ジェイド視点 護衛騎士の日常とほっこりご飯
「ジェイドさん!」
俺の名前を呼んで、彼女が無邪気に笑いかけてくる。
俺もなんとなく嬉しくなって笑いかえす。
彼女は、そうするとちょっと照れて視線を逸らしてしまう。
繋いだ手をわざと少しだけ離してやる。
…すると、ちょっとびっくりして彼女はこっちを見てくれる。
いたずらっぽく目を細めて、もう一度手を繋ぐ。勿論さっきよりしっかりと握ってやる。
可愛らしい小さい口を少しだけパクパクして、頰をほんのりと染めた彼女は、顔をしかめて唇をちょっとだけ尖らせる。
そんな顔も可愛いなあと、また俺は笑みを深くすると、最終的には彼女は下を向いてしまうんだ。
今日も俺たちは朝のごった返す市場で、食材を探してあっちへふらふら、こっちへふらふら。
人混みは好きではないけれど、彼女と一緒に歩くこの道はとても好きだ。
彼女は小鳥遊 茜。この国を浄化するために召喚された聖女様の姉君だ。
彼女はこの国の女性の平均から比べると小さめの身長で、艶やかな黒髪を肩の辺りで切り揃えて、内側にふんわりとカールさせている。
まんまるの瞳は遠くから見ると黒く見えるけれど、近くから覗き込むと綺麗な栗色だ。
あまりここいらでは馴染みのない彫りの浅いエキゾチックな容姿は、人でごった返す朝の市場でもよく目立つ。すれ違う人々も、彼女のことが気になるようで、ちらり、ちらりと視線をよこす。
といっても、本人はどうやら自分の魅力に気づいていないらしい。いつも必要以上に謙遜の言葉を吐く。それだけは彼女の残念な部分。
まあ、いくら道行く有象無象が彼女をみていても、俺がいる限り声なんて掛けさせやしないけれど。
そんな俺の考えなんてお構いなしに、彼女はその瞳を好奇心できらきら魅力的に煌めかせて、繋いだ俺の手をぐいぐいと引っ張る。
きょろきょろ、きょろきょろ。
新しい何かがないかとうーんと小さい体を伸ばして店を覗き込む。急に驚いて口をぽかんと開けたと思えば、頰を桃色に染めて嬉しそうにあれはどうだった、これはこうだと報告してくる。
「あっち行きましょう!ジェイドさん!ほら!あれなんでしょうか…」
初めは俺と手を繋ぐ事を恥ずかしがっていた彼女は、日が経つにつれて慣れてきたのか段々と遠慮がなくなってきた。俺としては嬉しい限りだ。
彼女の細い手は俺の手によく馴染んで心地いい。品物へ彼女の気が集中しているうちに、思わず手触りを楽しんでしまうくらい。
…今はちょっと親指ですりすり手を触っていたのがバレてしまったようだけれど。半眼の彼女にこちらを睨まれてしまった。
わざとらしくそっぽを向いて、何もしていないアピール。すると、大袈裟なくらい大きなため息が聞こえたと思ったら、彼女の顔が緩んだ。…どうやら、許してくれたらしい。
そんな優しい彼女が愛おしい。
彼女――茜との出会いは離宮だった。
聖女様が召喚された…そんな歴史に残る大事件は一夜にして王宮の隅々まで知れ渡り、突如中庭に現れた不思議な建物は人々の興味を誘った。
俺たち騎士団は、野次馬と他国のスパイから聖女様を守るため、彼女達が召喚された時から大変な忙しさだった。
あちこち手続きや警備のために、騎士団長から下っ端まで日々忙しく飛び回る日々。
そんな中、騎士団では一体誰が聖女様の護衛騎士という誉れ高い役目を任じられるのか、皆そればかり気にしていたものだ。
そんな皆を俺は少し冷めた目でみていた。
俺は伯爵家の三男で、昔から特に期待もされず生きてきた。成人してからも特にやりたい事もなく、かといって国政に関わるのも避けたい。長男次男が優秀なお陰で、領地を継ぐ必要もない。そんな気楽な身分。
なんとなく剣を振るう事だけは好きだったので、騎士団に入ったという半端者。
出世のための熱意もなく、かといって民を守りたいとかいう使命感もない。そんな自分が上司に評価されるはずも無く、聖女様の護衛騎士というある意味花形の役目が回ってくるとは思えなかった。
結局、予想通り上司の覚えがいい何人かが聖女様の護衛騎士へと選ばれた。…が、何故か俺にもお鉢が回ってきた。
俺の任務は、聖女様の姉君の護衛騎士。
なるほど、と思った。
聖女様の姉君は離宮に隔離され、聖女様がお役目を全うされるまでそこに置かれるらしい。
離宮は元々なんらかの理由で隔離される王族の住まう場所だ。警備は万全、立地的にも外の世界から隔絶した陸の孤島。そんなところにいる姉君の護衛騎士なんて、特にやる事もない暇な任務だ。
国のお偉方としては、万が一にでも聖女様の姉君に何かあってはならないと慎重になっているのだろう。ふたりの様子をみるに、聖女様は姉である彼女に依存しているようだったし、彼女も親代わりとして聖女様を大切にしているようだった。だから、彼女の身を守ることは聖女様の心の平穏にもつながる。そのためにも、離宮という確実な安全圏に彼女を置いたのだろう。
彼女自身も、妹が使命を達成したら元の世界に帰ると公言していたから、必要以上にこの世界の人間に関わる必要もないだろう。
だからこそ、出世欲もなく、伯爵家の三男で柵もすくない俺が選ばれたのだろう。
初めてあった彼女の第一印象は、あまり表情の動かない、年の割に若く見える女、だった。
いつもつまらなそうに口をへの字に閉じて、足先の少し前の地面をじっと見つめている。何をするにしても少し眉を顰めて、ちょっと考えてから行動を起こす。
慎重なだけといわれるとそうかもしれないけれど、年頃の女性がするにしては愛想がなさすぎた。
そんな彼女を、つまらない仕事にはつまらない護衛対象があたるものだな、と適当に彼女を評価して俺は特に何も感じていなかった。
――だけど、それは俺の勘違いで。
聖女様が彼女に泣きついたあの日。小さな彼女は、自分より大きな妹を抱きしめて、強い意志でもって夕暮れ時の空を睨んだんだ。
ほんのり赤く染まった頰に、少し潤んだ瞳をしながらも、きゅう、と唇を少し突き出して何かを決意するその姿は、とても眩しくて。
次の日から妹の為に、一緒に喚ばれた家の中を物凄い勢いで整えて、何かの役に立つはず、と魔法の特訓もはじめた。
それまで、眉を顰めてじっとしていた彼女とはもはや別人のようなその姿は、何故か俺の胸の奥を騒つかせた。
何故なら、俺にはない熱意も使命感も、彼女の中にあったことを知ってしまったからだ。
俺はそんな彼女をつまらない人間だと評価していた自分がとても恥ずかしくなった。
同時に、変わった彼女を尊敬したし、憧れた。
俺は――護衛騎士として、彼女の役に立ちたいと思った。
あの日から数日。彼女はとても熱心に魔法の特訓をしていた。
だけど、魔力の総量という壁にぶちあたってしまったようで、久しぶりに眉を顰めて困り顔で黙り込んでいた。
俺はそんな彼女をみて閃いた。
魔力は他者に融通することが出来る。俺がそれをすれば彼女を助けられる!と。
だけど、互いの相性が悪いと魔力の譲渡という行為は途轍もない不快感と苦痛を伴う。受け取る側ではなく、譲渡する側が、だ。本能が簡単に魔力の譲渡をさせないようにしている、なんて説が有力だ。だから、魔力持ちの中で魔力の譲渡というのは、本来あまり推奨される行為ではなかった。
でも俺はためらわない。
この頃には俺の心はすでに彼女に惹かれていて、護衛騎士としての範疇を超えた行為だとしても、彼女の役にどうしても立ちたかった。
だから、何も知らない彼女に魔力の譲渡の件を申し出ると、勢いに任せて彼女の了承をもぎとった。
「…ジェイドさん、鑑定したいです」
彼女は俺が心ここに在らずな状態だったのに気づいていたのか、少し遠慮がちに話しかけてきた。
俺の意識が引き戻され、市場の喧騒が蘇る。
俺は頷くと、彼女の手を握りなおす。
「いきますよ…」
俺の体の中の魔力を循環させて、繋いだ手の方へと少しづつ流していく。
魔力が彼女へ流れこもうとした瞬間、僅かに抵抗を感じるけれど、その後はするすると順調に流れ込んでいくのが解る。
特に不快感を感じることもない。
寧ろ、彼女へ自分の力が流れていくことがとても心地いい。
これは神の思し召しなのだろうか。有難いことに俺と彼女の相性は素晴らしく良く、不快感も苦痛も伴わない。…これで魔力の融通に戸惑う事も躊躇う理由も無くなった。
――まあ、俺の魔力が彼女の隅から隅まで満ちると、あまりの心地よさに、俺の魔力で彼女を抱きしめているような感覚に陥る時がある。そんなときは、本当の彼女の体温を感じたくなって、問答無用で腕の中に閉じ込めてしまいたくなるのは困ったものだけれど。
いつもの様に、食材と睨めっこしている彼女の横顔を眺めていると、ふ、と気が抜ける気配がして彼女がこちらを見る。
「………」
「………」
因みに、何故か魔法を使い終わった後、複雑そうな顔で睨みつけてくる彼女に微笑み返すまでが、魔力を融通するときのお約束だ。
そしてその後手を離す、離さないでちょっとだけ揉めるのも。
いつもの場所で同じやりとり。
飽きもせずそれを繰り返す度に、彼女への想いが一層強くなるのは困ったものだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇
市場を後にして、ほくほく顔の彼女と帰ってきた。
靴を脱いで彼女たちの家にあがる。そういえば、はじめは靴を脱ぐという習慣に随分と戸惑ったものだ。今では慣れたもので、玄関先の下駄箱には俺の靴を置くスペースまで用意してある。
彼女は今にも踊り出しそうなくらい軽い足取りで台所へ向かう。
今日はどうやら気に入った食材が手に入ったらしい。とてもご機嫌な彼女は早く料理をしたくてうずうずしている。
「ジェイドさん、ひいかですよ!ひいか。こっちでも初春が旬の走りなんですねぇ…。色々共通点があって面白いですね。ああ、ひいかちゃん。どう料理しましょうか」
彼女がいうひいかとは親指程度の大きさのイカのことだ。ざるに山盛りにされた小さなそいつを見つけた瞬間の彼女の満面の笑みったら…。可愛らしいの一言に尽きた。
その時の光景を頭の中に焼き付けながらも、俺は少しだけ機嫌が悪い。
何故なら未だに自分に向けられる事がない、恋するような熱い視線をイカ如きが独占しているから。
…俺の心はどこまで狭いのか。
今まで知らなかった自分の新たな一面に、戸惑いつつも紺色のエプロンを付ける。
すると、その様子をじっと見つめていたらしい彼女と視線がかち合う。
そして、何かを決意したようにちょっとだけ唇を尖らせると、おもむろに口を開いた。
「あの。今更、なんですけど。…当たり前のように料理を手伝って貰ってますがいいのでしょうか」
何を言いだすかと思えば、ごにょごにょと「護衛騎士さんは守るのが仕事なのに」とか「私ったら無理矢理押し付けて迷惑してるんじゃないかなぁ…なんて」とか、そんな事を落ち込んだ様子で言いだした。
視線を下げてつま先あたりを見てしまった彼女のまんまるの瞳が見たくて、少し屈んで彼女の顔を覗き込むと、その頰がほんのり色づく。
「…はじめは俺の独断で手伝っていましたが、今は団長にも許可はとっていますから大丈夫ですよ。それに、ここの台所は少し手狭でしょう?手伝いもしないでいる方が邪魔でしょうし…こうしていた方が、貴女を一番近くで守れる」
――なるべく貴女の側にいたい。
そう、言外に匂わせる。
彼女はそれを理解したのかしてないのかわからないけれど、あらぬ方向に視線を逸らして、「そ、そーですかー。それはよかったですー」と棒読みで言いながら、すすすっとちょっとだけ俺から距離をとった。
真っ赤な顔が、完全な拒否ではないと物語ってはいたけれど。
ちょっとだけ寂しくなったのは誰にも内緒。
――いつか自然に彼女に寄り添える日が来ればいい。
大きな鍋に湯がふつふつと静かに沸いている。
湯の中には『こんぶ』という乾燥した海藻。朝からしばらく水につけておいたものらしい。
お湯がぐらぐらと沸く前に、『こんぶ』を取り出す。
彼女曰く「沸騰させるとエグミが出ちゃうんですよ」とのこと。…料理とは奥深い。
そこに木屑のように見える不思議な香りの『鰹節』を豪快に手で鷲掴みして入れる。
湯の中で『鰹節』がふわふわゆらゆら。
本格的に湯が沸騰し始めると、上下にまあるく踊りだす。あたりにはふんわりいい香りが漂う。何となく落ち着く香りで、彼女も「いーにおいですねぇ」とうっとりしている。
やがて湯が黄金色に変わった頃、火を止めてしばらく待つ。踊っていた『鰹節』が静かに鍋底に沈んだらざるで濾して…
「わあ。『出汁』きれいにとれましたねえ」
里芋の皮を剥いていた彼女が俺の手元をひょいと覗き込む。
きれいな透き通った『出汁』。
黄金色のそれを作るのを彼女は俺に任せてくれた。
最初から『出汁』を1人で作るのは少し不安だったけれど、隣で作業する彼女がアドバイスしてくれてなんとかここまでできた。
味見用に小皿に少しだけ取り分けると、彼女に渡す。
ふうふう、と冷ましてそれを飲むと、「うん。美味しい!」と太鼓判を押してくれた。
ほっとして、俺も味見をしてみると、ふんわり香る『鰹』と『こんぶ』の風味。
魚と海藻でこんなに深い味が出るのかと驚く。…美味い!
「今日のご飯は出汁が重要なんですよ。きっと美味しくできますね」
にっこり微笑む彼女に、俺の頰もゆるゆると緩む。
今日のメニューは、
ひいかと里芋の煮物
鳥もも肉の柚子胡椒焼き
大根の味噌汁
ご飯
聞いたことのない料理ばかりだけれど、彼女の料理に間違いはない。俺の中の期待が膨らむ。
さて時間がないと、彼女は小鍋に皮を剥いて塩もみした里芋を入れ、水から煮込む。
俺はいつものピーラーを渡されて、大根の皮むきだ。
彼女は鳥もも肉を取り出して、所々にある脂の塊を包丁でちょこちょこと取っている。
軽く塩を振り、柚子胡椒なる調味料を擦り込むと、『魚焼きグリル』に皮目を上にして放り込んだ。
「弱火でじっくり焼いていきます。皮がぱりぱりになるまでひっくり返すのは我慢です」
そういってまた忙しく動き回る。
皮を剥き終わった俺は、包丁を受け取っていちょう切り。
包丁はまだ慣れないのでゆっくり丁寧に!と彼女に口酸っぱく言い含められた。
…包丁じゃないが、刃物くらいは使い慣れているのだけれど。
騎士団だし、という言葉はぐっと飲み込む。
まるで母親のような彼女の過保護っぷりは、懐かしくて、くすぐったくて。存外悪くない。
煮汁がどろどろに粘り気を帯びた里芋は柔らかく煮えたようで、煮汁を一旦捨てる。
別の鍋を二つ用意して出汁を分けて温める。
片方には大根、もう片方には軟骨を抜いたひいかをいれた。
ひいかはあっという間に真っ赤に茹で上がり、きゅっと身を縮める。出汁もひいかと同じ赤色にほんのり染まり、イカの旨味と出汁の風味が混ざりあっていい匂い。
茹で上がったひいかは固くならないように一旦取り出す。
里芋を鍋に戻して、ひいかの味が染み出した出し汁をかぶるくらいの量だけ残す。
煮立ってきたら醤油と酒と砂糖。落し蓋をしてじっくりことこと味がしみるように優しく茹でていく。
チリチリ脂が跳ねる音が『魚焼きグリル』からしてきたら、鶏肉をひっくり返して火が通るまであと少し。
大根も火が通って柔らかくなったら、火を止めて味噌をとく。あとは食べる前に温めるだけ。
ご飯が炊けるいい匂いが漂いはじめると、匂いにつられて聖女様も帰ってきた。
「あーだめ。お腹すいて死にそう」
「いいから手を洗ってきなさい」
こんなやりとりもいつもの事。
バタバタと慌ただしい足音をたてながら、聖女様が二階へ上がると、最後の仕上げ!と張り切って腕をまくる彼女に場所を明け渡して、俺は皿を用意する。
皮がぱりぱりに焼けた鶏肉は、いまだに脂をジュクジュクいわせている。
それをまな板に乗せて包丁でリズミカルに切っていく。
すっ、ザクッ!
すっ、ザクッ!
ぱりぱりさくさくの皮の切れる音だけで、口の中によだれがじんわりしみてくる。…慌てて飲み込んで、お椀に温めた味噌汁を注ぐ。
里芋の鍋も落し蓋をとると、ふんわり醤油のいい匂い。
そこにひいかを戻し入れて少し煮詰める。砂糖で少し艶が出た煮物はとても美味しそう。
ご飯もちゃぶ台へ配膳していると、――なぜか四つん這いになり、落ち込んでいる彼女をみつけてしまった。
「あ、茜!?どうしたのですか!」
「あう…やってしまった…」
「あー…おねえちゃん…そういうことか」
訳もわからず慌てている俺とは違って、できた料理を見て訳知り顔の聖女様。
彼女は申し訳なさそうに眉を下げて涙目でこう言った。
「おかずがほぼ茶色一色……」
「おねえちゃん、たまにやるよね」
どうやら彼女の食べたいものを何も考えずに作った結果らしい。
『きぬさや』やら『おひたし』やらを添えればよかったと後悔しきりの彼女をよそに、聖女様は早く食べたいらしく、彼女を無視してぱんっと両手を合わせて「いただきます!」と食べ始めた。
俺も苦笑いしつつ、それに習って食べはじめる。
二本の棒のようなもの――『箸』を手にとる。実はコレだけはまだ苦手だ。料理の際に使う『菜箸』はもっと苦手。…彼女たちに比べると少しぎこちない動きで料理に箸をつける。
まずは鶏肉。
口に含むと、まず歯にぱりぱりの皮があたる。
バリッ…じゅわぁ、と肉汁が溢れ出てきた。
香ばしい皮はしゃくしゃくと楽しい歯ざわり。
もっちりジューシーな肉にはぴりりとした辛みがしっかりついている。その辛みはそれほど強くはないが、食欲をそそるには充分。しかも辛みの後には爽やかな柑橘系の香りが鼻に抜ける。これが柚子胡椒という奴らしい。
そのまま、はふっと温かいご飯を頬張ると、ご飯の甘みが、柚子胡椒の辛みを和らげてくれる。
――これは酒と一緒でも美味いだろうな。
酒好きの彼女好みだろう味付けに、頰を緩めつつも続けて次の皿へ。
あつあつの里芋をひとつ口に放り込む。
はふ、はふっと口の中で冷まし、歯を差し入れるとねっとり柔らかい芋。彼女の手料理で初めて味わった、醤油という調味料の味にもだいぶ慣れてきて、なんだか妙に舌に馴染む。そんな醤油と出汁とイカの風味が芯まで染みて、この芋はなんて優しい味なんだろう。
続けてひいか。
ぷちん、とぷりぷりの身を噛み切ればなかからねっとりとしたものが溢れ、甘いイカの味。醤油のしょっぱさとイカの甘さがなんとも癖になって、思わず追加でひとつふたつ、ぽいぽい口に放り込む。
ずずっと味噌汁を流し込めば、口の甘さが出汁と味噌の旨味に取って代わられる。ほく、と柔らかい大根も出汁がしみていて、これまた美味い。
そういえばこの味噌も彼女から教えてもらった味だ。
もう一口、味噌汁を啜る。
――うん、確かに出汁が大事。
芋もひいかも味噌汁も、出汁があってこその美味さ。
しっかりとられた出汁は、控えめに、だけどしっかりとそこにある。
「うー、美味しいねーおねえちゃん。和食に癒されるー。茶色いご飯は日本の心!これ真理だね」
「…妹よ、褒めてるようで貶してるよね…」
ほくほく満足そうな聖女様と、ちゃぶ台の上の料理を睨んで何だか不満そうな彼女。
ぱくりと、芋とひいかをもう一口。
広がる旨味に幸せを感じる。彼女のご飯はいつも胸の奥を温かくしてくれる。
――ああ、美味いなあ。しみじみ美味い。
なにかどうでもいいことを、お互い楽しそうにからかい合う姉妹をのんびり眺める。
これも、毎日繰り返される風景だ。
そしてこれこそ、いつまでも繰り返し眺めていたい幸せな風景。俺が手に入れた、今ここにある日常。
初春編、了。
次回より春編です。