5-6 「仮初の私なのよ」
ガタリ、ゴトリと音をたてながら馬車が行く。
普段使っている、公爵家の立派な馬車とは違い、狭くて酷く揺れるが、それを見越していたかのように座席にはふかふかのクッションが敷き詰められている。
なにが「クッションもふかふかじゃないから、ここが一番安全だよ」だろうか。大嘘じゃないかと、ユーフェミアは怒っている。
まぁ、公爵家の馬車と比べればふかふかではないから、嘘だとはあながち言えないとは思うのだが、そんなことは今のユーフェミアには関係ない。腹立たしくて、腹立たしくて、気分は最悪だ。
ようやくエミールの膝から降ろしてもらったユーフェミアは、そのクッションの1つをぎゅっと抱きしめながらエミールから精一杯距離をとろうとはじっこに寄っていた。
けれども、公爵家の馬車ならともかく、今日の馬車はひどく狭い。一応この馬車は標準サイズなのだから狭いと言うには語弊があるが、普段から比べればやっぱり狭い。
小柄なユーフェミアがどんなに小さく縮こまっても、身長の高いエミールが横に座ってしまったらその距離は、ユーフェミアの拳二つ分くらいしかない。向かいの席に座ってくれればまた別なのだろうが、もうずいぶんと馬車に揺られてしまった以上今更な話だった。それでも精一杯距離をとっているのに、ユーフェミアの小さな手はエミールに包まれたまま。あまりにも自然に重なり合うその状況に、ポンコツのユーフェミアは未だに気がついていないのだから愉快な話である。
エミールの無茶のせいで、すっかりへそを曲げたユーフェミアは「近づかないでくださいね」と釘を刺したうえでツンとそっぽを向いた。馬車の窓からアレクシオの海を眺めつつ、絶対に顔を合わせてやるものかと決意するユーフェミアであったが、残念ながらその横顔をエミールは微笑ましく見守っているし、そんな2人の様子をカインはげんなりしながら見つめている。
一方的喧嘩ップルのイチャイチャにしか見えなくて、盛大に砂糖を吐きたいと考えている最中であるので、カインは哀れでしかない。
「それで、町娘のユフィ。今日の君はどんな子なの?」
「……どんな子?」
「そう、僕は今日、どんな君をエスコートしたらいいのか教えてほしいな。エスコートする相手の事をなんにも知らないなんて、誰にも言えないだろう? 怪しさ百倍だよ」
もっともなことを言われて、ユーフェミアはふむと思案した。
エミールのエスコートはどうでもいいが設定と言うのは大事である。
「町娘のユフィは、王都のそこそこなところの商家の娘よ。好奇心旺盛で、お祭りごとが好きだけど、品があって育ちがいい淑女なの。きっと親戚に貴族の方がいて、家庭教師についてもらったのね。それで……、離れて暮らしてる従妹を溺愛していて、いつだって仲良しなのよ」
すらすらと、用意されていた台詞を喋るかのようにユーフェミアが言葉を紡ぐと、エミールは少しだけ驚いたような顔をした。そんなエミールの顔を見ながら、ユーフェミアは「なんてね」とくすりと笑う。
「町娘のユフィは、市井に暮らすイリアに会いにってた時の仮初の私なのよ」
イリアがリンスフォードの家に引き取られたのはほんの2年前だが、交流自体はイリアが生まれた時からだ。
のっぴきならない事情のために社交界からイリアを隠しながらも、2人はその仲をひっそりと育んできた。2人が会うのはいつだってイリアが暮らす王都の外れの家だった。
平民が暮らすにはちょっと大きな、けれども貴族が暮らすには手狭な家で、王都にいた頃のイリアはそこで暮らす商家の孫娘ということになっていた。
実際にそうだったのだ。
イリアの母はイリアを身籠り、産んで育てるにあたって、王都でリンスフォード領をはじめとする各領地の特産物を販売する、リンスフォード公爵家のお墨付きの商家に養女として預けられた。
もともとこの商家自体、スラム改革の際にスラム上がりの者たちがユーフェミアの母の実家に助けてもらいながらはじめた事業で、現在の責任者である商会長は当時スラムでイリアの母が暮らしてた頃一等に面倒を見てもらっていた、かつてスラムを統べていた男だった。
今ではすっかり丸くなっているものの、若かった当時はスラムの若鷹と呼ばれ暴れ狂っていたと聞く。そんな彼は、スラム救済の聖女と名高いユーフェミアの母に傾倒し、リンスフォードの若き太陽と呼ばれたユーフェミアの実父にその実力を認められ、直臣として仕えた過去を持つ男で、実父が流行病で唐突にこの世を去らなければ、彼は未だにリンスフォードの家に仕えていただろう。
厳つい顔とガタイの良い体格をしている彼を、幼いユーフェミアは苦手にしていたのだが、生まれたイリアを孫娘としてデロデロに甘やかす彼を見て以来、生涯のライバルの1人として認定した。
彼からすれば、当時は一生を賭して仕え続けようと誓った主の、最愛が産み落とした小さな忘れ形見であるユーフェミアも愛しさあふれる娘に変わりない。
「いりあをとらないで!」と、キャンキャンと抗議する幼きユーフェミア(当時2歳)を見て、その厳つい顔が柔和に和らいでいたのだが、当時のユーフェミアはそれに対してきぃきぃと怒っていた。イリアが絡むと、今でもさほど変わりがない気がするが気のせいである。
クズの事がきっかけで、ユーフェミアはすっかり男嫌いという皮をかぶった男性恐怖症になってしまい、あまりにも雄々しい彼の事はやはり少しだけ怖く、油断するとびくりとしてしまうこともあったが、それでも基本的にユーフェミアにとってはいい人なのだと理解している。2人はそんな間柄だった。
話が逸れたがその男と、その最愛の伴侶である奥方(これまたユーフェミアの母が世話を焼いたらしい)との間にはユーフェミアより3つ年上の男の子がいるのだがその子の事はまた別の機会に語ろう。
この3人家族の元に、イリアの母は養女として迎え入れられた。
イリアの母を夫婦の娘として迎え入れるにあたって、実際は奥方の姉夫婦の娘で、両親を早くに亡くしたが田舎で暮らしていてそこそこいいところに嫁いだのだが、旦那が浮気したのに愛想が尽きて離縁場を叩きつけて、王都で暮らす伯母夫婦を頼ってきたという設定をつけた。
イリアを身籠っていることに気がついたのはこちらにきてからで、クズの旦那は娘の存在を知らないという緻密な設定だ。しかも半分くらいあってるのが味噌である。
ユーフェミアは町娘のユフィとして、その家にイリアに会うために通っていた。立場としてはイリアの母とユーフェミアの母が姉妹であり、ユーフェミアの母は嫁ぎ先が王都の別の商家であったことになっていた。
叔母の家に娘を連れて訪ねるのは自然なことであったし、ユーフェミアの母の変装はとても上手だったので疑うものはほとんどなく、ユーフェミアはずっと、イリアの母が亡くなるその日まで、表向きはイリアの従姉のユフィとして足繁く通っていたのだ。
ユーフェミアにとって、公爵令嬢ではない町娘のユフィと言う存在は幼い頃からの大事な思い出だった。
王都の街を歩いたことはないが、公爵令嬢としてでも、王太子の婚約者としてではなく、劇場で観劇をしたり、王立公園を散歩したり、美術館で芸術得を愛でたり、ブティックで流行りの服をかったりだとか、カフェでお茶をしたりだとか、年相応の女の子が楽しむような事ができたのは公爵令嬢のユーフェミアではなく、町娘のユフィであった時だけだった。
制限はありつつも、イリアと一緒に王都のあちこちをデートして楽しんだ思い出は、本当に大切な宝物だ。
7歳で嫌々ながらも王太子の婚約者になり、将来の王太子妃、王妃としての道を決められたユーフェミアにとって、本来の自分のままでいられたのはユフィとしてイリアと共にある時間だけが全てだったのだ。
婚約が解消になった今でも、町娘のユフィはユーフェミアにとって大切な存在であり、親友のエミリアもアーロンも知らないユフィという存在を、ユーフェミアはどうしてだかエミールに教えてしまった。そのことにユーフェミアは少しだけ気がついているけれど、真意には蓋をした。
どうせ黙ってても、エミールは気がつくだろうと勝手に結論付けている。事実は恐らくそうではないのに。
だからこそ、ユーフェミアはただ、仮初の私だと言うだけにとどめた。
エミールはエミールなので、それだけできっと全部察するだろう。たとえ勘違いされたとしても、別に訂正する必要もないとすら思う。ユフィという存在に対して、エミールは何も関係ないのだから。
エミールはただ、「ふぅん」と返事しただけだった。
何を考えているのかは相変わらず分からないけれど、エミールは重ねていただけだった手に、そっと指を絡めて持ち上げた。
ユーフェミアはその時分になってようやく自分の手が、エミールの手中に収まってることに気がつき、思わずフリーズした。
絶句して動くことができないユーフェミアを無視して、エミールはレースの手袋越しにユーフェミアの手の甲にそっと口づけた。レースの手袋越しとは言え、あまりにもリアルな唇の感触に「なっ」とユーフェミアの悲鳴が響く。
「……にしてるんですか」
「ふふ、ユフィが可愛くてつい」
「答えになってません!」
言いながらユーフェミアは、自身の手を取り戻そうと必死に手をばたつかせたが、もちろん無理な相談である。ユーフェミアの抵抗も空しく、エミールはユーフェミアの手にすり寄って口づけを落としていった。わざとらしいリップ音が響いて、可哀想なくらいユーフェミアの体が真っ赤に染まり、涙目になりながらもやめてほしいと目で訴えるが、エミールは気がつかないふりのまま、その指先を唇で食んだ。薄いようにみえて、肉厚なエミールの唇にはむはむと指先を食まれたその瞬間、ユーフェミアの中でぷちりとなにかが音を立てる。
「盛ってんじゃないわよ、ド変態!!」
瞬間、馬車がパキリと凍ったが、その氷は御者が悲鳴を上げるよりも早く溶かされた。じゅっと水分迄蒸発して、水浸しにもならぬほどの調整具合だったが、馬車から降りたエミールの頬には例のごとく大きな紅葉が咲いていたのは仕方のないことである。




