第一話 幻籠街(げんろうがい)①
新しい小説を始めました。楽しかったり悲しかったりしつつも、最後は笑って良かったねと言えるような作品にしてきたいです。よろしくお願いします!
気づけば、男はその街の中を歩いていた。
見覚えのない、けれど、どこか懐かしい。そんな街だ。
ひっそりとした路地の、道は御影石でできた石畳。両脇には、白い漆喰の塗られた、美しい木造家屋が並んでいる。
瓦はどれも灰色だ。冷たさを伴った春の日差しが降り注ぎ、それらを鈍く照らしていた。
形や大きさは若干違えど、どれも同じ白い壁に灰色の屋根瓦。それらの家並みがどこまでも並び、まるで一つの巨大な生物のようだった。
白と灰色、そして石畳と木に支配された街だ。
街の中には、店もちらほらと見受けられた。しかし、やっているのかいないのか。見たところ、どの店も閉まっている。
しかしその中で、唯一店を開けている一軒があった。外観は、やはり古い。二階建ての日本家屋だ。周囲と同じ灰色の屋根瓦。真っ白の漆喰と木がうまく調和した壁は、古いながらもどこか品の良さを感じさせた。
入り口には深い藍色をした暖簾が掛けられている。
一階の屋根瓦の上には看板が大きなその身を横たえていた。《言伝屋》とある。何の店だか分らなかったが、男は何故だか、ひどく興味をそそられた。一度はその店の前を通り過ぎたが、どうしても気になって戻ってきてしまったほどだ。似たような店は他にいくらでもあるのに、その店にくぎ付けになったまま、立ち去ることができない。
それでも、得体の知れない店に足を踏み入れるのはちょっとした勇気がいる。しばらく足を止めて店の様子を窺っていたが、やがて意を決して暖簾を潜ってみることにする。
「……ここは何の店かね?」
男は名を金井武雄といった。背筋はピンと伸びているが頭は白いものが多くなり、顔にはいくつものしわが刻まれている。白いポロシャツにベージュのスラックス。足元の黒い革靴は丁寧に磨かれ、陽光を反射していた。
年金暮らしになって随分経つが、身なりをきちんと整えるのは日々の日課だ。
武雄は目を細めた。急に暗いところを覗いたので、店の中が良く見えない。
やがてすぐに、入り口の脇に小さな座敷があるのに気づいた。そこに人が座ってこちらを見つめている。
よく見ると、彼は着物だった。最初女かと思ってどきりとしたが、目を凝らしてみれば、体つきが違う。間違いなく男だ。男にしては髪が艶やかで、若干長かったので、つい見間違えてしまったのだ。正座であった事、顔立ちが細面で物腰柔らかな印象であるのも原因の一つかもしれない。
眼鏡をかけていて、いかにも文学青年といった雰囲気だった。二十歳程だろうか。それにしては妙に落ち着いているな、と武雄は思った。少なくとも、今時の若者のイメージからは程遠い印象だ。
着物の男は手にしていた煙管をポンと叩いて灰を落とし、それをそばに置いてあった煙草盆の柄に引っ掛ける。
「お客さんですね。どうぞ」
そう答えると、背筋を伸ばしたまま、すっと立ち上がる。
綺麗な所作だった。こなれている。昨日や今日、ファッションで着物を着始めたのとは明らかに違った。武雄は、ほう、と内心で軽く驚く。一体ここは、どういう店なのだろう。
入口に留まっていた武雄は、遠慮なく店に足を踏み入れた。
中はまるで茶屋のようだった。田舎の観光地には古民家を改装した、和モダンなカフェなどがよくあるが、この店もそれとよく似ていた。幾つかの洒落たテーブルと椅子のセットが店の中央を占めている。壁際には座敷、そしてカウンター。しかしざっと見渡したところ、メニュー表の類は無い。
「お名前を窺ってよろしいですか?」
着物の男が近寄ってきて、武雄を座敷の一つへと促す。
「名前? 僕は金井武雄という者だ」
そう答えながら通された座敷に腰掛けた。
「ここは茶店か何か、かな」
「いえ、茶店ではありませんが……何か飲まれますか」
「いや……助かるよ。悪いね。結構大きな街だろう? あちこち歩いたんだが……なかなか休める場所が無くてね」
武雄がほっと一息ついていると、着物の男はカウンターに移動し、湯呑を用意し始めた。
「それは大変でしたね。表通りにいろいろ店がありましたでしょう。大抵のお客さんはあちらに行かれますよ」
武雄もここへ来る途中に賑やかそうな通りがあったのを思い出す。華々しい提灯に露天の数々。路地を埋め尽くす大勢の客。まるで祭か縁日でもやっているのかというような騒ぎだった。
「ああうん、見たよ。見たけどね。年のせいかな。何となくあっちには気が向かなかったなあ。……ああどうも」
武雄は軽く手刀を切り、運ばれてきた日本茶に口をつける。茶は程よいぬるさで、喉が渇いていた武雄は一気に飲み干してしまった。
「ところで……ここはどういう街なの? どこか有名な観光地? 僕も金沢とか箱根とか草津とか……全国あちこち行ったけど、どうも何処とも違うね。何というか……独特の雰囲気を感じるよ。懐かしいって言うかね」
「懐かしい、ですか」
実際、この街は奇妙だった。
全体の印象は確かに古い町家そのものだ。しかし細かい部分を見ていくと、おや、目をひくものが多くあるのだ。
立ち並ぶ店の看板を見ると、おかしな模様が描かれていて読めないものが数多くある。似てはいるが、明らかに日本語ではないのだ。それらが平仮名や片仮名、漢字と組み合わさって、奇妙な光景を作り上げている。
それだけではない。
屋根の上の妙な鬼瓦。見たことのない造作で飾られた屋敷の門。通りの壁に張ってあるのは標識なのか、それとも何かの魔よけのお札なのか。色の落ちたポスターは、壁から剥ぎ取られかけ、何を告知していたのかも分からない。
ぎょっとしたのは道端に置いてあるお地蔵様だ。まるで何かの妖怪のようにしか見えない、それは奇妙な形をしていた。ぎょろりと目を向き、大きな口からは禍々しい牙がのぞいている。まるで蛙か蜥蜴の妖怪のようだ。
しかし、ありがたい神様のように手入れされ、お供え物も供えてあるのだ。街の人に大切にされているのだろう。よく見ると、その蛙のお化けのような顔もどこか憎めない愛嬌がある。
そして、時折見かける華やかな提灯。大きさや色、形、模様など、区画によってさまざまで、ここの住人には何か重要な意味があるのだろうかと、想像をかき立てられずにはいられない。
それらが奇妙に融合してこの街を彩り、醸し出す情景を独特なものにしていた。還暦を過ぎ、ちょっとやそっとのことでは動じなくなった武雄も、童心に返ったかのように好奇心を激しくくすぐられる。一見どこにでもあるような街である筈なのに、新たな発見をする度、まるで異国の地を訪れたかのような感覚にさえなってくる。
どこかで見た風景。しかし、どこにも無い風景。そんな奇妙な比喩が、ぴったりだ。
最初はどきりとしたり、ぎょっとしたりすることもあったが、街に慣れるに従ってそういった抵抗感はどこかに消えていってしまった。今ではこの街に対して妙な懐かしさと居心地の良さを感じるほどだ。
ただ、違和感を覚える事もいくつかある。一つはこの街に人けがほとんど無いことだ。一部の賑やかな通りを除くと、他に住んでいる者がいないのかと思わせるほど生活音がしない。
――そして。
「ううん、それがね。……恥ずかしい話、ここまでどうやって来たか覚えてないんだ。帰りたいんだけども道が分からない」
武雄は頭を掻いた。
気づけば、この街にいたのだ。バスで来たのか、電車を使ったのかすらも覚えていない。そんな事を忘れるほど耄碌したつもりは無かったのだが、やはり齢には勝てないのか、と苦々しく思う。
さぞや気の毒な年寄扱いをされるだろうと覚悟していたが、着物の男はその様な素振は微塵も見せなかった。
「ここは幻朧街ですよ。狭間の街と呼ばれています」
「……へえ?」
「――この世とあの世の狭間の街。死者の訪れる街でもあります。むしろ、訪れるのは死者のみ……と言っても、過言ではないでしょう」
その言葉に、武雄の白髪交じりの眉は跳ね上がった。
「この世とあの世……? 死者、ってことはつまり――」
「ええ。あなたは既に亡くなられているという事です」
一瞬、ポカンとする。
しかしすぐに武雄はしきりにウンウンと頷いて呟き出した。
「そうか……死んじゃったのか。最後の記憶が家の近所だったから、散歩中に倒れちゃったかな……。そうか……。僕は死んじゃったのか」
腕組みをして考え込む。その段になり、ようやく記憶が甦って来た。
武雄は一年ほど前から体力作りの為と、毎日一時間ほど散歩をすることにしている。近所の公園や川の土手沿いなど、気に入ったコースを歩くのだ。
ようやく春の暖かさを感じるようになったあの日。いつものコースをいつものように歩いて、家に戻る途中だった。住宅地の中の細い通路で、突然胸がぎゅっと締め付けられるような感覚がした。それに合わせて、息も徐々に苦しくなってきたのだ。
これはいけないと思った、次の瞬間だった。まるで大きな丸太で打ち抜かれたような、ずしんとした衝撃が胸に走った。とても立っていられず、その場で膝をついたのを覚えている。
後の事は良く分からない。微かに記憶にあるのは、異変に気づいて近寄ってくる通行人の、慌ただしい足音や大声だ。
――大丈夫ですか? すみません、救急車! 誰か、救急車を………
そうだ、思い出した。確かに自分は死んだのだ。良かった、呆けていたわけではないのだ、とほっとする。
武雄は着物の男から突きつけられた死亡宣告を、今日の天気予報を告げられた時のように自然と受け止める事が出来た。己の死が本物かどうか。それに対する疑念もないし、怒りも悲壮感も、悔しさすら無い。
それが何故なのか分からなかった。何故なのだろうという疑問すら湧かなかったのだった。
やがて武雄はふと思い出したように顔を上げる。
「そういえば、この店が何なのか聞いてなかったね」
「ええ、そう言えばそうでした」
着物の男は頷く。
「――人間というのは煩悩の塊だというでしょう。大抵の人は死んだ時に一切の欲もきれいさっぱりなくなるものですが、時折強い《未練》を持った者が出るのです。幻朧街はそういったお客人の《未練》を祓う場所でもあるのですよ。気持ち良くあの世に渡って頂く為に、ね」
「ふうん……《未練》、ねえ」
武雄は相槌を打つ。着物の男の話は続いた。
「《言伝屋》というのは文字通り、伝言を残す為の店ですよ。死んでも尚、誰かに想いを伝えたい。そういう想いを文にしたためて残すのです」
「それは必ず相手に届くのかい?」
「ええ、届きます。毎回きちんとこの店で手渡ししていますよ」
「この店で手渡しって……この街は死者の訪れる街なんだろう? じゃあ、もし私が誰かに宛てて手紙を書いたとして、相手がそれを受け取るのは死後ここを訪れてからって事じゃないのかい?」
思わず強い調子で言ってしまった。しかし着物を着た男――《言伝屋》は、あっさりとそれを肯定し、受け流す。
「そうですね。ですから緊急の要件などはあまり残しても相手の方の為にはならないかもしれません。……ですから、それを残されるかどうかは書き手の方の判断次第、ということになります」
《言伝屋》の説明は淀みないものだった。こういう話をするのに慣れているのだろう。
「……成る程ねえ。そんなに悠長で儲かるの?」
武雄の素朴な質問に、男は目を見開いた。次いで苦笑に似た笑みを漏らす。
「どうでしょう。儲けですか。そういえば考えてみたことがありませんでしたね」
武雄も肩を竦めた。
「そりゃそうか。この世じゃないんだ。銀行もクレジットカードも無さそうだし。いやあ、職業病だな」
「お仕事は何を?」
「出版社を経営していたよ。小さな会社だったけどね。いつも経営簿とにらめっこだったから、余所の事もついあれこれと余計な事を勘繰っちゃうんだ。現役を退いたのはもう十年も前の話なのに」
武雄はしんみりと呟く。
「そうか……十年だもんな。僕も死んでしまう訳だ」
武雄の胸中で、今になってその事実がじわりと実感を伴ってくる。それは、好きな映画が終わってしまう時の、一抹の寂しさに似ていた。
「……何か残していかれますか?」
《言伝屋》は尋ねた。武雄は腕組みをし、考え込む。
「そうだなあ……。でも今更ねえ……。その……大したことじゃなくてもいいのかい?」
「ええ、何でも。ヘソクリの隠し場所や、奥さんに『夕飯には鯖を食べたい』と書き残された方もいらっしゃいますよ」
武雄は笑った。
「ははは、そりゃあいい。意味は無くても書くことで何か吹っ切れるのかもしれないね」
確かにこの店で誰かにメッセージを残しても、それがその「誰か」の為になるとは到底思えなかった。何故なら、受け取る側も死んでいるからだ。生かそうにも、死後とあっては役には立つまい。だとすれば、残すという行為自体に何か意味があるのかもしれなかった。
「うーん……。じゃあ、ちょっと書いていこうかな」
照れ笑いを浮かべる。
《言伝屋》は店の奥から筆と硯、半紙を運んで来た。そしてこう付け加える。
「どなたに宛てたものか……それだけはしっかり書いてください。でないと届きませんから」
武雄は慣れた手つきで墨を擦り始めた。習字は得意だった。今でも年賀状は全て直筆の筆で書く。子供の頃には、「文字にはその人の人格が現れる」などと、厳しく教えられたものだ。
武雄は半紙に文面を書き込んでいく。やがて書きたいことを全て書き終わると、墨が渇くのを待ち、半紙を四つ折りにした。それを和紙でできた海老茶色の封筒に入れる。そして表に『深優へ』と書き入れた。深優は、武雄の孫娘だ。
《言伝屋》はそれを両手で受け取った。
「確かにお預かりしました」
武雄は座敷から立ち上がると、店の出口へと向かう。
「いやあ、楽しかったよ。ところでこれ、どっちに行けばいいのかい?」
《言伝屋》の前には石畳の路地が左右に伸びていた。どちらに行っても似たような景色が延々と広がっていることを、武雄は前もって歩き回っていたので知っていた。一体、これからどこへ行けばいいのか。すると、言伝屋は事も無げに答える。
「この通りを左に真っ直ぐ行くと門があります。それがこの街の出口ですよ」
「この通りを真っ直ぐ……? 門なんてあったかな」
先ほど歩いた時には、確かにその様なものは無かった。首を捻る武雄に、しかし《言伝屋》は妙にはっきりと告げた。
「ありますよ。……今度はすぐに見つかる筈です」
「そんなものかな。それじゃ、行ってみようか」
武雄は《言伝屋》の言葉に背中を押されるようにして歩いていく。
《言伝屋》は店先に立ち、その後ろ姿を無言で見送っていた。
――それ以降、金井武雄が幻朧街に姿を現すことは二度となかった。