精霊の大樹と家族の夕食 後編
「さあ、ご飯。作ろう、茜」
私が泣き止むと、お母さんは何ごともなかったように料理を再開した。
いきなり現れた懐かしいお母さんの姿に、ついつい何も考えずに抱きついて泣いてしまったけれど、死んでしまったお母さんが現実にここにいるはずがない。
幻影…なのだろう。
この母は、私の心が作り出した幻。現実ではない。
思う存分に泣いて、冷静になった頭でそのことに改めて思い至ると、私の胸は締め付けられるように痛んで、切なくなった。
「ねえ、お母さん…」
「茜、お腹すいているでしょう?早く作らなきゃ、あなたもだけれどあの人もお腹を空かせて待っているわ?」
お母さんはにこにこ笑いながら、冷蔵庫から更に二枚豚肉を取り出して、下ごしらえをはじめる。
これで、私が下ごしらえしたものとあわせて四枚。
…もしかして!
私が期待を込めてお母さんをみると、お母さんはちょっといたずらっぽく笑って「後のお楽しみ、ね」と言った。
「茜とご飯仕度をするのは、ほんとうに久しぶりね。私、なんだか凄く楽しい気分なの。だから今は料理に集中しましょう?終わったら、色々と。ね?」
その言葉にまた涙が滲むけれど、私は黙って頷いて、手の甲で涙を拭って手元に視線を戻した。
肉の下ごしらえが終わったので、早速油を用意してとんかつを揚げていく。
「油、大丈夫なの?やけどしない?」
「やだ、お母さん。私もう、子どもじゃないんだよ」
お母さんは私の答えに納得いかないのか、「そうお?」と困ったような顔をしている。
心配性なお母さんに苦笑しつつも、私は充分に熱した油にとんかつを入れた。
――じゅわ、じゅわわわわわ!
とんかつの水分が弾けて良い音がする。
「キャベツ切っておいたわよ」
私が揚げ物をしているうちに、お母さんが千切りにしたキャベツを皿に盛ってくれた。
「うーん。あとはトマトのくし切りときゅうりを乗せるの?」
「うん。そうだよ」
「そうなの…ね!茜、それじゃあつまらないから、ここに――…「いれなくていいから!」」
私が先立ってお母さんの魔改造計画を阻止する。
すると、お母さんは「マシュマロ、とんかつに合うと思うのに。きっと美味しいわよ?」とぶつぶつと不貞腐れ気味に呟いた。
…アレンジャーっぷりまで再現しなくていいのに!幻影!
全く困ったお母さんだ。
だけど、自然と私の口元が緩む。
なんだかとても懐かしいやり取りに、私の心の中がじわじわ、ほっこりと温かくなった。
とんかつも無事にきつね色に揚がって、少しだけ網の上で冷ましてから包丁で切ると、ざく、ざくと良い音をたてる。
断面は綺麗に真っ白で、切った瞬間ふわっと湯気が上がる。なかなかいい感じだ。
お味噌汁も完成。ご飯も炊けた。さあ、最後の仕上げだと、たっぷりとキャベツを盛ったお皿に、とんかつを乗せたところで、また「――カタン」と何かが動く音がした。
ふと音のした方を見てみると、居間へ続く扉がうっすら開いている。
扉の隙間からは電気の光が漏れ、中から男の人の話し声が聞こえた。
どきり、と私の胸が高鳴る。
この向こうに――もしかして。
期待に胸を高鳴らせながら、ゆっくりと足を運び、そっと扉を開けると――そこには、とても困った顔をしたジェイドさんと――お父さんがいた。
「茜!」
私に気がついたジェイドさんが、さっと立ち上がる。
そういえば、いつの間にかジェイドさんが居なくなっていたことに今更気づいた。
「ジェイドさん、すみません私気づいていなくて――」
「いいんですよ、俺も出汁をとって米を炊飯器にセットし終わったと思った瞬間、ここに飛ばされていて…それからずっとここに」
「…多分私の中の幻影が現れているんだと思うんですけれど」
「…恐らくそうでしょうね」
「ちょっと待て!」
ジェイドさんと話をしていると、お父さんが私とジェイドさんの間に割り込んできた。
「貴様!茜のことを呼び捨てにするなと何度言ったらわかるんだ!」
「いや、え、あ。すみません」
お父さんが怒り心頭でジェイドさんに詰め寄る。
そこにお母さんがまあまあまあ、なんていいながら割って入ってふたりを引き剥がした。
「お父さん、折角茜に会えたのにそっちのほうが優先なの?」
「だって!お母さん!茜ったら、感動の再会なのに先にそっちの男にかまうから!」
ぐじぐじとお父さんは半泣きでいじけている。
ああ、お父さんってこういう感じだったなあ、としみじみ思う。
子どもっぽくて、過保護で、わたしと妹のことが大好きで。
「まだ娘を嫁にやったつもりはないのに、なんだか嫁がれちゃった気分だよ…」
「あなたの理想の感動の再会が出来なかったからって、落ち込みすぎじゃない?」
そんな落ち込むお父さんをお母さんは呆れ顔で見つめている。
お父さんは、お母さんの呆れた視線に気付かずに「俺の計画では、茜は両手を広げて俺にかけよってきて」だの「涙ながらに抱きしめあって」だの言っている。
「ほら、あなた。ぐじぐじぐじぐじ、うざったいわ。もういい加減にしないと、茜がつくったご飯、あなたにだけあげないわよ」
「えっ!茜のご飯!それはいいなあ!楽しみだなあ!きっと最高に美味いだろうなあ!」
お母さんの言葉に、お父さんはあっという間に立ち直って、いそいそとちゃぶ台の周りに座布団を敷き始めた。
…そうだった、食事前の座布団敷きもお父さんとひよりの仕事だった。
懐かしい気持ちになりながら、全員の分の料理を配膳し終わると、何故かひとつだけ座布団がぽつんと離れたところに敷いてあった。
お父さんはその座布団をしきりにジェイドさんに勧めていて、それを見たお母さんに一発頭を叩かれていた。
…お父さん…なんだか違う意味で切ない。
「さあ!食べよう!食べよう!いただきます!」
全員が席に着くと、ぱん!とお父さんが手を合わせて、にこにこしながら料理に手をつけ始めた。
お父さんは、たっぷりとソースをかけたとんかつを箸で持ち上げ、ざくっと良い音をさせて齧りついた。そして、目元をゆるゆると下げて「美味しいなあ…」と、しみじみと呟いた。
お母さんも似たような顔で「茜は上手になったわねえ」と感心しながら食べている。
久しぶりに手料理を振舞うことに、少しだけ不安があった私は、ふたりの様子を確認してほっと胸を撫で下ろす。それから、私も漸くとんかつに箸をつけた。
とんかつの衣は、歯を入れるとざくり、と軽い良い音をたてる。
中のお肉はむっちり肉厚。
とんかつは、揚げすぎるとぱさぱさしがちだけれど、早めに油から引き揚げて、最後は余熱で火を通してあるから、ふんわり柔らか。
豚肉の脂身の甘さと、柔らかなお肉にかかった、しょっぱいとんかつソースと、たっぷり入れた胡麻が良い仕事をしている。
「今日も美味しいですね…」
ジェイドさんがしみじみと呟くと、耳聡くそれを聞きつけたお父さんが「茜のご飯を毎日食べているアピールか!?そうなのか!?」と噛み付いて、お母さんに叩かれていた。
そんな両親に苦笑しながら、添えてあるレモンを手に取る。
「ジェイドさん、レモンをかけても美味しいですよ。あとは辛子も。お好みで試してみてください」
「へえ…レモンに辛子」
私はジェイドさんにそう言いつつ、自分の残ったとんかつの半分にレモンをかけた。
レモンをかけるかどうかは人の好み次第だとは思うけれど、私はわりかし好きなほうだ。
レモンが掛かったとんかつを食べると、まったりした脂の中に、酸っぱくてさわやかなレモン果汁の風味がして、脂っこさを紛らわしてくれる。
そのままの勢いでご飯を食べると、肉と炭水化物の黄金コンビが私の心を癒してくれた。
――お肉にご飯。しかも揚げ物。このコンビの最強っぷりは、他の追随を許さないよねえ。
数年後には胸焼けを起こすかもしれないけれど、今はこのコンビが私に幸せを連れてくる。
更にレモンがかかっていないとんかつに、辛子をつけてぱくりとひと口。
つん、とした辛味がこれまたとんかつに合う。
レモンが洋風なアレンジなのであれば、辛子は一気に和風よりにしてくれる魔法の調味料だ。レモンはビール、辛子は白飯に合うと思う。
たっぷり刻んだキャベツをほおばると、しゃきしゃきしていてとてもさっぱり。千切りキャベツは、とんかつと一緒にならどれだけでも食べられそうだ。
「ほんとう…美味しいね…」
「そうね。お父さん。ほんとうに」
そのとき耳に飛び込んできた、お父さんとお母さんの声が震えているように聞こえて、視線を手元からふたりに向けると、私は思わず息をのんだ。
優しげな視線で手元のとんかつを眺めているお父さんも。
美味しそうにご飯を食べているお母さんも。
ぽろり、ぽろぽろと涙を流している。
決して顔は悲しそうではないのに、ふたりの涙は次から次へと零れて、テーブルの上にぽつりぽつりと涙の染みをつくる。
「…あ…」
幻影。
これは幻影なのに。
「なんで泣くの…」
私の口からそんな言葉がぽつりと零れた。
これは私の幻影。つまりは、私が求めた結果。
…私は両親を泣かせたかったのだろうか。
「ごめんなさいね、茜。あんまり美味しくて。茜の成長が嬉しくて」
お母さんは箸を置くと、ハンカチを取り出して涙を拭う。けれど、拭っても拭っても涙が止まることはなくて「ああ、どうしましょう。とまらないわ」とまた笑い泣きをする。
そんなお母さんの肩を抱いて、お父さんも涙を零しては鼻を啜った。
そして、私を優しげな眼差しで見つめ、両親揃って次々と私とひよりを思い遣る言葉を紡ぐ。
「なあ、茜。いま、幸せかい?辛い思いはしていないかい?茜を慰めてくれる誰かはちゃんといるのかい…」
「茜。ひよりは元気なの?また大変なことをやらかしてはいない?ちゃんと笑っている?勉強はきちんと毎日しているのかしら」
「茜。頼れる誰かはいるかい。ひとりで無理はしていない?息抜きは出来ているかな…茜は、ひとりで抱え込むことが多いから」
「そうね。昔からしっかりしたおねえちゃんだったけれど、それ以上に甘えん坊だったから」
「心配だね」
「そうね、お父さん。心配だわ…」
ふたりはお互いを支えあうように寄り添い、そして、
「どうして、可愛い娘たちを置いて逝かなければ、いけなかったのかしら…」
そう言って、更に静かに涙を零した。
途端、ふたりの周りに緑色の燐光が纏わりつき始めた。
その光景に、なんとなく私のなかに焦りが生まれた。
でも、動けない。状況が理解できなくて、動きたくてもうまく体が動かない。
「茜!しっかりしなさい!」
ジェイドさんが私の肩を強く揺する。
「だって、幻影…」
「いえ、幻影とは違うかもしれません。俺の説明が不味かった。言ったでしょう、ここは精霊界。あらゆるものが混じり合う場所。『生者』と『死者』すら混ぜこぜに現れる場所なんです!」
どくん、と私の胸が高鳴る。
幻影じゃない?死者?二つの言葉がぐるぐると頭の中を駆け巡って、理解が追いつかない。
そんな私にジェイドさんは更に畳み掛けた。
「幻影でもなんでもいいじゃないですか!会いたかったんでしょう?甘えたかったんでしょう!?…間に合わなくなる前に、早く!」
ジェイドさんが言葉を言い切る前に、私はよろめきながらも勢いよく動き出す。
そして寄り添う両親に駆け寄って、ふたりに縋り付いた。
「お父さん…お母さん…!」
そして、大きな声をあげて泣いた。
「会いたかったよお…!」
両親はわたしを黙って抱きしめてくれる。
ふたりの瞳から零れた涙が、ぽつりぽつりと雨のように私に降り注ぐ。
両親が死んでから、ずっと求めて止まなかった温もりは、私を「おねえちゃん」でも「聖女の姉」でもない、ただひとりの「茜」に戻した。
私の涙が少し落ち着いた頃。
また不思議な現象が私の周りで起き始めた。
鼻をすすりながら、顔を上げた瞬間、半透明の誰かが私をすり抜けていったのだ。
驚いてその誰かの後ろ姿を視線で追うと、それは見慣れた祖父の大きな背中。
半透明の祖父は、さっと私達の体をすり抜けると、居間を出て行った。
「お、おじい…」
『おじーちゃん!まって!』
私が祖父を呼ぼうとすると、幼い子どもの声が直ぐ傍で聞こえた。
すると、小さな半透明な子どもが祖父を追いかけて、とててて、と幼い足取りで部屋から消えた。
その後姿は、私の記憶のなかにある、小さい頃の妹にそっくりで。
私は混乱してしまって、両親に縋り付くのをやめて回りを見渡す。
――それは、まるで色あせたフィルムをみているようだった。
半透明の祖父や、祖母、妹。私が今触れている両親とは別の半透明の父と母。そして、随分と幼い私。
それらが居間の四角い空間の中で、まるで舞台のように、まるで映画のように様々な生活の一場面を切り取り、それを再現していく。
――部屋の真ん中に小さな私が泣いている。手元にはぼろぼろになった本を大事そうに抱え、泣きじゃくるひよりに背を向けている。
『おかあさん!ひよりが、私の本を破いたー!』
『こら!ひより!』
『う、うぇぇぇぇぇ。ごめんなさい…』
…ああ、そうだ、昔私が祖父から貰った誕生日プレゼントの本を、すぐに妹に破られたことがあったっけ。そうだ。それで、そのとき…。
『大丈夫だよ、茜。お父さんと一緒に直そう』
『でも、ぼろぼろ…』
『じゃあ、新しいのを買うかい?』
『いや!お爺ちゃんから貰ったのはこれだもん。これがいい』
『だったら、お父さんに任せなさい。お父さんは魔法のテープを持っているんだ。これがあれば、あっという間に元通りさ』
『…本当!?』
お父さんがセロファンテープで直してくれた本は、ちっとも元通りじゃなくって。だけど、一緒に一生懸命直した本に、なんだか凄く愛着がわいて、何回も何回も読み返したっけ。
『おたんじょうび、おめでとう!ひより!』
私が思い出に浸っていると、場面が急に切り替わる。
ちゃぶ台の上に、大きなケーキに沢山のご馳走。それを囲む家族の姿。
そうだ。誕生日。これは妹の誕生日だ。そう、両親と最後に過ごした誕生日…。
妹は口いっぱいにケーキを含んで、とても幸せそうに食べている。
『おねえちゃんのつくったケーキ、美味しいねえ!』
『本当?』
『だって、お母さんが作ったやつみたいに、へんなのはいってないもん!』
その瞬間、お母さんはとても変な顔をして。そのあと、お父さんが膨れるお母さんを一生懸命宥めていたっけ…。
あのときのお母さんの顔。今でも覚えてる。
次から次へと、家族の記憶が再生される。
記憶の中の妹や私はとても幸せそうで、子どもの頃は気づかなかったけれど、両親は私たちをとても温かな目で見守ってくれていた。
それに気がつくと、また胸が苦しくなって、私の瞳からはまた涙がぽろり、ぽろりと零れてとまらない。
「茜。泣かないで…」
「茜とひより。俺達の大切な娘たち」
「違う世界に飛ばされて大変だと思うけれど、ひよりを支えてあげてね」
「俺たちはもうお前を慰めることは出来ないから、何かあったらそこの…鎧の男でもいいから頼りなさい。…まあ、性根はいい奴のようだから」
しゃくりあげる私の背中を優しい手が撫でてくれる。
涙で歪む視界で両親を見上げると、うっすら半透明になって今にも消えそうだ。
その両親の後ろでは未だに家族の思い出が再生されている。それも楽しい思い出ばかりだ。
皆楽しそうに、幸せそうに笑って、誰かが欠けていなくなるなんて想像もしないで、そのときの幸せな時間を享受している。
…もうやめて。大切な思い出だけど、大切だからこそ私を傷つける。
もう手に入らない大切なものをまざまざと見せ付けられて、悲鳴を上げて掻き毟りたいくらい胸が痛い。
「茜。一緒に居られなくてごめんね。本当にごめんなさい」
「駄目!いやだ!お母さん、お父さん、いかないで…!」
ただの「茜」になってしまった私は、心の奥底の本音を叫ばずにはいられない。
「寂しいのはもういや!謝るくらいなら、置いていかないで!」
そう叫んだ瞬間、両親の姿は掻き消え、沢山の緑の燐光が空に向かって立ち昇り、消えた。
「お友達に、ありがとうって伝えてね」
「どうか。どうか幸せに。それだけが、俺達の望みだ」
耳に残った両親の最後の言葉に、私はどうしようもなくまた涙がこみ上げてきて、その場で蹲って涙が枯れるまで泣き続けた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
涙が枯れても心のどこかにぽっかり穴が空いたようで、泣き止んだ後もぼうっと両親がいた場所をみていた。
そこはもう、見慣れた居間では無くなって、あの木の洞へと戻っている。
いつの間にか、側に寄り添ってくれていたジェイドさんを見上げると、彼の目も赤くなっていた。
「…幻影じゃなくて、本当の両親だったんでしょうか…」
「わかりません。真実を知る術は、今の俺たちにはありませんから」
「そうですね…」
それだけを話して、またふたりで黙り込む。
さっきまですぐ側にいた、両親の顔が思い浮かんでは消えていく。
「まめー」
すると、まめこがどこからか現れ、とてて、と幼い足取りでこちらへ駆け寄ってきた。
「まめこが、よんでくれたの…?」
返事を期待せずに問いかける。
するとまめこが、木の枝で出来た歪な手で私を指差しながら、
「…めらめらー…よんでたー」
と、またいつもとは違う単語を喋った。
それだけいうと、まめこは楽しそうに左右に揺れて、踊るようにぴょん、ぴょんと跳ねまわる。
「めら…?よんでた…?」
「もしかして、めらめらとは、あの迎え火のことでしょうか」
あれは死者の魂を、迎え入れるための儀式であって、呼び寄せる儀式ではないのだけれど…。
「私のために、ここに連れてきてくれたんだね」
「おー」
まめこは私たちの周りを飛び跳ね、ぐるぐるまわって楽しそうにしている。
迎え火をしながら、両親、祖父母に出来るならもう一度会いたいと、寂しく思っていたことは確かだ。
まめこはそんな私の気持ちを、汲んでくれたのだろうか。
はしゃぐまめこに声をかける。するとまめこはこちらを向いて立ち止まったので、頭を撫でてやった。
「………ありがとう」
「まめ!」
まめこは元気にそういうと、私とジェイドさんの手を取って、ぐいぐいと木の洞の出口の方へと引っ張った。
「え、あ、まめこ!?」
まめこの力は思いの外強く、私とジェイドさんは争うことも出来ずに、走り出したまめこに引き摺られるように走り出す。
狭い木の洞の中だ。すぐにぽっかりと空いた大きな穴が眼前に迫る。
――このままだと、落ちるーーー!
そう認識した瞬間、ひやりとして鼓動が早まる。
なんとかまめこを止めようと踏ん張って見るけれど、一向にスピードが緩まない。
そうこうするうちに、あっという間に穴の縁に到達してしまい――まめこは私とジェイドさんの手を握ったまま、勢いよく空中へと飛び出した。
「う、わ、あああああああ!」
物凄い勢いで、大樹の下に溜まる水溜りが近づいてくる。
死ぬ!死んでしまう!と焦る自分とは裏腹に、何故かああ、やっぱりこういう時はきゃーなんて悲鳴は出ないんだ、と変に冷静な自分がいて、内臓のふわっと置いていかれる感覚も相まって、もう何が何だか訳がわからない。
「や、やだ!死にたくない…!!」
そう叫んだ瞬間、大きな水音と、ぼこぼことくぐもった水の中の音を聞いたのを最後に、また私は気を失った。
夏編、了。
次回から新しい章です。