王妃様とはじめての料理 前編
「ふふふ。どうぞ緊張なさらずに。おかけになって?」
「は、はあ……」
見慣れた我が家、古ぼけた日本家屋の生活感たっぷりの畳敷きの居間。
畳の上に置かれた、唯一の洋風家具のソファに座る美しい貴婦人が、なぜか家主の私に椅子を勧めている。
きらきらと眩いばかりの美しい金髪を結い上げた、青い瞳の貴婦人の装いは豪華の一言。
光沢のある、淡い水色の生地の、ふんわりとしたドレスに施された刺繍は見事なものだし、アクセントとして散りばめられた宝石は、きらきらと眩いほどに輝いている。身に着けている装飾品も素晴らしく大ぶりな石をたっぷり使ったものばかりで、憧れよりも先に値段を気にしてしまうような、庶民な私には眩しすぎた。
その貴婦人は、ソファに座って優雅な仕草で食後の紅茶を楽しんでいた。
因みにその紅茶は私が用意したものではなく、貴婦人の少し後ろあたりで控えている侍女が淹れたものだ。
取り敢えず、おかけになってと貴婦人に言われたので、部屋の隅から座布団を持ってきて座った。この部屋で腰掛けられるものは貴婦人が占領しているソファくらいしかないのだ。
地べたともいえる畳の上に直接座布団を敷いて座った私を、その人はぱちぱちと目を瞬き、奇妙なものをみるような目で見ている。
まあ、椅子文化で育った人から見ると、地べたに座る私の姿はそれはそれは滑稽にみえるだろう。
その人は、そばに控えている侍女のうちのひとりに目配せすると、小さく頷いて私に話しかけた。
「茜ちゃん。昼食、美味しかったわ」
「……お褒め頂き、光栄です王妃様」
……そうなのだ。この素晴らしく美しく、きらきらしい貴婦人はこの国の王妃様。
我が家にはまたしても、招いてもいないのにとんでもない大物が訪れていた。
――それは今朝のことだ。
朝食が出来上がって配膳も終わり、寝ぼけ眼のひよりが顔を洗って漸く食卓についた頃。
我が家の玄関を誰かが叩く音がした。
玄関に出てみると、みたこともない中年の侍女さんが立っており、彼女曰くなんと王妃様の先触れだという。
長い髪をひっつめにしたその侍女さんは、無表情のまま平坦な声で、
「本日昼ごろ。王妃様がこちらに参られます。お食事も共にされるとのことでしたので、準備をしておくように」
ただ、それだけを言って帰っていった。
――おうひ、さま……?
侍女の口から飛び出したその言葉に、一瞬にして私の頭がフリーズする。
何故。そんな質問をする時間すら与えずに去ってしまった侍女さんが恨めしい。
兎にも角にもそのあと大慌てで朝食を済まし、できる限り家の中を綺麗に掃除をした。
昼食のメニューも悩みに悩み、なんとか無難な和食を整えて、ドキドキしながら王妃様の訪れを待つ。
因みにひよりは何か面倒なことになりそうな雰囲気を悟ったのか、今日は昼食はいらないと告げて元気に家を出た。
……ああ。出来ることならば何かの手違い、いや冗談であってほしい。
そう考えながら待っていたけれど……その願いも空しく、お昼に差し掛かる頃、沢山のお付きを引き連れて王妃様が本当に現れた。
「あなたがひよりちゃんのお姉さんなのね! はじめまして!」
「は、はじめまして……」
「あらあらあらあら! なんて可愛いのかしら!」
物理的にきらきらしたドレスを着た王妃様が、頰を薔薇色に染めて、こちらへ小走りで近づいてくる。そして思い切り私をぎゅっと抱きしめると「今日はよろしくね」と、ふたご姫そっくりの可愛らしい笑顔で言った。
王妃様が到着すると、まずお付きの方々が完璧に統率のとれた動きで慌しく支度を始めた。
お付きの方々は、庭のほうに回りこんだと思うと、縁側から居間に大きなダイニングテーブルと椅子を持ち込んだ。
ちゃぶ台は隅に追いやられて、狭い居間のど真ん中にどどん! と緻密な装飾が施された立派なテーブルが設置され、更にはご丁寧に皺ひとつ無い真っ赤なテーブルクロスまで敷いて、大きな花瓶に美しく整えられた花を飾られた。
それは早送りの映像のような素早い仕事で、あっという間に我が家の居間が、そこだけみるとどこかの一流レストランのようだ。昭和な和風の居間と一流レストランのコラボ。その様はなんともシュールで、私は乾いた笑いを浮かべて、その様子をただ見ていた。
呆然と立ち尽くしていると、そんな私に例の侍女さんが声をかけてきた。
どうも台所の配膳台にならぶ私の作った料理を見て、どれが前菜でどれがメインかが判らなかったらしい。
侍女さんの口から飛び出す「前菜」やら「メイン」やらの単語に、更に私の頭は混沌としてきた。
……コース料理でもあるまいし、うちの料理にそんな概念はない!
結局「フリースタイルです!」と言ったのだけれど、果たして正解だったのだろうか……いや、正解なはずがない。
私の言葉を聞いたその時、無表情な侍女さんの顔がピクッと引き攣ったのを、私は見逃さなかった。
取り敢えず気を取り直して、テーブルに料理を並べ、説明を求められたのでひとつひとつ説明をしていく。
王妃様は小さく頷きながら、にこにこ笑顔で話を聞いてくれたのは救いだったけれど、その王妃様の後ろにずらりと並ぶ、給仕の人たちの視線が痛くて……いや、睨まれていた訳ではないのだけれど、物珍しいものを見る感じが、もう何と言っていいか……。
恐る恐る王妃様の正面の席に座って、味のしない昼食を食べながら、私は王妃様がひとつひとつの料理を、楽しそうに食べるのをひやひやしながら眺めていた。
そして、全ての料理を食べ終わり皿を下げ終わると、また見事に統率のとれた動きでテーブルをお付きの方々が下げていった。
……なんというか、ここまでくるとその素晴らしい働きに拍手を贈りたくなる。
その後、王妃様は例の侍女さんのみを残して他のお付きの方々を一旦下がらせた。
今この居間にいるのは、私と王妃様、侍女さんの三人のみだ。
勿論庭やその周辺は、いつもより沢山の兵士や護衛がいて厳戒態勢が敷かれている。
――そして今に至る訳なんだけれど。
「ふふふ。今日はいきなり押しかけて、驚いたでしょう?」
王妃様は口元に手を当てて、楽しそうにそう言った。
「――いえ、なんというか。……はい。急なお話でしたので正直なところ……」
私の歯切れの悪い言葉にも、王妃様はにこやかに対応してくれる。
「ごめんなさいね。わたくしも、もうちょっと我慢しようと思っていたのよ? けれど……昨日ね。ふたご姫と食事を一緒にしたのよ。そしたら、ふたりともここで美味しいふわふわのもちもちを作って、更にまあるいとろとろのも食べたというじゃない!」
王妃様は興奮してきたのか、透けるような白い肌を薔薇色に染めて、白いレースの手袋に包まれた華奢な手を、ぎゅうっと胸の前で握り締めた。
そこに例の侍女さんがすっとハンカチを差し出すと、王妃様はすぐさま受け取って、上等そうなそれを四方にぐいぐい引っ張り始めた。
「しかも夫まで! こちらで美味しいお酒とおつまみを食べたって! 唯でさえ、カインが前からこちらで美味しいものを食べてるって聞いていてうずうずしていたのに。もう! ずるいわ! みんなして楽しんでるんだもの。わたくしも何かしたいわ!」
「はあ……」
「というわけなの! 茜ちゃん。よろしくね!」
「はあ……」
きゃあ! なにをするのかしら! とはしゃいでいる王妃様は、四人も子どもを産んだとは思えないほど若々しい。それはもう、私より若いんじゃないかってくらいに。
そんな王妃様を、じっとりとした目で眺めている私の体はどんよりと重く、一気に疲れが襲ってきた。
おそらく私より若々しい王妃様にエネルギーを吸われているに違いない。
ふと、先日の晩酌のときのことを思い出す。
あれ、なんかこの状況デジャヴ……。
王様といい王妃様といい、似たもの夫婦なのだろうか。
――また、えらい大変なことに……。
思わず天井を仰ぎ見る。
仰ぎ見た先、天井の隅に今までなかった染みを見つけてしまって、私の心は更に沈んでいった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「まあまあまあまあ! たくさんあるのね!」
「お好きなのを選んでくださいね」
ちゃぶ台の上に、私の持ちうる全てのエプロンを並べる。
とりあえず私に出来ることといったら、料理くらいしかないので、王妃様には初めての料理に挑戦してもらうことにした。
その前段階として、エプロンを用意しようとしたところ、箪笥の奥から思いのほか沢山でてきたので、自分で選んでもらおうと持ち出したのだ。
「あらあら、どうしましょうか。カレン、わたくし迷ってしまうわ」
「…………少々お待ちください」
例の侍女さんはカレンさんというらしい。
相変わらずの無表情で、エプロンを王妃様に宛がっては、納得できないのか首をひねって別のものに取替え、真剣な様子でエプロンと睨めっこをしている。
「茜様。この三角の布は一体なんでしょうか」
「ああ、それは三角巾ですよ。……そんなの、混ざってたんですね。懐かしい」
カレンさんが真っ白な三角巾をつまんで、もの珍しそうに眺めている。
それは昔、町内会の手伝いをしたときに使って以来、仕舞い込んでいたものだ。
私はエプロンの山から、三角巾と同じ白い布地のそれを取り出すと三角巾と並べた。
「これと組み合わせて使ってましたね。髪の毛が落ちてこないように纏める為の布なんです」
「………………!! 王妃様!」
「まあ!カレン。これにするの?」
私がそれについて説明をすると、無表情だったカレンさんの顔が、ぱっと明るくなった。
その様子を見ていた王妃様は、楽しそうにそれを手に取ると、私に「どうやって着るのかしら?」と聞いてきた。
「えっ、えっ……!? ほんとうにそれでいいんですか?」
「うふふ。カレンが選んでくれたのよ。これにするわ」
「………………」
王妃様はにこやかにそういって、白いそれ――割烹着を大きく両手で広げた。
寝室から居間へ姿見を移動して設置すると、王妃様は自分の姿を見るなり興奮してはしゃぎ始めた。
金髪の美女が、豪奢なドレスの上から割烹着をきて、更には三角巾を着けている……ああ、凄い違和感。まさに外人がコスプレしているような感じだ。
「やだ!可愛いじゃない。ふふ、どうかしら。わたくしはとっても気に入ったわ!」
「………………」
王妃様は姿見の前で自分の姿を見て、とても喜んでいる。
その姿を私と並んでみていたカレンさんは、相変わらずの無表情――ではなかった。
ぷるぷると明らかに笑おうとしているのを堪えている。その顔は引き攣り、お腹を押さえて今にも蹲りそうな様子だ。
「か、カレンさん……?」
「うく……くく……うひっ……」
もう我慢の限界なのだろうか、とうとうカレンさんは声を上げて笑い出した。
そんなカレンさんを、王妃様はにやにやとした顔で眺めると、わざとカレンさんの視界に入るように移動して、割烹着姿を見せ付ける。
カレンさんは手をかざして、王妃様を視界から外そうとするけれど、王妃様は巧みに移動してカレンさんの視界に入り込み、更なる笑いを誘う。
暫くそんなふたりの攻防が続き、漸くカレンさんの笑いの発作が収まったと思ったときには、既に10分ほどが経過していた。
「ああ、楽しかった!」
「………………」
それが終わったとき、王妃様は満足そうに額の汗を拭い、カレンさんは何も無かったかのように、あっという間に無表情に戻った。そして私は、目の前で繰り広げられていたことを、どう受け止めていいものやら解らず、遠い目をして唯々そこに立ち尽くしていた。
「ふふふ。びっくりしたでしょう。ごめんなさいね、楽しくてついはしゃいでしまったわ」
「………………」
「いえ、あの。一体……」
私の戸惑いを理解してくれたのか、王妃様は頬に手を添えて実に楽しそうに言った。
「わたくし、何ごとも楽しくやるのが信条なのよ。だから、時々こういう遊びをカレンとするの。カレンはわたくしの乳母の子どもで、小さい頃からずっと一緒。嫁ぎ先にまでついてきてくれた、わたくしの親友なの。だからわたくしのおふざけにも付き合ってくれるのよ」
「私などには勿体無いお言葉でございます」
ふたりはにっこりと笑い合った。……カレンさんはちょっとだけ目許を緩ませただけだけれど。
すると、次の瞬間、柔らかな笑みを浮かべていた王妃様の表情が一変した。
「でも、お客様の前ですることではなかったわね? カレン」
「申し訳ございません」
王妃様は少しだけ目を細め、口元を扇子で隠し、厳しい言葉をカレンさんに投げかけた。
カレンさんは、王妃様の変わりように、まったく動揺もせずに綺麗なお辞儀をしてそれに答えた。
私は王妃様の変わりように驚いて声も出ない。
――なに!?王妃様もめちゃくちゃ楽しんでたのに、この空気なに!?
「でも、茜ちゃんなら他の人に私たちのこんな姿を吹聴することもないでしょうし。問題ないわね。カレン」
「はい、王妃様」
……つまりは、誰にも言うなということらしい。
にこにこした王妃様は、私を優しく見つめてくる。
その瞳の奥には、ただ優しいだけではなく何処と無く強かさが見て取れる。
そんな王妃様の視線に私は曖昧に笑って、小さく頷いた。
途端、王妃様はぱっと花開いたように笑って「よかったわ! ああ、何を作るのかしら!」とまたふわふわと楽しそうにしている。
……可愛らしく見えて、油断ならないかも……?
私の胸の中は複雑な想いがぐるぐると渦巻き、割烹着に刺繍をしようなんて言い出している王妃様を、生暖かい目で見つめた。
「まあ! じゃがいもって丸かったのね! カレン知っていた?」
「存じませんでした」
「あらあらまあまあ! 刃物! 刃物よ! とがってるわね! 素敵」
「………………」
王妃様の発言が私の心に突き刺さる。
不安。不安しかない。
王妃様は料理に関しては本当に素人だ。調理前の材料すらみたことが無いらしい。
元々王妃様は、北にある最果ての国から来たお姫様だったらしいからあたりまえだ。
包丁はもちろん、台所に立ったことなんてあるはずがない。
そんな初心者が簡単に作れそうなもの……。
そのとき私の頭にぱっと思い浮かんだのはハンバーグ。
ハンバーグは焼き加減さえ間違えなければ、混ぜるだけの簡単料理だ。
美味しく作るためには工夫はいるけれど、割と簡単に作れる。
……よし。ハンバーグに決めた。あとはサラダと味噌汁をつける程度でいいだろう。
材料を、きゃっきゃとはしゃぎながら触っている王妃様から少し離れて、ジェイドさんに手順を説明しておこうと、部屋の隅のほうに呼び寄せた。
「今日作るのはハンバーグに、サラダにお味噌汁です。私は王妃様につくので、お米の準備と出汁をとって貰いたいのですが」
「…………はい。わかりました」
ジェイドさんは私のお願いに快く引き受けてくれて、少しほっとする。
王妃様とカレンさんと私だけでは、夕食まで到底完成できる気がしないので、料理慣れしたジェイドさんがいるのは大変心強い。
私が「ありがとうございます」と言うと、ジェイドさんは一瞬間を空けて、私から視線を外し「……頑張りましょうね」と言った。
……何故だろう、この間ふたりで出掛けて以来、何だかジェイドさんの態度がおかしい。
――私、なにかしちゃったのかなあ。
正直、バーで美味しいお酒とおつまみを楽しんだ記憶はあるのだけれど、帰りの馬車の中の記憶が曖昧だ。
大半を眠っていたから、記憶が薄いのだろうとおもうのだけれども……。ジェイドさんの態度をみるとなにかやらかした感じがする。
「ジェイドさん、私この間の帰りの馬車の……」
「あ! あーあーあー! 茜、そろそろ始めませんと、王妃様が待ちくたびれてしまいますよ」
「でも」
「ほら! 茜」
「ジェイドさん?」
「ははははは」
ジェイドさんの顔が見たくて、前に回り込んで覗き込んでも、さっと躱されてしまう。暫くふたりでぐるぐるとその場を回っていたけれど、ジェイドさんは焦った様子で、お米を取りに台所を出て行ってしまった。
「………………?」
嫌われた、訳ではないと思うのだけれど……。
まさか私のジェイドさんへの好きな気持ちがばれてしまったんだろうか。
……いやいやいや。それはない。ないったらない。
私は疑問に思いながらも、まあ後で聞けばいいかとそのことを記憶の隅に追いやった。
冷蔵庫から材料を取り出し並べていく。
王妃様は興味津々で、色々な材料を指でつついている。こういうところはふたご姫にそっくりだなあと思う。
――どうか、無事に終わりますように。
私は不安でもやもやする心を何とか宥めながら、材料の準備を進める。
今日の王妃様の初めてのお料理は失敗する訳にはいかない。
なぜならば、王妃様、なんと夕食に王様や王子、お姫様方を招待するらしい……。
失敗したら首が飛ぶ! ……そんなことはないだろうけれど、緊張感を持って挑んだほうが良さそうだ。
私はよし、と心のなかで気合を入れて王妃様に向かい合った。
「では! はじめましょうか!」
こうして王妃様に対する私の始めてのお料理教室が開幕した――……。