第1話 ― 水鏡の邂逅と濡れゆく鼓動
干潮時の澱み都は、海底が剥がれた傷口のように軋む。 蛹庭透葉が担当する「〈水位ゼロ〉基準点」は、その傷のど真ん中――珪藻の粉が吹き溜まる干潟――に設定されていた。だが、粉は午後の気温で膨張し、夕刻の潮霧で溶解し、夜半には再び凝固する。 つまりゼロという数値すら、一日に三度は背骨を折るのだ。
測量を終え、錆色のボラードを背に透葉が深呼吸すると、肺に入ったのは潮と鉄と発酵藻が混ざった重い空気。喉がざらつき、舌の裏で微かに甘い。子どもの頃、井戸の底で嗅いだ“濁った冷たさ”がフラッシュバックし、首筋が粟立つ――だが同時に、未知の湿熱が胸骨を押し上げた。
(今日も基準点は逃げ切った。明日はきっと、もっと遠くへ……)
そんな自嘲めいた回想を断ち切ったのは、背後の潮溜まりで跳ねる単音だった。 ぱしゃり。 振り向けば、干潟の最奥に“影”が立っていた。
Scarabaël・Veer――翡翠色の甲殻刺繍を肩口へ滲ませた漆黒のパーカー、濡れた裾からぽたぽたと何か滴るその姿は、灯りのない夜の境界を切り取った切手のよう。
外套の織り目の奥から匂うのは、冷えた甘藻と遠雷の金属臭。 透葉の鼻腔が粟粒みたいに震え、その震えは首すじを下りて心臓の弁を叩く。
彼は無言のまま、掌に持った淡緑の洋傘を傾けた。傘布は茄子紺、骨組みは半透明、雨に濡れた甲虫の翅脈を思わせる有機的な白。手首は微動だにせず、だが傘だけが風に抗うように震えていた。
> 「傘を共有しませんか。
> この街の雨は、恋慕より遅く、恐懼より粘つきますから」
声は囁きより静かで、皮膚越しに直接届く暗号のよう。透葉の鼓動が一拍跳ね、毛細血管が微熱を帯びる。
(共有?) 頭の片隅で用語の定義を検索しようとして、思考が滑った。測量士としての理性が“雨具は個人装備”と警告する一方で、未知の感情が“誰かと同じ天蓋を仮住まいにしたい”と囁く。
指先が傘骨に触れた瞬間、 ぶつっ と心電図のような音が胸の裏で弾け、頬に冷たい破片が当たった。見上げると、雲間から落ちたのは水でも氷でもなく、ガラス質の水銀珠。光を抱えたまま弧を描き、砂に刺さると蒸発して消えた。
スカラバエルが言う。
> 「降り始めじゃない、**予兆**ですよ。
> ほら、頬が震えたでしょう?」
透葉は頷けず、けれど否定もできず、ただ傘の下へ半歩踏み込んだ。
傘布越しに街灯の残光が透過し、二人の影が水面へ写り込む。影同士はくっつき、第三の輪郭を孕んで蠢く。
胸の奥が熱と氷を同時に抱く。 「雨はまだなのに濡れる感覚、嫌いですか?」 とスカラバエル。
「嫌い……でも、あなたとなら」 一度も考えたことのない台詞が自分の唇を強襲した。
直後、傘布に微細な孔が忽ち開き、そこから水銀珠がスローモーションで落ちる。雫は肌に触れると体温を盗み、代わりに甘美な熱を注ぎ込む。頬が冷えるのに、脈は煮え立つ。恐怖なのに怯えない。
透葉は思う―― この傘は庇護ではなく、恋と恐怖を蒸留する装置だと。
周囲の干潟は潮霧を纏い、遠くで汽笛が喉を裂く。潮位は緩やかに上昇し、足首に水が絡む。鱗屑のような貝殻片が水面を漂い、月光を跳ね返す。
スカラバエルの掌が透葉の手首へ絡む。脈動が共鳴し、二人の心拍が重なる。
> 「あなたの影が、わたしを欲しがっている――
> “裂孔を通過する儀式”、受け入れますか?」
透葉は言葉を失い、かわりに傘柄を握る力を強めた。それが肯定とも拒絶ともつかぬまま、雨脚が急転直下。水銀珠は銃弾のように砂を穿ち、干潟が鏡面へ変じる。
鏡面に映るのは夜空と街灯、そして二人の影――だが影は透葉に似て透葉でなく、唇を開け閉めしながら水面の底へ沈んでいく。
(わたしの影が、先に溺れる?) 喉が凍る。それでも胸は熱い。
スカラバエルが囁き、傘骨を折った。甲虫の翅が砕けるような音。傘布の裂孔がぱくりと開き、そこから黒い水が溢れ出した。
水は透葉の足首を舐め、脹脛を這い、腰骨へ纏わりつく。冷たいのに痺れるほど甘い。
> 「影と本体が再会したいそうです。
> ――恋慕と恐怖、どちらで迎えに行きます?」
答えは喉の奥で泡立ち、声にならない。
しかし影が沈む前に、透葉は半歩、水面へ踏み出した。靴が沈まず、代わりに影の輪郭が波紋を描く。
傘の裂孔から洩れた水銀珠が飛沫になり、頬へ、唇へ、鎖骨へ降り注ぐ。液体は熱を奪うのに、皮膚の下では血が沸騰する。
(怖い。でも、この怖さはあなたと共有できる。)
透葉はスカラバエルの胸元に額を預けた。パーカー越しに伝わる鼓動は一定なのに、どこか弦楽四重奏のように複層的。
> 「嫌いでも、あなたとなら。」 今度は確信を持って言えた。
その刹那、 ざわり と鏡面が裂け、二人の影が海底へ引きずり込まれる。周囲の景色が暗転し、世界が水槽の内壁に貼り付いたポスターみたいに歪む。
透葉は叫ぶ――はずだった。なのに唇が震えるだけで音は漏れず、代わりに波音が鼓膜を打つ。海はまだ遠いはずなのに。
スカラバエルが微笑む。その瞳は夜光虫を散らした潮溜まり。
> 「大丈夫。恐怖ごと恋して。」
涼しい声とは裏腹に、彼の指先は震えていた。
夜空が遠雷で閃く。
透葉は自分の心臓が雨脚を追い越すのを感じ、同時に“影”が深みで手を伸ばすのを視認した。
ここで逃げれば、影は孤独に沈む。ここで溺れれば、影と恋に溺れる。
透葉は最後の躊躇を雨粒に委ね、スカラバエルの指を強く握り返す――その瞬間、 鏡面全体が紙のようにぱりんと破れた。
水飛沫と共に、透葉とスカラバエルは暗い回廊へ落下する。骨伝導で脈打つ潮騒、嗅覚を刺す真新しい潮の匂い。 恐怖と恋慕が区別を失い、渦を巻く。
透葉は薄闇の中、初めて自分の名前を名乗った。
> 「蛹庭透葉。影を取り戻しに来ました。
> あなたと……一緒に。」
スカラバエルが囁く。
> 「では、影が甘噛みするくらいの恐怖、味わいましょう。」
闇の底で何かが微笑み、潮位が静かに上下する音がした――それは脈、あるいは接吻の前触れ。
こうして、干潟で始まった共有儀式は、恋と恐怖の等高線を塗り替えながら、次章への水路を開いた。