第2話 ― 潮哭く図書館と嫉声の人魚
鏡面の水が紙障子みたいに破れた先で、わたし――蛹庭透葉――とScarabaël・Veerを迎えたのは、半ば水に沈む古い大理石の建物だった。潮蝕図書館――そう刻まれた銘板は海塩を吸って崩れかけ、文字の輪郭がまだ濡れて光っている。外壁には藤壺と海鞘が貼りつき、滿ち引きの度に吐息を漏らすらしく、近づくだけで藻膠めいた甘い腐臭が鼻を刺した。
「ここは“読み捨てられた恋文”の墓所だ」とスカラバエルは呟く。扉を押し開く指先が、淡く震えた。
内部は腰まで浸水していた。膝下潮と呼ぶらしいこの水は波立たず、冷えた真珠のように無音で照明を弾く。書架は島のように頭を出し、背表紙は羊皮紙製――だがインクは滲まず、代わりに血色を帯びてわたしを睨み返した。どの本にも潮位三桁の年月が朱で記され、その数字が脈動しているのを見て、背筋が氷る。
わたしが手に取った一冊は失潮譚。表紙に蝉翅の鱗粉が貼りつき、触れれば粉より軽く音を立てて剥がれる。開くと現れたのは影を失った測量士の物語――昨日までの自分を鏡写しにしたような主人公が、海図にない深みへ転落する記述だった。
読み進めるほど、頁の文字が水滴に変わり、指腹から脈へ逆流する錯覚に襲われる。わたしの心拍と活字の間で、境界線が溶けた。
突然、足元の水が張り詰め、鏡のような表面に人影が浮かんだ。水中から姿を現したのは、胸元まで銀鱗を纏う少女――潮煉。破れた貝殻を飾った胸当ての下、鼓動が魚鰓のように震えている。
潮煉は水面越しにわたしを見上げ、唇を動かした。声は泡となって砕け、しかし内容は脳髄へ直接届く。
> 「あなたの影を見たわ。暗礁階段でひとり、凍え泣いていた。
> 恋を知らない子どもみたいに」
影――。胸で何かが石の鈴のように鳴り、思わず膝を折る。潮水が腿を撫で、体温を削りながら焦げるような熱を残した。
潮煉はわたしの髪へ指先で触れ、親しみとも嫉妬ともつかぬ眼差しで囁く。
> 「影は孤独に脆い。あなたが疑えば沈む。
> でも信じすぎても溺れる。
> ――その狭間で、わたしの歌を聴いて」
次の瞬間、少女の喉から零れた旋律が水面を震わせた。可聴域を超えた歌は血液の潮位を操作し、心臓が外部の楽器になったように脈を刻む。わたしは痛みと甘さの中で立ち上がり、スカラバエルを振り返る。
彼は傘を掲げて歌を防ごうとしたが、傘布の孔から旋律は零れ、彼の瞳にも灯を点した。淡い苔色の光が虹彩を染め、彼の胸もまたわたしの脈と足並みを揃える。
「影を迎えに行く」――言葉が勝手に息へ転写される。だが同時に、潮煉の指がわたしの裾を掴んだ。
> 「待って。わたしはここに縛られている。出口へは行けない。
> けれど祈りは送れる。紙より脆い祈りの代わりに、歌を託す」
彼女は黒真珠の涙を頬から滑らせ、水へ落とす。それは瞬時に薄青い火花を散らし、波紋が光の道へ変わる。暗礁階段――影のいる場所まで続く光路だ。
スカラバエルが足音を立てず近づき、わたしの手を取った。掌の温度はさっきより高く、鼓動はまだ歌と同期している。
> 「影ばかりか歌まで背負うとは強欲だね」
「測量士は持ち物の座標を確かめたいの」
わたしが微笑むと、彼もわずかに口角を上げる。互いの呼吸が潮霧を揺らし、匂いが混ざり合う瞬間、図書館の天井が悲鳴をあげた。
月光と潮水が滝となり降り注ぐ。書架の本が一斉に開き、頁が羽の群れのように舞い上がる。濡羽色の活字が空中で溶け、雨雲みたいに渦を巻いた。
わたしは本の一頁を掴み、素早く紙舟へ折る。折り目から滲んだインク――いや血液――が紙肌を温めた。紙舟を潮煉へ差し出す。
「ここを抜け出せたら、この舟に乗って」
潮煉は小さく笑い、紙舟を胸に抱く。
それだけで図書館の水は一瞬、春の潮のように甘い香を帯びた。
光の道へ踏み出す。水面が硝子へ凍り、靴音が冷たい鐘を鳴らす。
後ろで潮煉の歌が祈りへ転じ、図書館は静かに沈降を始めた。
わたしとスカラバエルが手を繋ぎ進むたび、光路は暗礁階段へ続くトンネルとなる。水の匂いは次第に鉄錆へ近づき、遠くで波が崖を噛む音がする。
影が待つ場所へ――
恋と恐怖が同じ温度で脈打つ場所へ。
わたしの胸が速まるほど、スカラバエルの歩幅も伸びる。
その背で翡翠の刺繍が蠢き、甲虫の翅が今にも羽化しそうに震えた。
――こうしてわたしたちは、影と血潮の契りを結ぶ舞台、暗礁階段へ向けて海底の回廊を歩き出した。