第八話 幻と朧の街②
そう思わずにはいられない澪だったが、それでも彼が料理を振舞ってくれたことには素直に感謝していた。
「あの……あり、がとう。その……とても、美味しかったです」
ぎこちなく礼を述べると、《言伝屋》はふと箸を止め、僅かの間、澪を見つめる。どうやら、澪が礼を口にしたことを意外に思ったようだ。だが、すぐに視線を戻し、素っ気ない口調で答えた。
「……そうですか」
それを聞いた澪は強い徒労感に襲われた。こちらとしては、かなり勇気を出したつもりだったのに。
(もう……この人、リアクションが淡白すぎて、何考えてるのかさっぱり分からない。ムカついてるならムカついてるって、はっきりと言ってくれた方がいいのに……)
《言伝屋》の男は、決して見た目の印象が悪いという事はなかったが、とにかく表情が読み取りにくい顔立ちをしていた。もともと喜怒哀楽が少ない上に、切れ長の瞳は何を考えているのか全く分からない。彼がもしスパイか何かだったら、間違いなく一流になっていたことだろう。
今も横目でそれとなく窺ってみるが、能面のような顔からはやはり何も読み取れない。澪は何だか無性に気まずくなって、下を向いてしまったのだった。
食事を終えてから澪は今度こそ店を出ようとする。一刻も早く、この街を出ていかなければならない。そんな強い使命感と焦燥感に、全身が駆り立てられていたのだ。
するとその時、再び《言伝屋》に呼び止められた。
「止めても聞かないでしょうから、先に忠告しておきます。街中を歩く際は、充分注意しなさい。日が暮れるまでには戻ってくるように」
日が暮れると、この街はさらに獰猛な気配を帯びる。それは澪も、初日に嫌というほど思い知らされていた。
ただでさえ、女の子の夜道の一人歩きは危険だ。澪も、夕方には戻ってくるつもりだった。
「……あと、分かっているとは思いますが、夢幻通りにはなるべく近づかない方がいい。あそこの住人は少々気性の荒いところがあります。それから……宵闇の門にも」
「宵闇の門……?」
「この街の出口……あの世に通じる門の事です。もし通ってしまったら、死んでしまいますよ」
母の亜季が潜って行った、二階建ての大きな門のことだと思い当たった。直視するのも恐ろしい、この世ならざる冥界の門。やはり澪が直感的に感じた通り、あの門はとても危険な存在なのだ。何があっても絶対に近づくまい、と澪は心に深く刻み込んだ。
夢幻通りというのは、派手な店が立ち並んでいたお祭り騒ぎの通りの事だ。あそこは明らかに人ではない、奇妙なモノノケが大勢いる。やはり、できるなら二度と近づきたくはない。
その時、ふと思いつく。《言伝屋》の男は人間なのだろうか――と。
確かに見かけは普通の人間だ。しかし、生きているのなら妙に落ち着きすぎではないだろうか。生者は幻朧街に対して強い不快感や抵抗感を覚えるのだと言ったのは、他でもない、《言伝屋》自身だ。それとも長年暮らしていると、このおかしな街にもすっかり慣れてしまうのか。
(このままこの街で生活していたら、あたしもいつの間にか慣れちゃって、何にも感じなくなるのかな? そして気づいたら、自分もモノノケになってたりして……)
内心で冗談めかして笑ったが、よく考えてみたら、何だか全くシャレにならない。
それ以上考えるのが何となく薄気味悪くなって、澪は強制的に施行を中断させたのだった。
昼間の幻朧街は夜間と比べ、表面上はいくらか落ち着いて見えた。
暫く歩くと、細い路地の奥に夢幻通りが見えてくる。昨日の晩は笛や太鼓の音でどんちゃん騒ぎだったが、さすがに今は静かなようだった。
(でもまあ、警戒するに越したことはないよね……)
そちら側には近づかないようにし、まずは《言伝屋》の左右に伸びる路地を散策してみることにする。
試しに、周囲をぐるりと歩き回ってみた。街には高低差がほとんど無く、何処まで行っても平地が続いている。そして、その上を埋め尽くす様に、木造の建物が並んでいた。店は夢幻通りなどの一部に集中しているのか、こちら側は普通の一軒家が多いようだった。
目の覚めるような白い漆喰に、木目の窓枠や戸。互いの色が良く映え、とても美しい。よく見ると、建物自体のデザインはバラバラだ。大きい建物もあれば、小さい建物もある。しかし、屋根瓦は全て灰色で統一されていた。それが街全体に独特の風格と気品をもたらしていた。
これほど木造の建物しかない街並みを、澪は他に目にした事が無い。一瞬の間、自分の置かれた状況も忘れて街に見惚れてしまった。そして同時に圧倒され、感動すらしてしまった。
しかし、澪はそのまま歩いてるうちに、次第に違和感を感じるようになる。
確かに幻朧街の街並みは優美であり、壮観でもあったが、同時に他を簡単に寄せ付けない冷たさがあった。一糸乱れぬその様はどこか現実感を欠き、無機質であり尚且つ威圧的でもあった。
立ち止まって周囲を見渡す。この街は確かに美しい。けれど、その美しさは残酷で、異常だ。異物の存在を徹底的に許さぬその光景は、何だか畏ろしくさえあるような気がした。
澪は、探るようにそろそろと再び歩き出す。
《言伝屋》の言った通り、街はかなり広いようだ。澪が歩いているのは二車線ほどの、かなり広めの街路だが、その左右には細い裏路地がいつも繋がっていて、覗くとどれも網の目のように複雑に入り組んでいる。
おまけに、どこも人影が全くと言っていいほど無かった。路上だけではない。建物は無数にあるのに、どの家屋も静まり返っているのだ。
民家の門や扉はどれも厳重に封鎖され、何者の侵入も拒むかのようだ。立派な庭付きの家もあり、植木が綺麗に刈り込んであるが、どれだけ覗いても住人の姿は見えなかった。
そう――静かすぎる。
車のエンジン音や足音が無いのはおろか、人のいる気配そのものが全くしない。まるで人間だけがすっぽりと切り抜かれた、殺伐とした風景画のようだ。
(そういえば……初めてこの街で目を覚ました民家……あそこも人けは無かったな)
廊下や畳、柱や欄間――家の中は全てきれいに掃除されていて、塵一つなかった。あの状態を保とうと思ったら、一人や二人だけの力では絶対に無理だ。それなのに、座敷のどこにも、人の姿は見えなかった。
あそこで感じた違和感は、あの家だけのものではなく、この街全体のものなのだ。
ただ、それだけならまだ普通の街だと思えただろう。外から見えないだけで、家屋のどこかにきっと家人はいるのだと、そう自分を誤魔化すこともできたかもしれない。
人の姿は見えないのだが。
家屋と家屋の隙間、石畳の間。崩れた土壁の向こうから、得体の知れない何かの息遣いを微かに感じるのだ。
うなじの辺りの産毛がさわさわと、逆立った。――間違いない。何かに見られている。それは強い好奇心と僅かな警戒の入り混じった視線で、こちらの様子をつぶさに観察している。
しかし、どれだけ視線を感じても、やはり肝心の姿は見えない。板の継ぎ目や床下の通気口、朽ちかけた看板の影。どれだけ探しても、何の発見も得られなかった。
まるで街全体がひっそりと息を潜めてこちらを窺っているようだ。
不意に地面がぽっかりと抜け、底なしの闇に引き擦りこまれるような感覚に陥った。自分の足元が揺らぎ、根底から音を立てて崩れていく感覚。無力な澪は、されるがままに呑み込まれるしかない。
ひょっとすると自分は、そういった限りなく不安定な場所に立っているのではないか。
背筋がぞくりと粟立ち、澪は慌ててその不穏な想像を打ち消した。
気のせい、気のせい。知らない土地に来て神経が過敏になってるんだ、きっと――
ギイイイイッ……!
鋭い、獣のような鳴き声がし、ぎょっとして上空を振り仰ぐ。翼を広げた小さな影が、家々の向こうに身を翻して消えていった。何かの鳥だったような気がするが、鳥にしては妙にずんぐりとしているような気もした。
「……しっかりしなきゃ。こんなところで、びくびくしてる場合じゃない……!」
己を鼓舞するように息を一つ吐きだすと、澪は再び街に注意を戻す。
通りを移動するにつれ、時々、表札のようなものが掛かっている家があることに気づいた。だが、どれもおかしな模様が描かれており、文字は全く読めなかった。標識も同様だ。看板も大部分が読めない文字で書かれている。
更に歩を進めると、もっと奇妙な光景に出くわすようになった。
何事か書き込まれた絵馬が、びっしりと掛けてある区画があるかと思えば、釘で打たれた藁人形で埋め尽くされている区画もある。別の区画では色とりどりの玩具の風車が一斉に回っていた。からからと乾いた音をたてて回る無数の風車は、妙にもの悲しさを感じさせ、何故だか胸の潰れそうな気持になった。
逃げるようにしてそれらの通りを抜けると、今度は等間隔にひし形の紙が張られてあるのを見つける。そこに描かれた模様は、昔流行った陰陽道の魔よけを思わせた。でも、やはり文字は見たことのないものだった。平仮名ではないし、片仮名でも漢字でもない。
その真下に鎮座している、蛙の様な異様な姿をした石像は、何かの神様だろうか。花や菓子、見たことのない硬貨などが供えられ、お地蔵様みたいに赤い前掛けまで着せられている。
しかし、目はギョロッとしていて口の隙間からは獰猛な牙が覗き、とてもではないが、何かありがたいご利益があるようには見えなかった。
初めてここを訪れた日の晩には異様な街だと思ったものだ。今は昼間で、モノノケの姿もないし、街を覆う濃い闇もない。
しかしこうしてみると、細部まで観察できる分、昼の方が更に不気味であるようにも感じられた。澪は改めてどこか知らない世界に迷い込んでしまったのだという事を強く感じずにはいられなかった。
三、四時間ほど歩き回っても、街に関して新たに分かったことは殆ど何も無かった。入口はおろか、街の端にも辿り着けない。この街はどうやら、澪が当初思っていたよりずっと広大であるようだ。
一つでも《言伝屋》の言葉を否定するような材料が見つかれば安心もしたのだが、いい情報も悪い情報も、欲しいものは何一つ手に入らなかった。
澪はがっかりする。
せめて、何が書かれているか分からない標識だけでも読むことが出来たなら。
しかし、一つだけ発見もあった。街の向こうに小高い山と、神社の鳥居があるのが見えたのだ。平坦な街並みの中で、そこだけこんもりと緑が茂っている。おまけに、鮮やかな朱色の鳥居。否応なしに目立った。
ところが、一つ問題がある。澪のいる地点からだと、夢幻通りを渡らないと、そこには辿り着けないようなのだ。
「どうしよう……でも、あそこに行けば、何かあるかも……」
夢幻通りは怖ろしくはあるが、やはり神社や鳥居に興味をそそられた。神社には神聖なイメージがある。そこならば、何か信じられるものがあるかもしれない。
ずいぶん迷ったが、結局、神社に対する期待の方が、夢幻通りに対する恐怖よりも上回った。何より、これだけ歩き回って収穫なしというのは耐えられない。
澪は夢幻通りに注意深く近寄り、物陰から通りの中を覗いてみる。夜はどの店も開いていて、賑やかだった。
でも今は昼間という事もあり、殆どの店は準備中なのだろう。店の六割は閉じていた。
それでも数人の人が通りを行き来しているのが見えて、澪はどきりとした。一見すると、みなごく普通の人間の姿をしている。格好も、ズボンやスカート、Tシャツにブラウスなど、普通の服装の人たちばかりだ。
(でも、あの人たちは死んでる人なんだっけ……)
――まあ、あくまで《言伝屋》の言葉を信用するなら、だが。
死者は皆、物珍しそうに店を覗いたり楽しそうにしていた。まるで観光客のようだ。彼らはここで《未練》を晴らすのだろう。
最後にこれが食べたかった、一度でいいからこんな事をしてみたかった――そして、あの世へと渡る準備をするのだ。
(どうしよう……話しかけちゃいけないわけじゃないんだよね? あの人たちが初めて街に来た時の場所を聞いて回ったら何か分かるかな……?)
死者がこの街に現れたポイントを突きとめていけば、何か法則性があるかもしれない。入り口の場所は掴めないにしても、何かが浮かび上がる可能性はある。
大体《言伝屋》の話がすべて本当だと決まったわけでもない。彼はただ、この街から出ようとする意欲が足りなかっただけかもしれないではないか。
結論を出すにはまだ何もかも早すぎる。
そう考えると希望が出てきて、澪は明るい気持ちになる。とりあえず、まずは最も気になっている神社のところへ行ってみることに決めた。
澪は夢幻通りの中の、最も閉じている店が密集した区画へと移動した。人の波が途切れた頃を見計らい、向こう側へ走って渡る。ドキドキしたが、何事もなく通り抜けられた。夢幻通りの住人に見咎められることもない。
こうなってくると、何だかちょっとした冒険のようだ。
そのまま意気揚々と、神社を目指して歩き続けた。民家ばかりの平坦な街の中で、小高い山はどこからでもその存在を見つけることができるので、迷う事は無い。
程なくして、澪は神社の麓に辿り着いた。その入り口には、やはり朱塗りの立派な鳥居が立っている。遠くから見えた通りだ。
ところが、その鳥居を潜ろうとしたのだが、太いしめ縄が幾重にも張られ、入り口を完全に塞いでしまっていた。しめ縄は、事件現場などで警察が張る規制線さながらで、見るからに他者の進入を拒絶しているように感じられる。
おまけに両脇にいる狛犬に目をやって、澪はぎょっとした。
それは明らかに犬ではなかった。というか、もはや何なのかも分からない。
手や足は全部で十本近くあるし、頭と思しき出っ張りには、眼球や嘴があらぬ方向を向いて、てんでばらばらにくっついている。直視するのが躊躇われるほど異様な石像は、何故だかこちらを睨みつけているような気がして、澪はすこぶる居心地が悪かった。
「普通の神社じゃ……ない………?」
澪は、鳥居の奥に伸びている、山頂に向かう石階段を見上げた。苔むし、草に埋もれかかった古びた階段は、途中から鬱蒼とした木々に阻まれ、やけに暗い。どれだけ首を捻ってみても、その向こうを見通すことは出来なかった。
昼間だというのに、山の頭頂部はやけに濃い闇に包まれていた。そして、やはり街と同じく、ひっそりと静まり返っている。下から見つめていると、まるで吸い込まれそうだった。
呑み込まれれば、二度と戻って来られない――そんな混沌の暗闇。
見ているだけなのに、嫌な予感で背筋が寒くなってくる。とてもではないが、その石段を上る気にはなれなかった。これを登ったら最後、地上には戻って来れなくなってしまうのではないか。そんな禍々しい想像さえしてしまう。
どうしよう、せっかくここまで来たのに。何かあるかもと、期待して来たのに。
鳥居や狛犬の前を行ったり来たりしてみたが、決心は固まらなかった。現世に戻りたいという気持ちは、時間が経つにつれて強まるばかりだ。
でも、この街に対する警戒心もまた、同じくらい強いものとなっていた。それどころか、奇妙な狛犬や立ち塞がる闇を眼前にし、冒険心や好奇心はきれいさっぱり削がれてすっかり怖気づいてしまっていた。
「ここは……また今度にしよう………」
自分に言い聞かせるかのように小さくそう呟くと、澪は数歩、後退りをする。そして、身を翻すともう二度と振り返らなかった。そして、逃げるようにしてその場を後にしたのだった。
それから澪は、夢幻通りの方へと戻った。
先ほど走って通り抜けられたことで、夢幻通りに対する警戒心は幾分か和らいでいた。再び物陰から路地を覗いてみると、やはり死者とみられる人々が呑気に歩いている。そこで自分の思い付きを試してみようと思いたった。
死者への接触と聞き取りだ。
生者である澪と違って、死者である彼らは魂だけの存在――言わば幽霊のようなものらしい。
だが、不気味さや恐怖といったものは、彼等から全く感じなかった。通学途中の電車の中で一緒になる他の学生やサラリーマンと、何ら変わらない。その為、近づく事も声をかける事も、それほど抵抗感は無かった。
夢幻通りの中で、昼間でも営業している店の一つを覗いてみる。薄暗い店の奥には相変わらず、ずんぐりとしたシルエットの人外の者が店番をしていた。澪はぎょっとし、見つかるまいと慌てて身を隠した。そして、閉じている店が多く集中している区画に移動し、たまたま通りがかった死者に声を掛けてみる。
それは三十歳ほどのサラリーマンだった。
「え? どこから来たって? 覚えてないなあ……いつの間にかここにいたんだよ。君も死んだの? 若いのに大変だねえ。……って、俺も人のことは言えないか。
ああ、そうそう。実は俺、すっごいラーメンが好きだったんだよね。仕事の合間にあちこちで食べ歩きするのが趣味だった。ブログで感想書いたりラーメン日記とかつけたりして、これが結構人気だったんだよ。ああ、ラーメン食いてえなあ。どっかいい店、知らない?」
澪はぶんぶんと首を横に振る。
「そっか……まあ、女の子ってあんまりラーメンとか興味ないよね。太りそうとか、すぐ言うし。そんなこと言ってたら、何も食べられないじゃんって思うんだけど……そう思わない?」