第5話「決意表明」
「あ〜あ…」
ココロはバッティングセンターの休憩場のひび割れた鏡の前で口の中を覗いていた。口の中が切れており、まだ少し頭がぐらつき、頭を抱えるようにして歩く。
「大丈夫かい?…ココロ君。」
サユリの祖母が心配そうに駆け寄る。
「やったらやり返されんだよ…。」
サユリはソファに腰掛けて、物憂げに呟く。その視線の先には、今は動いていないマンソン君があった。
「あいつ…なにもんだ?」
ココロは悔しそうに、殴られた記憶を思い返した。常人とは思えない速力の拳だった。
「屑丘の帝王…って呼ばれてる。屑丘の大地主で、町の開発者。」
とサユリが詰まらなそうに答えた。
「独裁者:本郷時条一郎…彼に逆らったら町では生きていけないよ。」
和田富江は、そう告げて寂しそうに、奥の階段を登っていった。
「ここも終わりか…」
ため息と同時にサユリが吐き出す重たい言葉。ココロは一気に先ほどの殴られた記憶、黴呼ばわりされた記憶が蘇って来た。
「なぁ…それマジかよ。」
アクツがサユリに詰め寄る。いつになく深刻な表情だった。
サユリは何も答えなかった。重く静かな空気が圧し掛かる。
「俺が潰させねぇから。」
ココロが奥からやってきて二人に告げた。その空気すら跳ね除ける小さな含み笑いを見せる。
「どうやって?」
サユリが冷たく問う。
「DDを捕まえて、その報酬でここの借金を返す!簡単じゃねぇか!」
「無理だよ…。あんたはホントのバカ?」
「あぁ。俺は、ホントのバカだね。知ってるだろ?」
ココロの明るく突き抜けた大声が小さな響いた。
「なんでだよ…たかがバッティングセンターじゃん。」
サユリの目が潤み始める。それを隠すようにして俯いた。
「ここは、俺んちなんだよ!
もう誰かに大事な物を奪われたくねぇんだよ…」
そう言い放つココロの表情に、声に一切の迷いは無かった。笑顔すら見せていた。
凶暴で…滅茶苦茶で…馬鹿でうるさくて、でも優しい。ココロの笑顔がサユリの胸を引き締めた。その偽りのない笑顔が染み込んでくるような感覚だった。彼が過去に受けた重大な悲しみをこの小さな店に重ねてくれていることを知って、サユリも心が震えた。
「バカ…」
サユリは震えた声でそれだけ言って、その場を去った。残された者達の頭上を、彼女の足音が響いていた。
「泣いてた…」
アクツがいつになく真面目な顔で告げた。
「そっか?…」
ココロはとぼけて見せた。何か、覚悟を決めたような笑みをアクツにして見せる。
「本気か?」
「当然、本気」
そう言い終る前にすっと立ち上がった。そして一直線に歩き出す。前だけを見て、力強い歩みだ。
「おいおい!どこ行くよ?」
「帰る。」
ココロは一直線に自分の自転車に乗り込み、アクツに手を振っていた。
「明日、屑丘駅の改札で!」
ココロの背中がそう叫んだ。アクツは、ああなった進藤心を止める事ができないことは知っていた。あの目、あの歩み、あの笑み、彼に何の躊躇も、何のブレーキもないことはとっくに知っていた。
「さてと…バイト行くかぁ。」
そう言って、アクツも何事も無かったかのように帰っていく。
屑丘町の歓楽街とでも言うべき地区がある。歓楽街とは言っても潰れかけの小さなスナックや居酒屋、バー、風俗店が集まるような場所というだけである。
御門川の土手沿いの夜になると一際暗くなる一体に、夜になると小さな輝きを作る一体がそこである。きわどい服装の東南アジア系の女性が店の前で通る人皆に手を振る光景は、屑丘の小さな名物でもある。大都会の裏道がそのまま田舎に越してきたような感覚で、奇妙な光景は仕事帰りのサラリーマンの受けもいい。
その中でも、一際小さなスナック「バロン」。心の母親・進藤 雫がママとして働くスナックである。ウェスタン調の概観で、長年使い古して傷んだ看板が小さく、高々と斜めに架けられ、プラスチックシートに書かれた「閉店」の文字が虚しくドア前で風に揺れている。
「ただいまぁ。」
ココロがそのドアを勢いよく開いて現れた。その手には重たくぶ厚い本のような何かが握られていた。
中に入ると右手にカウンター席、左手にテーブル席があり、概観とはことなる小さな喫茶店のような店内だが、統一されたぶ厚いメルヘンチックなカーテンで覆われており一切の光は入り込まず薄暗い。カウンターの丸椅子で母・シズクが煙草を蒸かしていた。大きく力強い瞳は、心の親である証であろう。肩ほどまでの黒髪は、潤んだように輝いていた。店内には日本酒からウィスキーにワイン、様々な種類銘柄のワインが無造作にカウンターの奥に置かれていた。
「お帰り。早いね。」
シズクが煙を吐きながら答えた。
「今日は、俺、店手伝えないけどいい?」
「別に大丈夫。バイトの子も来るし。」
ココロは、偶に調理、食器洗いなどの店の手伝いをしている。寂れた店内外であるが馴染みの客も多く、平日夜など潰れない程度には繁盛していた。
店の奥へ入ると、ひび割れたタイルが敷き詰められた小さな小部屋からトイレ、風呂場へとつながり、そのさらに奥が雫の寝室となっている。そしてその生活区から伸びる忍者屋敷のような階段を駆け抜ければココロの部屋へと繋がっている。
6畳くらいの小さな散らかりきった部屋で、一昔前のゲーム機、一昔前の漫画本、週刊誌で足の踏み場もない。壁にはまた一昔前のグラビアアイドルのポスターが貼られている。また壁には殴られてできたような拳ほどの大きさの穴がいくつも空けれている、大きな二つの窓にはカーテンもなく隣の店の淡い光が入り込んでいる。そんな彼の部屋には、似合わない黒の写真立てには、高校時代だろうか制服姿のココロ、アクツ、サユリそしてもう一人、幼い顔つきの黒髪の少年が満面の笑みで写っている。
ココロは部屋に入るなりそれらの書籍類を一気にかき集めて力ずくで丸めてゴミ箱の中に放り込む、それから壁に立てかけてあったちゃぶ台を乱暴に部屋の真ん中に置いたかと思うと、ベッドの下、本棚から物を書き出すように何かを探している。集めたのは、油性ペンだった。何本か見つかった色、太さの不釣り合いなそのペンを満足げにちゃぶ台の上に置いた。そして先ほど、近所の文房具屋でかった500枚入りのコピー用紙の紙袋をまた乱暴にビリビリと破り始める。
そして一息ついたかと思うと、今度はその紙に油性ペンで一心不乱に何かを書き始めた。ただひたすらに紙とペンに意識を集中して、それ以外何も考えずにただひたすらに書き続ける。
進藤心に父親はいない。ココロが4歳の時に離婚して出て行ったらしい…母親からはどこかで生きているとしか聞かされていない。心も顔はぼんやりとしか覚えていない、人の顔と名前が覚えられない性分の自分を心はよく理解していたが、父親:心一の顔がぼんやりと浮かんでくるのは、心にも不思議なことだった。どんな人物で、どこで何をしているのかも…わからない。ただ時々、そんな父の顔が浮かぶのだ。
そんな時々思い出すだけの父親なんて心にとってどうでもいいことだった。今のココロは、目の前の紙とペン、バッティングセンター、そして大切な友達、それらのことで頭がいっぱいだった。しかしこれからのココロの選択が、意外な場所で父親に繋がることを、ココロはまた知らない。