暮れゆく季節と、紅葉弁当4
古の森にある高台。その上に私たちはいた。
断崖絶壁に囲まれた高台。普通ならば近寄れないようなそこへは、皆揃って、古龍の背中に乗ってやってきた。
ここまでリリに乗って旅をしてきたおかげか、そんなに恐怖感はなかった。しかも、古龍の背中はとても広く、あまり揺れなかったから、まるでゴンドラかなにかに乗っているような気分で快適だった。
ジェイドさんの手を借りて、そっと高台に足を降ろす。
そして、目の前に広がった光景に、私は思わず息を飲んだ。
古龍の背中から眺めた景色も素晴らしかったけれど、そこから見た景色は格別だった。
遥か遠くまで続く、紅葉した森の木々たち。濃い緑色に切り換わる場所はテスラとの境目だ。
森のあちこちで光を反射しているのは湖だろうか。
たっぷりと水を蓄えた湖が、太陽の光を反射して輝いていて、沢山の水鳥がそのうえで群れを作って浮かんでいる。空には沢山の渡り鳥。ゆっくりと羽ばたきながら、秋空を気持ちよさそうに飛んでいる。
そんな森の風景がどこまでも遠くまで広がっていたのだ。まるで絵の具で描いたような鮮やかなその景色は、私の心を震わせた。
「――ああ。凄い……」
「ほんとうだね」
その景色をみながら、私は隣に立つジェイドさんに寄り添った。
そっと指先でジェイドさんの手に触れると、彼は私の手を握り返してくれた。
「てやー!」
……その手は、直ぐにユエのチョップで離されてしまったけれど。
「お腹すいた! 早く準備しようよ!」
ユエは笑顔で私の手を引いて、ケルカさんたちの下へと向かった。
私とジェイドさんは苦笑しながらも、ユエの後ろに続いた。
近くにあった真っ赤に紅葉している大樹の下に敷物を敷く。日が丁度良く差し込むここなら、秋の冷たい風が吹いてもそれほど肌寒くないだろう。更には、足が悪いというケルカさんのために、何個かクッションを置いた。そして、そこにお弁当を広げた。因みに、古龍も食べたいということだったので、お弁当に入りきらなかったぶんの料理を、急遽鍋ごともってきた。
巨大な竜の前に鍋を並べると、まるでおままごとの玩具のようだ。これで足りるのかと不安になったけれど、食べてみたいだけでそれで腹を満たしたいわけではないと言ってくれたので、一安心した。
「今日のお酒はこれですよー」
私はトルリアさんから貰った酒樽を転がして、敷物の近くまで持っていった。
そして、栓を開けると、中身をグラスに注いでいった。
「――ほほお。獣人の国の酒か」
古龍は酒の匂いを嗅ぎつけたのか、こちらをみてにやりと目を細めた。
私は、空の鍋に酒樽の中身をどぼどぼと注いだ。これだけで、半分ほど樽の中身がなくなってしまった。
そして、それを古龍の目の前に置くと、彼は嬉しそうにぺろりと舌なめずりをした。
お酒が飲めないユエには水筒から温かいお茶を入れた。またユエがジェイドさんから「おこちゃま」と言われて、喧嘩しかけていた。……このふたり、なんだかなんだかんだいって、楽しそうにじゃれている。喧嘩ばっかりしているけれど、実は仲がいいのかもしれない。
「じゃあ、いただきますだね!」
ケルカさんが、両手を合わせてそういうと、古龍は不思議そうに目を瞬いた。
「なんだそれは、友よ」
「異界の挨拶さ! さあ、友も!」
「……ああ、そういうことか。いただきます」
そしてケルカさんの音頭で、皆でいただきます! と、皆で口々にいって、お弁当に手をつけ始めた。
「……うわあ。美味しい!」
「こりゃあ、いいね。兄さん」
茸と栗の炊き込みご飯は好評だった。
古龍の身体から生えてくるという茸は、シチューの時と変わらずいい味を出している。
その茸の風味と、たっぷり効かせた出汁がご飯に染みて、とても風味豊かだ。
そして、なんといっても栗! カクロクの実は、焚かれたことによって薄い黄色から濃い金色へと変化していた。それをぱくりと口にふくむと、優しいカクロクの実の甘さが舌の上に広がった。
歯で押しつぶすと、柔らかなその実はほろほろと解ける。舌の上でとろりととろける、黄金の実からほんのり感じる甘さは自然の甘味。しょっぱい醤油が、カクロクの甘味を引き立て、更には米の芯まで染みた茸の旨みが、カクロクの甘味と混じり合うと、何とも言えない美味しさだ。
煮物も、いい塩梅で味が染みている。こっそり底の方に隠しておいた紅葉のような……不死鳥のような……可哀想な姿になった人参が哀愁を漂わせているけれど。味には関係がないからね! もっちりねばねばな里芋に、しっかりと出汁と干し椎茸の風味が染みていて、なんだか安心する味だ。
だし巻き卵も、濃い目の出汁をこれでもかと引いたので、噛みしめるとじゅわっと出汁が溢れるくらい汁気たっぷり。半熟の状態で巻いたから、中心は柔らかくとろとろに仕上がった。美しい翡翠色の銀杏も、箸休めには丁度いい。
私は一通り秋感満載の弁当の中身を満喫しおわると、また栗をぱくりと食べた。……うん、美味しい!
「栗……! 栗栗栗! 美味しいなあ……やっぱり秋は栗ですねえ」
「しょっぱいのを食べていると、たまに甘いカクロクの実に当たるのがいいね」
「でしょう? ジェイドさん。ほら、ここ! お焦げ〜。お焦げも美味しんですよ! はい! あーん」
「ん? …………ありがとう……うん。美味しいね」
「なに普通に食べさせっこしてるの! 茜、僕にも! はい、あーん!」
「はい、ユエ。どうぞ」
「むぐ。……むむ、美味いッッッ!!!」
「声が無駄にでかい」
箸を天高く突き上げたユエの口をジェイドさんが塞ぐと、ユエはすかさずその手を振り払って「触るな下等生物!」と噛み付いた。……やっぱり仲が良いような気がする。そんな二人をみていると、なぜだかやけにおかしくて、思わず笑ってしまった。
「あはははははは、ユエおかしい〜やだ〜下等生物とかって〜なんなの〜」
「……茜!? なんだか酔っ払って……って、いつの間にそんなに飲んでるんだ!」
ジェイドさんは、私の手に握られたコップを見て、顔を顰めた。
テスラ産の蜂蜜酒は、スッキリ飲みやすい軽い口当たり。けれども、非常にアルコール度数が高い。トルリアさん曰く、獣人にとってはジュースも同然なんだとか。
……これが美味しいんだなあ!
私は軽い口当たりに釣られてごくごくと蜂蜜酒を飲んだ。酒樽の横に陣取って、コップが空になる度にたっぷりとお酒を注ぐ。紅葉を見ながらのお酒――花見酒もいいけれども、これもなかなか!
私はコップの中のお酒を一気に煽ると、呆れ顔のジェイドさんへ向けて、ぐっと親指を突き立てた。
「酔っ払っていまへんよ!」
「ああ、やっぱり酔っ払ってる! 病み上がりなんだから、あんまり飲んだらだめだ。道理で、あーんとかしてくる筈だ……おかしいとおもったんだ」
「……これくらいでは酔いません。酔いませんぞ……!」
「駄目だ、もう目が据わってる!」
私達がそんなやりとりをしていると、それを見ていたケルカさんが急に笑いだした。
何事かとケルカさんのほうをみると、「ああ、ごめんね」と彼は浮かんだ涙を指で拭っていた。
「君たちみたいな、楽しげな時期が私にもあったなあと思ったんだ。……水を差したね、悪いことをした。なあ、友よ。私達も嘗てはあんなふうだったんだろうね」
「うん? 友よ、我らはもっと知的な会話をしていたような気がするがな」
「何言ってるんだい。君と好みの女性について語り明かした夜のことは忘れはしないよ」
「……こら、友よ。それは内緒だと言っただろう」
「そうだったかな。昔過ぎて細かいことは忘れてしまったよ……最近は、昔のことは随分と記憶が薄れていてね。新しく覚えることよりも、忘れてしまったことの方が多い気がするんだ」
古龍とケルカさんは、そういって視線を交わした。
そして、手元のお酒をひとくち含んだケルカさんは、目を細めて紅葉を眺めると――ぽつりと、呟いた。
「ねえ、友よ。昔話もいいけれどね、今日はなんだか新しい事を話したい気分だ。
――食べたことのない料理に、紅葉を愛でるという新しい発見。異界のお嬢さんとの新しい出会い。
死ぬ間際に、新しいことに次々と出会えた。……私は、なんて幸せなんだろうね」
「友よ。随分と悪いのか」
「ああ、そうだね。最近、急に症状が進んできてね。……この足は、そろそろ使い物にならなくなるだろうね」
ケルカさんはそっとズボンの裾を捲った。
すると、そこにあったのは普通の脚ではなくて――まるで、木の根のようなものが複雑に絡み合って寄り集まったなにかがそこにあった。
それを見た瞬間、私は思わず目を疑った。……頭の中に回っていた酔いが一気に醒めていく。それだけ異様な光景だった。
何かの病気なのだろうか。脚が悪いとはティルカさんが言っていたけれども――これはただごとでは無い様に見えた。
「……兄さん。この場でその脚を見せたら、何も知らない異界からのお嬢さんが怖がってしまうよ」
「ん? ああ、そうだった。ごめんね、茜さん。これは病気じゃないんだよ。エルフが寿命を尽きかけた時に起きる現象なんだ。……私は、もうそろそろ理想郷へ行く。もうすぐ、死ぬんだ。
……だから、思い出が沢山詰まった故郷に来たんだよ。ここで最期の時を過ごすために。……私の友人に、最期を看取ってもらうためにね」
それを聞いた私とジェイドさんは思わず顔を見合わせた。
いきなり耳に飛び込んできた「死」という重い言葉に、なんて言ったらいいか言葉が見つからない。
そんな私達をみたティルカさんは、あちゃあ、と手で顔を覆った。
「……兄さん! 人間は僕らエルフとは価値観が違うんだ。彼らにとっての「死」とはそんな軽々しく口に出して良いものではないんだから」
「ああ……そうか。いや、すまないな。だから、ふたりとも固まってしまったのか。失礼したね」
ケルカさんはニッコリ笑うと、私たちにエルフにとっての死生観を教えてくれた。
「エルフというのはね、竜ほどは長生きしないけれども、ヒト族のなかでは遥かに長生きだ。
けれども長命な生き物同士と言っても、竜とは違うところがある。竜は長く生きることに価値を見出すけれども、エルフはそうではない。死ぬときは死ぬ。運命が「死」に向かって定められているのならば、それに従うべきだ――。そう、考えている」
ケルカさんは銀杏串を手に取ると、ぱくりと食べた。そして「美味いな」と言ってにっこりと笑うと話を進めた。
「神話では、一番初めのエルフが生まれた時、木の股から生まれたと言われているんだ。まあ、森の民であるエルフに対するこじつけのような気もするけれどね。そのせいなのかな、寿命が付きかける頃、エルフの身体は、末端から木へと変化していくんだよ。
そしてね、エルフには、死後の世界という考えがある。
――死したエルフは、身体は現世に木として残り、魂は楽園に招かれる。そこは、甘い蜜と豊かな森の恵みに溢れた理想郷。死後、エルフはそこで幸福に暮らすんだ。
エルフは現世に未練はないのさ。だから、死の訪れを喜ぶ。……もっとも、誰かに殺されたり、理不尽な死に方をするのはまっぴらごめんだけれどね。私のように寿命で死ぬのは――喜ばしいことなんだ。だから、おめでとうと言ってくれていいんだよ」
ケルカさんは木へと変化しつつある脚をぽんぽんと叩くと、にっこりと笑った。
「私はね、この滅びてしまった里に身体を置いていこうと思ったんだ。……だから、この里へと戻ってきた。弟も、私の死に場所を守るために、ああやって家の手入れをしてくれていてね。ティルカには感謝している。
生まれ故郷というものは、ただそれだけで愛おしいものだ。ここで生まれたのならば、最期の時もここで――そう思ったんだよ」
その様子からは、身体が変化していくことや、これから死ぬことへの恐怖は感じられなかった。
これがエルフの価値観だと言われると、私は言葉を飲み込むしかなかった。
けれども私の頭のなかでは、ケルカさんに問いただしたいことが沢山渦巻いていた。
――寿命だったとしても、本当に心の底から死の訪れを喜んでいるのだろうか。
――理想郷なんて、本当にあると思っているのか。
私はとことん、表情に出やすいらしい。
懸命に堪えたのだけれど、それでも私の内部で渦巻く疑問はケルカさんに伝わってしまったようだ。彼は、困ったような顔をすると、顎を枯れ木のような手で擦った。
「……まあ、君の考えていることはわからなくもないよ。私の奥さんもそんな顔をしていた」
「今朝話していた……」
「そうだよ。彼女もエルフではないからね。死を喜ぶエルフの考えは全く理解ができないといっていた」
ケルカさんの奥さん。ケルカさんの最愛のひと――……。
「惚気になってしまうけれど、彼女との出会いは奇跡のようなものだったんだ。
本当なら、私なんかが彼女を独占するなんておこがましいくらいさ。
彼女と夫婦の契りを交わしてからというもの、一緒にたくさん笑ったし、泣いたりもした。色々なことがあったよ……彼女を私はこの世で一番愛している。
……愛しているからこそ、彼女から逃げてきたんだ。無様な死に様を彼女に見せないために」
そういって、ケルカさんは俯いた。彼が掛けている眼鏡の鎖が、しゃらりと音を立てる。
――普通、愛していれば、ずっと共に居たいと思うのではないだろうか。
最期のその瞬間まで、一緒に居たい。そう思うのが自然だと思っていた私には、その言葉は衝撃的だった。
「自分でも、わがままだと解っているさ。……私が死んだあと、彼女は酷く悲しむだろうこともね。
彼女が「死別」というものをどれほど恐れ、辛く思っているか知っているだけにね。
……でも、それを承知の上で彼女と契りを交わしたんだ。彼女は最期まで私と共にあると言ってくれた。
けれどね、私のような死にかけにいつまでも縛られていちゃあ、彼女が前に進めないだろう?
だから、私が死んで彼女との関係は、それで終わり。……それでいいんだ」
ケルカさんの言葉を聞いていると、奥さんは随分と若い人のように思えた。もしそうなのであれば、奥さんには、ケルカさんの死後も長い人生が待っているのだろう。
――でも。
言葉が詰まる。私は思考が停止しそうになりながらも、なんとかこれだけは聞かなければならないと、必死で口から言葉を絞り出した。
「でも、奥さんの知らない場所で、奥さんの知らないうちに亡くなったとしたら。……奥さんはずっと、貴方を探し続けるのでは無いのですか」
ケルカさんは私を見て僅かに微笑んだ。
「それは大丈夫さ。弟に、なんとかして知らせてもらうように頼んであるからね。ティルカには辛い役目を押し付けてしまって申し訳ないと思っているよ。
――手紙も書いたんだ。出来れば、私の死が彼女に優しく伝わればいいと思う」
そういったケルカさんの表情が凄く優しげで――きっと、ここにはいない奥さんのことを考えているのだろう。それがどうしようもなく解ってしまった。理解できてしまった。
「おや。……困ったな」
ケルカさんは、指で頬を掻くと、私の頭をそっと撫でてくれた。
「君が泣くことはないんだよ。寿命なのだから、仕方のないことなんだ」
「……ッうぐ……」
泣かない、と決めたのに――私の瞳からは今にも零れ落ちそうなほど、涙が溢れてきていた。必死に涙が零れないように上を向いて堪える。
好きな人に、死ぬ間際まで格好つけるなんて、馬鹿らしいと思う。けれども、それはケルカさんが奥さんを愛していて、その愛が深いからこそで――……。
でも、それを語るケルカさんの瞳には、確かに淋しげな影がちらちらと垣間見えるのだ。
「優しいお嬢さん、泣かないでおくれよ。……ああ、君は人のために泣けるのだね。また、新しい発見だ。
……ありがとう」
私は何度も頭を振った。違う、お礼なんて言われる筋合いはない。
私はケルカさん夫婦のことを良くも知らないのに、勝手に理不尽に感じて、勝手に悲しんで、勝手に可哀想に思って――優しさなんかじゃない、自分の価値観に沿わない、哀しすぎることを否定したいだけだ。
「本当はね、傍には居たいよ。奥さんには内緒だけどね。でも、それ以上に臆病なんだ。私がね。
――ああ、そうなんだ。そうなんだよ……! 今気づいたよ。……また新しい発見だ。しかも自分のね。君には益々感謝しなければいけないね。
正直なところ、私の本音はこれなんだろうね、今までのはきっと後付けの言い訳だ」
ケルカさんは、掛けていた眼鏡を取り外すと、困ったように眉を下げた。
「…………死ぬ間際に、愛しい彼女の顔をみてしまったら、生にしがみつきたくなる。エルフの死生観なんてかなぐり捨ててね。理想郷なんてどうでもよくなりそうじゃないか。
……だから、私は逃げたんだね……」
その時、一際強い風が吹き込んできた。
風に吹かれて森の木々がざわめいている。大きく揺れた枝から、辛うじて枝にしがみついていた葉が切り離されて――まるで雨のように私たちに降り注いだ。視界が色鮮やかな紅い紅葉で染まる。
舞い散る落ち葉の隙間から時折見えるケルカさんの紅い瞳は、落ち葉よりも尚紅く、色鮮やかで――その瞳に込められた哀しさと深い愛情が、私の心に突き刺さった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「ユエ、彼女は随分と酔っ払ってしまったようだ。我が家まで送ってやってくれないか」
「……それは構わないよ」
「兄さん、僕も彼女を送っていこう。ジェイドさん、君も来るだろう?」
「ああ。茜を放っておけないからね」
「じゃあ、ユエ。この人数を乗せて飛べるかな」
「……馬鹿にするなよ。僕を誰だと思ってる」
すると、ユエはみるみるうちに竜の姿へと変化した。
そして、背中に乗りやすいように身体を低くすると、皆、ユエの背中へと登り始めた。
私はユエに登る前に、そっと後ろを振り向いた。
そこには、優しげな微笑みを浮かべてこちらへ手を振っているケルカさんと、じっとこちらを見つめている古龍の姿があった。
私はなんとなく、彼らに向かって頭を下げた。
すると、ケルカさんは顔中を皺だらけにして笑ってくれ――そして、また手を振ってくれた。
「さあ、飛ぶよ!」
ユエの声がして、黒い巨体が宙に浮かぶ。みるみるうちに遠ざかる地面をみながらも、私はなんだか申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「……ティルカさん。ごめんなさい、せっかくの紅葉狩りだったのに。台無しにしてしまいました……」
「うん?ああ――いいんだよ。あんな話を場所もわきまえずにしだした、兄さんが悪い」
ティルカさんはそういうと、うっすらと細い目を開けて私を見た。ケルカさんにそっくりな紅い瞳がこちらを見ている。
「それにね。兄さんはああいっていたけれど、きっと義姉さんはここに辿り着くよ。いや、僕が辿り着かせる。ふたりは会うべきだと僕は思ってる。
けれど、義姉さんは神出鬼没。気まぐれな――妖精の女王様だからね。居場所がなかなかつかめなくて困っているんだ」
「……ッ、それって」
「実はね。僕は君に謝らないといけないんだ――」
その時、ユエが僅かに身体を傾けた。
そのせいで、私はバランスを崩してしまって、ユエの背中の上から転げ落ちそうになってしまった。
悲鳴を上げることも出来ずにいる私の腕を、ティルカさんはしっかりと捕まえて抱き寄せた。すると、どさくさに紛れて私の頭を胸元に寄せて――耳元で囁いた。
「ほんとうは、もしかしてと思っていたんだ。君が聖女に関係のあるなにかだって。君の顔立ちはこの世界だとあまり見ないものだし、それに常に騎士が張り付いていたからね――チコの実は、花の香りのように人ならざるものを惹き付ける。君にチコの実を託せば、珍しいものが大好きな妖精女王が釣れると踏んだんだ。
ねえ、茜さん。妖精女王とは知り合ったかい?」
「……はい。…………彼女とは、友人です」
「友人! それは驚いた――君は、僕の期待以上の働きをしてくれたようだねえ。
ねえ、直ぐでなくていい。国に帰ってからでいいんだ。……妖精女王にあったら、これを」
ティルカさんは、そっと懐から何かを取り出して、私の手に握らせた。
「あの白金の女王様に、渡して欲しい。君の隣に咲く花が散りかけていると、教えてやってくれないか?」
「花……」
それは、色鮮やかな色ガラスで作られた、チコの花の細工が付いた髪飾りだった。
「兄さんはあの古龍に、妖精から身を隠してくれるようにお願いしているんだ。このままだと、兄さんの死に際に妖精女王が間に合わないかもしれない――お願いだ。君にしか出来ない。
僕も君から貰ったチコの実の酒で妖精女王をよべないかと色々と試したんだけど、義姉さんは現れてくれなかったんだ」
「……でも、ケルカさんは……ケルカさんの意思は」
「あんなの、ただの強がりさ。誰よりも会いたくて――暇があれば、妖精女王が訪ねてこないかと、窓の外を気にしているくらいなのに。きっと、妖精女王も探している。仲睦まじい、夫婦なんだ。……愚かな弟のおせっかいに協力しておくれよ」
私は、ぐっとその髪飾りを拳の中に握り込んだ。
そして、小さく頷くと、ティルカさんを見上げた。
するとティルカさんは頬を緩ませて、知らぬ間に私の背後へやってきていたジェイドさんへと私を託した。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
――翌日、私たちは旅の支度を整えて、ティルカさんの家の前に集まっていた。
「ティルカさん、お世話になりました。とても助かりました」
「いやあ、よかったよ。僕の家が役に立ったのなら」
「ケルカさんも。ありがとうございました」
「お嬢さんにもお世話になったね。昨日の晩御飯も、今日の朝御飯も絶品だった。知らない料理を一度にこんなに食べられるなんて――幸せだったよ」
ケルカさんはそういうと、私に握手を求めてきた。
私はケルカさんの、筋張っていてひんやりとした手を握ると、彼の瞳をまっすぐに見て、もう一度お礼を言った。
ケルカさんは目尻の皺を深くして笑うと、小さく頷いてくれた。
私は、鞄の中に入れた花の細工の存在をしっかりと心に刻んで、次の街に向けて一歩を踏み出した。
……暫く、秋の森を歩いていると、上空に何か巨大なものが飛んでいるのに気がついた。
森の木々を掠るように低く飛んだり、宙をくるりくるりと遊ぶように回転しているその姿はつい最近みたことがある姿だ。
「茜――!」
「……ユエ!」
勿論、それは黒竜――ユエ。ユエは地面に降り立つと、あっというまに人化して私の下へと駆け寄ってきた。
そして、私の腕に絡みつくと、ニカッと白い歯を見せて笑った。
「茜、僕も行くからね!」
「――はあ!?」
「だって、フェルのお墓に行かなきゃ! 一緒に行ってくれるんでしょう?」
「そうですけど……ジルベルタ王国に帰るのは暫く先ですよ?」
「そんなの、竜の長い生のなかじゃあ、一瞬さ。それともなに、僕が邪魔だっていうの」
ユエは頬を膨らませている。
そんな彼の肩をジェイドさんは強く掴むと、容赦なく「駄目だ、帰れ」と言った。
それに怒りを爆発させたユエは、また「この下等生物め……!」と言って、口の端から炎を噴き出し、ジェイドさんと言い合いを始めた。
「……はあ」
ぎゃあぎゃあ騒いでいる二人を尻目に、私は空を見上げた。
渡り鳥が南へ向かって飛び去っていく。
時折肌を撫ぜる風は冷たい。秋の風にしては冷たすぎるその風は、もうそろそろ冬が近づいているという証なのだろう。
そんな秋の森の中、いくら帰れと言われても従おうとしないユエと、ユエを挑発するような事を言って怒らせているジェイドさん。私の鞄の上に、知らん顔で止まっているリリ。荷馬車の周りを歩いている騎士たちは、どこか困り顔だ。
そんな賑やかな一行は、森の中をゆっくりと進んでいったのだった。
8/2 チコの花の細工→チコに花が付いた髪飾りに変更