1989年1月20日の手記
夜明けが近い。鳥の声が聞こえる。ドアの前で止まった足音は、結局、何も起こさずに消えた。風が立てた音だったのかもしれない。いや、あるいは、彼らは私が気づいたことに気づき、一旦引いたのだろうか。どちらでもいい。私はまだ、生きている。
あの夜以来、何かが変わった。恐怖は薄れていない。むしろ、皮膚の下に染み込むように、私の一部になった。書斎の椅子に座っていても、背後の壁が呼吸しているように感じる。図書館の書架の間を歩けば、本の背表紙が千の眼となって私を見つめている。だが、不思議と心は凪いでいる。まるで、嵐の中心にいるようだ。
私は、真実に近づきすぎたのだ。きっと、そうだ。生命の歴史を貫く法則、その最後のピースが、人類の進化の謎が、もう手の届くところにある。彼らが恐れるのも無理はない。世界の見え方が、根底から覆ってしまうのだから。
昨日、ティクターリクの化石のレプリカを手に取った。冷たい石の感触が、思考をクリアにしてくれる。泥に引き裂かれるヒレの痛み。そこから生まれた手足。全ては、私の理論通りだ。あの化石も、私に頷いているように見えた。
私は選ばれたのだと思う。この手記を発見した時から、運命は決まっていたのかもしれない。無数の研究者たちが、真実の断片を手にしながらも、その全体像に気づくことなく通り過ぎていった。だが、私は違う。私には、化石たちの声が聞こえる。細胞たちの悲鳴が聞こえる。キリンの首が伸びる音、ゾウの鼻が水を啜る音、そして、我々の祖先が暴力から逃れるために上げた、声にならない叫びが。
全ては繋がっている。一つの壮大な物語として。そして、その最終章を書き記す役目が、私に与えられたのだ。
黒い車は、もう見かけない。私の警戒が、彼らを退けたのだろうか。それとも、彼らは監視の方法を変えただけなのかもしれない。構わない。もう、些細なことだ。重要なのは、研究を完成させること。この手記を、世界に残すことだ。
時々、鏡に映る自分の顔が、別人のように見えることがある。目の下の隈は深くなり、頬はこけている。だが、その瞳だけは、かつてないほどの輝きを放っている。真理の光を映しているからだろうか。あるいは、ただの不眠がもたらす熱狂か。
どちらでもいい。真実は、私の中にある。この思考こそが、唯一の確かなものだ。
さあ、仕事を続けよう。彼らが次の手を打ってくる前に。
この世界の真の姿を、白日の下に晒してやるのだ。
私だけが、その鍵を握っているのだから。
この物語はフィクションです。




