日本の味と煌く街、ふたりきりの夜1
ぱちりと目を開けると、そこには見慣れた天井があった。
周りを見渡すとどうやら仏間に倒れていたらしいことが解る。
今は何時ごろなのだろうか、締め切られた障子からうっすら光が透けているから、日中であることは間違いないとは思うのだけど。
起き上がってみると、全力で泳いだ後のように体中が疲れてだるい。
隣には私の下半身に抱きつくような形でジェイドさんが倒れていて、まめこの姿はどこにもない。
見慣れた仏間の風景と、ジェイドさんの姿に少しだけだけ安堵して、ほうっと息を吐くと、何故かその息が白く染まった。
「――…寒ッ」
夏のはずなのに、部屋の中は冷え冷えとしていて、半袖ではとてもではないが耐えられないほど寒い。
仏間はしん、と静まり返り、気温以外は精霊界に行く前と変わらない様に見える。
仏壇に目を向けると、妹が準備してくれた盆飾りがそのまま残っていた。
小さな電気式の灯篭にも灯りが点り、灯篭の真ん中にある水が入った筒は、下からぽこぽこと水泡が立ち昇っている。
けれども、私が用意しておいたお盆用のお膳は上がっておらず、小さな卓には何も乗っていない。
――これは、送り火を焚いた日に戻ったということなのかなあ。
何か手がかりはないかと、キョロキョロと周りを見渡しても、いつもどおりの風景が広がるばかりで、違いがわからなかった。
そのとき、仏壇に飾られている両親の写真が目にはいった。
――お母さん。お父さん。
さっきまで感じていたぬくもりを思い出すと、とても苦しくなる。
けれども、死んだ両親に出会えたこと、それは私にとって嬉しいことでもあったのは間違いない。
ふと、思わず両親に叫んでしまった「置いていかないで」という自分の言葉を思い出した。
…恐らく両親を困らせてしまったに違いないこの言葉は、私の心からの言葉だ。
周りの大人に負けないように気を張って、一生懸命、妹を守ってきた。必死に走り続けてきた6年間だった。けれども、いつだって私は――…。
「あんなこと言ってごめんね。…私、頑張るよ」
私のその言葉は、一緒に吐き出された白い吐息のように、静まり返った仏間で、誰にも聞かれることなく、空気に溶けて消えていった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
優しくジェイドさんを揺り起こすと、彼は何度か瞼を震わせてから、ゆっくりと目を開けた。
「――ん、茜…」
「ジェイドさん、どうやら戻ってこれたようですよ」
ジェイドさんは頭を軽く振ると、気だるげに体を起こした。
「ほんとうですか?また、幻影――ではないですよね」
「まあ、自分で判断できない以上は、はっきりとは言えませんけど」
「そうですね…」
ジェイドさんも寒さを感じているのだろう、腕を摩って周りを見回している。
その時だ。玄関のほうから、誰かがどんどんと戸を叩く音がする。
「――…ね…ちゃん!おねえちゃん!いるの!?」
遠くから聞こえる妹の声に、私とジェイドさんは顔を見合わせると、勢いよく立ち上がって廊下に飛び出した。
廊下は薄暗く冷え切っていて、廊下の板張りの床が、指先がじんとするくらい冷たい。
急ぎ足で廊下を歩いて玄関へ向かうと、廊下の中程にある、居間の扉が開け放たれているのに気付いた。
歩きながらなんとなくそちらへ目を遣ると、ありえない光景を目にして、私は思わず立ち止まってしまった。
私の後ろを歩いていたジェイドさんは、急に立ち止まった私につんのめって「どうしたのですか?」と不思議そうな声をあげ、私と同じ方向を見て――絶句した。
開け放たれた居間の向こう側。
私とジェイドさんの目に飛び込んできたのは、しんしんと雪が降り積もる庭の風景。
庭の桜の木も、葉を全て散らし裸の枝に雪を積もらせて、寒さに耐えている。
なによりいつもは遠くに必ず見える、城の城壁が見えない。
代わりに見えたのは、私にとって見慣れた――雪を被って真っ白に染まった、日本にあるはずの地元の山々だ。
「…へ?」
私の間抜けな声が冷え切った家の中に響く。
ここは、もしかして…。
頭の中に浮かんだありえない回答を否定しようとした瞬間。
半年前まで、毎日のように聞いていた、ブロロロロロロロ…というエンジンの駆動音が聞こえた。
そして、雪の降り積もる我が家の側の道を、白い車がゆっくりと通り過ぎていく。
「え、え、え、ええええええええええ!?」
私は混乱の境地に陥り、ただぱかんと大きな口を開けて、唯々意味も無く間抜けな声をあげた。
唖然としたまま、そこに立ち尽くしていると、玄関の扉を叩く音が一層強まった。
「おねえちゃんの声がした!おねえちゃん!そこにいるの!」
「茜!開けてくれないか、頼む!」
妹の焦る声と、カイン王子の声が聞こえる。
その声のお陰で、停止した思考が漸く動き出した私は、改めて玄関へと足を向けた。
引き戸の玄関の扉、擦りガラスのむこうに、うっすら妹の姿が見える。
その姿にほっと安心して、私は扉に手を掛け――がらり、と一気に開けた。
「おねえちゃん!」
「ひより!」
途端、ぶわっと熱い空気が玄関の扉の向こうから流れてくる。
そこには、妹、カイン王子、ダージルさん、ルヴァンさんが居て、皆一様にほっとした表情をしていた。
私は嬉しくなって、妹に駆け寄ろうとした瞬間――玄関の戸を潜ろうとして透明な何かにぶつかり、鼻を強打してしまった。
「ふがっ!」
「おねえちゃん!」
鼻がじんじんする。必死に鼻を摩って痛みを逃がそうとするけれど、なかなか痛みが引かずに涙ぐんでしまった。
妹が心配そうにこちらを見ている。
「大丈夫!?何が何だかわからないけれど、透明な壁に阻まれてそっちにいけないの!おねえちゃん、なにがあったの!?」
妹はめずらしく泣きそうな顔だ。
妹が言うには、あの迎え火をした夕方――妹曰く、昨日――私とジェイドさんの姿が急に見えなくなった。どこかに出掛けたのだろうかと暫く待っていたものの、一向に帰ってこないので妹は探しに出たらしい。けれども、私たちの姿はどこにもなく、妹が落ち込んで家に帰ると、そのときには家全体をなにか透明な壁が覆っていて入れなくなっていたという。
泣きそうな妹を安心させたくて、私はさっきまでのことを話した。
まめこというドライアドに連れられて、精霊界へ行った事。そこで、お父さんとお母さんに会ったこと。両親と別れた後に、またまめこに連れられて、水の中に飛び込んだと思ったら仏間で目を覚ましたこと。
「そうなんだ。お父さんとお母さんに会ったんだ。…元気だった?」
「うん。相変わらずだったよ。…幸せになってって、泣いてた。心配ばっかりしてたよ」
「…そう。そうなんだ」
妹は少しだけ目を細め、うっすら笑みを浮かべた。
…両親のことを思い出しているんだろうか。
「…ごめんね、私ばっかり」
「いいんだよ。死んじゃった人は普通は会えないんだもん。おねえちゃんがラッキーだったってだけだよ」
「やけにあっさりしてるね?」
私が妹の立場だったら、死んだ両親に会いたいと泣いてしまいそうだ。
だけれど、妹はニカッと白い歯を見せて、
「私にはおねえちゃんが居るからね。寂しくないもん」
そういって照れくさそうに、頬を指で掻いた。
その様子に私はどうしようもなく嬉しくなって、また涙を滲ませる。
…最近、ほんとうに涙もろくていけない。
「感動の姉妹の再会を邪魔して悪いのだが…。精霊界やらドライアドやら、聞き捨てなら無い単語が沢山聞こえたような気がするのだが?」
その時、ルヴァンさんが話に割り込んできて、私をじろりと睨みつけた。
ああ、久しぶりのルヴァンさんの怖い顔!
思わず私の頬が引き攣る。
「ええとですね。なんといったらいいか…」
「つまりは君は私たちに内緒で、ずっとドライアドを飼っていたんだな?」
「ええ、飼っているだなんてそんな。精霊様に対して失礼ですよ、はい」
「そして、その挙句そのドライアドに精霊界に引きずりこまれたと」
「まあ、ええと、その」
「無事に帰ってこれたからいいものの、命を落とすようなことになったら、どうするつもりだったのか説明してもらおうか」
「いや、死んだら説明できないと思うんですけど」
「君は口だけは達者だな?」
「う、あ、ええと。本当に、どうもすみませんでしたーーー!」
私は勢いよく頭を下げた。
確かにあらかじめ、まめこのことを話しておくべきだった。私たちはここでお世話になっている身なのだから。それに、私たちが居なくなったときも、恐らく沢山の人が探索に加わってくれたに違いない。一体どれだけの人に迷惑を掛けたのだろう。…本当に申し訳ない。
「ほ。茜をそんなに責めるでない。ヒトの雄よ」
その時、鈴を転がすような可愛らしい声が聞こえた。
顔を上げると、みんなの後ろに、大きく玉虫色に鈍く光る黒い蝶の羽を広げ、たっぷりと白いレースを重ねたドレスを纏った、ティターニアが立っていた。
「ティターニア!」
「妖精女王!」
ティターニアは、その美しい白金の髪をかきあげ、美しい顔に笑みを浮かべながら、皆を押しのけてこちらへ寄って来た。
「ほほ。そうかそうか。無事に戻ってきたか、茜よ」
「ティターニア。どうしてここに?」
「なに、妾の僕がな。妾の大事な友達が戻ってきた、と知らせてくれたのでな。出迎えにきたまでよ」
「あ、ありがとう?」
「礼には及ばぬぞ、茜」
ティターニアは何故か口元を手で隠し、にんまりと空色の瞳を三日月形に細めている。
――なんだか、嫌な予感しかしないんだけれど。
透明な壁越しにティターニアと話をしていると、皆が遠巻きにしてこちらを眺めていることに気がついた。
「あれ?みんな?」
「…茜。妖精女王と友達って、本当か?」
ダージルさんが硬い表情でそう聞いてきたので、私が頷くと、彼は顔を手で覆って大きくため息を吐いた。
ダージルさんだけでなく、カイン王子もルヴァンさんも苦々しい顔をしている。
「…妖精女王。いや、今はティターニアという名前なのでしょうか。今は緊急事態なのです、酒宴は後ほど用意させて頂きます故、今は茜と話をさせていただけませんか」
カイン王子が些か緊張したような口調でそう言うと、ティターニアはにんまりと意地が悪そうな顔をして「ふん、小僧めが」と、カイン王子を鼻で笑った。
「その金の髪。碧い瞳。それは妾の血を受け継いでおるものの証。誰に向かってものを言うておるのじゃ」
「…は!?」
「申し訳ございません…高祖母様」
「はああ!?」
あまりの衝撃に開いた口が塞がらない私に、ティターニアは「お主、阿呆のような顔になっておるぞ?」と笑っている。
高祖母ってなに!?と、カイン王子を見ると「この妖精女王は私の曾祖母の母なのだ」と言った。
…ということは、カイン王子はティターニアの子どもの孫の…何!?ああ、訳がわからない!
「妾は、時折ヒトと交わるのだよ。妾の子孫は強い魔力を持つが故、重宝がられているようだぞ?…まあ、こんな人外と血が混じっておるなどと、王族たるもの表沙汰にはしていないようだがな?」
「高い魔力を誇ること、それは解りやすい権力の象徴だものなあ」とティターニアはそれがなんでもないことのように話し、口元を隠してほほほ、と嗤った。
カイン王子は、なんだかとても気まずそうに、少し困った顔をしてティターニアを見つめている。
…まあ、こんな自由奔放で、きまぐれで人外な妖精女王が自分の祖先なんて、たとえ私がカイン王子の立場だったとしても、そういう微妙な顔で見るしかないと思う。
それにしても、物凄い衝撃の事実だ。色恋沙汰なんて縁遠そうなティターニアが…!
しかもティターニアは「あのときの夫は五番目の夫じゃ」と言い放ち、なんだか眩暈がしてきた。
「ティターニアには沢山の夫がいるんですか…?」
「いや、同時にはおらぬよ。恋に落ちたら、それが死ぬまで番うのだ。ああ、勿論自由恋愛じゃぞ?今は七番目の夫がいる」
「なな…ティターニアは、経験豊富な恋愛上級者だったんですね…」
「なんじゃ、それは」
ここ最近の恋愛のあれこれで悩んでいた私としては、上級者というのはきらきら眩しく見える。
眩しすぎるティターニアの姿を薄目で見ながら、恋や結婚について思いを馳せていると、妹の場にそぐわないのんきな声が聞こえた。
「へえ、妖精さんは、カインの遠いおばあちゃんなんだねー」
「おばあ…」
「ひより!」
「へ?だって、おばあちゃんなんでしょ?」
「いや、それはそうなんだけどね!?」
妹の発言で空気は凍りつき、皆一様に顔を引き攣らせている。
妹は、どうして周りがそんなに動揺するのかが理解できなくて、大いに戸惑って私に助けて欲しいような視線を投げてきた。
――間違ってはいないんだけど、おばあちゃんというより祖先?いや、祖先って何代前から言うの?いやいやいやいや、それ以前に、この妖精女王にそんなこと言ったらどうなるか!
私はティターニアの口から、例の「呪ってやる!」発言が飛び出すんじゃないかとはらはらしながら、ティターニアをちらりと覗き見ると、彼女はぽかんとした顔で妹をまじまじとみて――…そして、大きく口を開けて笑いだした。
「あっはっはっは!そうじゃの!正しく妾は、そこの金髪の婆じゃ。いやいや、流石は聖女よ。真実をずばりと言う。面白い、実に愉快!」
「ん…?合ってた?よかったー間違ったこといったのかと思った」
「間違ってはいないぞ。だが妾に婆などとはっきりいえるものが、ヒトには余りおらぬだけだ。くっくっく。婆、婆か。それはいい」
ティターニアは上機嫌で妹の背中を叩いている。
妹はそんなティターニアに戸惑いながらも、背中の羽を眺めたり綺麗な髪を触ったりして、和気藹々としている。ふたりは意外と気が合うようだ。
「あの…」
すると、そこにジェイドさんの声がした。
「和やかな雰囲気のところ、申し訳ないのですが。俺と茜はこれからどうなるんです?」
ああ、そうだ!
ほのぼのとティターニアと話している場合ではない!
ついつい妹や他のみんなの顔を見れた安心感で、気が緩んでしまった。
「そう!さっき車が走っていたのをみたんです。それに庭に雪が積もっていて…まるで元の世界に戻ったみたいな」
改めてしっかり周りの状況を確認すると、妹達の背後に見える景色は、異世界に喚ばれてから見慣れた光景だ。遠くには城の城壁があるし、兵士が見回りのために闊歩しているのも見える。なによりも太陽が燦燦と照り、気温が高いのか遠くの景色が陽炎になってゆらりと揺らいで見える。
勿論妹達も夏の装いだ。
それに比べて、こちらの寒いこと!
まるで、玄関の戸の向こうは夏で、こちらの家の中だけ冬が来たようだ。
私は目の前の透明な壁をこんこん、と叩いてみる。
硬いその透明な壁は、何かで殴って壊せる類のものなのだろうか。
「ふふん。心配はいらぬぞ、茜」
その時、ティターニアが得意げに腰に手をあてて、そう言い放った。
「このまま放って置けば、明日か明後日にはこちらに戻ってこれるじゃろう」
「ティターニア、あなた一体何を知っているの?」
「妾が事情を知っているのは当たり前じゃろう。なぜなら、あのドライアドを焚きつけて、精霊界に連れて行かせたのは妾じゃからな」
ティターニアはそう言うと、にんまりと瞳を三日月形に歪めた。