姉と護衛騎士と王都グルメ 後編
ジェイドさんに別のところに移動するかと聞かれたけれど、なんとなく最後まで観たくなって、その後も劇団の劇を観続けた。
今は精霊界に行った道化師が、風の精霊シルフに惑わされて、ドライアドの迷宮に迷い込んでしまった場面だ。
「茜。どうぞ」
「わ、ジェイドさん。ありがとうございます」
ジェイドさんが飲み物とお菓子を買ってきてくれた。
飲み物は紅茶に生のフルーツが入ったもの。よくよく見ると、春先に市場でたくさん見つけたリコリスの実だ。
リコリスの実は確か私の世界でいうブルーベリー相当の果物だ。綺麗な赤色の実が冷たい紅茶の中でふわふわと泳いでいる。ひと口飲んでみると、ほんのり甘い。ブルーベリーの爽やかな香りと紅茶の甘さが、昼過ぎの暑さを和らげてくれる。
「これも美味しいですよ」
ジェイドさんが差し出してくれたのはクッキー。
全粒粉なのだろうか、粗めの生地が二枚重ねになっていて、中に赤いジャムが挟まれている。
「これもリコリスの実のジャムを使ってあるんですよ」
ジェイドさんはそう言ってクッキーを齧る。
私もクッキーを齧ると、ざくざくの全粒粉の生地は香ばしく、噛み応えがあり甘さ控えめ。
クッキーに挟まれた甘めのジャムにぴったりだ。
「リコリスの実は春先の果物ですよね?どうして夏の今ごろ?」
「このリコリスの実は、最果ての北国の特産なんですよ。あそこは今頃、漸く春を迎えるんです。一年の大半を雪に閉ざされた国で採れるリコリスの実は、他の地域産のものに比べると甘みが強くて美味しいんですよ。本当は今の時期は、もっとたくさん北国産のリコリスの実を使った菓子が出回っているのですが――」
「今年は違うんですか?」
「実は毎年、今頃は本当ならお祭りの季節なんですよ。最果ての北国は王妃様のご出身の国でね。毎年王妃様に因んで、リコリスの実を使った菓子を集めたお祭りが催されるのですが――今年は自粛しているんです」
「それは……邪気のせいですか?」
「そうですね。今年は急増期で、他国は大変な時期ですから」
紅茶の中のリコリスの実を見つめる。
見えないところで邪気の影響というのがでているのだなと思う。
来年の今頃は浄化の旅も終わっているはず。そうなれば、来年はこの街の人々も穏やかにリコリスの実を使った菓子を楽しんでいるのだろうか。
道化師と精霊の物語はフィナーレを迎え、舞台上では役者が挨拶をし、観衆は惜しみない拍手を贈っている。『愛しの君』が見つからず嘆き悲しむ道化師の演技は胸にくるものがあり、私も鼻の奥がつんとしてしまった。
素晴らしい演技を見せてくれた彼らに、私は手が痛くなるほどたくさんの拍手を贈った。
物語の余韻に浸っていると、階段に沢山いた観客も三々五々に帰っていき、人もまばらになってきた。
気づけば夕方に差し掛かり、空は美しい茜色に染まりつつある。
「茜、少し早いですけど夕食にしませんか」
ジェイドさんは立ち上がり私の手を取った。
「夕食はとっておきの場所をご案内しますよ」
ジェイドさんが連れてきてくれたのは、大通りから外れた裏路地にある小さなバーだった。
キィ、と軋んだ音を立てる古い木の扉を開けた先は、まだ夕方だというのに足元がおぼつかない程暗く、所々に設置してある煤けたランプの僅かな灯り頼りだ。
誰かが店の中で煙草を吸っているんだろうか。それとも店に染み付いた匂いなのか。何処となく煙草の匂いがする。
ジェイドさんの手をしっかりと握って、恐る恐る店内を進む。一番奥のカウンター席に腰掛けると、バーテンダーが溶けて短くなった蝋燭を置いてくれ、しゅ、とマッチを擦り火を灯した。
ちら、ちらと蝋燭の灯りが揺れて、私の視界には仄かに照らされたジェイドさんの顔と、使い込まれた木のカウンターのみが映る。
先客のいる席にも蝋燭が置かれているので、誰かが座っている場所だけほんのりと明るい。
薄暗い中ぼんやりとした蝋燭の明かりで照らされるお酒を嗜む人々の影が、ゆらりゆらりと蝋燭が揺らめくたびに踊り、沢山の人が静かにお酒を飲んでいる様はまさに大人の社交場といった雰囲気だ。
「飲み物は俺のおすすめでも?」
「はい。お願いします。……随分雰囲気のあるバーですね」
ジェイドさんは素早くバーテンダーにお酒とおつまみを注文すると、
「そうでしょう?俺のお気に入りなんですよ」
そう言って笑った。
バーテンダーが私たちの前にグラスを置いていく。
私の目の前のグラスの中にはオレンジ色に濁ったお酒。ジェイドさんの前には鮮やかな緑色のハーブが入っているお酒だ。
「じゃあ……乾杯」
「乾杯」
そう言って、お互いのグラスを合わせた。
オレンジ色のお酒を口元に近づけると、ふわりと柑橘系の香りがする。
口に含むと爽やかな苦味に、ほっぺたがきゅん、とするような酸っぱさ。
――グレープフルーツみたいな味だ。
こちらの世界の果実のカクテルなんだろう。そして酸っぱさの向こうに感じるのは、ウォッカのような強いアルコールだ。
――これでお塩がグラスに付いていたらソルティドッグだなぁ。
そんな事を思いながらまたひとくち飲む。
苦酸っぱいこのお酒はなかなか美味しい。
「どうですか?」
隣を見ると、ジェイドさんが心配そうに私の反応を伺っていた。
「美味しいです――ふふ、元の世界に似たようなお酒があって。なんだか懐かしい……」
手の中のグラスを見つめる。
成人してから初めて行ったバーで飲んだのもソルティドッグだったっけ。先輩にお願いして連れて行ってもらって――バーの雰囲気にあてられて、なんだか急に大人になったような気分になった思い出がある。
「それはよかった。茜はこういうお酒も好きかと思ったので。この店は葡萄酒以外のお酒の取り扱いが、ここらへんの店では珍しく多いんです」
ジェイドさんは穏やかに笑って、手元のグラスをひとくち呷った。
その時バーテンダーがおつまみを持ってきてくれた。
「これもこの店の名物なんですよ」
それは、ひっくり返ったしいたけほどの大きさのきのこのかさの部分に、細かく刻んだベーコンと……おそらくにんにくの刻んだものが乗ったシンプルなおつまみだった。
「これをね……こうやって」
ジェイドさんは、一緒についてきた小さなピックを1本づつ両手で持って、きのこを挟み込むように刺して持ち上げる。そしてそのまま齧り付いた。
途端、きのこからじゅわっと汁が出てきて、あらかじめ用意されていたナプキンでそれを拭く。
「……うん、美味しい。大きな口でがぶっといくと美味しいんです。茜もどうぞ」
私はごくりと唾を飲み込む。
さっきからにんにくのいい匂いがして堪らなかったのだ。
早速私は両手でしっかりとピックを持ち、慎重にきのこを持ち上げる。
そして、思い切って大きく口をあけてひとくち。
――じゅわっ
「~~~~~~んんんっ!」
予想以上に肉厚のきのこの、噛んだ瞬間に溢れる汁のなんて美味しいこと!
マッシュルームに塩気のある肉を乗せる料理はあちらの世界でもある。けれど、このきのこの味は格別だ。向こうで食べられるブラウンマッシュルームよりも随分と味が濃い。
そしてかさの部分に乗せられたベーコンと、にんにくはたっぷりのオリーブオイルに浸っていて、きのこごとオーブンで焼かれているのでカリッカリだ。
塩っ辛いベーコンの味が、にんにくときのこの旨みを引き立たせている。
べーコン……ベーコン?
ふと咀嚼していて疑問に思う。ベーコンにしてはやけに塩分が多いような。
「ジェイドさん、このお肉ってベーコンじゃないですよね?」
「ふふ、そうですよ。生ハムです」
それを聞いた途端、衝撃が私を突き抜けた。
生ハム……あのもちもちしょっぱい生ハム……!?
私の大好きなおつまみの生ハム……!?
固まってしまった私をみて、ジェイドさんはくつくつと肩で笑った。
「茜ってば、ことあるごとに葡萄酒を眺めながら、生ハムが食べたいって言ってたでしょう?」
そうなのだ、実はこの間王様が持ってきてくれた葡萄酒を飲んでからというもの、私の中のワイン熱が再燃してきて、美味しいチーズに生ハムが食べたいと事あるごとに言っていた。
「出来れば美味しい生ハムを食べさせてあげたくって」
「もしかしてわざわざ調べてくれたんですか!?」
「はい。……結局は行きつけの店になってしまいましたけど」
私の反応が嬉しいのか、ジェイドさんはとても楽しそうだ。
私が感動に胸を熱くしていると、そこに、
「お待たせいたしました」
と、バーテンダーがタイミングを見計らったようにおつまみを持ってきた。
白い大きな角皿に盛られているのは――生のままの柔らかい生ハムと、たっぷり盛られた色々な種類のチーズ。そしてオリーブのオイル漬け。
「じぇ、ジェイドさん……」
「茜。これも用意してありますよ?」
そういってジェイドさんがバーテンダーに言って用意してもらったのは、例のダージルさんの三ヶ月分の給料の葡萄酒!
「国王様が先日のお礼だと持たせてくれました」
そういってしれっと、高級葡萄酒をバーテンダーに栓を開けてもらっている。
ジェイドさんは悪戯が成功したときの子どものような顔で、人差し指を私に突きつけて更に言った。
「今日はめいっぱい楽しみましょうっていいましたよね」
私はジェイドさんの心遣いが嬉しくて嬉しくて顔がにやけるのが止められない。
「……いいましたね」
「でしょう?」
そうしてふたりでにんまり笑い合って、いい香りがする葡萄酒の入ったグラスを掲げる。
「素敵な夜に」
「……素晴らしい夜に」
「「乾杯!」」
ちん、とグラスを鳴らしたあとの葡萄酒の味は、最高に素晴らしいものだった。
ふたり蝋燭に照らされた薄暗いバーで、楽しく語り合いながら杯を空ける。
その日飲んだ葡萄酒の味は、きっといくつになっても忘れられない、そんな味だった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
帰りの馬車の中。
少し飲みすぎてしまった私は、心地よい馬車の振動に揺られながら眠気と戦っていた。
ふと油断すると、すぐ降りてきてしまうまぶたを必死で元の場所に押し戻す。
「茜。大丈夫ですか?」
「はい。……だいじょうぶです」
さっきから大丈夫しか言っていない気がするけれど、私は大丈夫だ。断じて! 酔っ払ってはいない。
ジェイドさんが苦笑しているような気もするけれど問題ない。いつもの私だ。うん。
「今日は楽しんでもらえましたか?」
「もちろんです! とってもたのしかったあ……」
はい! と、勢いよく片手を挙げる。
こういうときは勢いだ。感謝の気持ちを勢いで表現するべきだ。
「こら、茜。無理をしちゃだめですよ」
「むりなんかしてません!わたしはいつでもだいじょうぶですから」
「そういって、いつもひとりで抱え込むんですから」
何故かぐらぐらしている私の頭を、ジェイドさんが自分の肩のほうに寄せてくれた。
頭をジェイドさんに預けると随分と楽だ。好意に甘えてジェイドさんに寄りかかる。ふわっとかすかに男性もののコロンの香りがして、とってもいいにおい。
私は調子に乗って、ジェイドさんの腕を抱きしめて、逞しいその腕に顔を擦り付けた。
――ああ。きもちいい。
「ちょっ……茜」
「ふふふ。ジェイドさん……」
何故だろう、ジェイドさんがえらく慌てているような気がする。
今にも閉じそうな目でなんとかジェイドさんを見上げると、片手で顔を覆って何だか苦しそうだ。
「ジェイドさん? くるしいの?」
「いや、むしろ気持ちい――……って、大丈夫ですから! 苦しくないですよ!」
「ならよかったです」
やけにしっくりくる抱きごごちのいい腕を触りながら、今日1日を振り返る。
楽しかったなあ。
いろいろ食べて飲んで、劇も観て――夜のバーも最高に素敵だった。
そこまで考えて、ふと疑問が頭を過った。
「ジェイドさんはあんなお店、いつ知ったんですか! お貴族さまが行くにしては平民寄りじゃないですか! あれですか、どっかのすてきなおんなのひとと行ったんですね!?」
「いやいやいやいや、違いますよ! 騎士団にいる平民の友人とよく行くんです」
「その友人とやらはおっぱいがおおきいですか」
「おっぱ……! 男ですよ!」
「ふむ。そういうことにしておきましょう」
私は焦るジェイドさんににやりと笑って、取り敢えずはそれで良しとした。
「では今度はお貴族さまらしい、格式高いお店に連れて行きましょうか?」
「いやです。お酒は気軽に飲みたいです」
「でしょう。そう思ったからあの店に連れて行ったんですよ。それ以上俺を揶揄うと、もう連れて行きませんよ」
それは困る。
仕方がないのでその件についての追求はやめることにした。途端に強い眠気が襲ってくる。
「ジェイドさん。今日はありがとうございます……」
「ほら、眠いんでしょう? お礼はいいですから、城に着くまで寝てもいいですよ」
「ふふ。ジェイドさんやさしいー。わたしはジェイドさんにやさしくされてばっかり……」
眠くて眠くて仕方がない。
身体がむずむずして落ち着かなくて、思わずジェイドさんの腕に頭をすりすりと擦り付ける。
「俺は優しいばっかりじゃ、ないですよ」
ジェイドさんの低くて落ち着く声が聞こえたと思うと、私の額に――ちゅ、と唇が落とされた。
「う、セクハラだ……」
「はは。すみません、つい」
むむ。また「つい」で、ちゅうされてしまった。
2度目になるその行為が、なんだか無性に腹立たしくて、私は眠気のせいで半分しか開かない目のまま、ぐりん! と顔をジェイドさんの方に巡らして、ぐっと身体を伸ばした。そして――ちゅ、とジェイドさんの口の横にちゅうをした。
「へへ。秘技セクハラ返しー」
「………………っ!」
すると、ジェイドさんの顔は一瞬にして茹で蛸のように真っ赤になってしまった。
ふふふ、してやったり。
私はその顔に満足して、耐えきれないほどになっていた眠気に身をまかせる。
遠くでジェイドさんの声が聞こえるけれど、知らんぷりをする。
私は眠いのだ。眠い、もう寝るのだ。
幸いジェイドさんの腕の抱き心地は最高。
ぎゅうっと腕を胸の前に持ってきて、思いきり抱きつく。
――うん。いい感じ。
私の意識が眠りに落ちる寸前。
「生殺しだろ……」
そんなジェイドさんの声が聞こえた気がした。