1-4 「可愛いイリアの為だと思うなら頑張れます!」
「イヤです」
「ですよね」
リンスフォード公爵は初手で無残にも散った。
無理もない。すでにこの時、公爵だけでなく第一王子のせいで男嫌いスイッチが完全に入ってしまったユーフェミアである。
謹慎の初めの頃はまだ大人しくしていたものの、週に一度しか会えないイリアに3週間も会えないというストレスで生まれた怒りが、第一王子を通り越してすべての男性に注がれてしまうほど拗らせていた。
その状態にいたユーフェミアに、あの憎き第一王子と婚約するなど、嫌悪感しかない公爵に言われたという事実を抜きにしても耐えられるものではなかった。
リンスフォード公爵も、世間の荒波に飲まれ成長した結果、正確には姪であるとはいえ、ユーフェミアの心情を思うまでもなく、この婚約には賛成できかねるところがあった。
この時の彼は、まだ娘の存在を知らない。
だが姪が生まれ育てるうちに、自分が最愛の者にいかに愚かしいことをしたのかと罪悪感を覚えるようになっていたし、聡いユーフェミアが自分のしたことに気が付いて嫌悪を示すことも、自業自得だと理解していた。
今は取り掛かっている事業を成功させて、せめて妻に認めてもらえるだけ成長したいと望んでいる最中である。
嫌われていても姪は可愛い。幸せになってほしい。
慕っていた亡き兄を思い起こせる眼差しを、兄から預かっている以上、こんなことで曇らせることは本意ではなかった。
然しながら、リンスフォード公爵は12公爵家の1人と言えどまだ若かった。
上位貴族とは言え、若い頃放蕩していた事実もあって発言権が弱かったのだ。
そして、婚約自体は王も本意ではないといえ王命だ。「嫌われている僕が、まず話そう。今以上に嫌われたって、僕は平気だよ」と言って、ユーフェミアに伝えることを選んだものの、ユーフェミアの即答拒否にはやっぱりちょっと傷ついた。
公爵が膝を抱えて別室でしょげている間に、ユーフェミアの母はその想いを汲みながら改めてユーフェミアに話をした。
「ユーフェミア、まだ7歳のあなたにこんなことを話すのは本意ではありません。けれど、聡いあなたが理解してくれると信じて、貴女を大人として扱ってお話をいたしましょう。いいですかユーフェミア。これはいずれイリアの為にもなる婚約なのです」
「……聞きましょう」
母の話をまとめるとこうである。
現状、ユーフェミアはリンスフォード家の一人娘であり、第一王子の婚約者としていずれ王妃になってしまうとなると、リンスフォード家は大事な跡取りを失うことになる。
子孫を残さなくてはならない12公爵家において、それは王命であったとしても拒否することができる案件だった。
この事に気が付いたユーフェミアの母は、予め国王と王妃に、リンスフォード家の隠された真実と隠された娘であるイリアの事を伝えた。
国王は、亡き若き太陽と親友だったせいか、ユーフェミアを見て思う所があったようだ。さほど驚くことはなく話を続けた。
それはユーフェミアが王家に嫁ぐと決まったなら、リンスフォード家は然るべきタイミングでイリアをリンスフォード家の後継ぎとして12公爵家に迎え入れるというものであった。
その際にイリアの生まれから、口さがない者たちがやかましく騒ぎ立てることになるのは明白である。殊更、12公爵家の一部は平民の血を公爵家に取り入れることに排他的なところがあり、孤児であるイリアの母の事を考え、今回の事件の事を考えるとろくでもないことを言われるのは回避ができない。
だが、王家の承認を得ることができれば話は別である。
イリアを淑女として育てることは必須であるが、いずれ王妃となるユーフェミアの妹として、イリアを迎え入れる後ろ盾として王家の協力を得ることができるのはこの上のない褒美と言えた。
「つまりね、ユーフェミア。あなたが王家に嫁ぐことができればイリアをうちの家に招くことができるの。誰に憚ることなく、あの子を妹として可愛がることができるのよ」
「本当?……本当なのお母様」
「ええ、それにそれだけじゃないわ。あなたが王太子妃となって、あのろくでもない第一王子を正しく導くことができれば、あの子の事を軽んじる者はいなくなるわ。ユーフェミア、貴女は正しく、可愛いイリアを守ることができるのよ」
ユーフェミアにとって、可愛いイリアを守ることはわずか7歳ながらも世界の全てに等しかった。
謹慎している3週間、イリアに会えなかったことも大きかったのだろう。
「お母様、分かりました。私、心底嫌ですけれど、本当の本当に嫌ですけれど、可愛いイリアの為だと思うなら頑張れます! 頑張れますわ!!!」
ユーフェミアは才女であったが、重度のシスコンで、妹のことになるとちょろかった。
とてつもなくちょろかった。
*
ユーフェミアと第一王子カーシスの婚約には、そういった長い経緯があった。
カーシスはとてつもない拒絶を見せたが、12公爵家会議との結果と言えば拒否することはできなかった。
程なくして、2人は盛大な婚約式を経て婚約し、それをきっかけに第一王子は王太子と正式に任命された。
それから10年。
ユーフェミアはカーシスの隣でずっと叱咤を続けていた。
辛い王太子妃教育は、王妃直々に行われ、それを通じて王妃とは親子にも似た絆を得た。
何度も諦めたくなる度に、敬愛する王妃に懇願されては自身を奮いたたせる。
カーシスを隣に置くことで、加速する男性嫌いの中、まともな男もごく稀にいると知ったのは国王陛下と、第二王子のアーロンのおかげであった。
特にアーロンは頼りない所があったが、頭が切れ、賢く、ユーフェミアの話についてこれる数少ない同世代であった。
何よりも、あの茶会の席で一目惚れしたエミリアに一途に愛を捧げる、紳士的な姿に好感が持てた。
国王陛下もまたそれと同じである。
国政を行いながら、敬愛する王妃を不器用ながらも真摯に愛する姿は、ユーフェミアにとって理想的な男性像であった。
エミリアとはあの茶会の後、個人的に仲良くなった。
同じ年で、話も合い、アーロンの求婚が実り無事に婚約を果たした後は、王太子妃教育の息抜きにとアーロンに会うついでではあったが、王妃と共に茶会に参加してくれたりもした。
ユーフェミアは、婚約自体は本意ではなかったが、エミリアと義理の姉妹となれると思うことは数少ない良きことだと思っていた。
王太子妃の教育を受けながらも、ユーフェミアはイリアに淑女の教育も欠かさなかった。
物心つく頃には、「お姫様ごっこ」と称して淑女としての大事な教育をごく自然に施していた。
教えるユーフェミアが優秀なせいもあったのだろう。幸いにも、イリアの飲み込みは早かった。
イリアの母が亡くなったことをきっかけに、イリアがリンスフォードの家に引き取られたのは今から2年前のことだ。
引き取られてから、イリアは淑女の教育を改めて受け直し、1年足らずで王立学院に入学できるほどになった。
最初こそ、その境遇からイリアは白い目で見られた。
その当時、未だにユーフェミアの貴族人気は高かったし、週末になると孤児院で奉仕活動をし、多額の寄付しているという話が流れたおかげで平民人気もあった。
元より、王都で長年頭を悩ませていたスラム改善時に、聖女と呼ばれた少女を母に持つユーフェミアである。件の婚約の真相を知らずとも、民の間でユーフェミアの人気が高まるのは最早仕方ないと言えた。
貴族の子息子女が通う王立学院で、ユーフェミアは早いうちから生徒会に入って活動していたのだが、男嫌いだからと言って一方的に男性を差別することはなく、貴族だろうと平民だろうと、道理に反する行いに対しては厳しく、正直に話せば公正な判断でとりなすのがうまかった。
裏側では、そんな清廉潔白な彼女を嫌うものも少なくなかったが、生半可な気持ちで彼女に嫌味を言えば、逆に正論で1,000倍返しにされる様子を何度か見れば、面と向かって戦うものはいなくなっていた。
それどころかやり返されたものの半数が、男女問わずあの苛烈な正論に内なる何かを目覚めさせてしまい、彼女の信奉者になってしまうことさえあったほどだ。
そんな彼らが上辺だけを見て、ユーフェミアのためにイリアに何かをしでかそうとするよりも早く、ユーフェミアはシスコンを爆発させた。
ユーフェミアは、それなりに分別をつけていたつもりだった。
妹だからという理由で甘やかされてると思われないように、他の子息子女たちよりも厳しく接したつもりだった。
けれども、彼女を常に見守る信奉者達からすれば、その溺愛ぶりはすぐに分かった。
リンスフォード家は、氷虎を祖先に持つため、二つ名によく氷を用いられる。
亡くなった若き太陽の二つ名こそが珍しいだけで、現にユーフェミアは苛烈な性格と氷の魔法が得意なことも相まって、氷炎の聖女と呼ばれているのだが、基本的にその表情はいつだって険しい。
その理由は、だいたいどこぞの婚約者のせいなのだが、その美しい顔の眉間あたりに皺を寄せては、周囲を冷ややかに見つめていることが多い。
社交参加のためのパーティーでは微笑むものの、それは淑女の作られた微笑みだ。
隣の婚約者のせいでイラついて仕方ない時は、扇子を広げて口元を隠すという技を使うくらいだ。
それでも美しいと評判なユーフェミアが、イリアを前にすると花がほころぶような笑みを浮かべるのだ。
口調の厳しさは元々だが、イリアを前にしてユーフェミアはこの表情だけは隠せなかった。
彼女を女神と信奉する者たちも、ユーフェミアのこの表情を見て振り上げそうになった拳を下した。むしろ拝んだ。
イリアもまた、ユーフェミアを純粋に慕いながらも、彼女に頼ったりせずに学院生活を努力して送る姿に好感が持てた。
信望者たちの一部が、嫉妬のあまりイリアに絡んでも、「そうなんです!お姉様って本当に素晴らしい方なのです!」と、純粋な目で惚気を返される有様だった。
そういうわけで、直接交流のあるエミリアでなくともユーフェミアがイリアを溺愛していることは、学院に通っている者たちであれば知っていて当然というほど、あまりにも有名な話であった。
*
さて、イリア嬢とカーシスの出会い(……と言っていいのかは分からないが)は、イリアが公爵家に引き取られた際に顔合わせとして称して開かれた食事会であった。
未だにユーフェミアとの婚約に納得していなかったカーシスにとって、あどけなさが残るイリアは可憐で美しく、守りたい少女に見えた。
だが引き取られた当時、イリアは13歳で、カーシスは20歳である。正直変態だと言われても仕方ない年の差であったが、カーシスに分別はなかった。
さすがにユーフェミアとの婚約破棄はこの時考えていなかったものの、愛人にして可愛がろうと勝手に思っていたらしい。
イリアは正直、カーシスが大嫌いだった。
最愛の姉を悩ませる、最低最悪の男。
それでも、王族で未来の義兄であったし、自分の態度によってユーフェミアを不利にさせたくなかったため、無礼にならない程度に愛想笑いをしたつもりだった。
カーシスは都合のいいことを信じる男である。
イリアの愛想笑いをそのまま好意として受け取り、やがて本気になった。
たまたま、ユーフェミアがいつもの口調でイリアを叱咤激励しているのを見て、「ユーフェミアがイリアをいじめている!!」と盛大に都合よく勘違いして加速した末、イリアの否定の声も無視した結果、今回のパーティーの前に、イリアがユーフェミアから贈られたドレスを取り上げると、一昔前の……王妃が若い時に着ていたドレスを贈ると「これでもう安心だよイリア」と微笑んだ。
イリアはここで堪忍袋の緒を切った。
この日のためにユーフェミアが用意してくれたドレスは、イリアの宝物だった。
イリアの柔らかな栗色の髪に似合うように若葉色の生地をあわせ、シフォンでふっくらとボリュームを持たせたそのドレスは、公爵領で採れるいくつもの小さな宝石を裾に散りばめていて、その輝きは草原に咲く可憐な花のように見えた。
ユーフェミアとイリアと、サロンのマダムと随分長いこと相談して作り上げた傑作だったのだ。
胸元に入れた飾りは、ユーフェミアがまとっていたドレスと対になるようしてあって、色も形も違うけれど、ユーフェミアとイリアにとってはお揃いのドレスだったのだ。
それを勝手に奪い取り、王妃のものとはいえ古いドレスを贈ってきたカーシスに、イリアは父親にも思った事のない怒りを覚えた。
そのどうしようもない怒りを覚えた相手が、最愛の姉の婚約者であることが許せなかった。
だがしかし、まだ15歳のイリアには自分を犠牲にする方法しか思いつかなかった。
こうして、この話は物語の冒頭へたどり着く。
イリア・リンスフォードが15歳。
ユーフェミア・リンスフォードと、エミリア・リブレットが17歳になったばかりでアーロン・バルバット・ランフォールドが20歳。
カーシス・エルドラド・ランフォールド22歳で、エミール・リブレットが23歳になった春の事であった。