そして掴み取ったものは1
――ごぷり。
――ごぷ。ごぼ……。
遥か深海で獲物を待ち構えている化物は、何をするでもなく、ゆらゆらと昇っていく泡を眺め、耳の奥で反響するくぐもった音だけを聞いていた。
獲物の気配はかなり近い。
美味なるそれを一刻も早く口にしたくて、体が疼いて仕方がない。けれど、獲物が頭上を通り掛かるのをじっと待つのが、化物の狩りのスタイルだ。だから、獲物の気配に意識を集中し、衝動を抑え込む。
あの時食べた獲物は、非常に美味であった。
数百年経っても体内に残る獲物の残滓は、今も痛みと癒やしを化物に与え続け、それは快感となって全身を駆け巡る。
――ぼこん。
化物がうっすらと口を開けると、大きな気泡が漏れ出し、氷に覆い尽くされた海面に向かって昇っていった。
徐々に近づいてくる、体内の残滓と同じ力の波動を感じて、化物はうっそりと笑った。
あれを口に出来れば、更なる快感が得られるに違いない。
そう確信した化物は巨体をくねらせると、気泡を追って上昇していった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
――時は少しばかり遡って、私が精霊界から帰ってきたすぐ後のこと。
精霊界に行っていた間、どうも一週間ほど寝込んでいたらしい私は、一日だけ休ませてもらった。翌日、精霊界で見たものを報告するために王様と謁見をした。そしてそこで、自分も妹の下へ行きたいと訴え出た。
「……それは、精霊王様とお会いしたことと関係があるのだな?」
「はい。私は未来を変えるために、精霊王様より助力を賜ることに成功しました」
「おお……!!」
すると、その場に居た人たちから感嘆の声が漏れた。彼らからすれば、精霊のなかでも最高位の存在に実際に相まみえ、更には助力を得られるなんて、驚天動地の出来事だろう。
誰もが興奮で頬を染め、「もう大丈夫だろう」と安堵の表情を浮かべている。
私は興奮している彼らを一瞥すると、ゆっくりと首を振った。
「精霊王様は、自分は万能の存在ではないとおっしゃっていました。誰かの運命を変えるほどの力は、持ち合わせていないとも。それでも、未来を変える手助けになればと、助力を申し出てくれたのです。そして助けが必要なときに、自分を呼べと」
「……其の方が、聖女の下へと行きたいと言い出したのは、それが理由か」
「はい。私自身がここにいては、いつ助力を求めればいいかわかりません。それに、ひよりたちに何の助けが必要なのかすら、この王城に居ては知ることができないのです」
私は緊張で微かに震えている手をきつく握りしめて、ぐるりと周囲を見回した。
この場には王族のほか、ルヴァンさんや政に携わる有力貴族たちが揃っている。部屋の隅には、護衛騎士であるジェイドさんの姿もある。
私の体調を慮って、王様への報告をすることすら反対していた彼は、驚きの表情を浮かべてこちらを凝視していた。
私はジェイドさんから視線を外すと、乾ききった口内を唾で湿らせ、ゆっくりと口を開いた。
「私は精霊王様にお会いして、色々なお話をさせて頂きました。そして、知りました。大切なものから目を逸していては、何も得られないのだと。懐かしい人とも会えました。そして、思い出したんです。私がするべきことを」
自分が欲しいものが、直ぐ側にあることに気が付かなかった精霊王。それは、彼女が自分の成すべきことから目を逸していたからだ。だから、私は目を逸らさない。妹の命の危機がすぐそこに迫っている。私は自分のやるべきことを見つけた。ならば、それを実行に移すだけだ。どれほどの危険が伴おうとも、私は逃げてはいけないのだ。
「だから、私は行きます。危険は百も承知です。妹が助かる未来のためなら、私はなんだってやるつもりです!」
すると、王様は深く嘆息した。
呆れられたかとドキリとする。けれど私の心配を他所に、王様は笑みを深くした。
「……まったく。其の方は、いつから騎士になったのだ。それも、英雄並のな。いや、もしかしたら、我らは未来の英雄を目の前にしているのかも知れぬが」
「いや。いやいやいや! ちょっと待ってください、王様。それは大げさでは」
「はっはっは! あながち大げさではないような気もするがな!」
からからと愉快そうに笑っていた王様は、次の瞬間には笑みを引っ込めた。そして、鋭い眼差しで私を見て言った。
「海路では長い道のりも、空路であれば然程時間は掛からぬだろう。勿論、道中無休にはなるだろうがな。一週間も寝込んでいた其の方が、それに耐えられるかな」
「頑張る、としか言えません。でも、長いこと寝込んでいた割に、体はすこぶる好調なんです。私も不思議なのですけど」
そうなのだ。ずっと眠っていたはずなのに、痩せたり筋力が衰えている様子はない。いや、ちょっとくらいは痩せていても良かったんだけどね!?
すると、急に甘い花の香りが鼻をくすぐり、誰かに後ろから抱きしめられた。
「――ほほ。それは、テオの仕業じゃろうなあ。あやつは人外にしては優しく、道化だからこそサービス精神旺盛じゃ」
「ティターニア」
「茜、よう戻った。頑張ったようじゃの。結構、結構」
ティターニアは私の頭を撫で、満足気に笑っている。
唐突に現れた人外――それも妖精女王に、人々の間に緊張が走る。護衛の騎士が腰の剣に手を掛けると、それを王様が止めた。
「おや、妖精女王。今日は酒は用意しておらぬのだが、なにか御用かな」
「酒は後でよい。今は忙しいのでなあ」
「それは助かる。なにせ、今は国の一大事。私も暫く口にしてないのに、目の前で飲まれては頭がおかしくなりそうだからな」
「ほほほ。急に酒が欲しくなったわ。どうじゃ、一杯」
「妖精女王の気まぐれっぷりは承知の上だが、今は勘弁して欲しいものだ」
――な、なんだか怖い……!!
ふたりの間に、目に見えない火花が散っている。王様はティターニアの血筋のはずだけれど、一体なにがあったのだろうか……。
ハラハラしてふたりの様子を見守っていると、王様は遠くを見ながら、げんなりとした様子で言った。
「――本当に勘弁してくれ。秘蔵の葡萄酒をこれ以上飲まれたら、心痛で死にかねない」
「おお、あの酒のことか? 非常に美味であったぞ。また飲んでやってもよい」
「もう止めてくれ……!!」
すると王様はわっと泣き出し、顔を覆ってしまった。
――王様あああああああああ!!
きっと、誰もが心のなかでそう叫んだに違いない。
相変わらずの王様の様子に、皆が頭を抱える中、ルヴァンさんがごほん、と咳払いをした。
「……王の秘蔵酒は、あとで妖精女王に大盤振る舞いすることにして」
「ルヴァン!? 其の方は鬼か!?」
「……君が、聖女の下へと行きたい理由は理解した。確かに、それは君にしか出来ないことだろう。恐らく、誰も代わりにはなれない」
ルヴァンさんは眼鏡を外すと、指で眉間を解した。よくよく見ると、彼の目の下には隈が刻まれており、疲労の色が濃い。邪気の大噴火に伴って、国内は魔物の襲撃により混乱を極めている。宰相であるルヴァンさんは、日々対処に追われているのだろう。
「だが、こうも思うのだ。我らは、どれほど君たち姉妹に頼り切りなのだろうとも」
――私は、自分の妹を救いたいだけだ。
ルヴァンさんの言葉を聞いた瞬間、ついそんなことを口走りそうになる。けれどこの場にいる皆の表情を改めて見て口を閉ざした。なぜならば、誰も彼もが沈んだ表情をしていたからだ。
私はここで漸く理解した。彼らもまた――待つことしか出来ない人たちであり、彼らもまた――大切な人をあの場に送り出している人たちなのであると。気づくのが遅すぎたと思う。でもそれだけ、自分のことでいっぱいいっぱいだったのだ。
すると、ルイス王子がルヴァンさんの言葉を引き継いで言った。
「茜。この状況は、聖女召喚に頼りきりで、邪気という根本の問題をどうにかしようとしなかった、我々の怠慢の結果だ。なんて情けないんだろうな。自分たちの問題を、異世界から喚んだものに押し付けて」
ルイス王子は苦しげにそう言うと、集まった人たちに視線を向けて、はっきりと宣言した。
「私は次代の王として、邪気に怯えなくて住む世界……聖女召喚の要らない世界を、実現することをここに誓う! ……だが、今回のことは君たちの力なしでは乗り越えられないだろう。本当に済まないと思っている。どうか、力を貸して欲しい」
ルイス王子はそう言うと、私に向かって頭を下げた。一国の王子から頭を下げられて戸惑っていると、王妃様も口を開いた。
「茜ちゃんを送り出したくない気持ちもあるの。だって、どんな危険があるかわからない。大好きな子を、戦場に送り出すなんてとんでもないわ。でも、カインを助けて欲しい気持ちもあるの。私の大切な息子なのだもの。……私、どうすればいいかわからない」
王妃様はそう言うと、両手で顔を覆ってしまった。ふたご姫は、不安そうに王妃様の背中を撫でてやっている。
私がなんと言えば良いか迷っていると、こちらにジェイドさんがやってくるのが見えた。
ジェイドさんは王様に一礼すると、発言の許可を求めた。王様がそれを認めると、ジェイドさんは私の真正面に立った。
「俺が止めても、きっと君は行くんだろうな」
「……ごめんなさい」
「俺は、君がどれほど家族を大切にしているか知っているからね。それに、茜が結構な頑固者だってことも」
ジェイドさんは私の手を取ると、眉を下げて言った。
「俺は連れて行ってくれるのかい」
「……それは」
「やっぱり、事前に相談がなかったというのは、そういうことなんだね?」
「……」
私はジェイドさんから注がれる視線に耐えられずに俯く。
ジェイドさんにも家族はいる。彼を大切に思っているご両親に、兄弟たち。これから行く場所は戦場だ。何があるかわからないのだから、彼を連れて行くわけにはいかない。穢れ島に行くことは、私が自分で決めたことだ。ジェイドさんが大切だからこそ、彼が私を想ってくれていると知っているからこそ、巻き込みたくない。彼は、私にとって家族と同様にかけがえのないものなのだ。
すると、繋いだ手にぎゅっと力が篭ったのがわかった。
きっと嫌われたに違いないと、恐る恐るジェイドさんを見上げる。すると、彼はいつもどおりの柔らかな笑みを浮かべていた。