番外 異世界おもてなしラーメン
タイトルどおり、ラーメンですぞ!
ここは、ジルベルタ王国の宝物庫。金銀財宝が犇めくなか、宝物庫の最奥に厳重に封印を施されてそれはあった。
陽の光が差し込まない宝物庫の中で、白く眩い光を放っているのは、精霊王の魔石――所謂聖石と言われるものだ。
異界から聖女を召喚するために使われるその石は、長い間秘匿されてきた。
けれども、今代の聖女とその姉の活躍によって、聖石は本来の役目を終えた。
新たな聖女を迎えることはなくなった世界で、その石は毎週末聖女の姉を召喚するのに使われることになった。元々ふたつきりだったその石は、今は創造主の手によって大分数を増やして、以前よりも頻繁に使用されている。
先日も、聖女の姉が召喚されたばかりだ。
少なくとも、次の週末まで聖石が使われることはない。誰もいない宝物庫の中で、聖石は静かに出番を待っている――はずだった。
「――ああ、あったあった」
けれども、今日に限って、宝物庫にとある人物の姿があった。
何重にも掛けられた封印をいともたやすく突破したその人物は、聖石を見るなり空色の瞳を楽しそうに歪めた。
その人物とは、妖精女王ティターニア。
ティターニアは、か細い腕を伸ばして聖石をひとつ手に取ると、軽く口付けた。
「次の週末? ――待てるものか」
ティターニアはぽそりと呟くと、次の瞬間にはその場から姿を消した。
静寂を取り戻した宝物庫の中では、残された聖石が淋しげに光を放っていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
ところ変わって、ここは日本のとある街角。
既にシャッターが閉まった商店街の一角で、ある屋台が営業していた。軒先にぶら下がっているのは赤ちょうちん。そこに、大きくラーメンと書いてあった。
所謂、夜鳴きそば――屋台のラーメン屋だ。
その屋台は、長年そこで営業しており地元民からも親しまれている。
味は美味しいのにリーズナブル。近くの住民などは、自前の丼を持って買いに来るほどだ。
店主の夢は、自身の店を持つことだった。美味しいラーメンを沢山の人に食べて欲しい――その一心で、スープから麺、具材まですべてに拘り、最高のラーメンを提供してきた。けれども、庶民の味であるラーメンは、安い値段でなければならないという信念があったせいか、店は繁盛すれども中々実店舗を持つまでには至らなかった。
店主の齢は既に60も半ばを過ぎようとしている。
そろそろ、深夜まで――それも、雨の日も風の日も屋外で営業する屋台で働くのが辛くなってきた。誰にも話してはいないものの、そろそろ屋台はやめて、近くに住んでいる娘夫婦の世話にでもなろうか――そんな風に思っていた。
その屋台には今、ふたりの客が訪れていた。
周囲に人通りはない。それもそのはずだ。既に深夜をとうに過ぎている。
ふたりは、帰りはタクシーを使うつもりらしく、のんびりとラーメンを楽しんでいた。
そのうちのひとりは女性だ。若干酔っ払っているのか、ほんのりと頬を赤くしている。その女性は、スープを勢いよく飲みきると、くう! と唸った。
「ああ、やっぱりここのラーメンは、飲んだ後の〆に最高だね!」
「そうだなあ。アルコールを飲んだ後には堪らないね」
連れの外国人風の男性も、ラーメンの味に満足したのか、空になった丼を嬉しそうに見つめている。
――美味しいと口にしてくれる客はありがたい。
店主は、ふたりの様子を嬉しく思いながら、こっそりと笑みを浮かべた。
やがて、ラーメンを食べ終わったふたりは、店主に「ごちそうさま」と声を掛けると、仲よさげに手を繋いで帰っていった。店主はふたりを見送ると、店じまいを始めた。
今日は平日だ。そのせいか、若干スープが残ってしまった。明日はもう少し量を控えめに仕込んでもいいかもしれない――そんなことを思いながら、使い残した具材を仕舞い込んでいく。そして、屋台の周囲の片付けに入ろうとした瞬間、椅子の上に何かが乗っているのに気がついた。
「……忘れ物かな」
それは、小さな巾着だった。花柄のキルト生地で作られているそれは、恐らく手作り品だと思われた。手に持ってみると、何やら硬いものが入っている。店主は小さく首を傾げると、それを屋台のテーブルの上に置いた。
――その時だ。
急に辺りが眩い光に包まれたかと思うと、ふわりと若干の浮遊感に包まれる。店主は、地震でも来たのかと素早く姿勢を低くすると、頭を両腕で庇った。すると、更に平衡感覚を狂わされるような感覚がして、堪らず固く目を瞑る。そして、それが過ぎ去るのをひたすら待った。
――数分後。
漸く不快感が収まると、店主は徐に目を開いた。そして、安堵の息を漏らす間もなく、目の前に広がる風景に思わず固まってしまった。
そこにあったのは、どこまでも広がる草原。灯りどころか建物ひとつない、彼方まで続く草原を、大きな月が明るく照らし、風が渡って行っている。
何故か虫の声ひとつしない。草原には、ひたすら風の音と葉擦れの音だけが響いている。
それはとても幻想的な風景だった。何かの映画のワンシーンのような――けれども、文明の匂いがまったくしない場所に屋台とともに放り出された現状は、空恐ろしくも思えた。
店主は大きく首を振ると、徐に自身の頬を抓った。
――これは夢だ。きっとそうに違いない。
そう思ったのに、当たり前のように感じる痛みに首を捻る。
最近の夢は痛みすら再現するのかと頭を抱えた店主は、まるで檻の中の肉食獣のように、辺りを暫くうろついていた。けれども、夢が覚めるような気配はしなかったし、いつまで経っても元の世界に帰る予兆すらない。
店主は一瞬遠い目をすると、大きくため息を吐いた。
そして散々悩んだ挙げ句、結果、いつものように片付けをすることにした。普段どおりのことをしていれば、きっと夢が覚めるに違いない。そんな淡い期待を抱いたのだ。まあ、それが叶うかどうかは別として、店主は日本人らしい生真面目さで、せっせと……いつもよりも念入りに後片付けをしていった。
月光に照らされた草原の只中で、赤ちょうちんの灯りだけがゆらゆらと揺れている。
店主が調理台の片付けをしていると、突然誰かが暖簾を潜ってきた。
「……なんじゃ、お前」
現れたのは、白に近い金色の髪を持つ、空色の瞳の少女。恐ろしく長い髪を持ち、まるで人形の如く整った顔をしている。白いレースがたっぷりとあしらわれたドレスを着た少女は、勝手に椅子に座ると、じろりと店主を睨みつけた。
「『茜』を喚んだはずじゃのに。なぜ、お前が『茜』の聖石を持っているのじゃ」
少女は、テーブルに置かれたままの巾着を指差すと、店主を忌々しそうに睨みつけた。店主が客の忘れ物だと告げると、少女はテーブルに突っ伏してしまった。
「……あやつめ、対となる聖石を忘れるなぞ、阿呆なのか!? あの粗忽者め……!!」
少女は腹立たしいのか、座ったまま地団駄を踏むと、急にパタリと力尽きた。
「……『茜』のご飯」
少女の言葉と共に、ぐうと可愛らしい音が辺りに鳴り響く。
どうも、「茜」とやらの食事を当てにしていた少女は、今日は何も食べていないらしい。
すると、店主は鍋に残ったスープを一瞥すると、仕舞い込んだ具材を取り出し始めた。そして、ガスコンロに火を着けると、湯とスープを温め始める。
スープが沸騰し始めると、途端に辺りにいい香りが漂ってきた。
すると、少女はひくひくと鼻を動かすと、ゆっくりと顔を上げた。
「……何をしておる」
「腹が空いているんだろう? 良かったら食べていけ。これもなにかの縁だ」
店主はちらりと少女を一瞥すると、無言で調理を始めた。
正直なところ、普通ならばこの状態でラーメンを作るなんて行動には出ないだろう。
突然やってきた草原。目の前に現れた、明らかに異国の生まれの少女――その少女の言葉が、自然と理解できていることを不思議に思うよりも、飲食業に携わる者として、腹を空かせた少女が目の前にいることが許せなかったのだ。
……どうせ、捨てるはずだったスープだ。
店主は、持ち前の人の良さで、少女に無償でラーメンを振る舞ってやることにした。
この店で使っているスープは、厳選した鶏ガラを使ったスープだ。香味野菜と共に、鶏ガラを数時間煮込み、根気よく灰汁を取り除いたもの。出来上がったスープは、透き通った琥珀色。濁りひとつないスープは、凝縮された鶏の旨味を内包している。
醤油も、スープに合うように数種類をブレンドしてある。鶏の旨味を殺さず、逆に引き立てるように混ぜ合わされた醤油の量は、一匙と決まっている。これ以上でも以下でもいけない。
真っ白な丼に、上質の鶏油と一緒に醤油を入れ、そこにスープを注ぐ。すると、醤油の香ばしさと鶏ガラスープの混じったいい匂いが辺りに広がった。
その頃には、丁度麺も茹で上がっている。
使用しているのは、馴染みの製麺所から仕入れている麺だ。これは、化学調味料を一切使っていないスープに合うようにと、製麺所の社長と何度も試作を繰り返したものだ。
スープが良く絡むように、細めの縮れ麺。それをザルに入れ、勢いよく振って水気を切ると、静かにスープの海に放す。そして、菜箸で麺を綺麗に整える――。
すると、麺はスープを纏って、まるで美しい少女の髪のように煌めくのだ。
この瞬間が、店主は堪らなく好きだった。
「……ごくっ」
唾を飲み込んだ音が聞こえたので、店主はふと視線を上げる。すると、少女が食い入るように丼の中身を見つめているではないか。少女の染みひとつない頬は薔薇色に染まり、空色の瞳はまんまるに見開かれ、無意識なのかうっすらと口が開いている。その今にも涎を垂らしそうな姿に店主は小さく笑うと、麺の上に具材を乗せた。
丁寧に下処理した穂先メンマ。たけのこの中で、柔らかな穂先の部分だけを使ったメンマは、特製のタレでしっかりと味付けしてある。そこに、半熟の味付け卵に、刻んだネギ。じっくり煮込んだチャーシューを二枚に、海苔を一枚添えて――完成だ。
「……お待ちどう」
とん、と少女の目の前に丼を置く。
そして、割り箸にレンゲ。お好みにと、胡椒を置いたところで、はたと気がついた。
――この少女は、箸を使えるのだろうか。
けれども、店主の心配を他所に、少女は手慣れた手付きで箸を割ると、期待の篭った眼差しで丼の中身を見つめた。そして、徐にレンゲを手に取ると、スープの海に沈めた。
白いレンゲに、くるくると円を描きながら、黄金色のスープが溜まっていく。スープと一緒に流れ込んだ鶏油が、照明の灯りを反射して鈍く光っている。
ふう、ふうと少女はスープに慎重に息を吹きかける。そして、レンゲに口を着けた。
「……!! これは」
少女は何度か目を瞬くと、繁々と丼の中を見つめた。そして、箸で麺を掬った。細い麺が空気に晒され、ふわりと白い湯気を立ち昇らせる。ふう、と少女が息を吹きかけると、麺がゆらりと靡いた。そして、少女はそれを口にして――勢いよく啜った。
――ず、ずるるるるるるっ!!
異国の少女が立てているとは思えない豪快な音に、店主は一瞬驚きに目を見開き、けれども次の瞬間には嬉しそうに細めた。
……この少女は、ラーメンの一番美味い食べ方を知っているのだ。
それは、作り手としては最高に嬉しいことだ。
少女は、もぐもぐと麺を咀嚼すると、ごくりと飲み込み――次の瞬間には、ぱあっとまるで花開くように顔を輝かせた。
「――美味いっ!!」
そして、勢いよくレンゲと箸を動かし始めた。交互に丼を襲う箸とレンゲは、みるみるうちにその中身を減らしていく。少女は、額に汗を浮かべながら、夢中になってラーメンを食べている。
――そして、五分もすると、丼の中身はスープだけとなった。
そのスープさえも、少女は喉を鳴らしながら、あっという間に飲み干してしまう。
どん、と丼がテーブルに置かれる。同時に、少女の満足気な息が漏れた。
「……はあああああっ!!」
少女はとろりと目を蕩けさせ、うっとりと空になった丼を見つめている。見るからに満足気な様子に、店主は思わず笑みを零した。
すると少女は、じっと店主を見つめると、小さく首を傾げた。
「……これは、うどんとは違うな。なんという料理じゃ?」
「……」
――知らないで食べていたのか。
店主は少女の発言に内心驚きつつも、それはラーメンだと教えた。すると、少女は口の中で何度かラーメンと呟くと、嬉しそうに頷いた。その時だ。もうひとり、屋台の暖簾を誰かが潜ってきた。
「やっぱり! 妖精女王だったのね!? 聖石、勝手に使っちゃ駄目じゃない! 呪いが発動したのに、簡単に弾かれたから一体どうしたのかと思ったわ!」
それは美しい純白の髪を持った、絶世の美女だった。瞳の色はまるで虹のように七色に煌めき、豊満な肉体を薄衣一枚で覆っただけの姿は、非常に目のやりどころに困る。
そんな美女に、少女は「精霊王か」とつまらなそうに呟くと、頬杖を突きながら言った。
「暇じゃから、『茜』と酒を飲み交わそうと思ってな。じゃのに、違うのが出てきた」
「もう! 『茜』にも都合があるのよ! それに、将来はこちらの世界に住んでくれるって言っていたのだから、ちょっとくらい我慢しなさいな」
「ぐぬぬ……。寂しかったのじゃもの、仕方ないじゃろ」
少女はぷくりと頬を膨らませると、不貞腐れたようにそっぽを向いてしまった。美女はそんな少女を呆れ混じりに見つめると、辺りに漂っている匂いに気がついたのか、鼻をひくつかせた。
「それにしても、いい匂いがするわ。なんの匂いかしら」
「よくぞ聞いてくれた! これはラーメンじゃ! 『茜』は来なかったが、代わりにとんでもなく美味い料理がやってきた。……ふふふ、最高であった……!!」
「そんなに?」
「ああ! でも、もう全部食べてしまったからの、お主の分はないぞ!」
少女が得意気にそう言うと、美女は羨ましそうに空になった丼を眺めた。
すると、今まで黙っていた店主が口を開いた。
「……あんたも食べるかい」
「本当!?」
途端に、美女の顔が綻ぶ。美女の笑顔があまりにも綺麗だったからだろうか。その姿がやけに眩しく感じて、店主は目を細めた。そして、徐に新しくラーメンを作り出す。少女も「もう一杯食べるぞ!」なんて騒ぎ出したので、仕方なく二杯用意した。
「〜〜〜〜!! ああもう! 最高だわ!!」
少女と同じ様に、美女も店主のラーメンが気に入ったようだ。あっという間に丼を空にすると、満足そうな息を吐いた。少女も二杯目をぺろりと平らげて、うっとりと脱力している。
……こんな、外国風の女性たちにも、自分のラーメンは通用するのだ。
店主はそのことを心から嬉しく思いながら、食べ終わった丼を下げる。
すると、美女が料金はいくらかと聞いてきた。
「……いや、店じまいの後だったからな。気にしなくていい」
店主が謙遜すると、美女は眉を吊り上げて怒り出した。曰く、このような美味なものに、対価を支払わないと言うことはありえないのだそうだ。
「人間ってどうしてこうなのかしら! 『茜』も、中々受け取ってくれないのよ! なのに、こちらに来るたびに料理を差し入れてくれるの! もう、わたくしったら、美味しいやら申し訳ないやらで、どうしたらいいかわからなくって!」
「くれると言っているのだ、遠慮なく貰っておけばよかろう。お主、神の癖に律儀というかなんと言うか……」
美女と少女は、興奮気味に言葉を交わしている。
一瞬、「神」なんて可笑しな言葉が聞こえたような気がするが、聞き間違えに違いない――なんて、店主が思っていると、ずいと美女が詰め寄ってきた。迫力のある美しい顔が間近に迫り、思わず一歩後退りする。
「神だからこそ、そこのところはしっかりしないといけないのよ! というわけで、これを受け取って頂戴。……ああ、わたくしからしたら価値のないものだから、何も遠慮することはないわ」
美女の纏う芳しい匂いと、色気に動揺しながらも、店主は「価値のないもの」であれば、まあいいかと受け取る。すると、その様子を満足そうに眺めた美女は、今度は少女に向かって眉尻を釣り上げた。
「ほら! お腹もいっぱいになったでしょう! この人を帰して差し上げなさい!」
「ぐぬ。……仕方ない」
そして、少女は懐から徐に白い石を取り出した。そして、その石に小さく口づけたかと思うと、白い石が突然眩い光を放ったではないか!
その光のせいで、次の瞬間には視界が白く染まってしまった。同時に、またあの嫌な浮遊感に襲われて、店主は固く目を瞑る。
――次に店主が目を開けた時、そこには見慣れた町並みが戻って来ていた。
「……一体どういうことだ」
――やはり、あれは夢だったのだろうか。
そうは思ったものの、手元には汚れた丼がふたつある。
いまいち状況が理解できずに、店主が呆然とそこに立ち尽くしていると――誰かが小走りで近づいて来たのに気がついた。
「……ああ! まだいてくれた!」
それは、先程帰ったはずの男女二人組のひとりだった。その女性は軽く息を荒げながら、巾着を見なかったかと聞いてきた。そして、屋台のテーブルに置きっぱなしだった巾着袋を見つけると、女性は安堵の息を漏らした。
「ああああ……。よかった! これがないと、大変なことになるところだったんです!」
「――おーい、『茜』!」
「あ、今行くよ、ジェイドさん!」
女性は店主に向かって頭を下げると、小走りで待たせているタクシーのもとへと走って行った。店主はその女性の後ろ姿が見えなくなると、急に気が抜けてしまったのか、どすん、と椅子に座った。
「……『茜』?」
そして、空を見上げる。そこには見慣れた小さな月が浮かんでいて――思わず笑みを零した。
まるで泡沫の夢のような不思議な出会い。
店主は勢いよく立ち上がると、鼻歌交じりに片付けを再開した。
――そうして、暫く店主は上機嫌に過ごした。
あの女性から貰った袋のなかから、大粒の宝石が山ほど出てくるのを見るまでは。
……宝石のなかに、真っ白な石がひとつ紛れ込んでいたのは、また別の話。
今住んでいる場所には、夜鳴きそばが来ないので正直寂しいのです。