綺麗な魔王は
大陸の東、人間の地と魔物の地の境である深い森から、さらに山と湿地帯と、巨大な奇石が群立する天然の迷路を抜けた先にある壮大な城。そこで百五十年ぶりに復活した魔王は………………アヒルだった。
「デー」
「違う。私の名前はティアよ」
「テェー」
合間にングァっと鳴き声を混ぜながら私を呼ぼうと努力する、白なのか灰色なのか金なのか判断に困る妙な色のアヒル。かれこれここでひと月ほど過ごしている私だが、こいつがアヒル語以外を喋れることを発見したのは数日前だ。それから頑張って人語を使わせようとしている。
これが魔王。禍々しい魔物たちの王。世界の歪みの核。
……うっそだあ。
「ティアよティア、そのぐらい言えなくて何が魔王よ。絞めて夕食に食べるわよ!」
「グエエエエ!」
「あ、逃げたっ」
私の一瞬の本気が伝わったのか、バタバタ走り去る普通よりちょっと大きいように見えなくもないアヒル。廊下で膝立ちしている間抜けな私。これが百五十年前から有名な悲恋物語の主人公、魔王と聖剣の姫君だなんて誰が信じるだろう。誰が信じたいなどと思うだろう。
それに、たとえ私の前世がお姫様だったとしても、今の私はただの人間、それも庶民、単なる宿屋の次女なのだ。
*******
昔々、誰も知らないほどの昔から、世界には魔王がおりました。それは世界の歪みの結晶でした。
魔物は人を襲い、天災もまた人を襲う。
魔王のために荒廃した大地を天の女神は嘆き、人間に剣を一振授け、そして、一人の人間をその持ち主としてお選びになられたのです。――――勇者。
魔王は勇者に討たれました。しかしまた数百年の後復活し、また勇者は選ばれ……。何度も何度も繰り返されたそれは、永劫に続くかと思われました。
しかし、違ったのです。
前代の勇者は南の小国カクタスの出身。彼は今までの勇者と同じく神聖の国リーオで聖剣を抜き、剣の守り手であった王女様や国一番の魔術師など四人と共に、東の果へと長い長い旅にでました。
勇者は流れ者だった剣士を無二の友と呼び、その剣士は姫君の歌でまどろみ、姫君の護衛の女騎士は老魔術師と己の苦労話に花を咲かせる。それが彼ら五人の常の姿でした。
何にも破られることのない絆。悪しき魔王を倒すという決意に結ばれた絆。日々強まると考えこそすれ、ああ、誰がそれを疑っていたでしょう。誰が、思ったでしょう。
人々の希望を背負って出立したはずの勇者一行に、魔王その人が混ざっていたなどと。人ならざる魔王に、世界の歪みに心があるなどと。
喜びも悲しみも憎しみも絶望すらも、すべてを越えてたどり着いた魔王城のカラッポの玉座の間。そこでひとり進み出た剣士が剣を捨て、仲間達に向き直りました。
『私が魔王だ』
たったひと言。それだけ言って、強い目で仲間を見まわしました。そこに宿るのは怒りなどではありません。ただ強い嵐のような悲しみ。または苦しみ。けれど激しい葛藤の後の異様な凪。
『お前たちが愛する世界の、その苦しみをいたずらに長引かせた事を詫びよう。しかし、これだけは言わせてくれ。魔王が存在するだけで魔物は活性化し天地は荒れる』
それは決して私自身の意思ではなかった。
そうして勇者達は、ただの剣士として振舞っていた彼が初めて魔法を使うのを見ました。誰もがその場に縫い止められ、視界を、声を封じられました。聖剣を持つ勇者の手が操られ、その切っ先を魔王の胸に当てます。やめろ、と勇者が悲壮な顔で口を動かしました。死ぬな、と。
『許せ、魔王は勇者以外に殺される事ができない。そういう運命だと定められている。……………すまない、友よ。お前に心からの謝罪と感謝を』
そう言ってずぶりと自分の身に聖剣を埋める魔王は、最後に美しい姫君に微笑みました。視界を奪われているはずなのに、姫君の涙に濡れた瞳はしっかりと魔王を見ています。驚愕と微かな理解と、怒りと深い深い絶望に染まった青い瞳。
――――愛していました。
口を動かすだけの告白、最後の吐息に全てを込めて、魔王は意識を手放したのでした。
今まで荒れ狂っていた空は急速に晴れ渡り、大きな窓からは陽光が差し込みます。でも自由と正常な世界を返された勇者達は、少しも誇らしい気持ちではありませんでした。
ただ魔王を倒すため、世界を救うために旅に出たはずなのに、なぜ世界を救って、けれど救われない気持ちになるのでしょう。答えなど決まっていました。
彼らの前で聖剣を胸に突き刺し倒れ伏している魔王は、どこまでも哀しい彼らの仲間のひとりでしか無かったのですから。
駆け寄った姫君の祈りも虚しく、目を閉じる魔王はさらさらと端から砂のように崩れていきます。
『すまないのは、こっちだ。お前にはすまないことなんて何も無いじゃないか』
震える声でそう言う勇者の手が、崩れゆく魔王の身体を貫いたままの聖剣に触れました。全ての穢れを浄化するという女神の恵み。思えば、その剣に一度も剣士は触れようとしなかったのでした。
『神に祝福されたという剣よ。お前が魔王と同化すれば、魔王の、我が友人の次の生は、少しでも呪われたものから遠ざかるのだろうか』
それは代々の勇者に受け継がれてきた聖剣への、世界への問い。
聖剣は人間には希望ですが、穢れきった魔物には猛毒です。魔王にもそうかもしれません。でも魔物の王であるはずの彼は穢れなく、清らかな心の持ち主でした。
ああ、ならば、きっと。
勇者は剣に触れたまま跪きました。その頬を涙が滑っていきます。
『どうか世界よ、罪なき王に祝福を』
混じり気のない真っ直ぐな感情を込めた持ち主の祈りに聖剣は応え、その光で魔王を包んで、魔王の亡骸とともに消え去りました。
玉座の間には、ただ、姫君の泣き声がいつまでもいつまでも響いていました――……。
*******
これがかの有名な前回の魔王と勇者一行の物語。そうだ、そこで終われば全て完璧な物語だった。なのになぜ復活したんだ魔王。しかも百五十年後、いつもより異様に早い。
そしてアヒルだ。魔王に似合わない、お日様の光を浴びてツヤツヤしている綺麗なアヒル。
「ほらティアと言ってみなさい!」
「デアーデアー!!」
「デアデアって何ー!」
「グエワッ」
バタバタバタバタ……足を必死に動かすアヒル。しかし大羽根と胴体をしっかり掴んだ私は今度は逃さない。
「おらおらネタは上がってんのよ。さっさと喋んなさい。ティアよティア、テとアが言えれば終わるのよ!」
「グエエエエエ」
「そのぐらいにしてやれよ、姫様。おらおらネタは上がってるって……どこで覚えたんだ」
一瞬アヒル魔王が喋ったかと思ったが違った。ものすごく気の毒そうな声は後ろから聞こえた。魔王を掴んだまま振り向けば、黒髪の青年。少し釣り気味の赤い目は心からの同情を湛えてアヒルに向けられている。
「お前も災難だなあ魔王様だってのに。うん、ジネヴラ姫は育ちが良い分お淑やかだったな、二階の廊下から庭まで追いかけて来るような脚力も体力もなかったし」
「グアッ」
「いきなり誘拐されて、アヒルに美しい姫と魔王の物語への夢を壊された私が一番災難だとは思わないの」
ジネヴラ姫というのは勇者一行の姫君のこと。私がひと月前、自分の家である宿屋の調理場で鍋をかまどに置き、そのまま振り向いた瞬間謎の城の謎の円陣の上に立っていて、そこでいきなり私の前世だと説明された今は昔の聖剣の国の王女様だ。
少女達が涙を流す定番の物語の姫君と魔王。
その姫君があんたであんたの目の前のアヒルが魔王だ、と見知らぬ青年に説明された私の気持ちを誰か察してほしい。
いろいろぶち壊しじゃないか。
そして私が作っていた朝食はどうなったのだろう。誰か続きを作ってくれただろうか。真横にいていきなり消えた妹に姉さんが卒倒してないかも心配だ。
この城でどれだけ過ごしても、帰るときはほとんど変わらないない程度の時間に戻してもらえると聞かなかったら、私はどうやってでも自力で帰ろうとしただろう。家族と鍋が心配で。
魔王が私を喚んだ理由は謎。だから帰るための条件も謎。
魔王の使い魔らしい黒髪の青年にまで知らないと言われたら、あとはアヒル魔王に聞くしかない。しかしアヒルは喋れない。ただいま人語練習中だ。ちなみに何でアヒルなのかと言うと……。
「魔王様がアヒルやってるのは、ジネヴラ姫がアヒル好きだったからだろ。なんか一回『あなたがアヒルだったら良かったのに』とか言われたらしいし」
そんな妙な姫君を愛した魔王すごい。というかその、じゃあ来世はアヒルになろうっていう魔王の発想もすごい。私は別にアヒルは嫌いじゃないが、特別好きってわけでもないぞ。あ、でも。
「食べ物としては好きよ」
「ングアッ」
「そんな変な鳥食ったら腹壊すぞ。あ、そういや……なあ姫様、何で魔王様が喋れるって思ったんだ?」
唐突に青年が聞いてきた。私は掴んでいたアヒルを睨みつける。あれは忘れもしない数日前。今までアヒル語しか喋れないと信じていたのに。
「こいつカラスとカラス語で喋って、そのあとヘビとヘビ語で喋ってたのよ」
「…………なるほど」
「グァッ」
魔王はとうとう私の手を振り切り、逃走した。
頑張れ私。