海辺の町、潮騒に誘われて2
ジルベルタ王国王城からほど近い場所にある、港町タイル。立派な造りの大きな門からまっすぐ行くと、大きな噴水が設置されている広場がある。その広場に面するように、一件の宿屋があった。
「海の兎亭」は、ここタイルでも評判のいい宿屋だ。少し値は張るけれど、それほど格式高くなく、食事が美味しいのだと言う。
兎の形の看板がぶら下がるその宿は、黄色がかった漆喰と、赤いレンガのコントラストが可愛らしい宿だった。入り口の扉からして凝っていて、まるで船倉につながる扉のように丸窓が嵌められている。内装も、ところどころに貝殻が散りばめられていて、如何にも海辺の宿と行った風情だ。
入り口から入ってすぐのカウンターにいたおばさんは、私たちの顔を見るなり柔らかな笑みを浮かべた。
「あらあら、ずぶ濡れじゃないか。タオルを用意しよう」
どうやら、その人がこの宿の女将らしい。彼女は、優しげな青い瞳を細めて、私たちに向かって愛想よく「新婚さんかね。ようこそ、海の兎亭へ!」と笑った。
私はタオルを受け取りながら、女将から言われた「新婚さん」と言う言葉の余韻に浸っていた。この世界では、年頃の男性と女性がふたりきりで旅をする場合は、冒険者でもない限りは婚姻関係を結んでいることが大半なのだそうだ。
まだ、婚約したばかりの私たちだけれど、態々説明するのも面倒だ。
旅先では新婚夫婦で通そう、と言う話になっている。
「奥さん。海が一望できる、いい部屋が空いているよ。そこにするかい?」
――奥さん……奥さん……奥さん……。
「茜」
「……は、はいっ!! そこで!!」
はっとして、大慌てで頷く。思わず奥さんという響きに浸ってしまった……。そんな私を、ジェイドさんは半ば呆れて見つめているし、女将は生暖かい視線を寄越している。
ああ、居た堪れない……!!
私は荷物を大慌てで掴むと、女将の案内に従って部屋へと向かった。そして――。
木の温かさとレンガの優しい色合いに彩られた部屋の、ど真ん中に鎮座するダブルベットを見た瞬間、暫く思考が停止してしまったのだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「――わあ! すごい!」
港町と言うだけあって、市場には魚介類を取り扱う店がかなり多い。
貝類中心に取り扱う店から、まだ生きている魚を取り扱う店まで、市場の中は濃厚な海の匂いに包まれている。
不思議なことに、魚が入った木のケースからは、冷気が常に漏れ出ていた。まるで、日本のスーパーの冷蔵ケースのようだ。
思わずマジマジと見つめていると、ジェイドさんが教えてくれた。
「最後の浄化に備えて、神殿に蓄えてあった水の魔石が安値で放出されたのだそうだよ。その魔石に冷気を籠めて、痛みやすい生魚を冷やしているんだってさ」
「へえええ! すごい。これも、世界が平和になったからなんですね」
戦いに使われるはずだった魔石が、こうして生活に役立っている――それは、とても素晴らしいことだ。じっと、並んでいる商品を眺める。本当に、魚の種類が豊富だ。この町で食堂を開くなら、絶対に魚料理は外せない――そう思っていると、私はある違和感を覚えて、思わず首をひねった。
「茜? どうしたんだい」
「いや……ええと、なんだかあまり大きい魚がいないのだなあ、と思って」
「ん? 確かに……そうだね」
店先に並んでいるのは、大きくても手のひら大の魚ばかり。この時期、王都でさえもう少し立派な魚が出回っている筈だ。これはどうしたことだろう。
ふたりで難しい顔をしていると、魚屋のおっちゃんが事情を教えてくれた。
「今、洋上で人魚が頻出していてね。沖合いで漁をしていた船が、尽く沈没したり座礁したりしていて、近海もの……それも、磯に近い場所で獲れる魚しかないんだ。困っちまったよ」
「そうなんですか……」
「騎士さんたちが、人魚退治に出てくれてはいるが、クラーケンなんかと違って、どうも勝手が違うらしい。随分、時間がかかっているようだ」
――人魚。それは、美しい歌声を持つ魔物だ。彼女たちの美声に聞き惚れてしまったが最後、船は沈んでしまうのだと謂われている。
ジェイドさんは、騎士たちが苦戦しているのを聞くと、眉を顰めた。嘗ての同僚のことを思い出しているのだろう。すると、魚屋のおっちゃんは大きく肩を竦めて、ため息混じりに言った。
「これからの季節、クラーケンの子どもがわんさか獲れるんだ。逆に、沢山獲っておかなけりゃ、将来でかくなったクラーケンに町が襲われかねない。どうしたもんかねえ」
「そうなんですか」
そう言えば、去年の夏も大型のクラーケンが現れて、討伐騒ぎになっていたなあ、なんて思い出す。そのお裾分けで貰った、クラーケンの脚――この世界では大型の烏賊も蛸も同様にクラーケンと呼ぶらしく、その時は蛸だった――で、やったたこ焼きは美味しかった。大きい脚なのに、ぷりぷりで繊細な味! きっと、アヒージョなんかにしたら美味しいに違いない。今日は暑いから、氷を浮かべた白ワインなんかと一緒に、美味しい油をパンにたっぷり染み込ませて食べたら最高だろうなあ……。
ひとり、クラーケンの味に想いを馳せていると、不意に誰かに頬を指で突かれた。
はっとして正気になった私は、半目でじとりと私を見ているジェイドさんに、愛想笑いを浮かべる。
「……あははは。お酒とおつまみのことなんて、考えてないよ。これっぽっちも。ええ」
「嘘は駄目だよ」
「うっ!」
私はさっとジェイドさんから視線を反らすと、「アヒージョが滅茶苦茶食べたいとは、思っておりました。すみません」と、しどろもどろになりつつ謝った。
「――ほう」
するとその時、私の耳元で鈴の転がるような声が聞こえた。
驚いて声のした方を見ると――楽しそうに細められた、空色の瞳とかち合う。
「”あひーじょ”? なんじゃそれは。美味そうじゃのう」
「びっくりした。ティターニア、いたの?」
「探したぞ、茜。何処に行っておったのじゃ。妾を置いていくなぞ、許さぬ」
ティターニアは私の首に抱きつくと、上機嫌でぶら下がった。喉が締め付けられて、ぐえ、なんて変な声が出る。そんな私に構わずに、ティターニアは嬉しそうに晩酌に思いを馳せている。
「ならば、今晩は”あひーじょ”じゃな? むふふ、楽しみじゃ」
「いや、待ってティターニア。そういう訳には……」
私はティターニアの腕から無理矢理脱出すると、不思議そうな顔をしている妖精女王に事情を説明した。すると、ティターニアは何度か目を瞬くと、直ぐに不敵な笑みを浮かべた。
「ほほほ! なあんじゃ、そんなことか。妾に、任せておけ」
……あ、なんだか嫌な予感がする。
自信満々に胸を張っているティターニアに、私は一抹の不安を覚えたのだった。
――一方その頃。
「……なあ、あれ。妖精女王じゃねえか? 兄ちゃん」
「……えーと」
「あんたたち、なにもんだ」
「詮索しないで頂けると」
ジェイドさんは、有名な妖精女王と真っ昼間からじゃれついている私のことを、必死で誤魔化してくれていたのだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
――妾に任せろ。
嘗て、ティターニアがそう言って、平穏無事で済んだことがあっただろうか。
タイルの町の外れにある灯台を訪れた私たちは、人魚が棲みついてしまったと言う岩礁を眺めていた。岩礁の上では、人魚たちが必死の形相で逃げ惑っている。それを襲っているのは、大小様々な海の魔物たちだ。
虹色の鱗を持つ巨大な海蛇は、ひとりの人魚をひたすら追いかけ回しているし、アメフラシのような軟体生物は、岩礁の上を占拠している。凶暴な牙をむき出しにした魚たちは、逃げ惑う人魚を追いかけるのを、明らかに楽しんでいる。
ここまでは、悲鳴が聞こえないのが幸いだった。
きっと、あそこは阿鼻叫喚の地獄絵図となっているのだろう……。
すると、ティターニアはその様子を満足気に見つめて、何度も頷いた。
「ほ。これで、人魚共も棲み家を移すじゃろう」
「――誠に、ありがとうございます。妖精女王」
人魚討伐の指揮を執っていたジルベルタ王国騎士団の副団長は、ティターニアに向かって深く頭を下げた。ティターニアは、ちらりと副団長に目を遣ると、ふんと鼻で笑った。
「お主に礼を言われる覚えはない。妾は、茜の料理を食べるためにこうしたまでじゃ。暑苦しい。妾の視界から消えろ」
「……かしこまりました」
ひらひらと手を振っているティターニアの傍から離れた副団長は、私たちの方へとやって来た。そして、人の良さそうな顔に苦笑を浮かべた。彼とは顔見知りだ。ダージルさんの側近で、我が家でバーベキューをした時にも遊びに来てくれた。書類仕事が嫌いなダージルさんのせいで、いつも苦労しているらしい。そんな彼は、今度は私に向かって頭を下げてきた。
「妖精女王はああ言いましたが、本当に感謝しています。ありがとうございました」
「……!! 私は何もしていませんよ」
「それでも、茜様がいらっしゃって下さったからです。本当に良かった」
うっ! 笑顔が眩しい。
本当に何もしていないのに、あたかも私の手柄のように言われると、本当にいたたまれなくなる。微妙な居心地の悪さを感じてもじもじしていると、そこにジェイドさんがやってきた。
「副団長、お久しぶりです」
「ああ。ジェイド、久しぶりだな」
ふたりは暫く話し込むと、徐に私の方を見た。何故か、ジェイドさんの表情がやたら明るい。
「茜、副団長が食材を融通してくれるって」
「え!?」
「妖精女王のお陰で、人魚を避けるために沖で待機していた船が続々と返って来ています。部下の話に寄ると、港は大賑わいだそうですよ。我々は何の役にも立たなかった。お詫びに、船に積んである魚を買い取って、住民に大盤振る舞いする予定です。よかったら、その中の一部を差し上げましょう」
「そ、それは願ったり叶ったりですが……」
私がそう言うと、副団長さんはにこりと頷いて、部下に声を掛けた。
どうも、港に簡単な調理設備を用意するように指示しているようだ。バタバタと騒がしく足音を立てて、部下が去っていく。すると、副団長は周囲に部下がいなくなったのを見計らうと、小声で私に言った。
「良かったら、僕もご相伴に預からせて下さい。妖精女王をも魅了する、茜様の料理。もう一度、食べたかったんですよね……」
あの時の焼き肉は最高だった! と、副団長さんはうっとりと頬を染めると、「部下には内緒ですよ」と恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべた。
……ああ、なんて可愛らしい人なのだろう!
私は満面の笑顔になると、大きく頷いた。
「わかりました。任せて下さい! 美味しいお料理、頑張って用意しますね!」
「あっ! おい、茜。妾へのもてなしを忘れるなよ! 人魚を追い払ってやったじゃろう!?」
「わかっているわよ、もう!」
私は、慌てて念押ししてくるティターニアに苦笑しながら、脳内のレシピを捲る。
――海の幸かあ……。さて、何を作ろうかなあ。
今晩の夕食は、随分と豪華なものになりそうだ。折角だから、腕によりをかけて作ろう!
私はそう思って、皆に向かって力強く頷いたのだった。




