古きものが住まう場所、思い出のクリームシチュー4
話が、聖女の話に差し掛かったときだ。
妹の話を一通りし終わると、古龍は砂埃とともに長く息を吐いた。
「……新しい聖女か。つまりは、知らぬうちにマユと出会ってから、随分と経っていたのか」
「マユ、という聖女様とはお知り合いだったのですか」
「……そうだ。黒い髪に、黒い瞳。……ヒトの子、お前によく似ている。コロコロと表情が変わる、変な人間だった。初めて我をみたときに、気を失って倒れてな。――そのときは随分と慌てたものだ」
古龍は可笑しそうに、微かに身体を震わせた。
「あれは、我を見るたびに泣くのでな。そのうち、泣くものだとおもって接していたら、今度は優しくないと怒り出したり……見ていて飽きない、おかしな生き物だった」
――こんな大きな竜にあったら、そりゃあ腰を抜かすだろう。どうやら、古龍の基準はマユという聖女にあったらしい。だから気絶もせず、喚きもしなかった私は「落ち着いている」という評価だったのだろう。
「その聖女様とも、ここで?」
「いや。当時は、小さき黒色と共に、世界を気ままに旅をしていた。その旅路で出会ったのだ。……最後の浄化へ行くと、穢れの島を目指していると言っていた。……あれらと出会ったのは、吹雪が酷い雪原だった」
古龍は目を細めて遠くを見ながら当時のことを話をしてくれた。
古龍が雪原で休んでいたところ、聖女一行が、古龍を岩山と勘違いして吹雪から逃れようとやってきたのが出会いだったらしい。
初めは喧しい人間を追い払おうとした古龍だけれども、聖女が纏う不思議な魔力に興味を持って、追い払うのをやめた。そして、吹雪が収まるまで数日そこで一緒に過ごしたという。
「……聖女に寄り添っていた金色の人間とも、色々と話しをしたな」
「それは、当時の王子……ええと、フェルファイトス様、でしょうか」
「そうだな。フェル、と呼ばれていた。小さき黒色と随分と仲が良かったように思える」
「ユエが? 人間と?」
……ユエが、人間と仲良くするなんて。
私はあの人間を見下しているような態度のユエが、誰かと仲良くするなんて想像がつかなかった。
「小さき黒色は、ヒトを侮っているからな」
「……長様は、どうなのですか?」
「うん?」
「長様は、人間をユエのように思ってはいないのですか? 小さくて、僅かな時しか生きられない、取るに足らないものだと」
私がそう問うと、古龍は何度か目を瞬かせてから、目を瞑った。
その表情からは、古龍が今何を考えているのかは読み取ることは出来なかった。
「……どうだろうな。確かにヒトは我ら竜よりも弱い。遥かに短命だ。しかし、我にはヒトの友人も嘗てはいたし――何度か、ヒトとも戦ったことがある」
「……その結果は?」
「勿論、我が今ここに居ること。それが答えだ。……けれども、いいところまで追い詰められたこともある。あんなに小さきものが、我に挑む。……我が、ヒトであれば、自分よりも大きなものに挑もうなどと思うまい。無謀、強欲、天井知らずの向上心――そこが、ヒトの愚かさであり、好ましいところなのだと、我は思う」
「――竜は、命を掛けて挑むということはしないと?」
「ああ。なによりも優先されるのが自らの命だからな。竜は長く、永く生きることに価値を見出す……だから、あの時」
古龍はうっすらと青い瞳を開いて、私を見つめた。
「聖女とその傍にあった金色に、穢れ島への同行を求められたとき――……断ったのだよ」
私はその言葉を聞いた瞬間、息を飲んだ。
「それは――どうして」
「どうして? 何故、そんな質問をする?」
「……竜は強いのでしょう? 穢れ島の魔物というのは、竜が挑むのを避けるほどに、強いものなのですか?」
「魔物の強さ等は問題ではないのだよ。あの島の至るところから吹き出している邪気が問題なのだ。……ヒトの子よ、お前は我らを誤解している。我らは神などと違って万能ではない。
――この広い世界から比べれば、一握の砂、更にはその砂の一粒にしか過ぎない。我等とて、邪気に穢されれば正気を失う。ただの魔物と成り果てる。……如何に、強い力を持とうとも、邪気は恐ろしい」
「でも、人間は邪気に挑んでいます。邪気を祓わんと、今も私の妹は戦い続けています」
「ああ。そうだな」
古龍はどこか他人事のようにそういった。
……この世界の危機の話をしているはずなのに、何かおかしい。私は古龍の態度に違和感を覚えた。
「竜は邪気が恐ろしいから、手を出さない。――例え、そうだったとしても、人間が邪気を祓ったからこそ、この世界は今もなお、こうしてあり続けているのではないのですか?
人間が動かなければ、前回の邪気の急増期でこの世界は滅んでいたのかもしれないのでしょう? 邪気が恐ろしいからといって、人間より遥かに強力な力を持っている竜は何故傍観しているのですか」
「邪気を祓いたい。それは、ヒトが滅びたくない、生き延びたいと思ったからだろう? 竜とは関わりのないことだ。
邪気とは、生きとし生けるものが生活するうえで必ず発生する世界の淀み。それが溜まりに溜まって、地上に吹き出しているのだ。
……なあ、ヒトの子。聖女が必要になるほど邪気が増えたのは何故だと思う?」
「……何故、といわれても」
「邪気自体は遥か昔から存在していた。けれども、長い間生きてきて、急増期なるものが起き始めたのは、ここ近年のことだ。
昔と今。何が違うのか……それは、生き物の数よ。……地上に生きるものの数が増えすぎ、それらが発する淀みを処理しきれなくなったこの星が、仕方なく地上へと邪気を逃したのだ。……これは、この星の自浄作用といえると思わないか」
「……」
「この邪気の噴出は、この星にとって必要なことだとは思ったことはないか? ある程度の数の生き物が、邪気によって駆逐され、数を減らせば、星に余裕が出来るだろう。そうすれば、自然と急増期も起きなくなる。
なのに、無理やり聖女を召喚してまで浄化する必要性はあるのか? ――正直、我には必要だとは思えぬ」
私は自然と頭に血がのぼり、気持ちが高ぶるのを感じた。
異世界に喚ばれ、聖女として日々苦労をしている妹が成そうとしていることを、意味のないことだと言われたのだ。それは、私達姉妹がこの世界に呼び出された意味を全否定されたのも同じだった。
「では、邪気によって竜族が被害を受けたり、滅んでしまったりしても仕方がないことだと、そう思っているということなのですか! 自らの命は惜しいといいながら、それは矛盾しているのではないのですか!」
「そうだ。……我らは矛盾している。自らの命は惜しいが、星の自浄作用に巻き込まれ、滅ぶのは厭わない。……それが、永い間竜族が貫いてきた姿勢であり、掟でもある。星と共に生き、死ね。……それが、代々引き継がれてきた竜の掟よ」
私は涙がこみ上げてくるのを必死にこらえた。先日、強くなると、頼れる姉になると決めたばかりだ。ここで泣いてしまっては、決意が台無しになってしまう。
「…………ッ、意味のないことといいましたね。必要性を感じないと。……そんなことをいったら、浄化の際に魔物にやられて死んでしまったフェルファイトス様は」
「……何?」
「この世界のためだと、浄化に命をかけて亡くなった彼はどうなるのですか……」
ジルベルタ王国の国民が、彼が亡くなったことを嘆き悲しみ、彼に感謝の気持ちを伝えきれなかったと後悔した、という逸話が残るほど好かれていた彼の死。
それが、意味のないことだと言われるのは悲しい。
下唇を噛み締めて、こみ上げてくる悲しみを、やるせなさを堪える。
確かに、浄化に命をかけるのは人間の勝手なのだろう。生き延びたい、そう思う人間の価値観を全ての生き物に強制するわけにはいかないのだろう。けれども、それでも――……。
「意味はある。……あったと思うんですよ……。彼が、聖女と一緒に浄化を成し遂げたお陰で、今日というこの日があるのですから」
「…………」
――ぽちょん。
そのとき、なにか液体が地面に落ちた音がした。
ぽちょん、ぽちょんと音は続き、その音の感覚はみるみるうちに短くなっていく。
驚いて私が顔を上げると、その水音は古龍の真下で起きていた。――つまりは、古龍が泣いていたのだ。
大粒の涙が、古龍の大きな瞳からぼたぼたと滴り落ち、地面を濡らしていた。
「……そうか。金色は死んだのか。聖女と添い遂げてみせると胸を張っていたあいつは。死んでしまったのか」
「長様……」
「聖女も悲しんだろう。あの泣き虫の聖女は、金色の死に耐えられたのだろうか。酷く泣いたに違いない。あの黒い瞳から、沢山沢山涙を零したに違いない。……ああ、なんてことだろう。……なんてことだろう」
そういって、古龍は涙を零した。
その涙の意味は一体何なのだろう。
――フェルファイトスの死を悼んでいる?
――その時の自分の決断を振り返って、後悔している?
――わからない。
古龍はその後も、ひたすら涙を零し続けた。
何故、泣いているのか。その訳は、最後まで語ってくれはしなかった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
薄暗い洞窟の中を、とぼとぼと里の方向に向かって歩く。
その途中で、ユエが私を待ち構えていた。
……外まで案内するために私を待ってくれていたのだろうか。そう思ったのだけれど、様子が変だ。
ユエは真剣な面持ちでこちらへと近づくと、私の胸ぐらを鷲掴みにした。
「……ねえ、さっきの。聞こえちゃったんだ。……本当なの」
「ユエ」
「フェルが、死んだって。あいつが、マユと添い遂げもせず魔物にやられて死んだって」
「……長様にいったとおりです」
私が肯定すると、ユエは途端に顔を歪めた。
「…………遊びに来るって言ったんだ」
「ユエ?」
「浄化が全部終わったら、遊びに来るって。結婚式も呼んでくれるって。
でも、一向に遊びにも来なかったし、結婚式の招待状も届かなかった。僕のことを忘れちゃったんだって思ったんだ。たった数日だったけど、仲良くできたと思ったんだ。
でも、それは僕だけが思ったことで、あいつらはなんとも思ってなかったって感じたんだ――だから、ヒトはなんて薄情なんだろうって思ったんだよ」
ユエは私の胸ぐらから手を離すと、俯いて震え始めた。
長い黒髪が、さらりと零れてユエの表情を隠した。
「――フェルも、マユも。時々、竜の血を狙ってやってくるヒトと変わりないんだって思ったんだ。
だから、人間は――愚かで、取るに足らないものだって」
私よりも随分と長く生きているはずの彼は、見た目通りの少年のように、感情の赴くままに涙を流していた。肩を震わせ、嗚咽を堪えている。そんな彼の姿を見て――好きな人を、大切な人を亡くした気持ちを充分過ぎるほど理解している私は、放っておくことは出来なかった。
私は、そっとユエに手を伸ばした。
……途端、脳裏に巨大な黒竜と、涎が滴る鋭い牙。そして、冷たい目でジェイドさんを見下していたユエの顔が浮かんだ。
私の手の動きが止まる。心臓が、恐怖と戸惑いで激しく鼓動した。
――大丈夫。きっと、大丈夫。……この子は、好きな人の死を悼む心を持っている。涙を流せる子だ。
私は勇気を出して、ユエに触れた。
彼の頭を私の胸に押し付けて、優しく抱きしめる。
私が抱きしめた瞬間、ユエはびくりと身体を固くした。意外なことに彼は私を振り払ったり抵抗したりしなかった。私はいつも妹にしているように、手でぽん、ぽんとリズムよく背中を優しく叩いた。身体の硬さを、そして傷ついた心を解してあげるように優しく、優しく。
「――ユエ。悲しいね」
「……悲しくない」
「ユエ。寂しいね……」
「……寂しくない」
「ユエ。……会いたいね」
その言葉を聞いた瞬間、ユエは一際、強く震えた。
「――……あ、会いたい……フェル、マユ……! 会いたいよ……」
……ぽろり、とまたユエの瞳からきらきらと涙が零れた。
ユエは時折、フェル、マユ、と小さく呟いた。まるで名前を呼べば、居なくなってしまった彼らがここに来てくれるような、そんな祈りにも似た呟きを何度も何度も繰り返した。
私はそんなユエを優しく抱きしめながら、彼が落ち着くまで背中を優しく叩き続けた。
――もう、二度と会えない過ぎ去った過去の人へ捧げる、ユエの心の雫は、ポロポロと零れて地面を濡らした。