2-1 「やはりあのクソ王子、刻んで漬けておけばよかったわね」
「まったくもう、本当に冗談じゃありませんわ」
湯浴みを終えて、夜着に着替えたユーフェミアとイリアは、未だに収まりきらない興奮を抑えようとカフェテーブルに用意した茶を飲みながら一息ついた。
イリアは約束通り、筆頭侍女のマーサに教わった極上の茶の入れ方を実践した。茶葉はいつもならカミツレだが、今日はオレンジブロッサムだ。先日、あまりにもどこぞの第一王子が腹立たしくて眠れなくなった時に、マーサが新しく入手してくれたこの茶葉を淹れてもらったのだが、その味をイリアはとても気に入ったのだ。
拙いながらも姉に飲んでほしくて、マーサに厳しく指導してもらった結果、あの厳しいマーサに太鼓判を押してもらえるようになるほど、美味しく淹れられるようになったのが最近の話。
まさかこんな形で飲んでもらうことができるとは思っていなかったので、少しばかり緊張していたが上手に淹れられた……と、イリア思っている。思ってはいるものの、正直不安は隠せない。
それでも、いついかなる時も貴族たる者、不安そうな顔をしてはいけないというユーフェミアの教えを思い出し、恐る恐る差し出せば、ユーフェミアは天使のほほえみを浮かべて「ありがとうイリア」と受け取った。
匂いを軽く楽しみ、一口飲んだユーフェミアの琥珀色の瞳がきらりと輝くのを見て、イリアはほっとする。
「貴族たるもの……」と、先ほどの教えをイリアに説いたユーフェミアだが、彼女自身は存外ポーカーフェイスが得意ではない。
仕事だと割り切っていればともかく、スイッチが入っていない時は不満も喜びも、全部口元に表れてしまうのだ。ユーフェミアもそれは自覚していて、それを隠すために使うのが、常に持っている扇だった。
最低限口元を隠せば、その表情の真意までは掴むことができないからなのだが、幼い頃から慕っているイリアからすれば、感情の全てを瞳が物語っているというほど、ユーフェミアの瞳は雄弁であった。
そのユーフェミアの瞳が、紅茶をいたく気に入ったと輝いているのを見て、イリアは心の中で握りこぶしを握ったことを悟らせないようににっこりと笑った。
「お口に合いましたか? お姉様」
「ええ、とても美味しいわ。オレンジの茶葉かしら? いつもより味が濃いけれど、爽やかでとても落ち着くわね」
「オレンジブロッサムという、オレンジの花を使った茶葉だそうですよ。カミツレとは風味がまた違って美味しいですよね」
「そうね……とても好きな味だわ。また淹れてもらえるかしら?」
「もちろんですわお姉様!」
次の機会を求められてイリアは破顔した。そのイリアを見たユーフェミアが、よしよしとイリアの頭を撫でる。
「イリア、今日はありがとうね」
「! ……いいえ、お姉様。私はお姉様に迷惑を……」
「そんなことはないわ、イリア。イリアが私のためを想ってしてくれたという気持ち、すごく凄く嬉しかったわ。けれどねイリア、イリアが私の事を想ってくれるように、私もイリアの幸せを想っているのを忘れないで頂戴。私にとって、イリアの幸せは全てなの。イリアが幸せになってくれないなら、私だって幸せにはなれないわ。それだけはどうか忘れないで頂戴」
「……お姉様っ!」
「あらあらイリア、泣かないの」
イリアにとって、ユーフェミアはどこまでも優しい姉である。
そして、しっかりとしているようにみせて、イリアはまだたった15歳の少女だった。ずっと張りつめていた気持ちがはじけたことに、イリアの心は耐えることができなかった。
ぽろぽろとあふれる涙を止められないまま、イリアはユーフェミアにしがみつくと声を堪えながら泣き続け、ユーフェミアはそんなイリアを静かに撫で続けた。
ソファに隣同士で座りながら、イリアはしばらくの間ユーフェミアに慰められながら、姉妹の穏やかな時間を過ごしたのだった。
*
すぅすぅと柔らかな寝息が聞こえてきて、ユーフェミアはホッとしながらイリアのその小さな手を握る。
今日、一番疲れたのは他ならぬイリアだ。
しっかりとして見えるが、イリアはまだ15歳になったばかりなのだ。ユーフェミアの事を抜きにしたって、7つも年上の姉の婚約者に言い寄られたうえ、大事にしていたドレスを奪われ、慕ってやまない姉を大勢の貴族の前で辱められたのだ。普通に考えてもストレスから倒れてもおかしくないような経験だと、ユーフェミアは思っている。
かくいうユーフェミアも、いろんな意味で血管が切れて倒れそうだった。
「やはりあのクソ王子、刻んで漬けておけばよかったわね」
と、思わず物騒な独り言を洩らしてしまう。
それくらいあの時のユーフェミアは怒りに満ちていた。
それにしても、まさか巡り巡って、長年悩んでいた第一王子との婚約を、こういった形で破棄できるとは思わなかった。
それこそユーフェミアは、この婚約自体はもうしかたないものとして、この10年破棄することを諦めてきたのである。
どうやったって好きになれない、それどころか年々嫌悪感が増していく第一王子と、いずれ結婚して肌を合わせなくてはいけないと思うと気が狂いそうだった。
カーシスにも嫌われているのは分かっていたから、行為があったとしても初夜だけだろうとは思っていたが、割り切ったこととはいえ、あの男に触れられると思うと今でも頭が痛くなる。
12公爵家の長女として生まれた以上、政略結婚は仕方ないことだ。愛がある結婚など、そもそもできるわけなどない。
ましてや、結婚しないなどという選択肢すらユーフェミアには与えられなかった。
ユーフェミアが本格的に男嫌いになった時には、既にあの第一王子の婚約者になってしまっていたから選択肢などなかったとはいえ、せめて望めるのなら男嫌いの原因になったあの男ではない、表面上だけでも誠実な男と結婚したいと思っていた。ユーフェミアは正しくは、男が嫌いなのではなく「下品で考えなしで、権力と力で女性をどうにかできると思っている男が嫌い」なのだ。
倫理的にありえないと判断したら、男性だろうと女性だろうと嫌いだし、逆に言えば紳士的に対応してくれる男性には好感が持てる。
残念ながら社交の場で出会う貴族たちは、ユーフェミアを「才女」として扱うものの、初対面では「どうせ男の仕事など分からないだろう」と赤子扱いする者のほうが多いので、ユーフェミアの男嫌いは加速しているわけなのだが、それでもユーフェミアを愛さないまでも最低限誠実であるなら、あのクソ第一王子よりはるかにましだと思っていた。
それこそ、ユーフェミアの事を政略結婚上の妻と割り切るなら愛妾がいたって構わない。そこまでユーフェミアの価値観を歪めてしまうほど、ユーフェミアは誠実な男性との結婚を望んでいた。
が、それもまた叶うことのない夢の話である。
あの第一王子と婚約が解消されたとしても、政略結婚の駒として使われることから逃れる術はないだろうし、いずれ誠実とは程遠い男にこの身を晒さなければならないことだけは決まっている。
相手が誰であろうともいつかその時が来たら、全てを諦めて心を殺し人形のように抱かれてみせると、心に何度も刃を突き刺したことは、イリアですら知らないことだった。
世界で一番大嫌いな男に抱かれなくてよくなったという事実だけでも、ユーフェミアは喜ぶべきなのだと己に言い聞かせた。
そんなユーフェミアにとって、イリアは全てであり、希望であった。
12公爵家という、特異な家の血を継いで生まれてしまった以上、貴族と結婚して子供をもうけることは必然であったが、せめてイリアには互いに想いあえる幸せな結婚をしてほしかった。
イリアを幸せにできるというなら、公爵家よりはるかに下級の男爵家だろうが子爵家だろうが構わなかった。それなりに試す行為はすると思うが、才女として名の知れた、次期王太子妃候補であったユーフェミア(今はもう元王太子妃候補だが)にイリアとの結婚の許可を貰いに来る気概があるだけでも、ユーフェミアが認めるに十分であると思っている(もちろん、簡単に貰えるものとしてくるようなら論外であるが)。
イリアが幸せでいてくれるなら、自分の心に刃が何本突き刺さっても耐えられると思っていた。
けれどもまさか、イリアにあのクソ第一王子が言い寄っていて、イリアがそれを抱えたまま犠牲になろうとしていたとは思わなかった。
良くも悪くも、2人は似た者姉妹なのだろう。
そこまで想ってくれたことを嬉しく思ってしまう反面、抱え込まずに相談してほしかったと、自分の事を棚に上げて思ってしまう。
第一王子とユーフェミアの婚約に至るまでの事情が事情だけあって、今回のあの第一王子の行いは到底許されることではなかった。
逆に早い段階で相談してくれたら、第一王子の王位継承権が破棄されるなどという事態になることはなかっただろう。第一王子の自業自得でしかないのだが、後の事を考えるとやはり相談してほしかったという本音がでてしまう。
だが、イリア自身悩みに悩んでこの選択をしたことは間違いない。
ここしばらく、思いつめたような顔をしていたことには気が付いていたが、尋ねてもずっと首を振るばかりで何も話してくれなかったのだ。
まぁ、姉の婚約者に言いよられているなどと、一般的な感覚を持っているイリアが姉本人に言えるわけないだろう。
挙句にイリアの気持ちをすべて無視して勝手に姉と婚約破棄したうえで、結婚を宣言されるなどとは、さすがにあの第一王子でもやるわけがないと思ってもしかたない。
結果として、ユーフェミアがずっと願ってやまなかった婚約破棄をすることができたのだ。
こんな状況で、イリアをどうして責めることができようか。
「ありがとうね、イリア」
ユーフェミアはそう呟いて、肩にもたれかかるイリアに頬を寄せた。
それから、外で待機していた侍女たちに声をかけて、すっかり寝入ってしまったイリアをベッドへと運んでもらう。
「みんな、ありがとうね」
「お言葉には及びません、お嬢様。どうぞお嬢様もお休みください」
「すぐに休むわ、ありがとうマーサ。皆も戻って結構よ」
侍女たちを送り出しベッドですやすやと眠るイリアの頬を撫でながら、ユーフェミアはあの茶番劇の最後に出てきた失礼な男の事を思い出す。
リブレット公爵家の次期当主候補、エミール・リブレット。
親友であるエミリアの長兄で、第一王子より一つ年上だということは知っている。
頭がよく、魔法の才能にも溢れているが変わり者として有名だ。ユーフェミア自身、顔を合わせた記憶がほとんどない。
12公爵家での評判はまずまずだったと思うが、ユーフェミアの認識では飄々とした優男という以上の認識はなにもなかった。
そもそも、社交界にほぼ出てこないのだ。
出てきたとしてしても、第二王子のアーロンが同伴できない時のエミリアの同伴者くらいで、ユーフェミアが社交をしている間に姿を消していることの方が多い。
最初こそ挨拶は数度したような気がするが、エミリアに「兄は本当に変わっているので、わざわざご挨拶しなくても大丈夫です」と少し闇を秘めた瞳で言われてしまってからは挨拶することをやめてしまった。どうやら、エミリアも擁護できないほどの相当の変人らしい。
一度だけ、何かの拍子に話題に上がって、エミリアにエミールの事を尋ねた事があるが、エミリアは難しい顔をしてしまった上に、一緒にいたアーロンが慌てて話題を変えてしまったのでそれ以上聞くことはなかった。
そもそも男嫌いなユーフェミアである。
貴族故に、ある程度貴族男性の話はするが、無駄に男の情報を手に入れようとは思わなかった。そのため、必要以上の事をユーフェミアは知ろうともせずに日々を過ごしている。
エミリアには悪いが、まさかエミリアの兄であるあの男が。あんな悪ふざけをするなどと思わなかった。公衆の面前で婚約破棄された令嬢に、あんな形で求婚できる神経をユーフェミアはとてもじゃないが理解できなかった。
国王陛下に挨拶してからあの場を立ち去れただけでも、冷静だったと褒めてほしいとユーフェミアは思う。
ひっぱたいてしまったけれど。
ひっぱたいてしまったけれど。
まじまじと顔を見たのは今回が初めてだったが、紫がかった銀色の不思議な髪の毛に、自分の琥珀色の瞳よりもずっと輝いて見えた金の瞳は、少し穏やかにたれていて、とても優しそうに見えた。エミリアの兄だけあって顔立ちはすっきり整っていて、黙っていればかなりの美丈夫に見える。
歳はあの第一王子より一つ上だったはずだから、未だに独り者であることが実に不思議だ。あの顔ならたとえ変人でも引く手数多だろう。
近衛騎士を率いるリブレット家の嫡男だけあって体格がよく、カーシスよりも少しだが身長があったと思う。近衛騎士隊の方はエミリアの伯父で、リブレット公爵の弟君が総隊長だったはずだ。いずれはエミリアの次兄が引き継ぐことになるだろうという話で、長兄であるエミールがリブレット公爵領の領地経営に必要な王都での実務を手伝っていると聞く。
要するに彼は次期リブレット公爵で、結婚適齢期の超優良物件だ。
わざわざ元王太子の元婚約者で同じ12公爵家の公爵令嬢である、どう考えても面倒なユーフェミアに求婚する意味が理解できない。
ユーフェミアは美人だが小柄なので、彼と並んでしまったら今以上に幼く見えてしまうかもしれない。
ユーフェミアの体格は、よく言えばスレンダーだったが、悪く言えば欲しい所に足りない体つきだった。主に胸とか胸とか胸とかである。
2歳年下のイリアに身長はほんの少しだが数か月前に負けてしまったし、腰はキュッと細いが胸が正直足りない。お尻も一般的に女性にしては薄いので、スタイルはお世辞にもいいとは言えなかった。手足も細くて、正直抱き心地はあまりよくないと思っている。
それに比べてイリアはまだ15歳ながら、とても抱きしめ心地がよかった。毎日ぎゅっと抱きしめているユーフェミアが、おもわずふにふにと堪能してしまうと太鼓判をおすのだから間違いない。淑女として痩せすぎてはいない、ちょうどよい肉付きに加え、胸は既にユーフェミアより成長していた。今はまだささやかだが、伸びしろはユーフェミアよりあるはずだ。
羨ましいという感情がないわけではなかったが、ほどよい体のラインを美しく見せるためにサロンのマダムとキャッキャウフウフとドレスの相談をしたのはとても楽しかった。
それに比べて、自分はだいぶ貧相なので、ドレスを仕立てるのにサロンのマダムの頭をとても悩ませたと思っている。
なかなかに難しい体型の自分のために、あの大人向けの美しいドレスを仕立て上げたマダムは天才であるとしみじみ思ったくらいだ。せめてもう少し胸があれば……とまで思って、いったい何を考えているのだろうと、ユーフェミアは首を大きく振る。
いいや、今日はもう考えるのはやめよう。
小さく息を吐いてから寝室を立ち去ろうとすると、イリアの目が細く開いた。
「……お姉様」
「イリア! ……もうおやすみなさい。今日は疲れたでしょう?」
「……お姉様、……いかないで……」
幼子が甘えるような声で寝ぼけたイリアに請われ、ユーフェミアが拒絶できるわけなどなかった。
翌朝、マーサがため息をつきながらイリアの部屋に向かえば、美しい姉妹が2人、同じベッドで寄り添いあうように眠っていた。