精霊の大樹と家族の夕食 中編
あまりの出来事に呆然としていると、ジェイドさんがほっとしたように私を抱きしめてくれた。
「…よかった、茜…」
「ジェイドさん。一体どういう…」
周りの状況を再確認したいのだけれど、ジェイドさんが私の頭に顔を埋めていて、頭を動かすことが出来ない。
「じぇ、ジェイドさん?」
「茜…。茜…」
ジェイドさんの様子がおかしい。
ジェイドさんは、私の名前を呼びながら、すりすりと私の頭に頬ずりしている。
私は、ジェイドさんを無理やり引き離すと、両手でジェイドさんの頬をぱん!と思い切り挟んだ。
「ジェイドさん!!」
「……あ、かね…?」
すると、ジェイドさんはぽかんとした顔をして、何度か瞬きをしたあと、一瞬で茹でだこのように赤く染まった。
「あああああああ!ああっ!茜、す、すみません!俺、一体なにを…!」
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫!大丈夫です!」
そういって、ジェイドさんは後ろを向いて頭を抱えてしまった。
そんなジェイドさんの反応を不思議に思いながら、改めて周りを見回す。
ジェイドさんが言ったことが正しいのであれば、ここはあの白い大樹の内部ということらしい。
確かに木の洞の壁は、大樹の木肌のように白くつるりとしている。
台所の流し台があったはずの部分を触ってみると、ひんやりとしていて、先ほどまでどうしてこれを台所だと思っていたのか不思議だ。
「私、さっきまで家の台所にいたんですよ」
私の声が木の洞のなかに反響して、何重にも重なって聞こえる。
薄暗い洞は、天井部分をみるとところどころ隙間が空いていて、そこから光が差し込んでいた。
「お父さんと、お母さんと…ひよりと、ジェイドさんと。ありえない組み合わせの筈なのに、何故だか当たり前のように感じて、その状況を信じ込んでいました」
木の洞の奥へ少し歩くだけで、直ぐに出口を見つけた。そんなに内部は広くないようだ。
この場所は、水が零れ落ちている虚より下にあるのだろう。出口の上部分から、沢山の水が滝のように流れ、私たちがいる木の洞を隠している。
外を覗くと、先ほどまでいた場所がはるか下に見えた。
――どうやってここまで登ってきたんだろう。
――それに、あの黒っぽいジェルみたいなのも、一体…。
「ジェイドさん、どういうことかわかりますか?」
振り返ると、ジェイドさんは漸く落ち着いたのか、頭を抱えるのをやめて、顔の赤みも引いていた。
「あくまで伝承や物語で語られていることを聞き及んだだけなのですが…。精霊界、と呼ばれる場所はとても不安定で、現在、過去、未来。そして、現実、願望、妄想…更には生者と死者、空間や場所。全てが入り混じっている場所なんだそうです。あの道化師と精霊の話でも、精霊界に来た道化師が『愛しの君』の幻影に惑わされている場面があります」
「全てが入り混じる…つまりは」
「伝承が本当なのであれば、自分の中にある様々な感情や情報、そんなものがここではあたかも現実を装って現れる。私たちはそういったものに惑わされたのでしょう」
ふう、と息を吐く。あれは私の願望…だったのだろうか。
父と母がいて、ひよりがいて…それで、ジェイドさんが…。
――ジェイドさんが?
ジェイドさんが、私の婚約者で明日結婚?
「う、にゃあああああ!!」
「あ、茜!?どうしたんですか!」
「いや、なんでも…ちょ、やめて!ちょっと、ジェイドさん!私恥ずかしすぎて死ねる!やだ!」
「まさか、また幻影が…!?しっかりしてください!」
「違っ…!そうじゃなくて!いやああああ!兎に角、ちょっと放って置いてえええ!」
心の奥底で抱えていた願望をまざまざと見せ付けられ、その内容がとんでもなく恥ずかしいものだったから。
今度は私が頭を抱えて、ジェイドさんに背を向けて蹲る番だった。
一時間ほどして、やっと頬の赤みが引いた。
――あああ、私の馬鹿。信じられない。
自分の妄想や願望と言われても、今でも生々しく思い出される、婚約者なジェイドさんの姿。
――おはようのキスとか普通にしてたよ…。なんだそれ!なんなんだそれ!
私の許容範囲をゆうに超えた羞恥心が次から次へと湧いてきて、立ち直るまで随分とかかってしまった。
顔の赤みは引いても尚、心の奥で燻る羞恥心を押さえつけ、なるべく平静を装って、ジェイドさんとこれからのことを相談する。
どうにか外に出れないかと、内部をくまなく探してみたけれど、外に向かってぽっかりと空いた穴からは、下に降りられそうな足場はなく、木の洞の中はつるりとした壁が広がるばかりで穴などもない。
あっという間に手詰まりになって、地面に座り込んで途方にくれた。
「というか、どうやってここにきたんでしょうね…」
「さあ…。気づいたらここにいたんです。不思議な場所、ですからね。何がしかの力が働いたのでしょうけれど」
「そのうち、道が開くまで待つしかないんでしょうか」
「そうですね…」
ふと思い出すのは、まめこのこと。
一体全体まめこはどこに行ってしまったのだろうか。
彼女だったら、何か知っているかもしれない…けれど、「まめー」とか「うー」なんて言葉しか発しないまめこに、説明を期待しても無駄なのだろうか。
あ、でもここにくる前に、まめこがなんか違うことを言っていたような…。
――ぐう。
そのとき私のお腹が盛大に鳴り、狭い木の洞の中に響き渡った。
「……」
……これ以上、好きな人の前で恥は晒したくないのに、この腹はッッッ!!
「お腹空きましたね」
優しいジェイドさんは乙女の恥を晒した私に、気を使って声を掛けてくれる。
「そうですね。夕方にここに連れてこられて、随分経ちましたからね…」
「今晩の夕食はとんかつでしたっけ。食べたかったですねえ…」
「残り少ないお米を楽しむために、上等な豚肉を買ったんですけどね…」
――かたん。
そのとき、何かが動く音がした。ふと音のした方向を見てみると、木の洞の一番奥突き当りの部分が陽炎のように揺らめいているのが見える。
「あれは…」
「茜、注意してください。迂闊に近寄ってはいけません」
「でも、ここから出られる何か、かもしれません」
「そうですが…」
ふたりで顔を見合わせる。
ここに留まっていても、どうにもならないことはお互い解り切っている。
小さく頷きあって立ち上がると、そろそろと警戒しながら、その揺らぎに近づいた。
「…台所?」
「そのようですね」
揺らぎの中を見てみると、そこには見慣れた台所が見える。
…もしかして、この揺らぎの中へ入れば、元の世界に帰れるのだろうか。
ジェイドさんは警戒しつつも「少し待ってください」といって、剣の鞘を慎重に揺らぎの中に差し込んだ。
左右に軽く振ってみても、特に手ごたえは無いらしく、不思議な顔をしている。
「俺が先に行きます。声を掛けますから、それまで動かないで」
「…はい」
そう言うと、ジェイドさんは揺らぎの中に体を滑り込ませた。
私はドキドキしながら、その様子を見守る。
数分後、揺らぎの中から私を呼ぶ声がしたので、私は恐る恐る揺らぎの中に足を踏み入れた。
揺らぎの中は、正しく見慣れた祖父母宅の台所そのものだった。
いつもと違うことと言えば、台所の窓の外が虹色の空の色で染まって、他に何も見えないことと、居間に続く扉が開かないこと。
冷蔵庫なんかも開けると冷気が漏れでて、電気も点くし、食材も入ったままだ。それにガスも問題なく使えるようだ。
「一体全体どういうことなんでしょうか…」
「さあ。幻影の中でないことを祈るばかりですが」
さっきまでの状況を考えると、幻影の中にいるときは、自分では現実なのかどうかの判断が難しい。
これも幻影で、本当はあの木の洞の中で今も座り込んでいるのではないかと想像してしまい、ひやりとする。
「兎にも角にも、判断がつかない以上は、いくら考えても仕方ありません」
「そうですね。あ、ジェイドさん」
そうは言われても、少し不安だったのでジェイドさんに近づく。
そして、ジェイドさんの手を握って何度か軽く揉んだ。
「なんとなく、幻影じゃない気がします!温かいですし」
「……」
何故かジェイドさんは口を押さえて、あらぬ方向を向いて黙り込んでしまった。
やっぱり幻影なのだろうか。そう思って、今度は背伸びをしてジェイドさんの頬を軽くむにむにと抓る。すると、ジェイドさんに笑われてしまった。
「うん。俺も、この茜は幻影じゃない気がしますよ」
そういってジェイドさんがからからと笑うものだから、なんだか間抜けなことをしてしまったと気づいて、頬が熱くなってしまった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「折角台所があることですし。料理したらまずいでしょうか」
冷蔵庫の中を見ながらジェイドさんに問うと、ジェイドさんも眉を顰めて悩んでいる。
「ううん…。どうでしょう…一見普通の食材に見えますけど、これが本当に食べられるものなのか…」
「でも、正直お腹が限界です…」
「まあ、そうですね…」
――ぐうう。
ふたりのお腹の音が重なる。
…また、鳴ってしまった…。私の体の正直さにうんざりしていると、ジェイドさんは下を向いて肩を震わせている。
「…笑わないでくださいよ」
「いえ、あんまりにも俺たちの腹の音のタイミングがぴったりで…くっくっく。ああもう、やっちゃいましょう」
「え?」
「時には勢いも大事だって、誰かが言ってました。目の前にご飯が作れる場所があるんです。俺と茜が一緒にいれば、兎にも角にも、取り敢えずご飯を作る!今までずっとそうだったじゃないですか」
「…ですね」
ふたりで顔を見合わせて、にっこり笑いあう。
そして腕まくりをしながら、台所にふたりで向かった。
不思議と冷蔵庫の中身は、精霊界に来る前と変わらずに、今晩作るはずだった材料が揃っている。
ということで、今日のメニューはとんかつだ。
とんかつにはたっぷりの千切りキャベツを添えて、あとはたまねぎのお味噌汁にお漬物にご飯。
今日のために用意した豚肉は、分厚くカットしてもらった上等なもの。
いつもながら、美味しいお肉を提供してくれるオークさんには感謝しきりだ。
ジェイドさんにはお米の準備と出汁をとってもらって、私は肉の下ごしらえに入る。
脂と赤身の境目に包丁を入れていく。これが筋切り。これで、熱が入っても肉が縮こまらない。
そうしたら軽く塩胡椒をして、小麦粉、卵、パン粉の順につけていく。
肉にパン粉をつけていると、指先についた卵にパン粉がくっついて、指が妙に太くなってしまった。
手をわきわきと動かすと、なんだかパン粉の手袋をつけているようだ。
――そうだ、いつも衣を付けるとき、こんな風に手が大変なことになって…
「あらあら、茜。手がおっきくなっちゃったねえ」
優しい声が、急に真横から聞こえた。
「ほら、手を洗ったら、ちゃんと排水溝も掃除しなきゃ。パン粉でつまっちゃうんだから」
「…うん。わかってる」
手が震える。唇が震えて、喉もからから。出そうとしても、声がなかなかでない。
視界の端にみたことのある、柔らかそうな手が見える。
私はごくりと唾を飲み込んで、恐る恐る私の横に立つその人を見た。
その人の顔を見た瞬間、私の顔が歪む。
どうにかしてその人と話したくて、何とか声を絞り出したけれど、ようやく出た声は、みっともなく掠れた声だった。
「…わかってるよ、お母さん…」
「ふふふ。そうね、茜ならわかってるわよね」
私より少し高い身長。栗色に染めた髪をひとつに括って、お気に入りのモスグリーンのエプロンを着ている。目じりの皺が増えたって、最近嘆いていたっけ。私はそんなに変わらないと思うけれど。
――幻影だ。
確実に、これは私の心から写し取られた幻影。
優しい眼差しも、妹にそっくりな口鼻も。ふんわり香る、お母さんの良い匂いも。
私の会いたい気持ちが作った幻影。
幻影、つまり偽者だ。それに、さっきの幻影の中でもお母さんには会っている。
…なのに、ぽろり、と瞳から涙が零れた。
あの時と違って、ここにいる私が今の私だからだろうか。
幻影のなかの、両親に愛されて普通に暮らしていた私ではなくて、両親を亡くしてしまった、酷く両親を恋しがっている今の私だから。
――心が震えて、切なくなって、苦しくなって仕方がない。
「茜、どうしたの?」
お母さんの声が、随分前に聞いたっきりだった優しい声が耳を打つ。
――嬉しい、会いたかった、大好き。ねえ、お母さん。私、あれから大変だったんだよ。話したいこと、たくさんあるんだ。
いろんな気持ちが一気に溢れてきて、処理しきれずに涙になってぽろりぽろりと零れ落ちる。
そして、一番最後に他の気持ちを押しのけて現れた感情。それは。
「茜は相変わらず、泣き虫だねえ」
――お母さん。寂しかった。
私は我慢しきれずにお母さんをぎゅっと抱きしめて、いい匂いがする柔らかい腕の中で泣いてしまった。