第二話 幻籠街②
それから一年が経った。
やはり、春の日差しの暖かさと風の冷たさが入り混じる、或る日だった。
「あのう……どなたかいらっしゃいませんか?」
《言伝屋》を髪の長い女が訪れる。
年齢は二十歳を少々過ぎた頃だ。色白で、すっと首が長い。緩く波打った髪、小さな顔。ぱっちりとした眼は僅かに垂れていた。
大人びた格好をしているが、その顔には少女の面影がまだ残っていて、ふんわりとした妖精のような印象を見る者に与える。着ている洋服だけでなく、身ぶりや手ぶりの一つ一つから、育ちの良さが窺えた。
そんな女には際立った大きな特徴があった。華奢な体に比べ、手のひらがとても大きいのだ。指も女性にしてはすらりとしなやかで長かった。だが、形のいい、とても美しい手だ。
女はその手を胸元で組み、恐るおそる《言伝屋》の中を覗く。
「何か御用ですか?」
女はてっきり、店内は無人だとばかり思っていた。ところが、入り口のすぐ脇の座敷に男がいるではないか。女はびっくりしてとびあがった。
「きゃっ……す、すみません。気付かなくて……」
「構いませんよ。お名前を窺ってよろしいですか?」
男は着物姿だった。さらりとした黒髪は、男性にしては少々長めのように感じたが、決して浮ついた感じでも無ければ鬱陶しくもない。切れ長の目は笹の葉のように優美な弧を描き、その上にある理知的な細眼鏡とよく調和していた。
言動がしっかりしている事、上品なその佇まいから、最初はずいぶん年上かと思ったが、よく見ればちょうど自分と同じ年頃ではないか。それに気づいた女は、若干ほっとして答える。
「あ、はい。私は金井深優といいます。あの……ここはどこですか? 私、ニューヨークに行かなきゃいけないんですけど……」
「ニューヨーク、ですか」
男は相槌を打った。
「はい。世界的に有名なある音楽大学に留学するんです」
深優は両手を握りしめる。ようやく決心を固め、日本を飛び出したのだ。こんなところで道草を食っている場合ではない。――早くしなければ。
じりじりとした焦りが背を焦がす。
ところが、そんな深優に対し、《言伝屋》は静かに幻朧街の説明を始めた。
幻朧街が狭間の街と呼ばれている事。死者の世界と生者の世界の間にある街だという事。この街を訪れるのは死者のみだという事。
「つまり……私はもう死んでいる、という事ですか?」
深優は戸惑いを露わにした声音でそう尋ねた。
「そうなりますね」
《言伝屋》は静かに答える。
「私、飛行機に乗っていて……そこで記憶が途切れているから飛行機に何かあったのかも……。そう言えば、変に激しく揺れていたし……」
深優は細い顎に手を添え、一つ一つ縺れた糸を解く様に思い出していく。
不思議と自分が死んだのだという事に対する衝撃や抵抗感は無かった。むしろ己の死が分かってほっとしたくらいだ。それは例えるなら、忘れものを思い出して、すっきりした感覚に似ているだろうか。先ほどニューヨークに行かなければと焦っていた自分が、何だか無性におかしく思えてくる。
「……失礼ですが、音楽をされていたんですか?」
《言伝屋》にそう尋ねられ、初めて深優は微笑んだ。
「ええ。幼い頃からピアニストになりたくて、それはもうピアノ一筋でした。友達と遊んだ記憶なんてありません。いつもレッスンでしたから」
深優はどこか誇らしげに、胸元の手を包んだ。男のように大きな手。これは生まれつきだ。だから、体が小さくともピアニストを志すことができた。
「でも……家族は理解してくれたんですけど、おじいちゃんだけが反対したんです。『これからの時代、不安定な職はいつか首を絞める。もっとしっかりした道を選びなさい』って……。おじいちゃんは几帳面でしっかりしていたからそう考えても仕方ないんですけど……。
子供の頃からすごく可愛がられて……まさか反対されるなんて思ってもみなかったからちょっとショックだったんです」
「夢を追いかけていらっしゃったんですね」
《言伝屋》は深優を見つめて言った。まさに、その通りだった。
深優がピアノと出会ったのは幼稚園の時だ。しかしその時は、水泳やそろばんなど、いくつか習っていた習い事の一つしかすぎなかった。
ただ、何故か水泳やそろばんは結果を出さなければならないのが苦痛だったのに対し、ピアノを弾くことは純粋に楽しかった。今思うと、おそらく相性が良かったのだろう。
楽譜に描いてある世界を自分が再現し、或いは再構築していく。そして、作曲者の意思と深優の感性が混じりあい、化学反応を起こし、新たな世界が創り上げられていく。
その充実感は、他のものでは得られないものだ。だから他の習い事は途中でやめてしまったが、ピアノだけはやめられなかった。
ただ、長く続けていればいろいろある。楽しい事ばかりではないのも事実だ。本気であればあるほど、練習の結果が出なくて辛いこともある。自分より才能のある人の演奏を聞いて、落ち込むことも。
しかしだからこそ、コンクールでうまく演奏で来た時や先生に褒められた時の喜びは何物にも代えがたいものだった。
そしていつしか、自然とピアニストになりたいと思うようになっていた。
簡単な道のりではないことは百も承知だったが、努力は惜しまなかった。己の生活、人生の全てを犠牲にし、ピアノへ奉げた。それを苦しいと思ったことも無ければ、やめたいと思ったことも無かった。
周囲の友人達がバイトや恋愛、サークルの話などで盛り上がっているのは知っている。それがあるべき学生生活なのかもしれない、とも思う。それでも深優はピアノ中心の生活をやめようとは思わなかった。
それが自分の生き方だと信じ、疑いもして来なかった。
――しかし。
深優の表情は曇る。
「でも……今となってはおじいちゃんが正しかったのかも。飛行機事故を予見していたわけでもないでしょうけど。おじいちゃんは……いつも正しかったですから。
おじいちゃんはその後すぐに亡くなって……死ぬまで私が音楽の道に進むのを反対していたんです。私がニューヨークに行くのも絶対に反対だって……。それがずっと気になっていました。
今頃は多分……天国で呆れているでしょうね、私の事。それ見たことかって」
そう言うと、深優は寂しそうに笑った。
祖父の言う通りにしていれば――夢を夢のまま諦めていれば、死ぬこともなかったのだろうか。今となっては分からない。ただ、人生も夢も全てを失ってしまった今、心の中にはぽっかりと穴が開いてしまったようだった。
好きなピアノに、思う存分打ち込んだのだ。やれるだけのことは全てやった。だから、自分でも驚くほど後悔や悔しさは無い。それでも、空風が吹き抜けるような虚無感は、埋めようがなかった。
「なるほど……少々お待ちください」
《言伝屋》は立ち上がると、店の奥へ通じる引き戸を開け、中へと入っていった。
その部屋が何の部屋なのか。内部は薄暗く、おまけにすぐに閉じられてしまったので、深優にはよく分からない。どうしたらいいのか――深優は戸惑うが、言伝屋はものの数分で戻って来た。何をしてきたのだろうと思い、その手元を見ると、海老茶色の封筒がある。
《言伝屋》はそれをすっと両手で深優へと差し出した。
「金井深優さん、金井武雄さんから言伝です」
「え……おじいちゃんから……?」
封筒には確かに『深優へ』と書かれていた。その文字を見て、深優の心臓がどきりと跳ねる。封筒を受け取り、逸る心を押し殺しながら開けてみると、中から丁寧に四つ折りにされた真っ白な半紙が出てきた。
何だろう。言伝というからには手紙か何かだろうか。
深優は半紙を開くと、それを読み進める。
そしてすっかり読み終わると、くすくすと笑い始めてしまった。
「どうかしましたか?」
《言伝屋》は若干驚いた様に眼を見開いた。深優は笑いながらも、ごめんなさい、と言い添えた。
「だって、おじいちゃんってば……『ニューヨークの冬は冷えるから、絶対腹は出して寝るな』ですって……! 子供の頃、それでお腹を壊したことがあったんです。もう、日本でだってさすがにお腹出して寝たりしないわよ」
ひとしきり笑った後、ポツリと深優は呟く。
「これ……確かにおじいちゃんの字です。間違いありません。年賀状で見覚えがあるから……丁寧で、きちっとした字……。
おじいちゃん……最後には許してくれたのかな………。
私、間違ってなかったんですよね? 夢は叶わなかったけど……夢を叶えようって努力した日々は絶対に間違ってなんかないですよね?」
不意に深優の大きな瞳が涙で潤み、波立った。それらは通りから差し込む日の光を反射し、きらきらと煌めいた。それは長い冬を終え、温かい春の光を受けて輝く川面のようだった。
《言伝屋》は「ええ」と、静かに頷く。
「少なくとも金井武雄さんはそう思っていらっしゃったのではありませんか?」
深優は嬉しそうにふわりと微笑んだ。金井武雄の残した言伝を握りしめながら。
「祖父の手紙……貰ってもいいですか?」
「ええどうぞ。何か言伝を残していかれますか?」
「えっと……じゃあ、お父さんとお母さんに」
《言伝屋》は硯一式を用意する。深優は店の中央にあるテーブルに着いた。何を書こうか考え込んでいたが、ふと思いついた様に口を開いた。
「あの……お手紙を二つ残すことは可能ですか?」
「いえ。言伝は一人一つと決まっています。ただ、一つの言伝を複数の方にお見せすることはできますよ」
「じゃあ……それでお願いします」
深優はぎこちない仕草で筆を動かし、半紙に文章を書きこんでいった。毛筆も墨も慣れなくて苦戦するばかりだ。でも、だからこそ一言一言、心を込めて言伝を書けるような気がした。
やがて言伝を完成させると、半紙を折り畳み、海老茶色の封筒の中に入れる。《言伝屋》はそれを両手で丁寧に受け取った。
「確かにお預かりしました」
もう、思い残すことは無い――温かく、確かな満足感がじわりと胸を満たしていく。それに身を任せているうちに、深優は言い知れぬ切なさに襲われた。
――ああ、これで終わりなんだ。私の人生、ピアノ。
大好きだった人たち。
すべてが、これでお仕舞い。
でもそれは、決して苦しいことではなかった。むしろ思わず口元に笑みが零れるほど幸せな、不思議な心地にしてくれた。
深優は言伝屋を後にしようとする。そこで、ふと気づいた様に《言伝屋》を振り返った。
「ところで……私はこれからどこに行けばいいのでしょう?」
すると、店の主は通りの方を手で指し示しながら、教えてくれた。
「この通りを左に真っ直ぐ行くと門が見えます。それがこの街の出口ですよ」
その指し示す方へ視線を向けた深優は、《言伝屋》を振り返った。
「分かりました。あの……あなたのお名前を教えて貰ってもいいですか?」
窺う様な深優の仕草に合わせて、柔らかい髪が揺れる。《言伝屋》に何か興味が湧いたというのではない。ただ、知っておきたかったのだ。金井深優という魂に、最後に接してくれた人の名前を。ただ、聞いておきたかったのだ。
一方の《言伝屋》の主人は、少し戸惑ったようだった。客の対応には随分こなれている印象だったが、名を聞かれることは滅多にないのだろう。
暫く深優をじっと見つめていたが、やがてぽつりと口を開く。
「……私ですか。不知火幽幻、といいます」
それを聞き、深優は何だか安心して、思わず笑顔になっていた。
「幽幻さんですか。………本当に、ありがとうございました」
そして《言伝屋》の男に向かって丁寧に一礼すると、今度は一度も振り返ることなく店を出ていった。
儚い妖精のような後姿が、街の中に溶ける様にして消えていく。彼女もまた、祖父の金井武雄がそうであったように、二度と幻朧街に戻って来ることは無い。
《言伝屋》の主はそれをよく知っていた。今まで、同じ光景をずっと見つめ続けてきたからだ。
何度も何度も――それこそ、気の遠くなるほど、何回も。
金井深優を見送った後、《言伝屋》は入り口近くの座敷へと戻った。そして煙草盆に引っ掛けておいた煙管を取り出して火をつける。
「……さて。次はどんなお客人がいらっしゃるのでしょうね」
――ここは幻朧街。
夢と現の狭間、此方と彼方、此岸と彼岸の狭間にある街。
死者が訪れ、そして去っていく街。