日本の味と煌く街、ふたりきりの夜5
家に帰ると、当たり前だけれど部屋中きんきんに冷え切っていて、慌てて暖房をつけた。
そして冷えた体を温めようと、順番にお風呂に入った。
先に私が入ったあと、ジェイドさんに入ってもらい、その間に客間に布団を敷く。
こたつに入ってテレビをつけると、夜のバラエティー番組が入っていた。
それは毎週欠かさず見ていたもので、半年振りのその番組はなんだかとても懐かしい。
「茜、お風呂ありがとうございました」
「お湯加減は大丈夫でしたか?」
「はい、おかげさまで」
ジェイドさんは、まだ濡れている髪をタオルで拭きながら居間へ入ってきて、こたつに潜り込んだ。
そして、ふたりで静かにテレビ番組を眺める。
部屋の中にはテレビの音だけが響いて、折角ふたりで居るのにとても寂しい。
居心地の悪い空気に耐え切れなくて、ジェイドさんを見ると、彼はなんだか沈んだ表情をしていた。
おなかの辺りがもやもやして、どうにもやりきれない。
私は瞼を少しの間閉じて、思い切って、息を吸って――ジェイドさんに声を掛けようとした、その瞬間。
――バツン!
何かが切れるような音がした瞬間、部屋中の電気が一気に消えた。
…停電!?
突然の出来事に驚いていると、ジェイドさんの声が近くで聞こえた。
「大丈夫ですか!?」
「…はい、大丈夫です。多分直ぐに点くと思うんですけれど」
「そうですか。でも危険ですから、目が暗闇に慣れるまで動かないほうがいいですね」
ジェイドさんは少し安心したように、軽く息を吐くと、私をぎゅっと抱きしめてきた。
「え、えっ!ジェイドさん…?」
「ストーブも消えてしまいましたから。冷えたらいけません」
そういって、私の肩に顔を埋める。
ふわりと、ジェイドさんからいつものコロンの香りじゃなくて、シャンプーの香りがする。
…ああ、私からも同じ香りがしているのかな、なんてずれた考えが頭を過ぎる。
途端、この家に今まさにふたりきりなんだ、という実感がひしひしと湧いてきた。
男性の硬い筋肉質の体に抱きしめられて、私の心臓は今も破裂しそうだ。
――ああ、どうしよう。
――駄目だ。駄目。
頭のてっぺんから、足の先までジェイドさんに触れられていることがどうしようもなく嬉しい。
じわ、じわ、と恐ろしいほどの幸福感が私を包み込む。
――頭が回らない。
暗闇でよかった。きっと今の私の顔はみっともなく真っ赤に違いない。
それに頭の隅っこでは、駄目だ、やめろと自分を抑制しようとする冷静な自分がいるのに、腕をジェイドさんの背中に回して、私からも抱きつきたい衝動が次から次へと襲い来る。
理性と欲望の葛藤の中、私は何度か腕をあげようとして、やめることを繰り返した。
――このままではいけない。
私はそう思って瞼を硬く閉じ、心を落ち着けた。
全身を蝕む幸福感を、なんとかして押さえつける。
そして、両手を使ってジェイドさんの胸を僅かに押した。
すると、それに気づいたジェイドさんが、私から少し体を離した。
…ふたりの間にできた、ほんの少しの隙間がとても寂しく感じる。
「茜…」
「寒くないですから…」
大丈夫、そう言おうとした瞬間。
ジェイドさんが私を強く強く抱きしめた。
「嫌です」
「…ジェイドさん…?」
「離したく、ない…」
ジェイドさんは喉の奥から声を絞り出すように、そういった。
そして、「ねえ、茜。聞いてくれますか」と静かに話し始めた。
「精霊界で、貴女が料理をしているとき、俺は茜のお父さんと一緒にいました。…知っているでしょう?」
「おとうさん…」
精霊界で出会った父の顔を思い出すと、今でもじわりと涙が滲んでくる。
確かに、ジェイドさんはいなくなってからずっと父と一緒にいたと言っていたっけ。
「茜のお父さんは、茜の小さい頃や大きくなってからのこと。いろんな思い出を話してくれました。…それはもうたくさんのことを。楽しかったこと、大変だったこと。茜の可愛いところ、凄いところ…」
父が私の自慢を嬉々として語る姿が容易に想像できて、今はもう会えない父への想いで胸が苦しくなる。
ジェイドさんは、少しだけ抱きしめる力を緩め、片手で私の髪を軽く撫でながら、更に話を続けた。
「今回、茜の世界に来て。たくさんのものを見ました。見慣れないものばかりで、驚きの連続でした。茜に優しくしてくれる人ともたくさん出会えました。けれど、それを目の当たりにさせられる度に、俺の心は曇っていきました」
「……」
「茜のお父さんが語った世界。茜の大切な思い出の場所。俺が目の当たりにしたのはそういうものです…茜。気づいていましたか?貴女は、俺の世界にいるときより、表情が随分と柔らかい」
ジェイドさんは私の存在を確かめるように、ぎゅ、と更に強く抱きしめてきた。
「茜。貴女は俺のことを優しいといってくれる。けれど、俺はそんなに優しくないんです。身勝手で、欲望に忠実な――恋心に踊らされている、ひとりの馬鹿な男だ」
ジェイドさんは少しだけ体を離し、私の顔を両手で挟み込む。
段々と暗闇に慣れてきた目には、ジェイドさんがとても寂しそうな顔をしているのが見えた。
「全て、浄化が終わってから伝えようと思っていたんだ。貴女の邪魔にならないように、そう思っていたんだ。だけど、今日の貴女の様子をみていたら、不安で不安で堪らなくなってしまった。きっと俺がなにもしないでいたら、貴女は風のように俺の腕の中からすり抜けて――こちらの世界に戻ってしまうだろうって」
「俺の気持ちなんて関係なく、きっと聖女様のことやいろんな柵を優先して、俺の前から消えてしまうだろうって、解ったんだ。…嫌でも解ってしまった。寂しいと泣く貴女を精霊界でみたとき、俺は苦しくて仕方が無かった。俺は…俺の存在は、貴女の心の隙間を埋めるほどのものにはなれていないと、そう思うと居ても立っても居られなくなって」
「だから、今、言うよ。卑怯だと思う。優しい貴女をまた新しい鎖で縛ることになる。けど言わなきゃ、もう俺は耐えられそうに無いんだ――」
ジェイドさんが私の額に自分の額を合わせた。
彼の息遣いが間近に感じる。それは、とてもとても熱くて――…。
「茜、貴女が好きだ。ずっと好きだった。茜、貴女が堪らなく愛おしい…」
ジェイドさんはまるで甘えるかのように、合わせた額をぐり、と擦り付けてきた。
「茜、お願いだ。俺を見てくれないか。最後、全て終わったときに、どんな結論をだしてくれても構わない。それまでの短い期間でもいいんだ。俺と、一緒に居て欲しい。寂しいときは俺に頼って欲しい。俺を貴女の一番にして欲しいんだ――」
ジェイドさんは、最後に私の肩口に顔をまた埋めて、なんだか泣きそうな声で言った。
「茜。貴女がどうしようもないくらい、好き、なんだ…」
その言葉が、ジェイドさんの熱くなった体が、私にじん、と沁みてきて、どうしようもなく震えてしまった。頭の中はジェイドさんのことでいっぱいになり、心が震えて、胸が酷く苦しい。自然と瞳から涙が次から次へと零れ落ちる。
言葉がうまく出てこない。ジェイドさんの気持ちに、どう答えればいいの。
そろそろと、腕をあげる。この手を、ジェイドさんの背中に回したら。背中に回したら――私は。
そのときだ。
「茜は、俺のこと嫌いかい?」
ふと、ジェイドさんがそんなことを言い出した。
かっと、頭に血が上る。――そんなこと、あるわけ無いじゃないか!
今までの戸惑いはどこへやら、私は両手を使って、ぎゅうっとジェイドさんを思いっきり抱きしめた。
力いっぱい、自分の持てる全てを使って、自分の気持ち全てが伝わるように強く抱きしめた。
「――ジェイドさん、ずるい」
漸く搾り出した声は、とんでもなく震えていて、しかも相手を罵るような言葉で、自分にがっかりする。
でも、そんな私の発言に、ジェイドさんは肩に埋めていた顔を上げて、優しく私をみつめた。
「ほら、言ったろう?俺は優しくないって」
そういって少し笑って、今も零れ続ける私の涙を指で拭う。
「馬鹿、馬鹿、馬鹿っ!ジェイドさんの馬鹿!意地悪!」
「うん。そうだよ、俺はとんでもなく意地悪で、恋に狂った大馬鹿やろうなんだ。それで、茜。質問の答えは?」
「私が、ジェイドさんのこと、嫌いなわけ、ないじゃないですか…っ!」
「違う、俺の聞きたいのはそっちじゃない」
ジェイドさんは私の目を真っ直ぐ見つめている。あのツリーの下で見たジェイドさんと同じ顔。
…私の、気持ち。口にしていいものなのだろうか。私はまだ迷っている。私にはまだ、自分の未来は見えていない。
だから、次に私の口から出た言葉も、迷いを含んだ言い訳だった。
「…でも、私は。この先、どうするか決めきれてなくて」
「うん。それでもいいんだ。それでもいい…茜。聞かせてくれるかい?貴女の気持ちを教えて欲しい…」
いまだはっきりしない私に、ジェイドさんは請うような、祈るような切なげな声でそういった。
暗闇の中でうっすら浮かび上がるジェイドさんの蜂蜜色の瞳は、期待と不安で揺れていて、それを見てしまった私は――とうとう頭の中で白旗を振った。
私は羞恥心に耐えながら、少しだけ深呼吸をする。
そして、震える唇で――言ってしまった。
「好き、好き…!好きに決まってる!私も、ジェイドさんのこと、好きなの…!」
その言葉を言い切った途端、唇に柔らかいものが触れた。
ジェイドさんの吐息と、温かな体温を感じて、顔が直ぐ近くにあるのがわかる。
――ああ…私、ジェイドさんとキスしてる。
ジェイドさんは何度も何度も角度を変えて、私の唇に自分の唇を重ねた。
唇に飽きたら、今度は私の頬、耳朶、顎、首筋。いろんなところを軽くついばんでいく。まるで見えている肌の部分に全部触れられたんじゃないかというくらい、たくさんキスをされた。
「茜。茜、茜…俺も、好きだ。好きだよ」
キスの合間に囁かれる自分の名前の余りの甘さに、頭がじん、と痺れる。
柔らかい唇がいろんなところを触れるたびに、その箇所がほわっと温かくなる。
私もジェイドさんの声に答えるように、
「ジェイドさん、ジェイド、さん…好き。私も、好き…」
と囁き返すと、ジェイドさんは嬉しそうにふんわり笑って私の瞼にまた唇を落とした。
そして、ゆっくりと瞼を開けると、そこには綺麗な蜂蜜色の瞳。
その瞳を見た途端、むくむくと私のなかの欲望が膨れ上がる。
――ああ、もっと。もっと触れたい。
なんてことだ。私ってば、こんなに欲深かったなんて。
自分の知らなかった一面に驚きながらも、きっと私はこの場の雰囲気に酔ってしまったんだろう。
普段の自分なら絶対にしないような表情で、ジェイドさんを見つめ、キスをせがんだ。
ジェイドさんは、うっすらと目を細めてふっと笑うと、ゆっくりと私に顔を近づけ、今度は軽い触れるだけのようなキスではなく、深く繋がるようなキスをした。
私はその感触に少し驚いたけれど、そっと瞳を閉じる。
体全体を包み込む幸福感に全てを任せると、ジェイドさんを愛おしく思う気持ちが一層募ってきて、両手でジェイドさんの背中を、存在を確かめるようにまさぐった。
随分と長い間キスをしていた気がする。それが終わったときには流石に息が苦しかったけれど、どうしても離れたくなくて、頬と頬を合わせたり、お互いのいろんなところに唇で触れ合ったりして、それからも暫くお互いの気持ちを確かめ合う。
それは、とても甘く、幸せな時間。
気づくと電気も復旧していて、明るくなってはいたけれど、お互いそのことに気づかないくらいに、夢中で――…。
暫くして、漸くお互いに落ち着いて体を離したとき、明るい電気の下で顔を見合わせて――どちらともなく、笑ってしまった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
翌朝、目が覚めると昨日のことがまるで嘘だったかのように思えて不安になってしまった。
けれど、唇にはジェイドさんの感触が残っていて、ほっと胸をなでおろす。
急いで身支度を整えて、居間に入るとジェイドさんは既に起きていて、私に気がつくとふんわりと柔らかく微笑んだ。
そして、私に近づくと優しく抱きしめてくれて、私のつむじに唇を落とした。
「茜、おはよう」
「おはようございます、ジェイドさん…」
またじわじわと体の奥底から幸福感が溢れ出す。
私もそっとジェイドさんの胸に顔を預けると、ふと少し前のある出来事を思い出してしまって、笑ってしまった。
「どうしたの?」
「いえ、あの。精霊界でみた幻影のことを思い出してしまって」
そうだ、あの時も私は婚約者であるジェイドさんにおはようのキスをしてもらっていた。
まさか、あれが本当のことになるなんて、不思議な気分だ。
「そうなんだ」
「そういえば、ジェイドさん。その口調」
そっとジェイドさんを見上げると、ジェイドさんは照れくさそうにはにかんだ。
「茜とふたりきりの時は、畏まった言葉遣いはやめたいんだ…駄目かな」
「貴女には、嘘偽りのない俺を見ていて欲しいんだ」と言って、ついばむような軽いキスを私の額にした。その言葉が嬉しくて、私の口元がだらしなく緩む。なんとかそれを引き締めようと努力するけれど、どうにも上手くいかなくて、緩みきった笑みを浮かべた。
「うん、わかりました。なんだろう。凄く嬉しい…」
「茜も、そうして欲しいんだけど」
「…うっ」
…急にそんなことを言われても、何だか無性に恥ずかしい。
「お、追い追いで…いいですか?」
「…ゆっくりでいいよ」
ジェイドさんは小さく笑うと、私を真っ直ぐに見てきた。私もジェイドさんをそっと見返して、ふたりでじっと見つめあう。
そして、自然と顔と顔が近づいて――また、唇を重ねた。
その後は、忙しく買い物をして回った。
ティターニアが言うには、今日か明日には戻れるということだったので、買い逃しが無いようにリストを作って在庫を確認していく。
ガラガラだった食料庫は満杯になり、ぎっしりと品物が詰め込まれている。
入りきれなかったものもあり、それは仏間に置いたりして工夫した。
一通り買い物をし終わって、その日の晩になっても戻る気配はなかったけれど、いつ戻ってもいいように、外食は止めて、ふたりでこたつで鍋をつついて、楽しく過ごした。
そして、翌朝。
余りの暑さで目が覚めた。
昨晩まで酷く寒かったから、羽毛布団を被って寝ていた。なので、汗をびっしょりとかいてしまった。
まるで、一晩で夏が来たような――…
そのことに気づいた私は、布団を跳ね上げて、急いで夏服に着替え、階段を駆け下りる。
するとジェイドさんがいつもの鎧姿で迎えてくれた。
ふたりで顔を見合わせて、玄関へ向かう。
そして、玄関の戸を開けて――慎重に一歩を踏み出した。
すると、透明な壁は既にそこになく、するっと簡単に外に出ることができた。
余りにも嬉しくて、ジェイドさんのほうを勢いよく振り返る。
…戻ってきた!戻ってきたよ!
思わず嬉しくなって、ジェイドさんと力いっぱいハイタッチをした。
その時、遠くから聞きなれた声が聞こえた。
「――…おねえちゃん!」
ひよりと他の皆がこちらに駆け寄ってくるのが見える。
私は精一杯体を伸ばして、大きく手を振った。
日本編、了。
次回から秋編です。