妖精の遊び場で
すみません、最近三人称練習中〜
波の音が岩壁に反響して、まるでこだまのように響いている。
ここは、レイクハルトにある別荘からほど近い、湖沿いにある小さな洞窟だ。風が強いレイクハルトでは、湖と言えど湖面が凪いでいることは滅多にない。
風に煽られて作られた波は、湖畔の石壁を永い時を掛けて削り取り、小さな洞窟を形成した。
その洞窟は天上に穴がぽっかりと空いており、今宵のような月の大きな夜は、月光が水面をきらきらと照らしている。更には壁にはぼんやりと光る苔が群生していて、夜だと言うのに不思議と明るい。この幻想的な洞窟は、大昔から妖精の遊び場と呼ばれて、密かに若者に人気のスポットだった。
そこに、この洞窟の噂を聞きつけたひよりとカインが訪れていた。
いつも彼らにぴったりと付き添っている護衛騎士のセシルは、気を利かせて洞窟の外で待っている。この場所に来ることを事前に聞いていた彼は、予め洞窟内の安全を確認していた。茜などからは、いつも三人で巫山戯合っていて、果たしてきちんと仕事をしているのか疑問に思われているような彼だが、王子付きと言うこともあって、実は護衛騎士としては優秀である。
安全が確保された洞窟内で、カインとひよりはゆっくりと水の中を進んでいた。
水位は腰ほどで、日中はかなり暑かったせいか、程よい温度になっている。勿論、衣服は身に着けていない。ふたりとも水着姿だ。初めて水着姿をお披露目したときは、すっかり当てられてしまったカインであるが、今はもう慣れたのか普通の態度になっている。
「あ〜あ。明日帰るのかあ。もうちょっと居たかったな」
ひよりが唇を尖らせてそう言うと、カインは僅かに苦笑してから頷いた。
「そうだな……。私もひよりたちを見送った後に出立することにした。ユエと一緒に、古の森に行こうと思っている」
「そうなんだ」
「ああ。古龍に挨拶に行こうと思ってな」
「ふうん」
ひよりは相槌を打つと、徐に片足で水を蹴った。透明度の高い水を掻き分けて、ひよりの足が水中から姿をあらわす。月光を浴びて白く光るその長い足の上を、丸い水滴がつう、と流れ落ちていく。その様を垣間見たカインは、頬を熱くなるのを感じてそっと視線を逸す。
そして、まるで邪な考えを浮かべてしまった自分を誤魔化すかのように口を開いた。
「あー……。短い間だったが、ひよりに会えて良かった。来るとは思っていなかったから」
「あはは。そうだね。夏休みになるまで来ないって言っていたものね。日本じゃあまだ梅雨が終わったばかりだもの」
ひよりはカインの方を見もせずにそう言った。
――どうしたんだ?
いつもは人の目をしっかりと見て話すひより。彼女のいつもとは違う様子に気がついたカインは、その華奢な背中をじっと見つめた。
「あちらの生活はどうだ?」
なんとなしにカインがそう尋ねると、ひよりは動揺したように小さく肩を揺らした。
そして、ひよりはやけにゆっくりとカインの方へと振り返った。
「……へへ……」
ひよりは、明朗快活な彼女にしては珍しく、曖昧な笑みを浮かべた。否定も肯定もしないひよりの態度に、カインは僅かに眉を潜めると彼女の手をそっと握った。
「私で力になれるかわからないが――話くらいなら聞けるぞ?」
カインの言葉に、ひよりは小さく首を振ると「大丈夫」と言って、手を離した。
「おねえちゃんとジェイドさんに向こうで励ましてもらったから、さ」
もう慰めはいらないと言いつつも、なおも曇ったままの想い人の笑顔に、カインは脳内で原因を探る。
――日本に帰って、「高校」と言う場所で勉学に励んでいるというひより。将来的には、そこよりも更に高等な教育機関への入学を目指しているらしい……。
恐らくそれが上手く行っていないのだろうと、おおよその見当をつけたカインは、水を掻き分けてひよりの正面に回った。そして、彼女の瞳を自ら覗き込んで、少しはにかみながら口を開いた。
「なあ、ひより。会うのは久しぶりだ。会わなかった間、私が何をしていたか話していなかったような気がする。聞いてくれるか?」
「……? うん」
不思議そうに頷いたひよりを見たカインは、彼女を水面から突き出た岩場に誘って腰掛ける。そして、ぽつぽつと最近の出来事を話し始めた。
カインの話はひよりの興味を引く内容だったようだ。
話を聞いているうちに、その瞳がキラキラと輝き出した。
カインは勉強のため、各国の要人との顔合わせと、浄化後の各地の視察のために、大陸中をまわっていた。もう随分と国元には帰っていないらしい。けれども、ホームシックになることもなく、王族としての役目を果たそうと日々様々なことと向かい合っていた。
「一緒に、浄化のために色々なところに行ったが、あの時は穢れ地中心だったからな。その国の中枢などには寄りもしなかった。逆に、今度の旅はそちらがメインだからな。色々なものを見たよ。それこそ綺麗なものから、見るのもおぞましい国の醜い部分まで――私の知らないことが、こんなにもあったのかと驚いている」
「そうなんだ」
「中でも、東の国はすごかった。一面の水田が広がっていてな……」
カインは、自身が目にした光景・体験をつらつらと話始めた。ひよりは、所謂聞き上手と言う奴で、大げさなほどに反応を返してくれるから話し甲斐がある。それに、話の途中で余計な口を挟まない。カインはそのおかげもあって、調子良く話を続けた。
次第に、ひよりの表情から曇りが取れていったのを確認したカインは、今度は面白おかしく自身の失敗話を語りはじめた。
「リザードマンの国に行ったときな、うっかり王族のしっぽを踏んでしまって」
「嘘、大丈夫だったの!?」
「向こうの国では、しっぽを踏むのは求愛行動なのだそうだ。案の定、猛烈な求愛を受けてな。あの時は、本当に大変だった」
「きゅ!? 愛!? えっ、えええ!? それって」
ひよりがまるで自分のことのように慌てている様子を嬉しく思いながら、真面目くさった顔を作ったカインは指を一本立てて顔を顰めた。
「その尻尾を踏んだ相手。……引退した、先王だったんだ」
「先……王? ええと、まさか」
「そのまさかだ。先王は勿論リザードマンの雄で、しかも妻が10人もいるのに関わらず、私に迫って来た」
「ええええええ!?」
「……まあ、元は言えば不注意でしっぽを踏んだ私が悪いのだが」
カインは眉を潜めると、ひよりの耳元に顔を寄せると、小声で言った。
「先王は色好きで有名でな。男女問わず囲うので有名だったらしい。そんな相手のしっぽを踏んでしまったんだ。相手方は、私を手に入れるつもりになってしまった。それに、相手は先代と言えど王族だろう? そう安々と無下には出来なくてな」
「えっ、嘘。そんな……カイン、お嫁さんになっちゃうの!?」
ひよりは青ざめると、必死な形相でカインに詰め寄った。
「だだだだ、駄目よ! 絶対に駄目! カインがお嫁に行くなんて! 将来、ルイス王子の助けをするために各国をまわっているのでしょう!? それが全部無駄になるなんて、しっぽを踏んだくらいなによ! 今からその色ボケ爺いのしっぽ、根本からたたっ斬ってやるわ!!」
「こら。落ち着け、ひより」
「だって!!」
カインは、興奮して怒りを露わにするひよりに苦笑すると、彼女の唇にそっと指を当てた。
唇に急に触れられたひよりは、ほんのりと頬を赤く染めて押し黙る。
くつくつと喉を鳴らして笑ったカインは、ひよりを心の底から愛おしそうに見つめた。
「冷静に考えてみろ。その……色ボケ爺いとやらに囲われていたら、今、私がここにいるわけないだろうに。現王がきちんと対処してくれたさ。というより、万が一にも私が囲われたら、外交問題になるだろう」
「……うっ! そうだけど」
「それに――」
カインはひよりの額に自分の額を合わせると、その碧色の瞳で明るい栗色の瞳を覗き込んだ。
「浮気は許さないんだろう? 私は、ぶっとばされるのはごめんだからな」
「――……ううっ!!」
異世界から日本に帰る間際、自身が放った思い切った宣言を思い出したのか、ひよりの顔がみるみるうちに鮮やかな赤色に染まる。カインはそれを楽しそうに見つめると、今度は別の国での失敗談を語り始めた。
「……ちょ、なにそれ。その国では、赤い果物を食べたら、ごちそうさまの合図なの?」
「そうなんだ。同じ皿に乗っていたから、付け合せだと思って食べたら、侍従が私の料理だけ片付けてしまったんだ……おかげで、それからの二時間、私は水で空腹を紛らわせることに」
「誰か助けてくれなかったの……!?」
「それが、真っ暗闇の中で観劇しながらの食事会だったからな。隣に座った人間の顔も見えないくらいで。観劇の最中に侍従に文句を言うわけにも行かなくて――後で、親しくなったそこの王子に大笑いされた」
ひよりはカインの言葉にお腹を抱えると、苦しそうに涙を浮かべて笑っている。そこに畳み掛けるようにして、カインは話を続けた。
「……そもそも、そこの国独特のマナーをすっかり忘れていた私の落ち度なのだが。……ああ、もうひとつあるぞ。実はな……」
「ひーっ! もう止めて! 笑いすぎてお腹痛いから!」
「そうか。それはよかった」
カインは微笑みを浮かべると、ぽんとひよりの頭に手を乗せた。そして、優しい手付きでゆっくりと頭を撫でる。
「こんな風に、この数ヶ月……恐ろしいほど失敗続きでな。今まで築き上げてきた自信なんて、儚くも崩れ去ってしまったよ。……流石の私もまいってしまってな。出来れば、誰かに慰めてもらいたいと思うんだが」
「……へっ?」
笑っていたひよりは、カインの言葉を聞いた途端、まんまるの瞳を益々丸くした。その様子を見てカインは苦笑すると、徐に自身の頭を指差す。
「奇遇なことに、今この場所にいるのはひよりだけだからな。それに、君と私は――ええと……お、想いが通じ合っているわけだし。別に変なことではないだろう。思う存分慰めてくれ」
そして、戯けるように笑ったカインは、ずいと身をかがめて自身の頭を差し出した。ぱちぱちと何度か瞳を瞬いていたひよりは、目の前に差し出された金髪を困惑したように見つめると、恐る恐るそこに手を伸ばす。数瞬、宙に手を彷徨わせた後――ゆっくりとその頭に触れた。
「よ、よしよし」
「……ぷっ」
「わ、笑わないで!?」
「だって、あまりにもぎこちないから。あはははは!」
カインは朗らかに笑うと、そのままひよりに抱きついた。途端、ひよりは顔を真っ赤にして固まってしまう。けれども、笑っているカインは容赦なくひよりの細い体を抱きしめ、そしてその頭を撫でた。
「慰めてくれてありがとう。おかげで、これからも頑張れる」
「そ、それは良かった」
「……――そうだ、私も頑張っているが、ひよりも頑張っているよな」
「……」
突然放たれたカインの言葉に、ひよりは黙り込んでしまう。カインはひよりを抱きしめたまま、もう一度頭をゆっくりと撫でた。
「これからたくさん学ばねばいけない私たちは、本当に大変だな」
「……」
「これからも色々とあるだろうな。上手く行かないことばかりで、焦るかもしれないし、疲れ切るかもしれないな。……そうなったら、またこうやって慰めてくれ。そうしたら、私はいくらでも頑張れるから。……ひよりは?」
「…………ッ!」
ひよりは何度か口と開閉すると、うまく言葉が出てこないのか、顔をくしゃくしゃにして何度も頷いた。ぽたり、ぽたりとひよりの瞳から溢れた涙が、カインの肩を濡らして行く。
カインはゆっくりとひよりから体を離すと、親指で濡れた頬を拭ってやった。
そして、じっとふたり見つめ合う。
栗色の瞳と、碧色の瞳の視線が混じり合う。お互いの瞳の奥に、秘めた熱が存在することに気がついたふたりは、小さく息を飲む。一瞬だけ、瞳を揺らしたひよりは、ぐっと表情を引き締めると、ゆっくりとまぶたを閉じた。
「……ひより」
カインは、名を呼んでも尚まぶたを閉じたままのひよりに、ごくりと唾を飲み込む。そして、ぎこちなくひよりの両肩を掴むと――ゆっくりと顔を近づけていった。
――その時だ。
「殿下、リザードマンの先王に、寝室に連れ込まれて危機一髪の話はしましたか?」
「うわああああああああっ!!」
セシルの声が洞窟内に響くと、カインはひよりから勢いよく体を離した。
そして、勢いよく洞窟の入口の方に顔を向けると、顔だけ出して覗いているセシルに、恨めしげな視線を向けた。
「……そそそそ、そんなこと言えるか! 馬鹿者!!」
「それはそれは。殿下を取り戻すために、散々苦労した僕の活躍を語ってくれないなんて、寂しいですねえ。あっ、そうそう。殿下、王族なんですから婚約前までは清い関係で――」
「黙っていろ!!」
「婚約したら、好き放題してもらってもかまわ」
「だから、黙れと言っているだろう!!」
カインは、怒りで顔を染めると、水をザブザブと掻き分けて洞窟の入口へと向かう。
その背中を、少しホッとした様子のひよりが見つめ――洞窟内に響くふたりのやり取りを聞いて、朗らかに笑い始めた。
その時、お腹を抱えて笑っているひよりからは、一切の曇りも消え去っていたのだった。