晩酌4 待望の枝豆と気まぐれな女王 後編
笑いの発作が治った私は、残りの調理を再開するために動き出した。
下ごしらえは終わっているので、あとは簡単だ。
トマトを取り出して、輪切りにする。
それを綺麗にお皿に並べる。
新生姜の甘酢漬けをとりだして、みじん切り。切ったものはそのままトマトの上に。
庭で摘んできた大葉も刻んで乗せる。
そして、その上に甘酢漬けの汁をかけるのだ。
――これで完成。
トマトのガリサラダ。
甘酸っぱいガリと甘いトマトをさっぱりと食べられる。何より簡単なところがいい。
次はガーリックシュリンプ。
マリネ液に漬けておいたエビを、そのままフライパンで焼いていく。勿論マリネ液ごとだ。
細かく刻んだにんにくが、チリチリ焦げていい匂い。
エビはすぐ火が通るから、色が変わったらさっとひっくり返す。
灰色だったエビが見事に真っ赤に変わる。
両面に火が通ったら、バターをひとかけら。
じゅわわわわ!と、オリーブオイルとバターが混ざって、軽快な音がする。ぷん、と香るバターが堪らない。
平皿に広げておいたグリーンリーフの上に盛りつけて、ドライパセリをちらせば、ガーリックシュリンプの完成。
枝豆とトマトサラダとガーリックシュリンプ。あとはティターニアご希望のチータラ。今日は最後にあれも用意してある。
…ティターニアが満足してくれればいいけど。
頭を過る不安は見ないふりをして、私は取り皿やグラスの準備を始めた。
――コンコン。
その直後、どこかをノックする音が聞こえた。
ティターニアがきたのかと思って、居間へ続く引き戸や窓を確認しても誰もいない。なんだか不気味な感じがして戸惑っていると、またノックの音が聞こえた。
耳を澄まして、音がしている方向を探る。すると――なんと、音がするのは食器棚の方からだった。
その食器棚は、私の腰から上ぐらいの高さの部分がガラス扉、その下は木の引き出しになっているものだ。
ノックの音は上のガラス扉の方から聞こえる。
ええええー…と心の中で思いつつも、食器棚に近づくと、明らかにノックに合わせて食器棚のガラス扉が震えていた。
ガラスから透けて見える向こう側は勿論見慣れた食器たちで、ティターニアなんているはずもない。
だけど、彼女は妖精の女王。何があるかわからない。
私はごくり、と唾を飲み込んで、観音開きになっているガラス扉の取っ手を掴んだ。
そろそろと、慎重に扉を開けると、その向こう側からふわりと夜の風を感じた。
……え?
恐る恐る食器棚の奥を覗き込む。すると目に飛び込んできたのは――…草原だった。
ぱたん、と一旦扉を閉める。
目を瞑り、頭の中を整理する。
見間違い…ではないと思う。風も吹き込んできたし、その風にさざめく草花もはっきりと見えた。
こめかみの辺りを指でグリグリと押して、心を落ち着けると、もう一度食器棚の扉を開こうとして――急に扉が開き、私の鼻を強打した。
「――ふごっ!」
「おや失礼」
痛みに悶える私の耳に届いたのは、落ち着いた男性の声だ。
痛みのせいで涙がにじむ視線を向けると、食器棚の扉の向こうに――人がいた。大きなシルクハットに不思議な紋様で縁取りされた派手なローブを纏い、たくさんの宝石が付いた宝飾品を身につけた人物が、こちらを覗いていたのだ。
「今晩和――…今代の女王の名付け親はお嬢さんだろうか。おやまあ、可愛らしいお鼻が赤くなっている」
誰のせいなのか、という言葉がでかかったけれど、その人の顔を見て言葉が引っ込んだ。
その人はつるりとした仮面を被っていた。
素地は白、その上に様々な色で人の顔の文様が描かれている。そして、その顔は瞼を閉じて――泣いていた。
「痛かったろう。すまないね。僕は事情があって眼を使っていなくてね。魔法で周囲は知覚しているのだけれど、僕はすこし周りに無頓着なところがある――…ああ!動かないで」
男は白い手袋に包まれた手を私の鼻の辺りにそっと伸ばすと、指先に僅かに魔力を纏わせた。そして、そのまま私の鼻をすっと撫でた。――すると、不思議なことに鼻の痛みが引いていくではないか!
驚いた私は、自分の鼻を押したり摩ったりしてみるけれど、チクリともしない。完璧に怪我が治っていた。
「凄い」
「ふふふ。こんなものは、ごくごく簡単なものさ。そんなことはいい――…兎に角、お嬢さん。愛しの妖精女王がお待ちかねだ。お手をどうぞ」
そういって男は気障っぽく手を差し出してきた。
そんなことをされ慣れていない私は、驚いて差し出された手とその人の顔を交互に見くらべていると、男はその様子に焦れたのか「失礼」と言って私の手を取る。そして、ぐいっと自分の方へ勢いよく引き寄せた。
「――うわわわ!」
男の力はかなり強く、私は体ごと扉の奥に引きずり込まれてしまった。ふわっと、体が持ち上げられる。不思議なことに、片手で持ち上げられているのに腕や肩に痛みはなく、私の体は明らかに宙に浮いていた。
「僭越ながら、僕がエスコートを務めさせて貰おう」
私は男に受け止められ、ふわりと地面に降り立った。男は掴んだ手はそのままに、私の背後に寄り添うと、反対側の手を腰に添えてきた。
エスコートするにしても、かなり密着する体勢をとられて、私の顔に血が昇ってきたのがわかった。
混乱する頭のままに、その男の顔を見上げても、つるりとした仮面が見えるばかりで何を考えているのか全く分からない。
そして男は「さあ、行こうではないか!」と宣言すると、強引に歩き出してしまった。
後ろに立つ男がぐいぐい進むものだから、私の体も自然に前に押されて、立ち止まることが出来ずに彼のスピードで歩かざるを得ない。
「え、ちょっ…待ってください!何処に――ってああ、お料理…」
私は慌てて元来たほうを振り向く。
空に四角く切り取られた台所の景色がみえる。
その奥には配膳台に置かれたままの、料理やお酒、グラスやお皿。
ティターニアがこの人が連れて行く先に居るならば、あれを置いて行くわけにはいかない。
「成る程。それはそうだね。ああ、なんていうことだ。愚かな僕はそういうところが気が利かない」
自分の事を台詞の割に楽しそうな声で言うと、小さな声で何か呪文を唱え始めた。
「ほら、これで大丈夫」
男が呪文を唱え終わると、なにが大丈夫なのか説明もないまま、また歩き始めた。後ろからぐいぐいと押され、つんのめりながら私も歩き始める。
――何?訳がわからない!
「え、えっ!?お料理は」
「ははは。慌てんぼうなお嬢さんだ。きちんとついてきているよ」
男はそう言って「ほら」と後ろを指差した。
男が指差した方向を首を回して見ると――ふわふわと宙に浮く料理が目に飛び込んできた。
皿に乗った料理は、中身が溢れない程度に揺れながら、踊るように宙を舞ってついてきていた。
一緒にグラスや箸、フォークや取り皿、お酒まで飛んで、位置をあちこち入れ替えながら、一定の距離を保って宙に浮いている。ついでにドライアドもよたよたとついてきているものだから、なんだか凄くシュールな光景だ。
私がその光景に絶句していると、「便利だろう」と男は少し自慢げにそう言った。
――確かに便利だけれども。
――心臓に悪いです…。
額を伝う汗を感じながら、そう思った私はまだまだ不可思議な異世界に慣れていないのだと実感した。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「おおお!来たか!待ちわびたぞ」
男に連れられてやって来たその場所は、草原のど真ん中にあるロッジ風の建物のほとり。
小さな小川が流れていて、その小川を跨ぐようにウッドデッキが設えてある。
そこに白いソファと木のテーブル、何脚かの椅子が置いてあり、たくさんのランプに囲まれてそこだけほんのり明るかった。
そのソファに横たわっていたティターニアは、私を見つけるとこちらに駆け寄り、未だ私に寄り添ったままの男を邪魔とばかりに勢いよく後ろへ突き飛ばした。
そして私の手を取り、ソファへと誘った。
「お主、酒は持って来たのか?つまみも忘れておらぬだろうな」
「あいたたた。――まったく、女王。酷いじゃあないか。これは、僕の貴女への愛を試しているのかい?あれ?ねえ、女王?聞いているのかな」
「こちらへ早う座れ。この間からあの酒に漬かった実が恋しくて仕方がなかったのじゃ、さあ、早う」
「無視…!?なんて事だ!女王!この僕を無視するのかい」
立ち上がった男は、ティターニアに追い縋りながら、大げさな仕草で、いやに芝居掛かった台詞を言い続けた。けれどもティターニアは徹底的に無視を決め込み続け、視線を向けることすらない。
暫くふたりの攻防は続いていたけれども、やがて男はがくりとその場へ崩れ落ち、泣き声を上げはじめた。大騒ぎをする男に、ティターニアは呆れたようにため息を吐き、漸く声をかけてやった。
「………なんじゃ、相変わらず鬱陶しい奴じゃ。ほれ、お前も座れ。そこら辺に適当に」
「ああ!冷たい!女王が僕に冷たすぎる!僕の心はもう凍えて死んでしまいそうだ!僕はこんなにも貴女に恋い焦がれているというのに――そうか!女王がこんなにも冷たいのは、それはきっと僕が女王の心を繋ぎとめておけるほど魅力がないからで――」
男はその後も延々とネガティブな事を言いつづけた。けれど、嘆き悲しむ男の声は弾み、踊るように飛び回る様子はなんとも楽しそうで――酷く滑稽だった。恐らく仮面をとったら、その瞳は蕩けるように潤んでいるに違いない。
――いろんな意味で、面倒なタイプだなあ。
そんな彼の姿に慣れているのか、ティターニアはまるっと男を無視してソファに体を沈めると、隣をぽんぽんと叩いて、私に座るように促してきた。
恐る恐るティターニアの隣に腰掛ける。真っ白でふわふわのそのソファは、ふんわり柔らかく、体を包み込んでくれるようで、なんとも心地よかった。
「ほ。今日のつまみも美味そうじゃの!ほれ、お主。妾に酒を」
いつの間にか目の前のテーブルには、私の作った料理が並んでいた。
内心驚きつつも、私はティターニアがいつも使っている、翠色のグラスを渡して梅酒を注いでやった。今日は少し暑いので氷もひとつ。そして、いつもの通り梅の実もころりと入れてあげた。
「ほれ、お主も」
ティターニアは、私にもグラスを渡してくる。
でも今はお酒を飲むよりも先に、言わなければならないことがあった。
「ティターニア、あの。その前に――」
「ほ。お主」
私が喋ろうとすると、ティターニアはぐるりと顔をこちらに向ける。その顔はいつか見た、なんの感情も篭っていない、なんとも不気味で美しい顔。
「妾が酒を飲むのを邪魔するのか?」
――ぞわり。全身に鳥肌がたち、背中に冷たい汗が伝った。
私はなるべくゆっくりと首を振って、自分のグラスにビールを注いだ。
気づけば、男もグラスを手にしている。ドライアドの目の前のテーブルの上にも誰が用意したのか、お酒の入ったグラスが置いてあった。ドライアドはそれが何かよく分かっていないらしく、グラスをつんつんと突き、首を傾げていた。
「うふふ。では――乾杯」
そう言って手の中の杯をぶつける。
チン、と杯同士がぶつかり合う高い音が響き渡り、こうして、私と妖精女王と変わったローブの男、ドライアドとの晩酌が始まった。
取り皿に、トマトのガリサラダと、ガーリックシュリンプ、枝豆をとってティターニアに渡すと、彼女は期待に満ちた瞳でそれらを見つめた。
「トマトはさっぱりしてるので、口直しに。ガーリックシュリンプは殻ごと食べてくださいね。…多分、ティターニアは噛み応えのあるものが好きでしょう?」
「んん?お主、良くわかったな。柔らかいものよりは、硬いほうが好きじゃ。…よう見ておる」
そう言うと、ティターニアはにっと笑った。
この妖精さん、嬉しそうに梅の実を種ごと噛み砕いてたからね…。
ティターニアはフォークを手にすると、料理に手を付け始めた。
「これはエビか」
そう言ってフォークでエビを刺そうとするけれど、殻の表面でつるつる滑ってなかなか刺さらない。
「ティターニア、これはお行儀が悪いですけど、手で食べましょう。こうやって」
私は手本を見せるように、ひとつエビを手に取る。随分と大きいエビだ。太いその身体は食べ応えがありそう。私は溢れる唾を飲み込んで、そのまま齧り付いた。
――パリパリッ
殻を噛み切る軽快な音がする。マリネ液で柔らかくなった殻は意外と食べやすい。その殻を噛み切ると、奥に現れるブリブリの身。歯が閉じ切ると、ぷりんっと弾力をもって残りの身が口から離れた。
甘いエビの味。キリッと効いた塩味。にんにくの香ばしい香り。黒胡椒の刺激。バターのコクがそれに合わさると――うぅ!堪らない!
私はグラスを鷲掴みにしてビールを煽った。
ごくっごくっごくっ。
炭酸のしゅわしゅわが、濃い味付けを洗い流してさっぱりさせてくれる。ガーリックシュリンプは炭酸のお酒に最高に合う!
「うー…!おいしい!」
そして、手についた油を舐めとる。油まで塩味がきいていて美味しい気がする。本当、お行儀が悪いのはわかっているんだけれど、ここまで含めてガーリックシュリンプの美味さだ。
「ぬ……」
ティターニアも私の真似をしてエビを食べると、食感が気に入ったのか、「美味いな」と頰を染めてガリガリと音を立てて、次から次へとエビへ手を伸ばしはじめた。
前から思っていたけれど、ティターニアは美味しいものを食べると黙るか美味しいとしか言わなくなる。
恐ろしいところもあるけれど、人間と似通ったところもあって、なんだか不思議な気分だ。
私は唇に残る油をなめ取り、舌に残った刺激的な味を緩和するために、トマトのガリサラダに箸を伸ばした。
ピンク色のガリと濃い緑色をした大葉が乗ったトマトは、まさに夏そのものの一品。どれもこれも夏がいちばん美味しい旬の野菜だ。
箸で持ち上げると、甘酢が滴り落ちる。作り終わってからちょうどいい時間が経っている。トマトもガリの甘酢で軽く漬かっているはずだ。
はむ、と口へ含んだ瞬間の甘酸っぱい味。鼻に抜ける大葉の爽やかな香り。
甘いより酸っぱい寄りの味が、口の中をさっぱりさせる。噛んでいるとしゃきしゃき、とガリの歯ごたえが楽しい。時折感じるガリの辛味も良いアクセント。飲み込む前、ふっ、と感じるトマトの青みと甘み。ビールとガーリックシュリンプの味が完璧にリセットされて、また新しく何か食べたくなる。
私はビールをまたぐびりとやった。
今日のビールは神様の名前のアレだ。トマトサラダが口の中をリセットしてくれたおかげて、味がよくわかる。
このビールはとにかくコクが凄い。苦いはずのビールなのに、飲んでいるとふと苦さの向こうに甘みを感じる瞬間がある。麦の贅沢さ、それが感じられる、グイグイ飲むよりは味わいながら酔いに浸れるビールだ。
個人的にこのビールは、シンプルなものと合わせたい。特に――…枝豆とか。
そっと皿の中の枝豆を手に取る。
青々とした枝豆は鞘の中にいくつもの大きな豆を隠している。早く食べたい!逸る気持ちを抑えつつ、口へそっと運んだ。
ぷちっと音がして、口の中に豆が転がり込む。
硬めに茹でた枝豆は、こりこりと良い歯ざわり。
そして、ちょうど良い塩梅の塩加減が、豆の甘みを引き立てる。そう、とにかく甘いのだ。ひと噛みする度に、舌が甘みを脳に伝えてくる。
――ごくん。
飲み込んだ後、鼻に抜ける豆の香り。
――ああ。夏の味だ。
舌と脳で季節感を満喫しつつ、またビールをひとくち飲む。
しゅわしゅわ、気持ちいい喉越し。いい苦味。コク。
枝豆を食べる。しょっぱい。甘い。美味い。
またビール。
…エンドレス余裕です!
久しぶりの味に私はうきうきだ。
「お主、幸せそうじゃな」
隣で飲んでいたティターニアが、つん、と私の頰を突いてきた。
私は自分の世界に没頭していたらしい。
取り皿の上の料理を完食したティターニアは、ニマニマと笑いながら私を観察していたようだ。
「ご、ごめんなさい」
「よい。お主はまこと美味そうに酒を飲む。見ていて気持ちいいからな」
笑ったティターニアの手のグラスの中で、からり、と氷が鳴った。
「ほれ、お主見てみよ、あれもなかなか笑える」
ティターニアが指差す先を見ると、ドライアドがいた。ドライアドは、徐にグラスの中に指を浸しては、ひくん!としゃっくりをした様に体を跳ねさせている。
――もしかして、指からお酒を吸い上げている?
指を浸すその度に頭の上の枝豆の花がぽぽぽぽんっと咲くのだ。お酒に反応しているようにしか見えない。
「あ、あの子、まだ子供の精霊じゃ?」
「ふん、あれはお主の何倍も永い時を生きておる。人の物差しで測るのは阿呆のすることじゃ」
本人は至ってご機嫌で左右に揺れている。ドライアドもお酒を愉しんでいるのだろうか。
「ふうん。これが女王を誑し込んだ料理と酒ね」
その時、男の楽しそうな声が聞こえた。
正面に座る男は、グラスの中の梅酒をくるくると回し、椅子の肘掛にもたれ掛かってリラックスした様子だ。
「この酒と料理のお蔭で僕はあんなに苦労したんだねえ。ああ、僕の生まれた星の元には苦難ばかりが待ち受けているよ」
そう言って如何にも絶望したように装ってため息を零した。
そんな男の言葉に、ティターニアは鼻で笑った。
「何を言っておる。この男はな、東の森に棲まう変わり者の阿呆じゃ。自分の棲家が邪気に穢されて、穢れ地と成り果てておったのに、嘆くばかりでなにもせぬ愚か者よ。魔法の目で、棲家が穢れ地になるのも見通せた筈じゃのに、暇を持て余していたのでな。…こき使ってやったまでよ」
「はあ…つまり、自分の棲家を取り戻す手伝いをしたと」
「端的にいうとそうじゃな」
「いやいやいや!明らかに、僕の棲家以外の穢れ地でも働かされたじゃあないか!それに、魔法の目には聖女が穢れ地を浄化する未来は視えていた!敢えて僕が動かずとも、そのうちあそこは元に戻ったのさ――。まったく、女王は僕を甚振って楽しんでいるんだね!愛?愛なのかい?それとも、唯の嗜虐趣味かな。まあ、僕は愚かなところがあるからそんな事をされても仕方がないけれど」
男はまた嘆きながら、楽しそうに悲しみに暮れた。
「それに、どうして名をよんでくれないんだい。他人行儀な。彼女に紹介もしてくれないし…。僕はテオ。『道化師』テオだよ。僕のような愚か者の名前なんて、君には興味はないかもしれないけれどね。どうぞお見知り置きを」
男――テオは、そう言うと芝居掛かった綺麗なお辞儀を私に向かってした。
慌てて私も立ち上がりぺこぺこと自己紹介をした。私の様子にテオは満足したようで、深く椅子に座りなおして、ご機嫌な様子で鼻歌交じりにグラスから酒を飲み始めた。
なんだか不思議な人だ。常に嘆きながらも楽しそうに笑っている。芝居掛かった動きと、派手で豪華なローブ、仮面に描かれた泣いた顔。じゃらじゃらと彼を彩る様々な宝石も相まって、なるほどサーカスなんかでみる道化師らしい雰囲気はでている。
だけれど、ティターニアは「変わり者の阿呆」と言っていた。なにが「阿呆」で「変わり者」なのかわからないけれど、さらりと自分を道化師と名乗るところも合わせて――なんだか、凄く胡散臭い。
そんなテオに呆気にとられていたけれど、私ははっとして、やるべき事を思い出した。
――そうだ。忘れちゃいけない。
――さっき、ティターニアに遮られた言葉をきちんと伝えよう。
私は枝豆で緩んだ頭を締めなおして、居ずまいを直し、ティターニアに向かい合う。
「あの、ティターニア」
「…なんじゃ」
私はなんだか緊張してしまい、ごくりと唾を飲んで、ティターニアの綺麗な空色の瞳をみた。
「妹を、助けてくれて…守ってくれて、ありがとう」
私がそういうと、ティターニアはあからさまに顔を顰めた。
そして、梅の実をまたひとつ口に放り込むと、ごりごりと噛み砕いた。そして、それを飲み込んだ後に、そっぽを向いて小さな声で言った。
「妾は。…お主の願い事を叶えただけじゃ」
「ううん。でも、大変だったのでしょう?」
そう言って、私は隣に座るティターニアの手を握る。小さくて細くて、妹以上に華奢な手だ。
「ティターニア。気まぐれな妖精の女王さま。本当にありがとう」
私の瞳から涙がぽろぽろと溢れた。
ああ、最近すっかり涙腺が緩くなってしまった。
「泣きながら、笑うとは…お主、器用じゃな」
「そうですか?――だって嬉しくて」
ティターニアは唇を突き出して、少し不機嫌だ。そして、時たまちらりとこちらを覗き見ては、さっと視線をそらす。なんだかその様子はふてくされたこどもみたいだ。
色々な顔を持つ彼女だけど、今私の目の前にいる彼女は子供っぽい妖精だ。妖精女王のとても可愛らしい一面。恐ろしい面も持つひとだ。決して気を許してはいけない。きっと痛い目にあう。
――けれど、ティターニアを知るたびに私の心が彼女に惹かれるのは止められない。それだけ魅力的で、恐ろしくて、不可思議。そんな存在。それが私の思う妖精の女王だ。
「ね。目一杯飲んで、食べてくださいね」
「言われなくてもそうするわ。馬鹿め」
漸く私と視線を合わせたティターニアはどう見ても照れていた。意外と照れ屋な彼女に、私はばれないように、小さく笑う。
ふたりの間に、何か温かい通じるものがあるのを感じる。それはきっと勘違いじゃない。
「ははは。素晴らしく感動的な場面だ――」
その温かな空気をテオの声が斬り裂いた。
「さあ。これでひと段落。願い事も叶え終わり、お嬢さんのもてなしもそろそろ終わり。気まぐれな女王は、ひとつの場所には留まらない。また気まぐれに世界を廻る。ヒトと女王との久方振りの交わりは、今日で終わりだ」
テオは椅子から立ち上がり、まるで舞台俳優のように大袈裟にグラスを天に掲げた。そして、道化師らしく愉しげに、滑稽に、くるり、くるくると回りはじめた。
――ああ。そうなのかな。
テオの言葉になぜか納得してしまいそうになる。
妖精の女王と私が巡り合ったのは、本当に偶然で、本来ならなかなか出会えるものではない。
出会いもティターニアの気まぐれからだった。そして、願い事を聞いてくれたのもきまぐれだ。
当たり前のようにまた会えると思っていた。でも、それはティターニア次第だ。
…寂しいなと、そう思う。
「もてなしが終わり?ふん。勝手に決めるでない。それに――お主、何やら気を抜いておるようじゃが、ヒトの子よ、まだまだ甘いの」
「――へ?」
感傷に浸るわたしの耳に、ティターニアの冷たい声が届いた。
ティターニアは子供っぽい顔を棄て去り、一瞬にして冷たく意地の悪そうな顔へと変貌した。
「今日、この場所で酒を飲むことにしたのはな。お主の家だと少し手狭であろうと、この女王自ら気遣ってやった結果じゃ。先の浄化の旅、妾ひとりで聖女を守るには手が足らぬでなあ。そこの阿呆のように、妾の僕を山ほど使ってやったのじゃ。ほれ、見てみよ。妾の可愛い僕が、今か今かと其処此処に隠れてこちらを伺っておる」
ティターニアは、くつくつと笑いながら、華奢な指で闇夜の向こうを指差した。
すると、ぶわっと辺り一面が色とりどりの光に溢れた。とんでもない数だ。その光は私たちを中心にぐるりと円を描き、蠢いている。まるで地上に天の川が降りてきたようだ。
「いわばこれらもお主の願い事を叶えるために協力した者たちじゃ。それらに、妾は気まぐれじゃから、気まぐれに手助けをしたら褒美をやると言ってしまった」
光はティターニアの言葉に合わせて大きくうねり、動き出す。それは光の奔流となり、私の方へと迫ってくる。それは、よくよく見ると小さな妖精の集まりだった。
「――さあ。ヒトの子よ。妾にするように…妾の可愛い僕も、もてなしておくれ。出来るじゃろう?妾を満足させておくれ」
ティターニアの声は気取っているけれど、どこか不機嫌だ。そして、寂しそうな風にも聞こえた。
――ティターニア。
今、あなたはどんな顔をしているんだろう。
彼女の顔を見たいけれど、それも儘ならない。
私の視界は眩しい光で埋め尽くされ、何も見えなくなった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
――幸い、と言っていいのだろうか。
小さな妖精は手のひらほどのサイズだったので、然程お酒は飲めなかった。ただ、グラスが圧倒的に足りなかったので、平たい杯のようなものをテオに魔法で作り出してもらい――因みに彼は「もてなされる側である筈の僕が働かされている!なんて不運だ」と笑っていた――それに梅酒を注ぐ。すると、まるで蜜の罠に集まるカブト虫の様に妖精たちは杯に集まり、各々美味しそうに酒を飲んでいた。
枝豆があったのも僥倖だった。小さな妖精には豆一粒で充分だったから。
やっと全ての妖精に酒が行き渡り、一息つく。
ティターニアはソファに寄りかかって、何処を見るでもなくぼうっとしていた。
私はそんなティターニアの隣に腰掛けて話しかけた。
「もういいんですか、お酒」
「うむ。もういらぬ」
ティターニアは何処か心ここに在らずだ。
ティターニアはそんな表情も美しい。見つめる私の視線に気づいたティターニアは、こちらを睨みつけてきた。
「…なんじゃ。何か用か」
「ティターニア。貴女こそ、私のもてなしがもう終わったと思ってませんか」
「ほ。何のことじゃ」
私は立ち上がり、お盆に湯気が立ち上るお椀を乗せて持ってくる。ふわっと香ばしい味噌の香りがする。
「お酒を飲んだ後は、これを飲まなきゃ」
とん、とティターニアの目の前のテーブルにそれを置く。
「エビの…頭?」
「はい。エビの頭の味噌汁です。熱いですから、気をつけてくださいね」
ティターニアは訝しげな顔でお椀を手に取った。
私も自分の分のお椀を持って、ふうふう息を吹きかける。
なんとも言えない、味噌とエビの出汁が混ざった匂い。有頭エビを使った料理をしたときだけ許される、贅沢な一杯。つまみでお腹も膨れているはずなのに、食欲をそそる海老の濃厚な匂いに、ゴクリと唾を飲んだ。
ずず、と一口啜ると、たちまち口の中に広がるエビの風味。エビ味噌が溶け出した汁はうま味のかたまり。一口飲むたびに、旨さで脳がしびれる。お酒のせいで水分を欲している体には、堪らない美味さだ。
箸で、エビの頭をひとつ持ち上げる。
それをちゅちゅちゅっと、口をつけて吸えば、かすかに残ったエビ味噌がまったり舌の上を蹂躙した。
そして、また汁を飲む。
「「…はあーっ」」
ティターニアとふたり同時に溢れたため息は、満足感からくるものだ。
思わず顔を見合わせて、破顔する。
クスクス笑いあって、なんだかほっこりする。
「あーあ。まったく。これがお主のもてなしか」
諦めたような、呆れたような声でため息まじりにそう言ったティターニアの言葉に、私の心臓が跳ねた。
気に入らなかったのかと内心ひやりとしている私に、ティターニアはソファの背もたれに体を投げ出し、じっとりとした視線をこちらに向けた。
「こんなもてなしをされたら、これからひとりで飲むのが寂しくなる。酷い仕打ちじゃの。誰かと一緒に飲む楽しみなんぞ、知らぬままで良かった」
ティターニアはそう言って長い息を吐いた。
「全くもって厄介な話じゃの」と、憂鬱そうに呟くティターニアに、私はある提案をすることにした。
「ねえ。ティターニア。また遊びに来てくれませんか」
すると、ティターニアは綺麗な空色の瞳をまんまるに見開いて、ソファから勢いよく体を起こした。このティターニアの顔は初めて見る顔だ。
「私たち――もう飲み友達だと思うんです」
そう言って笑ってやる。
「だから願い事とか関係なく、気まぐれに飲みたい時に、一緒に飲みましょう?――私も、あなたと一緒で、本当はひとりで飲むのは趣味じゃないんです」
ティターニアは途端に頰を薔薇色に染めた。
――ティターニアとこれからも一緒に飲みたい。私はそう思ってしまった。不可思議で、怖くて可愛らしい彼女とここで別れるのは――嫌だ。
ティターニアの答えをドキドキしながら待つ。
ティターニアは両手をもじもじと絡ませて、あちこち視線を彷徨わせた後、
「ふん、し、仕方ないの。妾は妖精女王じゃから、忙しく世界のあちこちを飛び回っておる。その合間にでも――気まぐれに訪れてやろう。
それに、美味い酒をもっと用意してくれれば、この先も聖女のことをみてやらんこともない」
そう、もごもご口の中で言って、薔薇色に染まった頰を隠すように、またそっぽを向いてしまった。
ちらりと見えたその顔は、今までみたティターニアの顔の中で1番美しく――可愛らしい。そう思ったのは、友達ならではの贔屓目によるものなのだろうか。
「おや。女王、良かったねえ。願い事を叶えて、約束のもてなしが終わったら会いにくる口実が無くなるって落ち込んでいたからね。いやはや、これは…おっと、睨まないで欲しいな。ほら、僕は空気を読めない所があるだろう?だから友達がいな…ぐふぅ!」
私たちのほっこりした雰囲気をぶち壊しにした声の主は、ティターニアの恐ろしく重そうな一撃を鳩尾に受けて、強制的に沈黙させられたのは――言うまでもない。
…合掌。