第六話 舞阪澪④
しかし一方で、澪はそれを馬鹿げたおとぎ話と完全に振り切る事もできないでいた。
この街には、人ならざるモノノケたちが溢れ返っている。奇妙で不思議で、得体の知れない、恐ろしい街。何もかもが現実味を欠いているという点で、男の言葉は真実をついている。
それに、彼の説明には余計な抑揚が無い。ただ、事実だけを淡々と告げているようだった。それが荒唐無稽な話にどこか真実味を加えていた。
「知らない……何の事? ワケ分かんない話、しないでよ……!」
声が震えた。澪は抵抗するように、いやいやと首を横に振る。
しかし《言伝屋》は動じることなく、静かに告げた。
「あなたのお母さんはもう二度と戻っては来ません。行きなさい。その方がお互いの為ですよ」
男の口調はあくまで平坦だったが、何故だか有無を言わさせぬ迫力があった。
澪はそれに完全に圧倒されていた。初めて、《言伝屋》の顔をしっかりと見つめ返す。
彼の真っ黒な双眸と、視線が交差した。海の底を覗き込んだような、底知れない洞。冷やりとした感触が胸の内を撫でる。
皮肉なことに、それがうまい具合に鎮静効果をもたらした。荒れ狂っていた澪の感情が、嘘の様にすっと落ち着いていったのだ。
「お母さん………」
思わずそう呟いていた。確かに冷静に考えてみれば、このまま亜季を放っておくわけもいかない。この街から親子二人、一緒に脱出しなければ――澪一人が助かっても意味は無いのだ。大体、この奇妙な街の中で、一体どこへ行くというのだろう。
このまま離れ離れになってしまう前に、一刻も早く、連れ戻さなければ。
澪は亜季を追って、急いで走り始めた。
暗い路地の中を、僅かな街灯の明かりを頼りに走っていく。すると、すぐに亜季の背中が見えてくる。どうやら、亜季はさほど速いスピードで歩いてはいなかったようだ。もしかしたら、わざとかな――澪はそう思った。澪が追いかけて来るだろうことを予想し、故意に歩調を緩めていたのかもしれない。
「待って……お母さん、待って!」
振り向く亜季。安堵したようなその表情を見た時、やはりと思った。亜季もまた、澪が追ってくるのを待っていたのだ。
意地を張らず、すぐに動いて良かった――そう思いながら小走りに駆け寄っていく。
しかし澪は、次の瞬間、亜季の向こうにあるものに気づき、ぎょっとして思わずその場で足を止めた。
そこには通路一杯を塞ぐかのような立派な門が立っていた。大きなお寺の入り口などにある、二階建ての荘厳な門だ。周囲の建物が低いせいだろうか。その門は見かけ以上に巨大で、押し潰されそうなほどの威圧感を放っていた。
澪は何故だかその門に近づくのがとてつもなく恐ろしく思えて、その場に立ち尽くしてしまう。
「……澪? どうしたの?」
足を止めた娘を不思議に思ったのだろう。亜季の方から澪に近づいて来た。澪は両手で自分の腕を掻き抱いた。
異様な寒さが全身を襲う。先ほどの店――《言伝屋》の中にいた時には、そんなことなかったのに。
この歯の根がガチガチと音を立てるほどの悪寒は、あの禍々しい威容を放つ門が原因なのではないか。
「お母さん、あの門、何だか怖くない……!?」
尋ねると、亜季も門の方を見つめる、しかし、その瞳の中には、澪のような恐れはない。
「……そう? そうかもしれないわね……でもお母さん、これからあの門の向こう側に行かなきゃいけないの」
あの門の向こうに? 澪は耳を疑った。正気だろうか。本気でそんなことを言っているのだろうか。あの門は、見るからに普通の門ではない。何なのかは分からないが、あの門から吹き付けてくる冷気交じりの不吉な風は、絶対に近づいてはならないと本能に激しい警告を告げてくる。
そんな門を潜ろうだなんて。信じられない。いや、仮に本気だとしても、そんな事、絶対にさせるわけにはいかない。
澪はすがりつく様にして亜季の両腕を掴む。そして精一杯訴えた。
「お母さん! お願いだから、何処にもいかないで! ……一緒にいよう? それじゃ駄目なの!?」
先程まであれほど意固地になりくすぶっていた感情は、門を目の当たりにした途端、粉微塵に砕け散っていた。
ここで亜季を止めなければ。そうしなければ、二度と手の届かないところに行ってしまう。それは予感というより確信に近かった。
「澪……」
亜季は戸惑った様な、困ったような様子だった。
澪の気持ちが分からないわけではないのだろう。でも同時に、亜季はあのおどろおどろしい門に強く惹きつけられている。現に今も、ちらちらと頻繁に視線を送っている。
澪は一瞬躊躇する。言おうか、どうしようか。そもそも、今言うべきなのか。迷っていると、《言伝屋》の言葉が脳裏に甦って来た。
お母さんときちんと話をした方がいいですよ――――――
結局、俯きながら呟いた。
「あたし……あたしね、弁護士になりたいと思ってたの」
「え……?」
亜季は完全に虚を付かれたような顔をしている。それを目にし、澪は猛烈にきまりが悪くなった。やはり、言うのではなかった。しかし、もう遅い。
「お……お母さんのように、カッコいい女の人になりたいって小さいころから思ってたんだ」
父が亡くなった日の事を今でもよく覚えている。亜季が澪の前で泣いたのは後にも先にもそれが最後だった。澪の目に焼き付いているのは毎朝、ピシッとスーツを着こなし、颯爽と家を後にする亜季の姿だ。その後ろ姿に、どれだけ励まされただろうか。片親でも淋しくなかったし、肩身の狭い思いをすることも無かった。
澪の自慢のお母さんだった。
「でもあたし、頭良くないし、テストの点数も偏差値も良くない……お母さんとは全然違う。自分でもよく分かってるから……は、恥ずかしくて言えなかったの!」
真っ赤になりながら説明する。きまり悪さを隠すため、まくしたてる様になってしまった。話し終わって、ぜえはあと、息継ぎをするほどだ。
でも、すぐに息を整え、亜季を正面から見つめて口を開いた。
「自分に何が合っているのか……他に何ができるのか、確かにまだ全部決めたわけじゃないよ。でも、あたしもお母さんみたいに、誰かの力になれる仕事がしたい。お母さんが弁護士として、たくさんの人の相談に乗って力になって来たように、あたしも人の役に立ちたい。……それだけは本当だよ」
亜季は黙ってそれを聞いていたが、やがて優しく微笑んだ。
「……そっか。澪はお母さんの事、そう言う風に見ていてくれたんだね。私、少しはいいお母さんだったのかな……?」
亜季はそう言うと、一歩、澪の方へ近づいてきた。そして澪の体をぎゅっと抱きしめると、耳元で小さく囁いた。
「澪、大好きだよ。生まれてきてくれて、本当に良かった。……ありがとう、私たちのところに来てくれて」
母にこうやって抱きしめられるのはいつの頃以来だろうか。友達と喧嘩した時、飼っていたインコが死んでしまった時。甦って来るのは温かい記憶ばかりだ。
いつでも側にいて、守ってくれた温もり。目頭が熱くなり、鼻の奥がつんとした痛みを帯びる。
「……じゃあね。お母さん、行くね」
しかし亜季の声が小さく震えているのに気づき、懐かしい気分は吹っ飛んでしまう。
――どうして。行くって、どこへ?
「お……お母さん……?」
しかし、戸惑う澪をよそに、亜季は澪から体を静かに離した。
その時、地響きのような轟音が空気を切り裂く。まるでこの世を呪う死霊の呪詛のような、禍々しい絶叫。
澪は、はっとして禍々しい存在感を放つ門に目を向ける。古い木材が軋む音と共に門の扉が開き始めていた。
その向こうからごう、と吹き込んでくる風に、澪は思わず身震いする。実際に感じる温度は生ぬるいほどだ。しかしそれが肌に触れると、体の奥で凍るような冷たさへと変わっていく。生命活動に必要な体温を、エネルギーを、全てを奪い去っていくかのような闇の息吹。
澪は全身から血の気が引いていくのを感じた。先ほどから感じていた悪寒が一層、強くなっていく。指の先がかじかみ、全身の産毛が逆立ち、思わず背を丸めてしまう。
「何……? 何なの……!」
澪は一歩もそこから動けなくなってしまった。歩き出そうにも、足は鋼の塊をぶら下げたかのように重く、上半身がバランスを崩してその場にへたり込んでしまう。そうしている間にも、門の扉は開き続け、その向こう側が顔を覗かせる。
ところが澪は、門の向こう側を直視する事が出来ない。それはとてつもない高所から真下の地上を見下ろす時の、足が竦む感覚に似ていた。全身がふわりとし、くらくらして、思わず目を閉じてしまう。
全身に鳥肌が立ち、冷たく気持ちの悪い汗が滲んだ。
絶対的な恐怖。
しかし亜季は澪とは違い、穏やかな顔で門に向かって歩き出していた。迷いのない足取りは、まるでその向こうに導かれているかのようでもあった。
追いかけよう。追いかけて、腕を掴んで、こっち側に引き留めよう。そう思うが、足が動かない。頭の中ではそれを望んでいる筈なのに、体は別人のものになってしまったかのように、言う事を聞かなかった。気持ちばかりが空回りし、焦りが募る。
「待って……どうして? どうして行っちゃうの。戻ってきて、お母さん! ……お母さん‼」
澪は力の限り叫んだ。叫ばずにはいられなかった。喉が潰れてもいい。肺が千切れても構わない。生まれて初めてと言っても過言ではないほど渾身の力を込め、繰り返し叫んだ。
その声が届いたのだろうか。
亜季は一度だけこちらを振り向いた。
その顔は暗闇に沈んでしまっていて、どんな表情をしているかは、澪のところからはよく見えない。
泣いているのだろうか。それとも、穏やかにほほ笑んでいるのだろうか。
ただ、唇が動いた気がした。「ごめんね」――そう言った気がした。
「お母さっ………!」
澪は短く叫んだ。その姿を掴もうと、どこへも離すまいと両手を伸ばす。
しかし亜季は身を翻すと、門の向こうへと足を踏み入れた。
そして、黒々とした夜の海、その波間に呑まれるかのように。
そのまま闇の向こうへと姿を消した。
「お……お母さん……」
伸ばした両手は、空しく虚空を掻き、落下した。
澪は茫然としてそれを見つめていた。つい先ほどまで母のいた場所、いた筈の空間を穴の開くほど見つめる。しかし何かが見つかる筈もない。まるでそんな人物など最初からいなかったかのように、何もかもが空虚だった。
頭の中が真っ白になって、何も考えられなかった。その場に座り込んだまま、呆けたようにただ眼前の光景を見つめていた。
呆然とする澪を嘲笑うかのように、門は再び動き出した。その重厚な扉は、開いた時と同じように、軋みを上げながら閉じていく。重々しい重低音がこれでもかと響き渡った後、門の扉は完全に閉じられてしまった。あとは何事もなかったかのように元通りだった。
突き放すような静寂が一帯を包む。
どれだけで座り込んでいただろう。唐突に澪はのろのろと立ち上がった。全身が異常な気怠さを訴える。鉛のような体を引きずり、恐怖心を隅へと追い払いながら、何とか門へと歩み寄った。
冷たい、木目の扉。古い木造建築物特有の、黴臭い木の匂いが鼻を刺激する。
最初は恐るおそる触れてみる。門は動かなかった。渾身の力で押してみる。やはりびくともしない。叩いても蹴っても、古びた扉は最早ピクリとも動かなかった。
「どう……して………。あたし、どうすればいいの………?」
澪はその場に立ち尽くした。感情が麻痺し、うまく機能しない。ただ、肺が求めるままに短く呼吸を繰り返した。
母は――亜季はこの向こうに行ってしまった。そして澪の直感が正しければ、おそらくもう二度と戻っては来ない。何故だかは知らないが、澪は取り残されてしまったのだ。
「あたし……どこへ行けばいいの……?」
力なく呟いてみるが、返答がある筈もない。こんなわけの分からない街で、一体何をどうすればいいのか。さっぱり分からない。
それでも、すぐに門の前を離れる気になれず、澪は暫くそこに留まっていた。もしかしたら――亜季が戻ってくるかもしれない。そんなわけはないと分かってはいたが、ほんの僅かな可能性に縋らずにはいられなかった。
それでも、やはり門の扉は開かない。
「どうすれば……いいのよ……?」
澪はただ、まるで小さな迷子の子供のように、途方に暮れていた。
◇♦◇♦◇◇♦◇♦◇◇♦◇♦◇
小一時間後。
夜が明け始めていた。東の空が僅かに白み始めている。
夢幻通りの店の中には店仕舞いを始めるところも出始めていた。居酒屋や遊郭、賭博場などがそれだ。しかし、逆に新たに店を開く店舗もある。幻朧街は夜の艶やかな騒々しさから静かな昼の顔へと移行しつつあった。
《言伝屋》の周辺は静謐な空気に包まれていた。普段から人通りは少ないが、この時間帯になると皆無になる。そんな中、《言伝屋》の男――幽幻は店の前で煙管に火をつけた。
そして、じっと待ち続ける。彼女が戻って来るのを。
程なくして、路地の向こうからとぼとぼと学生服を纏った人影が歩いて来るのに気づいた。
幽幻が待ち受けていた少女――確か、名を澪と言ったはずだ。
「……お別れは済みましたか?」
幽幻は声をかけた。しかし、澪は俯いたまま答えない。暫く無言で呆けたまま立ち止まっていたが、やがてぼんやりと足元を見つめるその両の瞳に、こんもりと滴の塊が盛り上がった。そして次の瞬間、その場にしゃがみ込む。
幽幻が半ば呆気に取られてそれを見つめていると、澪はそのまま、わあわあと泣き出してしまった。
必死で押さえつけていたものが溢れ出してしまった――そんな様子だった。彼女の母親はこの街を去り、二度と戻れぬ黄泉の世界へと旅立ってしまったのだろう。おそらくもう二度と戻っては来るまい。
この幻朧街では、何百、何千と繰り返されてきた光景だった。
澪はしばらくその場で泣き崩れていた。
幽幻はそれ以上声を掛けることはしなかった。下手に慰めても、それがほとんど意味を成さない事をよく知っていたからだ。
やさしい言葉を並べ連ねたところで、彼女の前に立ち塞がる現実は変わらない。
また、澪自身もそれを望んでいないような気がした。軽々しい言葉でお茶を濁されるくらいなら、慰めなんて要らない――そういう、ある種の拒絶があるように思われたのだ。
しかし、だからと言って放っておくわけにもいかない。生者は、この街では一人で生きていけないからだ。
幽幻は無言で彼女の震える小さな肩を見つめていた。煙管を口元に持っていきかけたが、運ぶ手を止め、そのまま下ろす。
ただ、その煙管の先から薄っすらと白い煙が立ち上り、早朝の静かな街並みの中に消えていった。