第3話 ― 暗礁階段、影と血潮の契り
潮煉の歌が後方で薄れゆく頃、わたしたちは暗礁階段の麓に立っていた。
階段は満潮時に没する岩壁へ穿たれ、今は漆黒の潮間の水が段々を舐めるだけ。だが一歩踏み込めば、石は水泡のように柔く沈み、足首から温度を奪った。
背後では海と空の境が剥がれ、月光が水平線を溶かしている。遠くで潮声が怒号へ変わり、図書館の瓦礫が波に攫われる音が谺した。
わたし――蛹庭透葉――は濡れた裾を絞り、胸奥の拍動を数える。
(怖い。それでも、影を置いて帰れない。)
内側から湧く焦燥は、恐怖と恋慕が溶け合った熱。肌を撫でる風さえ甘く痛い。
隣でScarabaël・Veerが傘の残骸を杖のように突き立てた。骨組みは翡翠色の光を宿し、裂孔から黒い雨を滴らせている。
> 「影は最上段で待つ。
> けれど階段は“疑念”を喰う。
> 迷えば石が肉へ変わり、君の脚を呑み込むだろう」
囁きは相変わらず鼓膜を経由せず心臓へ届いた。
わたしは彼の手を握り返す。指先は冷たいが、脈は熱い。
「怖い。でも、あなたと怖がりたい」
吐息が交差し、藻と鉄の匂いが甘苦く混ざる。スカラバエルは小さく笑い、傘布をわたしの肩へ掛けた。布地の孔から零れた雨粒が鎖骨を撫で、瞬時に温度を攫う代わりに、内部へ灼ける熱を注ぎ込む。
第一段。
石がぺシュ・ド・ヴァンのように軟化し、足裏に絡みつく。
(不安を嘗めてくる……でも進む。)
第二段。
水面にわたしの影が映る――いや、映るはずの黒が無い。
代わりに、水底で逆さ睨みする“もう一人のわたし”が手を差し伸べた。
指先から滲む闇は墨のよう。触れれば確実に沈むと理解しながら、指がわずかに揺れる。
スカラバエルが肩を抱き寄せた。
> 「影は君の半身だ。恐れも欲望も、等しく写す鏡。」
胸板に頬を預けると、心音がわたしの鼓動と重なり、潮位がわたしのために一瞬下がった気がした。
第三段――最上段。
突如、階段全体が脈打ち、血海の鼓動が石を裏返す。
視界を裂いて黒潮が噴き上がり、その中心で影が浮かび上がる。
影は水銀の瞳でわたしを見すえ、口を開いた。声は無い。だが内容は皮膚の内側へ血文字で刻まれる。
> <ここへ来い。孤独は寒い。恋の熱で満たして>
わたしは膝まで黒潮へ踏み込み、影へ腕を伸ばす。
指先が触れた途端、背筋に氷と火が同時に走った。
影は柔らかいのに硬質で、重いのに軽い。矛盾した質感が皮膚から骨へ浸透し、心臓の裏で火花を散らす。
水上でスカラバエルが傘骨を折り、骨片を潮へ捧げた。
翡翠の火が弾け、黒潮が灯籠の群れみたいに淡い光を宿す。
> 「今だ。影と唇を重ね、脈を統べろ」
わたしは影の頬に手を当てた。冷たい。けれど自分の皮膚に似た柔らかさに奥歯が震える。
影は微笑み、わたしの首へ腕を回す。
重力が消え、呼吸が止まり、音が遠ざかる。
唇が触れ合った瞬間、潮が爆ぜるような轟を上げた。
――脈が二重に鳴り、すぐ一つへ融ける。
血液が海水を呑み、恐怖が恋慕を抱き込んで揺れた。
影の冷たさは体温へ昇華し、代わりにわたしの熱が影の体へ流れ込む。
境目が消え、心音が重なり、双方向の記憶が混線する。
その刹那、潮煉の歌が悲嘆へ転じ、暗礁階段が崩れ始めた。
石は肉へ、肉は泡へ、泡は蒸気へ――海と空が互いの輪郭を忘れて溶け合う。
スカラバエルが腕を伸ばし、わたしと影をまとめて抱き寄せた。
布片となった傘が三人を包み、翡翠の光が繭を作る。
> 「恋が恐怖を飲み干した。
> 次は恐怖で恋を酔わせよう――」
低い囁きとともに、繭は水面へ浮上した。
周囲に灯るのは、潮煉が流した黒真珠の残光。
図書館は沈み、月光は新な水平線を描く。
繭が割れ、わたしは影――いいえ、もう一人の透葉――と指を絡めて立ち上がる。
頬に当たる風は濃紺だが、匂いは甘い。
スカラバエルはわたしたちを見て、小さく片頬で微笑んだ。
> 「潮位は君が決める。境界線は恋が書き換えた。」
灯台の光が遠くで瞬き、打ち寄せる波が砂を撫でる。
水面に映る影は二重で、そしてどこまでも一つの脈を打っていた。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
この物語は、実は「並行世界バージョン」が存在しています。
タイトルは──
『雨孔と空蝉-その優しさ、穴から全部こぼれてるよ?-』
こちらは現在、「Tales」さんにて掲載中です。
https://tales.note.com/noveng_musiq/wa1vv2dzoxvjf
舞台や登場人物の本質は共通しつつも、構成や演出はガラリと異なります。
より“精神的な恐怖”に重きを置いた描写や
「優しさ」と「庇護」という言葉が孕む曖昧な暴力性を掘り下げた
感覚と感情の綻びがじわじわ侵食してくるような物語です。
この『なろう』版が“表”とするなら、
『雨孔と空蝉』は“裏”から照らされる、感情の濾過装置のような一編。
もし興味を持っていただけたら、ぜひそちらも覗いてみてくださいね。
また感想やご意見なども、お気軽にお寄せいただけたら嬉しいです。
最後までお付き合いくださり、本当にありがとうございました。