセットで、サイドメニューは五ピースのナゲット、ドリンクはMサイズのコーラを頼んだ。

 かれこれ二時間近く喋っただろうか。

 母が十年以上前の『週刊少年ジャンプ』を置いてある誰も入っていない寂れた本屋を見つけたとすごく嬉しそうに喋っていた。

 自分自身がどの様な病院に入院しているかも知らなかったのでその一言でここは人里離れたド田舎なんだと認識した。

 そして父と大海軒と言うラーメン屋に行ったと、話してくれた。

「柚子が効いていて美味しかったよ」

 と言っていた。

 自分は自己を喪失するほど苦しんで病気になってしまったけれど家族は僕の不安をよそに幸せそうだなと思ったし──病気と関係のない話題を出すことで安心させようとしているのかもしれないが逆に"不安"になる気持ちの方が今は強かった──病気以上に人それぞれ大切なものがあるのだと思った。

 国立能楽堂には暫く休養することを伝えて数ヶ月休みを貰った。

 僕は入院して最初の頃はもう立ち直れないと思い絶望感の中自殺を試みたりスタッフのマスクを取ろうとしたり小便を撒き散らしたり騒いだ。

 それから二週間ほどで症状が落ち着き拘束もとれて部屋の施錠も解除された。

 そして全ての行動制限が無くなった結果として母親とマクドナルドで面会する許可が出たのだった。

 僕は母に

「疲れちゃったんだよ」

 と泣きながら言っていた。

 能楽を始めてから初めて言う家族への本音だった。

 僕はそれから二ヶ月後退院した。

 人生の中で最も無益で徒労な日々だった──絶望に包まれた日々ではあったがいつか本になるなら価値があったと苦しくも言える日が来るという一縷の望みを今は持っている──と疲れ切った僕は悲嘆していた。

それから僕は国立能楽堂の支配人である浦島さんに

「ありがとうございました」

 と能楽の研修生を辞める意思を伝えて笛や教科書などの道具を返した。

謡本三冊と国立能楽堂の釈迦の紋章の入った帛紗は貰っていいと言うことなのでいただいた。

「いつか能楽の本を書きます」

 とその当時の僕を知っている誰から見ても現実離れした事を言って国立能楽堂を後にした。

 その一年後藤田六郎兵衛先生が亡くなった。

 僕は藤田六郎兵衛先生の通夜に参加する為愛知県名古屋市の某祭事場でお焼香の列に並んでいた。

 後ろから

「城崎君」

 と声を掛けられて振り向くとそこには高杉さんがいた。

 彼は髪を伸ばし後ろで結んだ格好で喪服用のスーツに身を包み黒いネクタイを締めていた。

 僕が

「その節は......」

 と言いかけると

「この笛の音は録音でもして残しておきたいな」

 と高杉さんは呟いた。

 お坊さんがお経を読んだ後

「南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏」

 と唱え始め一通り読経が終わると順番に百五十人程度が焼香し能楽師を代表して山階彌右衛門先生の兄で観世宗家当主の観世清和先生が追悼文を読んだ。

 そして観世銕之丞先生など故人と所縁の深い猿楽師が五人ほど並んで『卒塔婆小町』の謡を謡った。

 ──これに就けても後の世を願ふぞ真なりける、砂を塔と重ねて黄金の膚こまやかに、花を仏に手向けつつ、悟りの道に入らうよ、悟りの道に入らうよ。......   

 通夜に参列したのはほとんどが能楽関係者だけだった。

 最後に奥様が喪主として先生が自宅で苦しみを訴え血を吐いて倒れたことを克明に語る挨拶をして藤田六郎兵衛先生の通夜は終わった。

 しめやかな厳粛さ漂う式だったので僕は緊張で歯がカタカタと震え身体もガチガチに強張った。

 会場の外で山階彌右衛門先生にお会いしたので挨拶した。

「お元気ですか」

 と山階彌右衛門先生は良く通る声でゆっくりとした口ぶりで言う。

 僕は

「元気にしてます」

 と簡単に答える。

「今日の通夜はどうやって知ったんですか」

 と山階彌右衛門先生は聞くので

「三園さんから連絡を貰いました」

 と僕は言う。

「まだ繋がりがあるのですね」

 と山階彌右衛門先生は嬉しそうに言う。

 僕は咄嗟に

「萩野さんと漆原さんは元気ですか」

 と聞く。

「もうすぐ初舞台ですよ。観に行ってあげて下さい」

 と山階彌右衛門先生はにべも無く述べる。

 僕は

「途中で挫折してしまい申し訳ありませんでした」

 と謝罪の言葉を述べる。

「大丈夫。人生は山あり谷ありですから。人間万事塞翁が馬と思うことです」

 と山階彌右衛門先生はニコニコと笑みをこぼしながら言う。

 山階彌右衛門先生は

「また能楽の世界に戻って来て下さい。約束ですよ」

 と言い思い切り僕の手を握って車に乗り込む。

 トヨタの黒いクラウンだった。

 山階彌右衛門先生のすぐ後ろからボルサリーノのハットを被った男の能楽師が傘を差していた。

 彼は傘を畳むと黒いポルシェに乗り込み車を発進させた。

 風格があり威圧感がある見た目だった。

 僕は二泊三日の予定で名古屋に泊まっていたので通夜の後ホテルに戻ると城や庭園など名物を見て回った。

 名古屋城や徳川園を観て江戸の風情を感じたが少し艶かしい感覚があり藤田六郎兵衛先生と山階彌右衛門先生の顔が交互に頭の中を駆け巡った。

 誰にも壊すことのできない能が好きで好きで仕方ないという感覚──全てが終わったという虚脱感が僕の胸の奥に迫ってきて耐えられなくなり僕は青い袋に入った液体状の頓服薬を飲んだ。

 泊まっていたホテルの部屋に戻ると僕はノートを取り出して椅子に座り机の上に広げボールペンで書き込む。

「僕の夢が終わった。

 どうやら本物の能楽師にはなれそうも無い。

 山階彌右衛門先生が言っていたように人生は山あり谷ありなのかもしれない。

 僕は今どこにいるだろうか。

 山だろうか、谷だろうか。

 地獄のような日常の風景を天上の世界のような素晴らしいものに変えるためには、特別な能力がない限り自分の力だけでは到底出来ないかもしれない。

 僕は何かに頼ることなく自分の実力だけで上り詰めたい。

 小説を書くのも良いかもしれない。

 詩を書くのも良いかもしれない。

 僕には文学しか残されていない。

一五センチの画面の中で文字を紡ぎ言葉にすることしかできない。

 人に笑われても踏み躙られても無視されても僕は文学の道を歩み続けよう。

 今日は所沢に帰る日。

 この三日間で見た風景は絶対忘れないでおこう。

 いつか作品として世に発表しよう。

 そのために名古屋へ来たのだろう。

 能楽を通じて吸収したものや得た力などの文学の根幹を世の中へ発表したい。

 そしていつか能楽の脚本を書きたい。

 能楽の求道者になって天下泰平・国土安穏を現実のものにする。

 能楽とはなにか追求する人間に成る。

 人間万事塞翁が馬を自分のモットーにする。

 僕の夢は今も変わらず能楽師に成ることだ。

 半年ちょっとしか能楽の世界にいなかったが僕は自分の骨髄を形成するものこそ能楽だと思っている。

 これからもメタファーではなく能楽師を生業として生きていきたいし能楽を追求していきたい。

 この二年間で僕は究極の能楽を学んだ。

 それは「口伝は師匠、稽古は花鳥風月」、「秘すれば花」などに代表される能楽の基本原理である。

 これを小説に応用して新しい作品が書けないかと思った。

 岩倉具視が国芸にしようとして失敗した能楽を永遠に繁栄する芸術にするために小説を書こう。

 そう思った。

 今日は能楽師としての終点であり新たな出発の日だ。

 後一時間で名古屋を出る。

 今日は僕の再出発のための記念日だ」

 そう書いてノートを閉じた。

 僕は部屋の中を見渡す。

 テレビ、ベッド、ティッシュ箱、スーツケースなどが目に付く。

 僕はおもむろにテレビを点ける。

 東京都選出の衆議院議員が区の職員や業者に賄賂を渡した容疑で逮捕されたと言うニュースが報道されている。

スーツ姿のキャスターが驚いた様子で喋り続ける。

 弁護士や医師の資格を持つ数人のコメンテーターが最もらしい言説を述べる。

 僕は馬鹿馬鹿しくなってテレビを消す。

 そしてベッドで横に成ると涙が溢れて来た。

 自分の過去が蘇って来て悲しくなったのだ。

 藤田六郎兵衛先生と過ごした日々が懐かしく思い返される。

 僕の吹いた笛から少しでも音が鳴るまで指導してくれたこと、彼が稽古場で朝から晩まで笛を吹き続けていたこと、能楽の本を紹介してくれたこと。   

 通夜での観世清和さんの言葉、能楽師たちによる『卒塔婆小町』、最後の奥様のご挨拶、全てが絡まり合って永劫回帰のようになり襲って来る。

 頭の中を整理しようと思っても元気な時の藤田六郎兵衛先生と先生が亡くなったと言う事実が上手く飲み込めなくて慟哭した。

 この号泣は人生最後であろう漢泣きであったから誰であっても見せることはできない。

 自衛隊の市ヶ谷駐屯地で割腹自殺した三島由紀夫さんの最後の演説を思い出す。

「——男一匹が、命をかけて諸君に訴えてるんだぞ。いいか。いいか。それがだ、いま日本人がだ、ここでもって起ち上がらなければ、自衛隊が起ち上がらなきゃ、憲法改正ってものはないんだよ。諸君は永久にだねえ、ただのアメリカの軍隊になってしまうんだよ──諸君は武士だろう。諸君は武士だろう。武士ならば、自分を否定する憲法を、どうして守るんだ。どうして自分の否定する憲法のため、自分らを否定する憲法というものにペコペコするんだ。これがある限り、諸君てものは永久に救われんのだぞ。諸君は永久にだね、今の政治的謀略に、諸君が合憲かのごとく装っているが、自衛隊は違憲なんだよ。自衛隊は違憲なんだ。......憲法というものは、ついに自衛隊というものは憲法を守る軍隊になったのだといことに、どうして気がつかんのだ!どうしてそこに気がつかんのだ!どうしてそこに縛られて気がつかんのだ!俺は諸君がそれを起つ日を、待ちに待っていたんだ。諸君はその中でも、ただ小さい根性ばっかりに惑わされて、本当に日本のために起ち上がるという気はないんだ──』

 僕は男として藤田六郎兵衛先生の人生の一部始終を見ていた。

 能楽に命を賭けて血を吐いて亡くなった。

その姿を尊く思うし誇らしい。

 藤田六郎兵衛先生は自分自身で磨き抜いた能楽の魂とも言うべき精神を持っていると僕は思った。

 あの西洋のボレロの様な笛の音色は幾ら頑張っても他の能楽師には真似できないだろう。

 能オペラの様な新しい試みも積極的にとりいれて新しい風を能楽の世界に吹き込もうとした。

 能楽に生き能楽に死んだまさに〈殉職〉と言う言葉が正しいくらい美しいまでに壮絶な絶命のプロセスだった。

 僕は藤田六郎兵衛先生を心から尊敬する。

 彼ほど笛を愛した人は世界中探してもいないだろう。

 僕は能楽を通じて日本人の魂を教わった気がする。

 礼儀作法や所作だけでなく日本人として生きる事とはという美しい伝統文化の根本的な根塊を教わった。

 能楽師に成れる人はごくわずかだし僕も挫折した一人だ。

能楽の舞台を三〇本近く国立能楽堂の研修生として観られたのは何よりも増してとても良い機会だった。

何年経っても何か心に残っているものがあるはずだ。

 それから五時間後僕はバスタ新宿にいた。

 名古屋と比べて東京の空気は不味いけれどやはりここは僕たちのような世間や社会からのはぐれものの街だと思う。

 明日から能楽ではなくなにをすれば良いのかと考えて絶望的な気持ちになり    

 僕はビルの狭間で途方に暮れた。

 東京の空に夕陽が落ちて僕の能楽師としての人生は終わった。


引用: 見城徹『読書という荒野』


第六章 夢幻


 僕は疲れ切っていたのか珍しく午後に目が覚めた。

 冷蔵庫にあるビアソーセージと卵二つを取り出す。

 まずビアソーセージを焼き少し焦げ目が付いてきたらフライパンの上で殻が入ることの無いようにして卵を割る。

冷凍庫から昨日炊いたご飯の残りを取り出して四分間電子レンジで加熱する。

その間に軽く火が通って焼き上がったビアソーセージと半熟の目玉焼きをお皿に盛り付ける。

  二分後電子レンジの音が鳴りご飯が温まったのでお茶碗に盛り箸とケチャップを用意する。

  僕は一人きりの食卓で朝ごはんを食べようとして、その前に「いただきます」と手を合わせて呟く。

ケチャップを掛けたビアソーセージを口に運び音を立てて何度も噛む。

 咀嚼する毎に幸福な味が脳を刺激する。

 それから卵の黄身を割りドロっとした液体がお皿に充満したのを見てからゆっくりと箸を使い口まで持ってきて味わう。

そしてその勢いのまま美しい茶碗の楕円が現れて来るのを見ながらご飯を食べ進める。

完食まで十分もかからなかった。

僕は食事がルーティーンワークにならないように気をつけている。

食こそが身体を育むもので、健康を培うものだ、という信念があるからだ。

僕は朝食を食べ終わるとティッシュペーパーで口を拭い「ごちそうさまでした」と呟く。

人に見られていなくても「いただきます」と「ごちそうさまでした」は言うようにしている。

昔から無意識のうちに養われてきた教育と習慣から僕は逃れることができないでいたし、ご飯の前の挨拶は僕を慣習の奴隷とする決定的な要素の一つで、僕は自分を構成するジンクスやおまじないの一つ一つに時々辟易して仕方ない事がある。

日本で生きている間、朝起きて「おはよう」から夜寝る時の「おやすみ」まで   

 二十四時間言葉の魔法に閉じ込められて生活している。

 たとえばなぜ現代の文章の基本フォーマットは「横書き」なのだろう。

 何故かは分からないが街の看板やテレビ、パソコンの画面、日常目にする物は「本」、「葉書」、「新聞」、「幟」などの少数のものだけが「縦書き」なこと以外は「横書き」が日本を支配している。

 普通のことなのに僕は違和感を感じるが僕はそれをそのまま放置して日本語が壊れていくさまを傍観しているしかないし言葉の基本形態を変えるだけの政治的な権力がない。

 平安時代の風俗を再現したテレビ・ドラマを観ると皆「縦書き」で手紙の文字を書いているから伝統的には日本は「縦書き」文化なのだと思うが西洋化の影響か「横書き」が主流になったようだ。

 精神的な影響はまだ分からないもののスマートフォンで「横書き」に慣れた子供に原稿用紙は窮屈に思えるかもしれない。

 それでも私達日本人は西洋を始めとするグローバル化の波に抗うことができない。

 日々大量に入って来る「横書き」の情報に慣れ切って飼い慣らされた日本人は本来の「縦書き」文化を取り戻すことはできないだろう。

 これから生まれて来る小説などの文学もペーパーバックの様な「横書き」で気軽に読める物が主流になっていくのでは無いか。

 それでも本は「縦書き」に限ると言う信条を貫き通したいがそんなデビュー前の小説家の戯言は誰も聞くことがないし他人の前で演説したとしても狂人扱いされるだけだ。

 だから僕は胸の内に言葉を秘める我慢強さを持っている。

 そして僕はそんな泡沫に消えていく疑問を頭から捨て去ってノートを開き自己分析を始める。

 問いに対して答えを重ねていく。

 構造化してメモを取るように心がける。

 最初は速度が遅いが少しずつ早く問題に答えられるようになっていく。

 答えのない問いに対して十分な答えを探す。

 その間テレビはずっとつけっぱなしにしておく。

 コマーシャルが延々と流れている。

「次のステップへ」、「今この瞬間変わる」、「究極の効き目」、「学びのアップデート」、「超美白化粧水」、と言ったさまざまな刺激に満ちたキーフレーズが耳に飛び込んでくる。

 朝のテレビ番組はニュースだけでなくエンタメを重要視して報道している。

 アイドルのキラキラした日常の風景が三〇秒ほどにまとめられたと思ったらマスコット化したキャラクターのアニメがテレビ画面に出てきて

「睡眠不足は敵だ。毎日体調整えろ。精神状態気をつけろ」

 と可愛い系アニメのヒーローが言っている。

 シュールなアニメだ。

 僕は今日から就活を始めることにした。

 能楽の世界から足を洗って一般企業に就職することにした。

自己分析を一〇問解き終わると僕はノートを閉じ歯を磨き白いワイシャツを着てネクタイを締めジャケットとコートを着た。

 そしてヘアワックスと櫛で髪の毛を七三分けにする。

 日本最大手の洋服の会社の面接を御徒町で受けることになっている。

 テレビにはイタリアのブランドのアンバサダーに日本人として初めて就任したアイドルが映っている。

 自分の着ている衣装を

「職人さんを大事にするこのブランドらしいコーデ」 

 と言っている。

 三歳も年下なのに言うことが大人だ。 

 そのニュースを見た後祈る様にテレビを消して黒いヘビーユーズドのバッグを持ちローファーを履き玄関を出て鍵を閉める。

 外の風は厳しい社会に出る僕を祝福し歓迎する様に冷たい。

 僕は徒歩で駅まで歩いている。

 今の僕には何の目的もなくビジョンもあらず自分を否定し続けている。

 もしも大学を卒業して皆と一緒にレールに乗り就職していたとしたらこんな苦しみとは無縁だったのだろうか。

 大学に入学した時から現在までの間他人と自分を成績や容姿で比べて落ち込んでいなければこれ程までに堕落したかのような気分になり自己卑下することもなかったのか。

 決してそうではないと思うし他人と比べて自分は劣っていないし過去に対する「たられば」で将来は決められないと答える「両肩に乗った天使と悪魔」が問答し議論を重ね合う。

 能楽も自分がやりたくてやったことだし、その間に学んだことは何かの形で未来の自分の役に立つはずだ。

 今すぐに開花する事はなくとも十年後二十年後に花開いて将来への糧になっているかもしれない。

 未来のことは神様ですら分からないし運命論だけで一生を決めることは出来ない。

 自分は神でも、仙人でも、ましてや仏でも、無い。

 ただの普通に生きる市民だし、何の特別な能力もなく凡夫として日々を過ごしているだけだ。

 聖者の行進ではないが、「歩きながら考える」内に駅に着いた。

 電子カードを取り出して改札にタッチする。

 「ピッ」と音が鳴りあちら側に通り抜けるこの儀式がこの世からあの世に行くみたいで、切符で改札口を通っていた小学生の頃から何故だか無性に好きだ。

 ホームで待っていると電車が来て、上り電車に乗って一時間ほど揺られていると御徒町に着いた。

 面接の時間まで余裕があったので近くの喫茶店でパフェを食べる。

 スーツ姿でパフェを食べるのは違和感があって滑稽だが僕はそれでも好きな物は食べたい質だから問答無用で時間をかけて甘いアイスクリームやクリームを口に運んでいく。

  パフェを食べ始めてから三〇分くらいが経ち面接の時間が迫ってきたのでお絞りで口元を拭き、立ち上がって会計を済ませる。

三角巾を頭に被りエプロンをした女性が忙しそうにお釣りをぶっきらぼうに返してきて、ちょっとムカついた。

僕は洋服屋の四階に行き椅子に座って待っていると、名前を呼ばれたので返事をして面接が始まる。

「何歳」

 と無機質な機械じみた言い方で小さめのスーツを着た背の高い若者に聞かれたのでパッと答えると彼は自分は店長で同じ年齢だと言う。

志望動機を聞かれたので

「サスティナビリティの分野に強いと聞いたので関心を持ちました」

 と答える。

 そして十分間話すと

「君は不合格です」 

 と率直に言われた。

「他にも僕らの店は受けますか」

 と彼が言うので

「はい。明日本店を受けます」

 と言ったら

「お客様目線で服を売れる販売員になりたいです。とだけ言いなさい」

 と言われた。

そしてその店長は私に

「同じ年齢の割に君は顔が若いね」

 と感情のない声で言い

「このアドバイスで多分受かるよ」

 と笑顔で見送ってくれた。

 それから次の日が来て僕は昨日と同じように準備をして家を出た。

 電車の中で呪文の様に

「お客様目線。お客様目線」

 と言い続けた。

杖をついた白髪の髪を結んだ白髭を蓄えているお爺さんが乗ってきたので席を譲った。

 僕の目には彼が仙人のように映った——何故なら彼が袈裟を着ていたから——のは錯覚だろうか。

 そして銀座に着きたくさんのハイブランドが立ち並ぶ中を畏れを抱きつつ歩く。

 目的の服屋の前で手を合わせて祈る。

 また四階に案内され女性の面接官と話す。

 年齢と名前、自己紹介をして志望動機を聞かれたので

「お客様目線で接客してお客様第一で服を売れる店員になりたいからです」

 と台本通りに答えた。

すると女性は感心したように

「何故そう思ったか」

 と深掘りして聞いてきたので

「自分もお客様としてこの店に来て接遇に感動したからです」

 と答えたら後日メールで合否を伝えますと彼女は言った。

 僕は受かった手応えがあったから歩行者天国の真ん中に立って一人きりでティファニーで朝食を食べながらピースした。

 三日後合格通知がメールで届き契約に必要な書類は郵送すると書いてあった。

 さらに一週間後封筒が届いてその中には合格の通知と契約書類が束になって入っていた。

 五日後僕は銀座の店の裏口にスーツ姿で待っていた。

 するとそこに派手な灰色の複雑な模様に染め上げられたKENZOとロゴマークの入った服を着た歌舞伎役者の様な端正な顔立ちの美少年が「甲賀多です」

 と言って挨拶して来た。

「これが銀座か」

 と言葉には出さないものの僕は第一インパクトを受けた。

 その後顔に痣のある平間という男が来て蓮見という女性も来た。

 するとそこに甲高い声のフェザーのピアスをつけたとても良い香りのパルファンの匂いのする全身黒のセットアップを着た女性が来て

「コンシェルジュの有田です」

 と笑顔で言った。

 私は胸を射抜かれ人生で初めて一目惚れした。

 有田さんは僕の思い描いていた通りの理想の女性だったので終始ドキドキが止まらなくてこの水曜日は絶対忘れない一日になる予感がしていた。

 それが二つ目のインパクトだった。

 有田さんは動画を見せた後で

「デムナワールドにリトルグリーンメンのボールペンをつけているスタッフがいたんですよ。雰囲気ブチ壊しているじゃないですか。デムナワールドではデムナワールドのキャラクターのボールペンでお願いしますって言いたかったわ。そういう世界観ブチ壊す店員になったらダメですよ」

 と言っていた。

「あとカフェオレっていうマッチングアプリ——カフェオレは感染者がそばにいる事を知らせるアプリのことだ——は入れておいてね」

 と冗談めかして言っていた。

 それからの仕事はハードだった。

 僕はロジスタッフとして採用されたので、荷受けした商品を袋から取り出す作業や、ティーシャツを畳む作業など基本的なところから商品のチェック、バーコードの読み取り、カセットの入れ替え、徹底した掃除・ゴミ出し、など店の開くまでの間のありとあらゆることを行なった。

 大雨の日ロジスタッフの面々は商品のスキャンやボーッと突っ立っているだけの人々が散見され僕だけがビショビショになった。

 そのことをロッカールームで有田さんに訴えると僕は販売スタッフに異動する事になった。

 その頃デザイナーとの大型コラボが一一年振りに始まったので店の外には行列が出来ていた。

 その日はオープンしてから記憶がないほど大忙しだった。

 レジ打ちやプレゼント用の梱包、品出し、ティーシャツやハンガーラックの整理など数えきれないくらいありとあらゆることを超スピードで行なった。

 他の洋服会社や広告代理店などから視察の様なことやスパイの様なことなどを行なっている人達もいて一列全部買い占めたりフィッティングルームに何度も出入りしている怪しい客もいた。

 秘密を聞き出そうと根掘り葉掘り質問してくる人もいた。

 こちらとしては特に秘密はないし同じお客様なので差別はしなかったがしつこい客や変な客は代わる代わる来た。

 忙しいとはこういうことを言うんだと初めてわかる良い経験だった。

 能楽の世界で無くても人生の修行ができるような気がした。

 僕が長澤店長に頼まれて倉庫で今日コラボコーナーで展開する服を畳んでいると有田さんが来て濡れてしまった展示品を乾かしに来た。

 僕は彼女に「頑張ってください」と小さいメモに書いたラブレターを展示品に貼りつけて贈った。

 彼女からの返答はなにも無く僕は一ヶ月後郵便局の場所を聞くといつも通り元気な声で、

「下降りて、従業員出入り口から出て右に曲がると、郵便局!」

 と可愛い声で教えてくれた。

 彼女は

「宮沢りえのような美しい声で」

 と長澤店長に頼まれて店内アナウンスもしていて店内に響き渡る彼女のその声に僕はお店で働きながら内心キュンキュンキュンキュンしていた。

その頃『花束みたいな恋をした』という映画が公開されていて僕は休憩室で

「菅田将暉と有村架純みたいな恋したいな」

 と同僚の筑後君に言っていた。

 その映画と同じみたいに日記のようになっている僕の文章だけどこれは全部が全部本当のことなんだと今になって改めて振り返ると確信して深く彼女との思い出を探して森の中をクルクルクルクル回り続ける。

 その最中有田さんが結婚すると言うニュースを彼女と同じコンシェルジュのはかせ先輩が僕に言ってきた。

 パンダと言う不動産会社勤務の同い年の青年と結婚するそうだ。

 同僚のパーマでメガネの松平さんから

「失恋だよ。失恋」

 と肩を叩かれた。

 その頃ICUに通う十八歳の女の子が店に入社した。

 その子とは新しいコラボのイベントの後インスタグラムを通じてやりとりするようになり夜中の三時頃返信が来て朝の出勤前に返事を返すと言うルーティーンがあった。

 たまに寝不足になりながら僕は新しい恋を見つけようとしていた。

 しかし突然ブロックされて僕の恋は散っていった。

 そのくらいからまた体調が悪くなり病院で薬を増やしてもらったが被毒妄想に取り憑かれて新しい薬を身体に合わないと決めつけてまた入院することになり会社を辞めた。

 一年間のうちに三度入院し家族によると病院に支払ったのは総額二〇〇万円くらいになったそうだ。

  高額医療の申請をしなかったら家計はメチャクチャになっていただろう。

それから二年くらいが経ち二〇二四年になり僕は十年間の戦いを終えようとしている。

 僕は法律家にも能楽師にも洋服屋にも小説家にもなれず青年期を終えた。

 この短い文章を書くことによって人生にピリオドをつけようとしている。

 二〇二四年の初め僕に糸と言う甥が生まれた。

 彼が小学生になる頃にはもう少し立派な姿を見せられるようになっていたい。

 僕は甥が生まれた時そう思った。

 糸が生まれた日僕は車の中で『長男の一番長い日』をお父さんと聴いて感極まっていた。

 僕にとっての初めての甥に嬉しさと悲しさがないまぜな気持ちでいるが今の淡い気持ちとしてはおじとして彼の家族が幸せであればいいと思っている。


第七章 終点


 二〇二四年年二月二日。

 僕はマクドナルドで薄いコーヒーを飲みながらこの文章を書いている。

 今の僕はだいごみ渋谷と言う就労移行支援施設で訓練を受けている。

 この一ヶ月間贅沢を慎み創作と就労訓練に身を費やして来た。

 外国人の店員のハキハキした声がする。

 過去を省みると渋谷にいる現在の自分の生活を時々不思議に思う。

 作家を目指していたはずなのに何者にも成らずただ漫然と生きて束の間に文章を書き綴っている人間が僕だ。

 後三〇分したらここを出なくてはならない。

 残された時間はもしかしたら三〇分もないかもしれない。

その程度の時間で書ける文章などたかが知れている。

この日記のような作品を文學界新人賞に応募する為にはもう少し工夫が必要だろう。

まず完全なフィクションとしてこの作品を立ち上げて再構築しなくてはならない。

本名を仮名に実在の場所を架空の名前に登場人物を絞り時系列など分かりにくいところは多くの人にとって分かりやすく変えていかなければならない。

国際的な評価を受けるためにはさらに能楽や日本の風俗に気を配り社会問題を入れ込むのも手だろう。

そんな徒労な作品のことを考えていたら心まで憂鬱になってきた。

マクドナルドでダブルチーズバーガーとナゲットを食べた。

  マクドナルドを架空の名前にするにはどうしたらいいか考えるが浮かばないのでそのままこれは書くことにする。

既存の作家はこのような作品をフィクションにするためのハードルを全員クリアしているとなるとゾッとする。

「自分はデビューできないんじゃないか」

「自分の書いている作品は価値がないんじゃないか」

 などの疑問が書いているうちに絶えず泡のように浮かんでくる。

 それを相談する相手もいない。

 実は無意識のうちに小説を書いている僕自身が舞台の上で踊らされている一介の稚拙な謡を弄する能楽師なのではないだろうか。

 ピエロと言う言葉では足りない。

 能楽師、そう、僕はこの一〇年間で「人生の能楽師」になったのだ。

 自分の人生をでっち上げて新しく解釈し直して小説にする。

 もう少しでだいごみでの訓練が始まるから外に出なくてはならない。

 僕の脳味噌は小説モードから社会人モードに切り替わる。

 今日はしっかり訓練を受ける。

 そこまで適当な自己分析をしたら三〇分が経ち時間が来た。

 これからの未来に不安しかない。

 小説家になれる気はさらさらしない。

 薄いコーヒーを飲み干して渋谷の街に出る。

 少しだけ社会に期待しながら冷たい風をただ浴びる。

 ちょっと最初の入院の時が懐かしく思える。

 渋谷川沿いを歩いているとスケボー少年が横を通り過ぎキッチンカーでムーチョが流れる。

 これが今の現実で人生のなれの果てだった。

 

第八章 真実


 訓練の帰り道また別のスケボー少年と同じ場所ですれ違った。

 スケートボードを街で乗りこなす姿はとても美しく降りた時に見せるあどけない表情などは男の僕ですらシンパシーを感じカッコいいなと思ってしまう。

 今日就労訓練の人に言われたのは、

「あなたはどう言う働き方をしたいのか全く見えてこない」

 と言うことだ。

「午後の二時間半で週二とか三とかしか来ないから本気で働く気はあるのかなとか、週二時間半のバイトをやる為にここに来ているのかなと思ってしまう」

 と言われた。

 正直「支援員」の指摘は当たっている。

 僕はできる限り働きたくないのだ。

 しかし彼女は

「生計を立てて結婚や子供が生まれることまで考えて、その場合大黒柱として一家を支えていかなければならない立場にあるあなたは本当に働く気があるのか」

 と優しい口調だが問いただされ二九歳の成人男性に向けられる当たり前の人生観を突きつけてやはり僕も根を詰めて一生懸命働かなくてはならないのかなと思い始めている。

 作家になって印税で生活すると言うのは夢のまた夢で今のままでは自立どころか食費すらまともに稼げない。

 「男性」とか「女性」とか今まで意識したことがなく中途半端にジェンダーを無視して来て二九歳になったが甥ができて文字通り「叔父さん」になった僕は「男性」は子供を産めない代わりに社会に出て子育ての資金を稼がなければならない存在なのだと初めて意識することになった——差別的な表現だと炎上するかもしれないが現実だ——し「支援員」と立派な肩書をつけた彼女の言葉はジェンダー平等の観点からは時代錯誤な言い方かもしれないとも思ってしまう──男性でも働いてない主夫はいるし、燃えてもいいから訴えたいのだが、正論で煽る人の知能指数は往往にして低い事が多い──男性=働くものと言うのは簡単な図式にしがちで働きたくても働けない人はたくさんいることを考慮に入れてない時点で馬鹿だ。

 しかしそうは言いつつも特に最近「自分が男性なのだ」と言うことを意識せざるを得ない変化が出てきた。

 頭皮が脂っぽくなりフケが出て痒くなったり、咳がむせるような際に「男男性」的な声が出たり、骨がガッチリして筋肉がつきやすくなったり、精神だけでなく身体もマッチョになってきて、流行りものにも鈍感になり韓国アイドルの顔の判別が全くできなくなったりした。

 先般芥川龍之介賞と直木三十五賞の受賞作品発表があった。

 芥川龍之介賞は九段理江さんの『東京都同情塔』だった。

 犯罪者の属性を再定義して東京の真ん中に彼らの幸福な収容施設を建てる計画を建築家の牧名や彼の恋人などの視点から描く作品で生成AIという最新技術を駆使して執筆されたそうだ。

「これからの小説は人間が書くものではなくなる」

 と言うことを暗示しているようにも観えたが逆に「人間にしかできない表現」を考えるきっかけになる作品だった。

 日本に小説が生まれてから約数千年で文学は娯楽から芸術へそして商品になった。

 人間の創作は徐々に緻密に巧妙にAIを超える脳の発達により激情的に進化している。

 アンディウォーホルが予言したように「将来、誰でも15分間は世界的な有名人になれるだろう」

 との言葉も真実に感じる。

 逆に有名になろうとして承認欲求が爆発しそうになっているとも感じる。

 いずれにせよ夏目漱石さんや森鴎外さんなどの明治の作家は——日本語が進化していく過程を見ていたのかそれとも日本語が破壊されていく過程を見ていたのかそれとも——真実の含まれた「何かの実相」を見ていたのかもしれない。

ユートピア、ディストピアと言う議論があるけれど僕にはどちらでも良くて「今」と言う現実の問題が解決できればそれだけで満足できてしまうのだがそれ以上のものを本能が求めている。

 「仏の悟り」とか「神の啓示」とかそんなものも僕にとってはどうでも良くて幸福が見つかるはずだと祈るのは本当だったら必要のない虚構に満ちた自己過信で、幸福になりたければ何も信じなければ良いし、幸福を求めなければ現状を受け入れて現実的な安心安全が手に入る。

 自民党の目指している新しい資本主義も、国民の「自助、共助、公助」に基づいたもので安倍政権のアベノミクスの頃からほとんど変化しておらず、菅政権で自民党の目指している政治が明白になり岸田政権で憲法改正の論議もできるようになり体制が盤石になった。

 安倍晋三元首相が山上徹也氏の凶弾に倒れた事件も日本を逆説的に前進させたのかもしれない——僕にはこのこと件が複雑すぎて理解が追いついていない——が一つ言えることは「日本が変化しようとしている」と、言う事だ。

 僕の人生は日本国民としてあって象徴天皇制と今の憲法の元で生きていると思っていて、憲法改正には反対ではないが今の時代だったら一緒に皇室典範も改正して女性天皇を認めるべきではないかとは思うし——反発が強い主張なのは間違いないけれど本気でそう思う──歴史的に女性天皇がいなかったわけではない。

 小説は自分の考えをまとめるためには有効な手立てで自分自身読むのも好きだが僕はこの病気——とても複雑で治しにくい病、ONE OK ROCKのアルバムのタイトル『Luxury Disease』のような資本主義が生み出した病——を寛解させて車の免許や大学復帰など今までできなかったことをもう一度やり遂げて日本や世界のために働きたいと思っている。

 今の日本は力を失っているし国際的にも弱い国家になろうとしている。

 戦争で負けて復興した時のようにもう一度手を携えて世界に伍する経済、文化そして政治を立て直すときではないか。

 僕は渋谷から電車に乗り家に帰ってきて北海道産のほっけを食べて骨以外全部平らげた。

 ただ単純にほっけは美味しかった。

 日本には美味しい食事が多くあり僕がもしも英語ができたとしても外の国へ出て行きたいと思わない理由の一つだ──日常的に薬を三回摂取しているので時差があるから外国にはいけないのだが将来的には世界に雄飛したいと思っている。

 世界から見れば日本は恵まれているのに国民の幸福度が低いのは何故だろうか。

もっと大人が楽しそうに働く必要があるのではないか。

 政治家も医者も弁護士も博士も日本にはたくさんいるが活かしきれていない。

 僕のようなな権力や名声のない人間は日本では尊敬されない。

 服屋にいた時「尊敬尊敬」と言っていたインド人の二キル君は私を認めてくれた。

 インドが経済的に伸びている理由はお互いを敬い合う精神が根付いているからでは無いか。

 今の日本は死んだ国家のようで心の貧困国家になっている気がしてならない。

 小説とはこの様な個人的な主張を述べる場所では無いのは重々承知の上であるが私は世に問いたい事が沢山あるから言わせてもらう。

「あなた」も若者であるならば自分の中のポリシーやポリティカルな意見もあるはずだ。

「あなた」は良い大学に行って良い職業に就こうとしている。

あるいは「あなた」は夢破れてこの本を読んでいる。

いずれにせよ"あなた"は知識や知恵のない人間ではない──知識や知恵がない人間でもこの本は読めるものの──が確かに人生で迷っていることだろう。

 僕は緒方貞子さんに会い質問を幾つかぶつけた後彼女は「社会科学の方法論を大学で極めなさい」と言った。

 この言葉の意味はリサーチの方法論や研究手法を勉強しなさいと言う事ではなく社会の現場に立って一人一人の人間の声を聞きなさいと言う意味だと思う。

 もう緒方貞子さんのような時代を動かす知の巨人はもうこの世界にはいないが「不安定の中の安定」のようにニーチェの『ツァラトストラ』が如くバランスをとりながら綱渡りする状態の道化師となって、僕は世を渡り歩いてきた。

 そしてこの小説を書いた。

 僕は小説を書きながら社会科学の方法論を勉強してきたように感じる。

 ずっと前書きのようにも後書きのようにも見える文章を書き綴っていてそこはかとない空虚感を感じるし冷たい諸行無常を持ち続けている社会の空気を感じる。

 日本のために書いているつもりが世界に向けて書いている。

 物語を綴ることは特権的な営為であって食うや食わずの人々や難民にはできないしわざだ。

 iPhoneで様々な言葉を書き綴りながら小説はもっと自由で良いのでは無いかと思うようになった。

 物語──ストーリーやナラティブ──だけでなく人生の哲学をエッセイのような言葉によって語る表現も小説の役割なのではないかと直観として今では思う。

 小説は文字通り個人の説明である。

 それがここまで肥大化して賞を作り人間の精神を蝕むようにになった。

 作る人も読む人も心を病んでいる。

 誰かから貰った借り物の言葉に満足している。

 僕は自分の言葉を勝ち得たかった。

 麻痺して腐って正義から逃げて四角い箱の中で閉じこもる人間になりたく無かった。

 人は個人個人が正義を持っている。

 その衝突が戦争を生み出す。

 短いセンテンスで分かりやすい言葉を述べる政治家が溢れかえった世界でこの文章を生身の肉体を持った僕の分身はAIを使うことなく前頭葉をフル活用して文学を書いている。

 正義とは即決で語るものではなく時間をかけて自分自身で五十枚百枚の原稿用紙を埋めていって初めて気がつくものだと知った。

 僕は人間は何も分かりえないと言うことを小説を書いて教わった。

 これからを生きる人間は厳しい競争に晒される代わりに無秩序な自由の中で生きる権利を与えられている。

 小説を読むも良し、映画を観るも良し、テレビを観るも良し、音楽を聞くも良し、英語をやるも良し、外国に住むも良し、と何でもできる。

 お金も稼ごうと思えば幾らでも稼げる。

 余剰は社会福祉に使っても良いし、自分の生活を豊かにする為に使っても良い。

 僕は小説家に成れなかったら洋服屋さんになりたい。

 そして将来自分のブティックを持ってポエムを書いて暮らしたい。

 今僕には詩心があるような気分でいる。

あとがき 獅子心王


 僕は埼玉西武ライオンズ対福岡ソフトバンクホークスの試合を観ている。

 九回に点を決めることができず埼玉西武ライオンズは負ける。

 監督はGMが代行を務めている。

 この時の埼玉西武ライオンズはボロボロでライオンキングのムファサのように傷だらけだった。

 まるで僕の一〇年間の闘病を体現するかのように悲惨な負け方を繰り返していた。

 しかし、僕も苦しみながら回復へと向かっている。

 獅子たちが再び荒野に火を放つ時が来ると信じるしかない。

 ファンは飛び続ける。

 ビールがよく売れている。

 最後までファンは帰らない。

 試合が終わった後もまだ獅子の子たちは諦めていない。

 次を見定めている。

 獅子は子を崖から突き落とすという故事に習ったかのような美しい負け方。

 負けるが勝ち。

 有終の美。

 回り続けるレオ。

 そろそろ勝ってくれ。

 願い虚しく負けていく。

 敗残の将。

 この試合で埼玉西武ライオンズは敗れたが僕はこのホーム三連戦の間小説の下書きを書き終えた。

 小説の原点——つまり小さな説明を続けること——に立ち返って今までの国語学習や芸術総合高校で母と受けた小説の講座、かつて名だたる小説家たちが講師として集った夏の文学教室で教わったこと、小説に対する先入観など今までの人生で手垢のついた日本語のあり方を見つめて再構築して「新しい時代の小説」を作ってみようという気持ちがした執筆期間だった。

 それは村上春樹さんが東京ヤクルトスワローズの球場で感じた手のひらに小説家になれるかもしれないという思いが落ちてきたという「エピファニー」のような形而上学的なものではなく実際的でリアリティーがあり手触りできそうな「実感」とも呼べる気持ちだった。

 原稿用紙一五〇枚書ききったということも事実だが、この評論のようなエッセイのような、まるで枕草子や徒然草のような本当に小さな所から出てきた「小説」が来年の文學界新人賞をとるという奇跡に巡り合わせる現実にも僕は逆行せざるを得なかった。

 つまり僕は——文學界新人賞を受賞しない——凡人で終わるだろう。

 かの有名な物理学者アルバート・アインシュタインに例えると一般相対性理論だけでなく特殊相対性理論も僕は完成できずE=mc2という方程式を証明させられないようなものだ。

 僕は今地球で一人文学を綴り謎に満ちた世界を──スティーブ・ジョブズが創造した──iPhone12一台で冒険している。

 醜い身体が錆びて儚く砕け散っても僕はこの生涯を全身全靈で全うするし、黒の中の玄、鴉よりも夜の闇よりも黒いもの、法性の淵底玄宗の極地、そう言う深い所にある真実を掬い出したかった。

 そのような美しい今触っている画面のような「黒の世界」をたらふくこの小説で描けていたら嬉しい。

 最後にこの小説を創る一〇年間で関わった全ての方に謝意を表したい。

 誰か一人欠けてもこの小説を書き上げることは不可能だったろう。

 僕を回復に導いてくれた友人たちには特別の感謝をしている。

 病から回復することがなければこの小説は書けなかったのだからどれだけの賛辞を送っても足りないくらいだ。

 これは統合失調症の闘病記であり、回復日記だ。

 太陽が落ちて行っても眠れない勇者たちへの讃美歌だ。

 この銀河系には一つしかない太陽によっていつか君たちが照らされる日が来ることを願っている。

 タイトルにはかつて国立能楽堂で観た能『賀茂』に登場する神の名前を自分自身の体験と照らし合わせて借用した。

 「恋」と言う尊いものを掴むことができなかった僕は純真無垢な「黒の世界」を生きる。

 この小説がドキュメンタリー映画を観るようにそれぞれの読者の胸の奥で僕の人生を追体験していただけるなら最上の幸いだ。

 


二〇二四年九月九日


重陽の節句に


             木下雄飛





















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