1-1 「生まれてこなければ良かっただなんて言わないで」
ヒロイン・ユーフェミアの婚約破棄に至るまでの前日譚です。
性格破綻者エミールは(ほぼ)出てきません。
「冗談じゃありませんわ!!!!!!!!!!!!」
イリア・リンスフォードは屋敷について早々に響いた、敬愛する姉の声を聞いてため息をついた。
まぁ、叫びたくなるのは理解できるが、公爵令嬢としてはマイナスだ。普段のユーフェミアなら激昂している姿を使用人の前で見せたりはしないのだが、事情だけにイリアはユーフェミアに同情することしかできない。
「お姉様、少し落ち着きましょう。ドレスを脱いで湯あみをしたら、きっと落ち着きますわ。お姉様に、私にお茶を淹れさせてくださいな。この間、マーサにとっておきの茶葉を教えてもらったの。是非お姉様に飲んでいただきたくて、淹れ方を教わったのよ」
「まぁイリア! あなただって疲れているでしょうに!」
「いいえ、いいえお姉様。お姉様が助けてくださったから、私は平気ですわ。だからお姉様、あとでゆっくり夜のお茶会をしながらお話をしましょう? ね?」
「そうね、そうねイリア! あなただって、そのドレス早く脱ぎたいものね。マーサ! 申し訳ないのだけれど、私とイリアのために湯を用意してちょうだい」
「はい、ユーフェミアお嬢様。もう準備済みですのでこちらへどうぞ」
リンスフォード家の筆頭侍女のマーサに連れられて、ユーフェミアが部屋を後にするのを見送ったイリアはどっと息を吐いた。漸く、漸くの思いであの第一王子と最愛の姉ユーフェミアとの婚約破棄が成立したのに、ややこしいことになってしまったとイリアは頭を抱える。
「全くどうしてこんなことに……」
エミール・リブレット。
12公爵家の中でも、一目置かれるリブレット家の次期当主候補。
事をややこしくした諸悪の根源の顔を思い浮かべて、イリアは今までの経緯を回想する。
イリアの大切な姉、ユーフェミア・リンスフォードは、第一王子の婚約者、12公爵家の才女として知られるが、その実裏では超絶男嫌いとしての顔を持っていた。
その話をするには、彼女たちの親世代の話から始めなくてはいけない。
イリアの母は王都のスラムに暮らす孤児だった。
親の顔は知らない。気が付いたら似たよう境遇の子供たちと一緒に盗みをして、一日一日をどうにか生きているという生活を送っていたという。
その生活が変わったのは、ユーフェミアの母の実家である侯爵家が任された、スラム改革事業であった。
長年頭を悩ませていたスラムを劇的に改造し、学校を作り、市場を作り、人に職を与え劇的な変化をもたらせたのが当時第一王子だった現国王と、現王妃の長兄であったのは有名な話であり、現王妃とユーフェミアの母は養子縁組をしているので姉妹となっているが、その実は従妹同士という間柄である。
ユーフェミアの母は、その事業を始める最初の頃にイリアの母を見つけ、その周りの孤児の子供たちを全員拾って、自分の屋敷で教育を施し、一人前の侍女や侍従に育て上げた聖女として名を馳せた。
イリアの母自身も、ユーフェミアの母を命の恩人として崇めており、病で死するその瞬間まで「一生お仕えしたかった」と言葉を残すほどだった。
他の子供たちが成長し、学を得て故郷であった元スラムを建て直すためにかの地に戻る中、イリアの母はユーフェミアの母に仕え、嫁ぎ先迄ついて行くことになった。
当時、ユーフェミアの母が婚約していたのはリンスフォード家の長男だった。
リンスフォード家の若き太陽と呼ばれ才能に溢れた男で、ユーフェミアの母ととても仲睦まじかった。政略結婚ではあったが、幼き頃から育んだ心は2人の間で確かに愛となっていた。
その長男が亡くなったのは、突然の流行病が原因だった。
ユーフェミアの母は大層悲しみ、それを見守るイリアの母もとても悲しんだ。
悲しみのあまり体調を崩したユーフェミアの母が医者に診断された結果、ユーフェミアの母は自身が若き太陽の子を宿していることを告げられたのだった。
リンスフォード家との協議の結果、ユーフェミアの母は若き太陽の弟である、後のリンスフォード公爵と結婚することで、ユーフェミアを生み育てることを許された。
12公爵家であったリンスフォード家は、その特異な事情から必ず子孫を残さなくてはならない。
亡き若き太陽と、ユーフェミアの母の名誉と世間体を保つために、そうせざるを得なかったのだ。
ユーフェミアの母は言った。
「私は亡きあのお方との子を守りたい、ただそれだけでございます。貴方の愛を求めたりなどいたしませんし、貴方が真に思う方がいらっしゃるのなら、然るべき時に離縁だっていたしましょう。ですが、無為な争いを避けるためにお子を別に作る時は覚悟をもって、私にご相談ください」
それは女好きという噂の絶えない放蕩息子であった弟に対する牽制であり、ユーフェミアの母ができる最大限の優しさであった。
弟は、この時すでにイリアの母に言い寄っていた。
が、当時のそれは軽薄なもので、イリアの母はほとんど本気にしていなかった。
ユーフェミアが生まれ、弟が正式に爵位を継いでリンスフォード公爵になっても、イリアの母の態度が変わることはなかった。
先に本気になったのは公爵の方だった。
どんなに口説いても靡かない、気高く美しい侍女に心を乱された公爵は、ある日欲望のままにイリアの母に無体を強いた。
これに激怒したのはユーフェミアの母である。
ユーフェミアの母は、イリアの母が公爵に惹かれていたことに気が付いていた。
彼女はユーフェミアの母に気を使って、その想いをひた隠しにしていたのだ。
その想いを裏切るように急いたうえに、自身が妹のように可愛いがって育てた侍女にそんな行いをされて、それを許せるほど彼女は寛容ではなかった。
「私の可愛いあの子を傷つけた貴方を、私は許すことができない。それでもなお、これを真実の愛だと言うなら、私にもあの子にも、誠意を見せなさい。それまで、あの子に会うことは絶対許しません」
その当時、ユーフェミアの母はその才をいかんなく発揮して、リンスフォード領のほとんどの仕事をこなしていた。
寒さ厳しい冬山ではあったが、宝石産業で元々栄えていた土地だったが、ユーフェミアの母を精霊たちが気に入ったことも相まって、美しい魔石が豊富にとれるようになったのだ。
飽和して値下がりすること防ぐために、想い人を守る護り石としての魔法を開発し、その魔法が織り込まれた細やかで美しい細工を施すために、実家の伝手を頼ってスラムでまだあぶれていた若者に職を与え、職人として教育し始めると、ほどなくしてその護り石はリンスフォード領の名産品として驚くほど潤うことになった。
亡き愛しい人が残した仕事を引き継ぐことで、自身を奮い立たせ……また、いずれ離縁されることになっても、ユーフェミアと2人生きて行けるようにと彼女なりに必死だったのだ。
そんな事情を知る事もしなかった公爵は、その上に胡坐をかいている名ばかりの公爵のままだった。
誠意を見せろと言われ、最初は不服そうにしながらも公爵は努力した。
領地の仕事をするうちに成長し、自分の行いを恥じて反省した公爵は、ゆうに5年の時をかけた後、ユーフェミアの母に認められるだけの公爵となり、イリアの母に会いに行った。
そこにいたのは、既に4歳になっていたイリアとその母であった。
イリアの母は、件の公爵の過ちでイリアを身ごもっていたのだ。
「お嬢様に申し訳が立たない」と泣き叫び、死を選びかねない勢いだった彼女を、ユーフェミアの母は優しく保護し、王都の郊外……以前はスラムと呼ばれたその場所にイリアの母を隠して、かつて救った子供たちに協力を仰いでイリアを育てさせた。
公爵はイリアの母に何年もかけて謝罪し、彼女の周りの人間に嫌われながらも誠心誠意愛を捧げた。
だかしかし、イリアの母は、公爵を生涯許すことはなかった。
許しはしない、だが愛しくは思っていたという。
2人の間にあったのはそう言った、周囲から理解されにくい愛情であった。
イリアは幼い頃から今に至るまで、父を父として認識したことはなかった。
公爵自身、イリアに罪の意識があったのだろう。
母親との関係修復を優先するあまり、イリアとの関係が蔑ろになってしまったのは公爵の自業自得である。
現在のイリアは、自分の生まれた経緯を知っている。知っていてなお、父を憎んではいなかった。
真実を知ったのは10歳という多感な時期で、それこそ自分なんて生まれてこなければとまで思ったこともある。
けれど、それを救ったのはユーフェミアだった。
「イリア、私はお父様の行いを許せないし、あなたのお母様には申し訳なくて、いくら謝ってもきっと足りないと思うわ。
だから、私達の事を許してだなんてとても言えやしない。
けれど、けれどね、私はあなたという妹がいてくれて、本当に嬉しかったのよ。
私にとって様々なことがあって、それがどんなに辛くても、あなたが私のことを「お姉様」って呼んでくれるそれだけで、私は幸せでいられるの。
だからお願い、どうか、生まれてこなければ良かっただなんて言わないで」
イリアは、姉のその言葉で救われた。
今に至るその時まで、父憎しと心を黒く染めずにいられたのは、間違いなくユーフェミアのおかげであると、イリアは声を大にして言えるだろう。