私を呼んで
魔王の城は広大だ。遠い昔はただの朽ちかけの神殿だったというが、永い時の中で、自我のある高位の魔物達が魔王不在の間、勇者達に壊された場所や古くなった場所を修繕改築しつつも、少しずつ少しずつ増築を繰り返し、今の姿になったらしい。
魔物の王にふさわしい、禍々しくも妖麗な嵐の色の城。
長い永い時の中、魔王不在は百年単位で、しかも魔王が復活してから倒されるまで五十年も無いのが普通なのだから、なぜ増築が少しずつ少しずつだったのか疑問に思うかもしれない。けれど…………ここに来れば誰もがその理由を理解するだろう。理解せずにはいられない。
無闇に飾り立てるのではなく、ただ変わることない崇敬と忠節の念を以て、細部まで決して手を抜くことなくつくられた場所。王のための。逃れられぬ運命を永久に廻り続ける彼らの主のための。いつか攻めてくる勇者に王が倒されるまでの、その束の時間のためだけに魔物達は城をつくった。世界のために破られねばならぬ要塞。
カーテン、クッション、シーツ……布巾一枚まで、すべての布には細やかな刺繍が、壁にはどこも緻密な彫刻がなされ、いたるところに幾百の風景、幾千の植物、幾万の詩、数多の物語が刻まれている。
広間寝室浴室、書庫や調理場、また他に使われるのかすらわからぬ多くの部屋部屋。魔法がかかっているのか、埃が積もることすらない城。
どんな聖域よりも静謐な。
しかし、どれほど苦心し主のためを想ってつくろうと、魔物達が王の姿を見ることはない。彼らは魔王の復活の兆しを見れば城から立ち去る。王の姿を見ることすら畏れ多く、王が地上に存在するわずかな時間の一瞬たりとも自分達が妨げることを許さない。
すべては魔王のため、魔王の泡沫の時のために。
そこまで想われていて。
「あんた自分が恥ずかしいと思わないの? もうちょっと魔王らしく威厳を持ってよ。あ、でも偉そうなアヒルってすごくイヤな感じがする」
「グワッ」
遠くに高い灰色の城壁の見える緑あふれる庭。
物語では草木一本生えぬと語られる魔王の庭には、ほとんど自然のままのように草木が茂り、花が咲き、小川が流れ、一角には森もあった。そこでは兎やリスや何種類もの鳥たちなどが賑やかに生きている。
魔王に人語を教え始めてから早半月。上達は……している。ティアはまだ呼べず、でもなぜかそれより難しい気がする単語はだいぶ言えるようになった。
「おはよう」
「オアヨ」
「ありがとう」
「アイガトォ」
「ごめんなさい」
「ゴエンナアイ」
「………ティア」
「デエー」
なんでっ!? わざと言ってんじゃないのこのアヒル。明らかに私の名前は他の単語よりも簡単だ。しかも前のほうが上手に言えていたような気もする。
「いい? 挨拶もお礼も謝罪も大切だけど、人の名前っていうのも結構大事なの。相手を相手って認めることなんだから。ほらティアって言ってみなさい」
「デェデー」
「どんどん酷くなるのは何で……!」
「デデデー」
「違うっ」
アヒル魔王の前で膝立ちをしてクドクド言っていたら、弓矢を持って、この城で現在生活している私と魔王と使い魔の三人(?)の内の三人め、魔王の使い魔の黒髪の青年が庭に出てきた。
「またやってるのか、姫様よく飽きないなあ」
「上達は速いのよ。ほら」
「オアヨーアイガトーグワッ」
「不気味なアヒルだな」
微妙な感想をもらった。自分の王にやたらと遠慮の無い使い魔だ。朗らかに笑って片手に持った弓を揺らす。
「で、姫様何の肉が食いたい? とってくるよ」
「今すごく鳥肉が食べたい気分」
「わかった。魔王様以外の鳥ならとってくる」
「ングアッ」
魔王も使い魔の青年も本来食べ物を必要としない。食事をが必要なのは私だけだ。朝昼晩の三食自分で作って自分で食べる。材料は中庭で野菜を育てたり、小川で魚を釣ったり、城の食料庫を漁ったり、一週間に一度くらいはお肉を青年にとってきてもらったりして、なぜか調味料はそろっている調理場で料理する。そして魔王と二人(?)で食べるのだ。
アヒル魔王は必要ないはずなのに私の料理を一緒に食べる。青年は何も食べない。
食べないのにわざわざ鳥をとりに行ってくれた青年の後ろ姿を見送って、私は魔王に視線を戻した。
「今日の夕食は何がいいかしら」
「ニグー」
「え、あなた肉好きなの。とりあえず間違いなく今日はお肉だわ。私が悩んでるのは調理法」
「トリー」
「聞いてないわね、鳥はあんたよ」
「トリニグー」
「…………将来の夢?」
「グエッ!?」
とりあえず今日の夕食は鳥の丸焼きに決めた。
美味しい鳥肉でお腹いっぱいの私は、いつも通り中庭に出られる扉のある寝室でベッドに入る。
大きな衣装箪笥には良家の娘が着るような女物の服がぎっしりつまり、鏡の付いた化粧箪笥にはいかにも高価な装身具が並ぶ、庶民生まれには居心地の悪い魔王城での私の部屋。
居心地が、悪い。
「母さん、父さん……」
ふとつぶやくと、なんだかそれだけで辛かった。家族は皆元気にしているだろうか。――――会いたい。
ここは、ここでは誰も名前を呼んでくれない。魔王も使い魔も名乗らない。毎日自分の名前を叫んでいないと忘れてしまう。
十五年間ティアだったのに名無しになって、私が空っぽになったら、そうしたら、彼らは私をジネヴラ姫とよぶのだろうか。黒髪の使い魔は私の名など聞かないくせに、たまにジネヴラ姫の名は口にする。アヒルは、魔王は……。
『デーデデデー』
思い出したのは、何の曲だと突っ込みたくなるリズムで、夕食用の鍋のスープをかき混ぜる私を呼ぼうとする白なのか灰色なのか金なのかはっきりしてほしい色のアヒル。くいくいスカートを引っ張るからちょっと可愛いなんて思ってしまった。思い出すだけで頬が緩む光景。
「ああもう!」
暗い気持ちが吹っ飛んだ。やめやめ、暗くなってもしかたない。寝よう。そして明日こそはあのアヒル魔王にティアと言わせてみせる。
しかし、暗くなった後遺症だろうか。
滅多に夢を見ない私が、久々に夢を、それも不思議な夢を見た。
灰色、どこまでも灰色の陰気な空間。いっそ黒とか白とかにしてくれればはっきりして良いのに、と不平を言いたくなるようなどんよりした場所。
そこに私は立っていた。ポツンと、たった一人。
けれどなぜか恐怖は無かった。なんとなく、家から魔王城に転移したときにの気分に似ている気もした。
立ち尽くしているのも何なので歩き出してみたが、どこまで行ってもただ灰色一色で、上下も左右も前後も何もない。単色。怖くはなくてもげんなりしてくる。
「どうもー」
声を出してみた。小さな声だったのに、うもーうもーうもーとどこまでも響いていく。やめて、もう牛の声にしか聞こえない。そして何の反応も無し。
いや、違う。無いと思ったのに、微かなモーすら聞こえなくなったとき、ふいに景色が変わった。陽の差さぬ暗く鬱蒼とした森。そして気付けば、私はひとりの女の人を見ていた。同時に彼女から目をそらせず、身体も動かせないことに気付く。そもそも身体があるのかも不安な感じ。
自らが光源だとでも言うように輝く金髪を古風な形に結い上げたその女の人は、私から少し離れたところにある焚き火の向こうがわに座り、ふんふん歌いながらどぎつい色の七本の串刺しキノコを焼いている。
『三つの眠り、三つの眠り、昨日の眠りは夜のため、今日の眠りは君のため、明日の眠りは朝のため……』
古いわらべ歌だった。私より小さな子供が歌う歌。けれど優しげな声も長い睫毛も美しい面差しも、彼女のすべては歌と溶け合っていた。
『その歌、好きなの?』
聞いたことのあるような濁りのない、なのに透明というには何かが余分な男声。どこから聞こえたのかと思ったら、それは私から出ていたようだ。正確には私の視界の持ち主。顔を上げた女の人が私を見た。
息を呑むような碧眼。心の扉をそっと開いてくるような。
『好きよ。あなたは……ええと…………お嫌い……なの……』
聞こえぬ声を拾ったかのように、だんだん小さくなった悲しげな声。同じく悲しげな白い顔から、私が目下憑依中(?)の彼は一瞬だけ目を逸らし、でもすぐにゆるりと首を横に振る。
『別に嫌いじゃないよ、もっと歌って欲しいな』
その言葉に淡い色の唇がほころんだ。
『良かった』
三つの眠り、三つの眠り
けれど見果てぬ夜の夢
日すら追いやる夜の夢
終わることない夜の夢
天の嘆き、夜の歌
それなら朝の剣を持ち
夜を狩りに出かけよう
君と一緒に出かけよう
我らが勇者は今ここに
明日を越えて今ここに……
最後の一節が焚き火と森に吸い込まれるのと共に、私の視界から全ての景色が消え去った。
広がるのは、嵐の前の雲にも似た灰色の空間。
私は元の場所に立っていることに気付き、次いで自分が自分に戻っていることに気付いた。
ふっと意識が浮上していく。
朝のにおいがする。
目が覚めるその刹那、灰色のどこからか、狂おしいほど切なげな呟きが、聞こえた気が、した。
『いかないで…………』