第三話 舞阪澪①
今回のお話から登場する『舞阪澪』という子が、このお話の主人公です。女子高生はムズカシイ……ですが、頑張りたいと思います。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
生徒たちは一斉に弾んだ声を上げ、下校の支度に取り掛かる。
舞阪澪もまたざわめく廊下を抜け、階段を下りて下駄箱へ向かった。
県立城南高校はテスト週間に入っていた。中間・期末考査の一週間前はテスト週間と呼ばれ、全てのクラブ活動が強制的に停止されるのだ。
澪もいつもならテニス部の部活棟へ向かっていただろう。部活動は大好きで、学校の授業よりのめり込んでいるほどだ。しかし、規則があるので今日は下校するより仕方ない。
そして靴を履き替え、いざ帰ろうと外に目を向けたのだが、目の前の惨状に思わずがくりと肩を落とす。
昼を過ぎたあたりからパラパラと小雨が降り出していた。それが今や本格的に降り始めている。
「あー、油断するんじゃなかった」
朝も既にずっしりとした雨雲が垂れ下がっていたものの、雨はまだ降っていなかった。少し悩んだが、荷物になるのが嫌だったので、結局、傘は家に置いてきてしまった。
それが判断ミスだったのだ。
鞄の中を探るが、こういう時に限って折り畳み傘もない。これからバスと電車を乗り継ぎ、帰宅しなければならないのに。
家に帰る頃にはずぶ濡れだろう。まったく、今日はついていない。
少し待ってみたが、一向に雨が降り止む気配はなかった。溜め息を一つつくと、澪は意を決し校舎を飛び出した。バスの停留所には屋根がある。そこまでの辛抱だ。
五月も半ばに差し掛かり、ずいぶん暖かくなってきたものの、雨が降ればまだまだ肌寒さを感じる頃合いだ。見る間に制服が水分を吸い、ずっしりと肌にへばりついてくる。澪は早くも憂鬱になった。明日、風邪をひかなければ良いのだが。
校門まで小走りに駆けたその時、すぐそばに一台の軽自動車が滑り込んでくる。
見慣れたライムグリーンの車体。澪は驚きの声を上げた。
「……お母さん!」
「澪、乗っていきなさい」
運転席から澪の母、亜季が顔を覗かせる。白いブラウスに濃い灰色のスーツとパンツの上下。彼女のお気に入りの仕事服だ。澪が助手席に座ると、亜季は再び車を走らせた。
「どうしたの? 仕事は?」
澪は濡れた制服をハンカチで拭いながら尋ねる。
亜季は弁護士事務所で弁護士として働いていた。いつも忙しそうにしており、こういう風に登下校を送迎してもらうのは一年に一度あるかないかの奇跡だった。
車で送ってもらえるなら、酷い雨でも濡れずに済む。先程の憂鬱な気分もどこへやら、澪はすっかり得をした気分になっていた。
亜季は悪戯っぽく笑った。
「今日、ちょうどここの近くの依頼者のお宅にお邪魔することがあってね。そしたら予定より早く用事が終わって、ちょっと時間が空いたのよ。もしかしてって思って近くを通ったら、偶然、澪が出てきたから。雨も降ってることだし、たまには親子のコミュニケーションをとらなきゃって思いついたわけ」
「うわ、メンドくさっ」
澪もおどけて肩を竦める。
とはいえ、母とゆっくり会話するのは澪にとっても久しぶりだ。部活や勉強、友人との携帯電話でのやり取りに忙しく、ここ最近は家に帰っても二人でゆっくり会話することが無かった。
澪の母、亜季は所謂シングルマザーだ。澪の父は澪がまだ子供の頃、事故で亡くなった。それ以来、亜季と澪は親子で助け合うようにして生きてきた。仲も良い。多少の口げんかはあっても、大きな喧嘩はした事が無かった。
それでも最近は昔に比べると二人で話す機会が減ってきたように思う。澪も、もう高校生だし、亜季の仕事も軌道に乗って忙しくなってきた。それらが原因の一つだろう。どちらかが避けているというよりは、自然とそうなってしまったのだ。
(まあ確かに、たまにはこういうのもいっか。お母さんと話すのも久しぶりだし。昔……って言っても、二、三年前だけど、よく一緒に買い物に行ったり、映画を見に行ったりしたっけ。田舎の方にある体験牧場へ行って、牛の乳絞りをしたこともあったな……)
思い出に浸る澪だったが、亜季の一言でそんな呑気な考えはひっくり返ってしまう。
「ところで……進路はもう決めた?」
唐突に切り出す亜季に、澪は面食らった。
「ちょっと……まだ二年の一学期だよ? 授業についていくので精一杯だよ。友達もまだ全然そういう話とかしてないし」
確かに、そろそろ進路を考えなければならない時期ではある。それに澪とて、何も考えていないわけでもない。しかしこうもあからさまに尻を叩かれるのはどうにも心地悪かった。
亜季はそんな澪の心境を見透かしたように言葉を続ける。
「早い子は一年の時には決めているものよ。勉強しようにも、目標が無いんじゃあ効率が悪いでしょう」
「出た! お母さん『効率』とか『効果』とかって言葉が大好きだもんねー?」
澪は皮肉を言って応戦してみた。しかし亜季はそれをものともしない。
「そういう要領の良さも社会に出たら求められるのよ。不器用が『天然』で済まされるのは学生時代の間だけ」
「そりゃあ、そうかもだけどさ~」
澪は座席の上で体育座りをし、唇を尖らせた。
(そんな何事も要領良くやっていけたら、誰も苦労はしないよ)
ただでさえ、澪は亜季ほどしっかりしているわけでもなければ、飛びぬけて勉強ができるというわけでもない。それを自覚しているから、将来の選択肢もさほど多くはないのだと思っている。何でも自由に選び、やりたいことをやりたいようにするわけにはいかない。迂闊な選択をして失敗などできないのだ。
そうは思うものの、敢えてそれを言葉にし、口答えするような真似はしなかった。そんなことをしたって無駄だという事は、骨身に染みてよく分かっていたからだ。
生まれてこの方、澪が口げんかで亜季に勝てた試しは、一度として無かった。さすが弁護士というべきか、亜季は口がたつ。澪が何か言い返しても、すぐに理路整然とやり込められてしまうのだ。それはもう、コテンパンと言っていいほどで、全く歯が立たない。亜季にすれば、娘の口ごたえを封じる事など、赤子を捻るより簡単な事なのだろう。
別に亜季を言い負かしたいわけではないので、それはそれで構わない。
ただ、少しはこっちの言い分も分かってくれればいいのに――そう思う事はある。
「こーら、そんな座り方して。パンツ見えるわよ」
亜季は体育座りをしてむくれる澪を横目で見ながら注意した。
「見えないよ、向こうからじゃ。それにトンネルの中じゃん」
澪はぷいっと、そっぽを向く。
澪の学校は自宅から電車とバスを使って一時間ほどだ。山を二つ越えた先にある。ところが最近直通の自動車道が開通し、トンネルを通れば二十分ほどで行き来が出来るようになった。亜季がいま車を走らせているのもまさにその自動車道だ。亜季は制限速度ちょうどで車を飛ばしていく。この調子だと、家まではすぐだろう。澪はそう思って、すっかり安心していた。
ところが、トンネルを抜けた途端、バケツをひっくり返したような雨水が襲い掛かってきた。『雨』、などという生易しいものではない。滝の水をそのまま浴びているかのような、激しいどしゃ降りだ。
あまりにもたくさんの雨量のせいで、当たりは薄暗く、視界も悪い。山一つ越えただけでこうも天候が変わるものかと澪は息を呑んだ。
「何だか暗いわね」
亜季もそう呟いて、車のヘッドライトを点灯させる。ワイパーが忙しなく動き始め、フロントガラスに叩きつける雨を拭っていった。だが、それもほとんど効果がない。右往左往するワイパーを嘲笑うかのように、雨は容赦なく降り続ける。
危険だと判断したのだろう。亜季はブレーキを踏み、緩やかにスピードを落とした。
そして左カーブを曲がった時だった。
視界いっぱいに一トントラックが広がった。
亜季が運転を誤ったのではない。向こうが突っ込んできたのだ。
「―――え? ちょっ……!」
驚き、ハンドルを大きく切る亜季。
「お母さん!」
澪は叫んだ。
車体が激しく揺さぶられる。次いで、凄まじい衝撃。
金属と金属が擦れあう、悲鳴にも似た摩擦音。
全てが一瞬だった。
澪はそのまま意識を失った。
何だか懐かしい匂いがする。何だっけ。
そうだ、おばあちゃんちだ。おばあちゃんの家の匂いがする―――――
それが畳の匂いだと気づくのにしばらくかかった。
「―――――――………。ここは………?」
澪が眼を覚ましたのは、古い民家の広い座敷の中だった。
部屋の中は照明がついていないので、はっきりとしたことは分からないが、ざっと見ただけでも、相当に広い。まるで旅館の宴会席ほどもある大きな座敷だ。
襖の上には見事な細工の欄間。さらに上を見上げると、大きな梁が天井を支えていた。床は全面畳で敷き詰められている。畳の縁は赤い色で、菱形の模様が入っていた。
それは見たことのない家の中だった。
澪の家――現代的なアパートの部屋とは明らかに造りが違う。勿論、祖母の家でもない。そもそも、祖母は一昨年他界し、家はその時に取り壊されてしまったはずだ。
誰も居ないのだろうか。広い空間だというのに、部屋は不気味なほど静かだった。そして妙に薄暗い。
「何……? どこ、ここ……。あれ……お母さん?」
周囲を見回すが、母である亜季の姿は無い。
取り敢えず体を起こし、自分の格好を確認してみる。
澪は城南高校の制服姿のままだった。紺色のブレザーのポケットの中には、右側に髪を結ぶ輪ゴムとハンカチ。そして左側からは携帯電話が出てきた。
「良かった、携帯電話だけでもあって……!」
ほっとしつつ、取り出して起動させてみるが、電源が入らない。電池が切れてしまったのだろうか。いくら電源ボタンを押し、画面に触れてみても反応がない。
それでもしばらくは携帯電話と格闘していたが、うんともすんとも言わないので、諦めて携帯電話を制服のポケットにしまった。
後は、チェックのスカートに、紺色のソックス。それらも高校を出た時のままだ。
――わはははははははは!
その時、突如大きな笑い声が聞こえてきて、澪は思わずびくりと身を竦ませた。
耳を澄ますと、声は不定期に聞こえてくる。大きくなったり、小さくなったり。随分楽しそうだ。この屋敷の外から聞こえてくるようだった。
立ち上がり、そろそろと部屋を歩き回る。取り敢えず、壁を探さなければ。
ひたすら前進すると、障子戸が現れた。真っ白な紙の貼られた木製の格子戸は、左右にいくつも連なり、広い部屋をふつりと仕切っている。
澪は最初に触れた障子を何気なく開いた。
すると、目の前には小さな庭が広がっている。こじんまりとした空間には竹が数本と、苔むした石灯篭が一つ、闇の中でひっそり佇んでいた。
ただ、庭と言っても本当に狭い。澪の家のトイレくらいの広さしかない。おまけにその向こうはすぐに板張りの壁で塞がれていて、ここがどこなのかは分からない。
ただ、上に視線をやると、辛うじて空が見えた。しかし、周囲の屋根や建物で小さく切り取られてしまっていて、詳しい事は何も分からない。
いつの間にか夜になっていたようで、暗闇に沈んだ空には星が瞬いていた。これで部屋の中が妙に薄暗かったのにも納得がいく。
ただ、何故、照明が一切無いのかは分からなかったが。
不意を突く様にして、再び笑い声が聞こえて来た。それも一人や二人ではない。大勢の笑い声が幾重にも重なり合っている。
やはり当初感じた通り、声は外から聞こえてくるようだ。障子を開けて、よりはっきりと聞こえるようになった。
本当に、ここはどこなのだろう。
障子を締め、部屋の反対側へと手探りで歩きだす。
どれほど歩いただろうか。やがてほどなくして、再び行き止まりに突き当たった。そちらには、襖が左右にずらりと並んでいる。
澪はその一つを開けてみた。すると、その奥にも部屋が続いていて、やはり闇に閉ざされている。こわごわと足を踏み入れてみると、その奥に別の襖が見えた。澪はその襖も開けてみる。すると、やはりその向こうにも部屋があって、奥に襖があるのが見える。
それを三度ほど繰り返しただろうか。
「何、これ……? 襖ばっかり……!」
これでは、永遠にこの家から出られないのではあるまいか。澪はぞっとして呟いた。とにかく、出口だ。澪は前進し、現れた襖を手当たり次第に開けていく。
襖を八つほど開いただろうか。ようやくその奥にある一本の廊下まで辿り着いた。やはり、これまでの部屋同様、明かりはなく、薄暗い。しかし、畳ではなく、板張りの細い通路が、一本すっと伸びている。
覗いてみると、暗闇のその向こうに、玄関らしきものがうっすらと見えた。
「やった、出口だ!」
澪は喜び勇んで廊下に飛び出す。ところが、その拍子に床に足を取られ、転びそうになってしまった。板張りの廊下は、澪が思っているよりも、ずっとピカピカに磨かれていたのだ。
(こんなに滑りやすいってことは、誰かがそうなるまで磨いてるってことだと思うけど……)
でも、その誰かは一向に姿を現さない。それどころか、気配すら感じないのだ。
とにかく、一度外に出てみよう。澪は埃一つ落ちていない廊下を、滑らないようにそろそろと歩いて進んだ。
やがて目の前に現れた玄関戸は、思ったよりずっと豪華な拵えだった。広さは澪の部屋と同じほどもある。上がり框は二段構えで、正面にどっしりとした衝立が立ちはだかっている。そこに描かれた水墨画の龍が、ぎろりと澪の方を睨みつけていた。
それをカニ歩きで避けながら、土間へと向かう。土間の設えも、また豪華だった。真っ白な玉砂利が一面に敷き詰められている。艶やかな白い玉石が、一糸の乱れもなく、整然と戸口まで並んでいる。何だか、それを踏んで進むのが申し訳ないほどだ。
でも、そんなことを言っていたら、永久にこの家から出られない。
玄関の式台を下りた澪はすぐに、土間に見覚えのある靴が一足置いてあるのに気づいた。間違いない。澪の学生靴だ。
黒のローファーは、真っ白な玉砂利の上に、ぽつんと所在投げに揃えて置いてある。
他には何も無い。誰かの靴や履物も無い代わりに、塵やゴミも全くない。この家は隅々まで手入れされ、掃除が行き届いているというのに、どこまで行っても不気味なまでに静まり返り、がらんとしている。
「何これ……どうなってるの。私、お母さんの車に乗っていた筈なのに……」
靴を脱いだ覚えもないし、それを玄関で揃えて置いた覚えもない。もちろん、この家まで移動をしてきた記憶もない。最後に覚えていることと言えば、亜季の運転する軽自動車がトラックと衝突したことだ。
それとも気を失っている間に、誰かに無理やり連れて来られたのだろうか。
だとしたら――
誘拐。監禁。――凶悪事件。
物騒な単語がいくつも脳裏に浮かび、消えていった。まさかとは思うが、状況だけをとって考えてみると、完全に否定はできないような気もする。
しかしそれにしては、犯人らしい人物が登場してくる気配もない。いつまで待っても室内は静かだった。試しに靴を履き、一歩踏み出すと、靴底で玉砂利が音を立てて擦れる。どきりとしたが、それでも家人が出てくる気配はなかった。
このままここを出て行ってもいいのだろうか。澪は首を傾げた。いや、本来なら真っ先に出ていくべきだし、必要なら誰かに助けを求めなければならないのだろう。だが、あまりにあっさりと解放され、おまけにどこからも反応らしい反応がないので、つい躊躇してしまう。
戸惑いながらも、玉砂利を踏みしめて歩き出し、玄関の扉の取っ手に手を掛けてみた。扉は重厚そうな見かけに反し、簡単に開いた。
そして。
外を見渡して、澪は驚いた。
澪の目の前には街が広がっていた。
やはり、出てきた家と同様、全く見覚えのない街だ。
古い木造民家ばかりが密集した通りがどこまでも永延と続き、高い建物が全く無い。雑居ビルやマンションといった鉄筋コンクリートの建造物が一切ないのだ。電柱すら木製だ。周囲の家屋と並ぶと統一感があり、調和は取れているのだが、澪にはそれが逆に違和感として感じられた。
「ここ、どこだろう……? 何だか、古い映画の中の街みたい……」
澪の出てきた民家は、その木造家屋しかない街の中の、賑やかな通りに面していた。あちこちにカラフルな幟や看板が立っていて、そこには『夢幻通り』という名が見受けられる。そういう名前の通りなのだろう。
街を彩る色鮮やかな提灯に、同じく色とりどりの店の看板。夢幻通りは様々な色の絵の具を、高密度でギュッと塗り固めたかのように、色彩の洪水で溢れていた。
その夢幻通りの左右には、屋台がずらりと並んでいた。まるでお祭りの縁日か、大きな寺社の門前街みたいだ。おまけにどの屋台もあちこちで良い匂いをさせている。
その匂いを嗅いでいるうちに、澪は強い空腹感を覚えた。思えば、昼食を摂って以来、何も食べていない。成長期の高校生には、あまじょっぱい醤油や香ばしいごま油の匂いは、耐え難い誘惑だ。つい、ふらふらと屋台に惹きつけられそうになるが、すぐにそんなことをしている場合ではないと思い返した。
まずはここがどこなのか、それを把握しなければ。
そして、夢幻通りへと再び視線を向けた。
石畳の敷かれた通りを、多くの人が楽しげに歩いていく。どこかから笛や太鼓、三味線の音まで流れてくる。まさにお祭のような騒ぎだ。ふと思い出し、携帯電話を取り出して再び確認してみる。しかし黒い画面は相変わらず、何の反応も示さないままだった。