二分法
二分法の回答として、確率論的解釈が提示されることがある。例えば、あるモノはAであるか、それともBであるかという問いに対して、あるモノはAでもありBでもある。Aである確率とBである確率の大小で表される。だからAとBのバランスを上手く取る事が肝要だといったように。では結局二分法は程度の問題に過ぎないのか? 単なるグラデーションに帰着させて良いものなのか? やはり、何か違う気がする。しっくりこない。何がこんなにも私を躊躇させるだろうか?
二分法は隠されている何某かを表面化させる為に設定された仮の問いであるのに対して、確率論は表面に浮かび上がっているものをごにょごにょといじっている感じがする。前者が内外の境界をうろちょろしているのに対して、後者はがっつり安全な内側を走り回っているようなものだ。
要は外に向かって行こうという気概が感じられるか否かということだ。賭けと安牌。己の実存を揺るがしてでも何かを探しに行こうという大胆さが。
二分法は単純な答えを求めるためだけに問いかけられているわけではない。矢印。指先。どこを目指しているのか分かっているのか? 大事なのはその過程だ。過程なんてお利口な言葉で表せたもんじゃない。無様な悪足掻きだ。苦痛と疑念に満ちた叫びだ。苦悶にぐつぐつと煮込まれ終わりのない落下に苛まれる。それをわざわざ表現するのは無粋なこと。答えはおまけなのだ。ちっぽけで偏見で溢れた頭蓋骨を破壊した先に広がる景色。見晴らしの良い高原。それらがあの簡素な問いに帰着する。問いそのものが答えなのだ。鮮やかな回帰。重厚でいて軽やかなひとつの歴史なのだ。
だから、焦って決着をつける必要はない。時間はたっぷりとあるのだから。望めば望むだけ。探せば探すだけ。急いては事を仕損じる。とっ散らかった机に広がる雑多な空論を全部ゴミ箱に放り込んでしまうその前に。暫しの小休止を挟もうではないか。控えめな躊躇いは得にはならないかもしれないが、害になる事もあるまい。どうか奥底に隠されて眠りについている荘厳な音楽に耳を傾けてはくれまいか。