2-3 「嫌なんですけど」
もはや声が出なかった。
どうしたらいいのか分からず固まっているユーフェミアに、やはりエミールはにっこりと微笑む。
周囲の氷を溶かし終えたエミールの手が、優しくユーフェミアの頭を撫でようとした瞬間。エントランスに一陣の風が流れ込んだ。
「お兄様!!! そこまでです!」
「ちぇっ、もう来たのエミリア」
エントランスにやってきたのは親友であるエミリアだ。
穏やかな銀の髪をした親友は、いつになくその瞳を尖らせてこちらにやってくると、エミールの側までやってきて声をあげた。
「むしろどうしてここにいるのですか? 昨日の今日なのですから、少し大人しくして下さいと申し上げましたでしょう!」
「だってエミリアが言ったんじゃないか。冗談みたいだったって。ユーフェミアには僕の本気をちゃんと分かってもらわないといけないでしょう?」
「お兄様の本気は分かりますが、段階というものがあるのです。今日は一度お戻りになってください。まずは私の友人から手を放していただけますか?」
「……エミリア、君は僕から愛しい人を奪うというの?」
エミールの金の瞳がすっと細められて、腕の中に未だおさめられていたユーフェミアはびくりと体を震わせた。穏やかだったその口調がすっと冷えたのが恐ろしくて、ユーフェミアは身を縮こまらせる。
「お兄様の愛し子を奪うなどとは、終ぞ考えたことなどありません。……ですがお兄様、ユーフェミアは私の大事な友人です。ユーフェミアを怖がらせ、傷つけ、無理を通すというのならいくらお兄様と言えど、私は本気を出さなくてはなりません」
エミリアの瞳がエミールと同じように細められて、ピリッとした空気がエントランスを包み込む。
親友のはじめて見る姿に、更にどうしていいかユーフェミアは分からなくなった。が、エミリアと目があった瞬間、いつものように穏やかに微笑まれユーフェミアはほっと体の緊張を解く。
それを感じて、エミールはユーフェミアが緊張していたことに気が付いたのだろう。
さっきまで鋭い刃のような空気を持っていたくせに、エミールは一気に優男の空気を取りもどす。
「あぁ、ごめんねユーフェミア。怖がらせたいわけじゃなかったんだよ」
「ようやく気が付きましたか。さぁ、今日の所は戻りましょう」
「そうだねエミリア。名残惜しいけど今日は帰ろう。それじゃあまた来るねユーフェミア」
エミールはそう言うと、ユーフェミアを抱えていた腕をするりとゆるめた。それから、ユーフェミアの頭をひと撫でしてからにっこりと微笑んで去っていく。
ユーフェミアは腰が抜けたのか、するするとその場に座り込んだ。そんなユーフェミアにエミリアがすかさず近寄り、親友をぎゅうっと抱きしめる。
「……えみりあ」
「ごめんなさい、ごめんなさいユーフェミア。すっかり怖がらせてしまったわ、謝っても謝り切れない」
「……あなたのお兄様、なんて人なの? ありえないわ、あんな人」
「えぇ、そう思うでしょうね。けれど、説明するととても長くなってしまうの。私はお兄様と一緒に一度戻らなくてはならないから、今説明することができないのを許してユーフェミア。その代わり、あとでアーロン様が来てくれますわ。あの方は当家の事情を全てご存じですから、あなたの疑問に全て答えることができるはずです。けれど、決して2人きりにはならないで、必ず他の人間と一緒に話を聞いて頂戴」
「まぁ、あなたに不義理なこと、私がするわけないわ」
「違うの、そうじゃないの。あなたとアーロン様の事を今更疑うことなんて露程もないわ。信頼しているもの。けれど、2人きりに絶対にならないで頂戴、でないとお兄様にアーロン様が殺されてしまう」
物騒な言葉にユーフェミアは困惑の表情を浮かべる。
いつもなら「まさか」と言うところだが、先ほどのエミールの反応を見ると有り得てしまうのではとも思ってしまったのだ。
側に控えていた侍従とマーサがそれぞれ人手を呼んで、ユーフェミアの側に駆け寄るのを見届けたエミリアは、少し悲し気に目を伏せながらお辞儀をしてリンスフォードの屋敷を後にした。
エミリアの婚約者であり、この国の第二王子、今は次期王太子と目される渦中の人間であるアーロン・バルバット・ランフォールドがリンスフォードの屋敷にやってきたのは、それから2時間ほどしてからの事だった。
*
「まぁ、本当に来たんですの」
「忙しい合間を縫ってきた俺に、開口一番それですかユーフェミア嬢」
この2時間でメンタルをすっかり回復させたユーフェミアは、肩でゼイゼイと息をするアーロンを眉根を寄せながら出迎えた。エミリアはああ言ってたものの、やはり昨日の今日なので、来ると言っても明日か、今日来たとしても夜だと思っていたところなのだが、まだ日があるうちに急いできてくれたことにはありがたいとはほんのちょっぴりだが思う。馬車で来るかと思っていたのに、彼は馬を走らせて来てくれたのが誠意の証拠だ。 兄であるクソ第一王子とは違う、キャラメルにも似た濃い金髪を手ぐしで整えながら、アーロンはほっとしたように、王妃から譲られたアメジストの瞳を細めた。 王家特有の金髪碧眼ではないものの、彼の見た目はまさしく王子様である。
ユーフェミアは馬丁に彼の愛馬に丁寧に対応するように指示すると、応接間へとアーロンを通させた。応接間では侍女が何人か待機していて、ユーフェミアは用意してくれていたお茶を、自らの力で発生させた冷気でアイスティーへと変化させてアーロンに差し出す。
「ありがとう、冷たい飲み物が欲しかったんだ」
「この作り方ですとお茶が美味しくなくなるので嫌なんですけどね、あとで改めて暖かいものを飲んでくださいな」
「あぁ、落ち着いたら頂こう」
「……それで、いかがいたしますか?」
「なにが?」
「エミリアに貴方と2人で話すなと言われましたから。殿下、信用が無いのでは?」
「んなわけないだろう、エミリアは俺の命の心配をしてくれてるんだ。親友の婚約者が気にくわないからって試すのはやめてくれ」
「嫌ですね。あなたがそう答えると知っていて言ってるんですから、少しばかりお付き合いしてくれてもいいじゃないですか」
いつも通りのやり取りができてユーフェミアは少し安心した。公的な場でそんな振る舞いを見せることは無いが、アーロンとユーフェミアはある意味戦友である。
アーロン第二王子とは最初こそ、男性嫌いになり立てだったこともあって対立したが、あの第一王子のやらかしを尻拭いして回った言わば戦友のようなものだ。適度な距離感で、それでいて婚約者を深く思うアーロンの事をユーフェミアは好ましいと思っている。それはおそらくアーロンも同じだろう。
でなければ、国の混乱の真っただ中にわざわざ事情説明に馬を走らせたりなどしないに決まってる。
「口が堅い……というか、何も聞かないことにできる侍女か侍従はいる?」
「それならこちらのマーサが適任です。あと、できればイリアが一緒に話を聞きたいと言っております」
「イリア嬢……は、……うーん、逆にいいのか? あの人もさすがに愛し子の妹には手を出さないもんな……。えっと、イリアに「どう思ったとしても行動を起こさない事」って念を押してくれるかい? 事が起こったとしても、僕じゃ庇いきれないからね」
「……分かりましたわ」
いったい何をそんなに用心しているのだろう。と思いながらも、昼間のあの男の様子を考える限り、致し方ないのかもしれないと思いながらユーフェミアは、侍女に近くの部屋で待っていてもらったイリアを呼びに行ってもらった。
応接間の入り口で、第二王子が念を押して「行動を起こすな」と言っていたことを伝えてから応接間に招き入れる。
それから、マーサ以外の侍女たちを退室させ人払いをさせた。その際に後程軽くつまめるような軽食を料理長に頼んでくれるようにお願いすることを忘れない。
そうして、応接間にはユーフェミアとイリアとアーロン、それから侍女頭のマーサの4人だけになったことを確認してからアーロンはゆっくり口を開いた。
「結論から先に言うと、ユーフェミア。君はエミリアの兄君に見初められてしまった」
「……本気で仰っているの?」
「俺が冗談で君にこんなことを話すわけないだろう」
「いえ、そうではなくて……、あのふざけた男、本気ですの?」
ユーフェミアが眉間に皺を寄せて尋ね返したのを聞いて、アーロンは「そらそうだよな」とため息をつく。
ユーフェミアとエミールは昨日のあの求婚劇が、実質の初対面だ。
ユーフェミアは何度か挨拶した気でいるかもしれないが、エミールにとってはまず間違いなく初対面だろう。エミール・リブレットがそういう男であるということを、アーロンはとてもよく知っている。
幼い頃からのあれやこれやで、真実の愛というものをこれっぽっちも信じていないユーフェミアである。いや、信じていたとしてもこの求婚劇を信じろと言われる方が無茶かもしれない。
それでも、その一点だけは真実であり、まごうことなき事実であったのでアーロンはただ一言「本気だ」と返事を返した。
「本気の本気、それだけは否定しない。俺が否定したら殺される」
「冗談以外に聞こえませんわ。さっきからずっと殺されるだなんて物騒なことを仰ってますが、第二王子のアーロン殿下をそんな簡単に殺せまして?」
「俺は過去二回あの人に殺されかけてる。妹のエミリアを婚約者に望んだからって理由でね」
アーロンの言葉にユーフェミアは絶句する。
事情をちゃんと聞こうと、改めて背筋を伸ばせばアーロンはようやくまともに話ができると思ったようでゆっくりと話をし始める。
「イリア嬢は12公爵家の初代の話はご存知かな?」
「はい、もちろん知っております殿下。我らが崇高なる月の精霊姫と建国王に12の試練を与えた聖なる12の獣が、後に人の姿を得て12公爵家となったという伝説でございましょう?
人々の間では伝説と謳われておりますが、概ね事実だということは学ばせていただきました。
我がリンスフォード家は氷の牙を持った高潔なる虎だとも伺いました。
ええと、その他の獣は……
癒しの鼠、
実りの牡牛、
疾風の羽兎、
森林の大蛇、
雷の天馬、
夢花の牡羊
炎帝の狒狒、
泉の精霊鳥、
夜空をまとう狼、
山の猪翁、
それからエミリア様のリブレット家が四聖の巨竜ですよね」
「うん、よく覚えているね。さすがリンスフォード家の娘だ」
「教えていただいた先生がよかったのです。なんてたって、私のお姉様ですもの」
イリアはそう言ってユーフェミアに微笑みかけた。妹の無邪気な賞賛に、ユーフェミアの顔も思わずほころぶ。
それを見ながら、実兄はいつまでたっても覚えなかったな……とアーロンは少しだけ遠い目をしたが、2人がそれに気が付くことはなかった。
「途方もないほど古い時代の話だけれど建国がなされた800年ほど前、君たちの初代は12の獣だった。長い長い時間をかけた結果、その血は薄れながらも12公爵家に脈々と受け継がれている。その血はもう、魔力の特性ぐらいしか表面に現れないけれど、ただ一つリブレット公爵家だけはその例からもれてしまうんだ。彼らは今なお、竜の特性に縛られてしまっている」
「竜の特性……ですか?」
イリアが隣で小首を傾げた。ユーフェミアもまた、首を傾げたくなる。
「竜の特性……火を吹いたり、空を飛んだりとかそういうことですか?」
「まさか、リブレットの血を引くものは竜になるとか仰いませんよね?」
「いや、彼らは人であるからさすがにそんなことはないよ。まぁ、俺はエミリアが竜になったとしても愛することをやめないけどね」
「惚気はいいいですから続けてくださいまし」
「……肉体的なものではなく、もっと精神的な……いや本質的な特性だ。ユーフェミア、君は竜の番というものを知っているか?」
「竜の番? 獣の夫婦を番と称することとは違うのですか?」
「あぁ、うん。無理もない。この国じゃ竜なんて近衛隊の騎竜か竜レースの竜馬か、リブレット領で保護されてる花竜くらいだものね……見たことはあっても性質までは知らないか」
「……馬鹿にしてますの」
「してないしてない。君が知らなくても当然だって話なだけだよ。
それでね、竜って言うのは生まれた時から神に定められた番……伴侶って言うのがいるんだ。魂で結ばれた相手って言うのかな、それこそ真実の愛で結ばれた魂の夫婦、それが竜の番って言う概念だって思ってくれ。
竜はその番を認識した時からお互いを一生愛し続ける運命を持っているんだ。元々愛情深くて一途で、寿命が長い生き物だからね。
浮気はしないし一度番ったら一生添い遂げるし、片方が死んでしまったら、もう片方も後を追うように衰弱して死んでしまうと言われてるくらいだ。」
「随分不合理的な生き物なのですね。それでは繁殖が難しいでしょうに」
「エミリアが言うには「竜は力が強大すぎますから、自然界のバランスをとった結果なのでしょう」って言ってたよ。繁殖条件を難しくすることで、無闇に増やすことをやめたんだろうね」
「それで、その番の性質が今回の件とどうかかわってくるのですか?」
「……先にはっきり言おうね、ユーフェミア。エミール・リブレットは君を番に選んでしまった」
「は?」
ユーフェミアの口から、とてつもなく低い声が出てイリアもアーロンもびくりと体を震わせた。
眉間に皺を寄せて、しばらく考えるようにしたユーフェミアは、やがて絞り出すような声で「嫌なんですけど」と一言呟いた。




