希望の未来をその手に 前編
ひゅおう。風が鳴いている。
動物の皮がたっぷりと敷き詰められた温かなテントのなか、燃える焚き火を眺めながら、膝を抱えて物思いに耽る。そんな私を気遣ってか、護衛騎士はテントの隅に控えて放っておいてくれている。
――ひとり想うのは、大切な人のこと。
「……おねえちゃん。今、なにをしているのかな。どうしよう。怖いよ……」
アルバムから一枚だけ抜いてきた写真。昔、花見をしたときに撮った家族写真を握りしめ、顔を伏せる。
ひゅおう。また、風が鳴いた。
それはまるで、「お母さん」と亡くなった母を呼んだ私のことを、嘲笑っているみたいだった。
するとその時、雪混じりの冷たい風と共に、カインとセシルがテントの中に入ってきた。
カインの表情は険しく、どうも状況は芳しくないようだ。
「――どうだった?」
「……」
「カイン」
「……正直なところ、良くはない」
防寒着を脱ぎ、火の傍で火に当たり始めたカインは、物憂げに瞼を伏せた。
すると、ふわりと紅茶の匂いが鼻をくすぐった。ふとセシルの方を見ると、沸かしておいたお湯を使って、お茶を淹れてくれている。ツェーブルの特産だという氷結晶の葉は、ミントのようなすっとする香りがするのに、体を温めてくれる不思議なお茶だ。
「こんなに吹雪が続くなんて、滅多にないそうですよ。もう、春も近いのに……今年の精霊王様の試練は、随分と厳しいですねえ」
「なんなの、精霊王。こんなときくらい試練は中止しなさいよ」
「ひより……精霊王様に失礼なことは」
「む。……ごめん」
しまった。精霊を信仰している国の人の前で、言う言葉ではなかった……。
少しだけ居心地悪く感じて、揺らめく炎に視線を戻す。
けれど、どうにもこうにも落ち着かない。私は胸のなかに渦巻く感情を持て余し、両膝を抱えて目を閉じた。
――ジルベルタ王国を出発してから、二週間。漸く、穢れ島近くまで来ることが出来た私たちは、今はもう無人になってしまったのだという、寂れた港に辿り着いた。
そこで、ツェーブルの騎士団、テスラの精鋭軍、各国から派遣された浄化軍と合流するはずだったのだけれど、実際に合流出来たのは、ツェーブルの騎士団だけだった。
どうも、季節外れの猛吹雪が辺り一帯を襲っており、他国の軍の到着が遅れているらしい。
元々穢れ島に近い場所にあるツェーブルと違い、山越えをした上で北の最果てまで来なければいけないテスラ軍などは、到着の見込みすら立っていないのだそうだ。
「そもそも、獣人国の軍には、冬眠するものや寒さに弱いものも多い。邪気の大噴火のせいで、自国も魔物の脅威に晒されているだろうに」
「テスラ軍では、シロエ王子が陣頭指揮を執っているそうですよ。獅子王子の強さは、音に聞いています。彼らが到着してくれれば、これほど心強いことはないのですがね……」
ルイス王子が取り付けた盟約に従って、自国が大変なときであっても、軍を派遣してくれたというテスラ。そういう国は、他にもたくさんある。そのどれもこれもが、私たちが浄化して回った国だ。一番最初に浄化した、東の国もそうだ。あそこは非常に貧しい国で、決して余裕なんてないはずなのに、国民から有志を募って軍を派遣してくれているらしい。なんだか嬉しいような、それでいて申し訳ないような気もする。
そんな彼らも、吹雪の影響かまだ姿を見せていない。
未来を変えるために、出発前に色々な準備をしてきた。
この援軍のこともそうだ。なのに、天候一つで台無しになろうとしている。
日々、流氷は集まってきていて、直ぐにでも穢れ島と大陸が陸続きになりそうなほどだ。そうなれば、島内部の魔物たちが穢れ地を増やそうと押し寄せてくるというのに、味方はまだ集まりきっていない。自然現象は自分の力ではどうにもならないことだ。それは心底理解している。だからこそ、焦る気持ちばかりが募っていく。
「テオの予言では、少なくとも各国の旗印はあったらしいじゃない。もしかして、未来が変わって、事態が悪化したのかな……」
思わず不安を漏らすと、もうもうと湯気が立ち上っているマグカップを誰かが差し出してきた。視線を上げると、カインの碧い瞳と目が合った。カインは自分もカップを口に運びながら、ゆっくりとした口調で話し始めた。
「悪いことばかり考えたって、何も良いことはない。そう思わないか?」
「……そう言われたって」
マグカップを受け取ると、指先がじんわりと温かくなってくる。涼しげな香りが鼻をくすぐり、ほんの少しだけ頬を緩めた。
「自分に出来ることを、精一杯やる。君の姉の言葉だ。そうだろう?」
「……そうね」
「なんなら、ユエみたいに寝ているか? 目覚めたときには、事態が好転しているかもしれないぞ」
ちらりとテントの隅に視線を投げる。そこには、毛布にくるまってすやすやと寝息を立てている、黒竜のユエの姿があった。竜という生物は寒さに弱く、極寒の地では体がうまく動かなくなってしまうのだそうだ。古龍くらい大きな個体であれば、いくら寒かろうと活動は可能らしいのだけれど。だから、彼らにとって不利な場所での戦いに備え、ユエたち竜は体力温存の為に眠っている。
私はため息を吐くと、じろりとカインを睨みつけた。
「……聖女である私が、寝ていていいわけないでしょ」
「私が許す。誰にも文句なんて言わせないさ」
優しげな視線が自分に注いでいるのを感じて、慌ててカップに視線を落とす。一個しか歳が違わないはずなのに、カインが随分と大人っぽく感じる。それがやけに悔しく思えて、勢いよくお茶を呷った。するとあまりの熱さに、やけどしそうになってしまった。
「……あっち!! ううー!」
「だ、大丈夫か! ひより……!」
「おや、いけませんね。はい、水をどうぞ」
セシルが用意してくれた水を口に含む。舌先がビリビリして、水を含んでいないと辛い。
……ああもう、こんなときに!
ちょっぴり涙ぐんでいると、カインが口を開けて見せろと言ってきた。素直にあーんと口を開ける。すると、カインが繁々と口の中を覗いてきて――あ。……やばい。
――私、何してんの!? おねえちゃんじゃないんだから、好きな人に口内お披露目なんて、赤っ恥にも程がある……!!
カインの整った顔が、恐ろしく近く見える。碧色がまるで、南の海の色みたいで綺麗。猫目で、目尻が少しだけ釣り上がっているのが、なんだか色っぽい。
「あ、ちょ。待って。というか、いやー!」
「な、なんだ!? ひより、どうした!?」
途端に顔がマグマみたいに熱くなって、カインを両手で突き飛ばす。セシルは私たちの様子を見てニヤニヤしているし、カインは私がなんで慌てているのか理解できなくて、只管戸惑っている。
すると、今まで眠っていたユエがむくりと起き上がった。
「なんか、甘ったるい雰囲気がする……」
ユエはそれだけ言うと、ぱたりと毛布の上に倒れ込んだ。そのまま、不機嫌そうな顔でこちらを見ている。
「なななな、なにも甘ったるいものなんてないわよ!?」
「そのとおりだぞ。ユエ、お前も茶をどうだ」
「あ、お砂糖いっぱい入れて。……それにしても、カインは相変わらずアレだねえ」
「なんだ。アレとは」
「なんで僕が説明しなくちゃいけないのさ。ねえ、セシル」
ユエとセシルは顔を見合わせると、苦笑している。
その隙を見計らって、私はカインから少しだけ離れた場所に移動する。何故かカインが傷ついたような顔をしているけれど、知らんぷりだ。そして、頭から毛布を被ったままお茶を飲んでいる、ユエの手足に視線を向けた。
毛布から覗いている華奢な手足は、白い包帯でぐるぐる巻きになっている。包帯の下からは、青白い炎が漏れ出ていて、見るからに熱そうだ。ユエによると、極寒の地で戦うために、炎の魔法が封じ込めてあるらしい。炎は末端から体を温め、更には攻撃に炎を付加するのだという。
すると私の視線に気がついたユエは、「なに?」と首を傾げた。
「……いや。その腕のやつ、痛くない? 大丈夫なの?」
「ああ。正直痛いけどね。慣れたよ」
「慣れたって……そんな」
「チクチクするくらいだから、ひよりが気にすることじゃないよ。それに、戦いが終わって封じてある魔法を解放すれば、あっという間に元通りさ。竜の再生力をなめないでくれる?」
ユエはいたずらっぽく笑うと、カップをゆっくりと口元に運んだ。
その動きは、平時よりも遥かに遅いし、慎重だ。手に持ったものを度々落とす姿も見ている。きっと、無理をしているのだろうと思う。
ユエはカップを降ろすと、私の顔を見て苦笑した。
「しつこいなあ。そういうとこ、茜にそっくりだよね」
「……ええ!?」
「ひとの心配ばっかりしてないで、自分のことも考えなよ。なんなら、一緒に寝る?」
「カインと同じこと言わないで!」
「……もしかして被ったの!? じゃあ、今のなし! なしでー!!」
「おい、ユエ。どういうことだ。被ったら駄目なのか!?」
ユエはひとしきり笑うと、すっと真顔に戻って、包帯を手でひと撫でした。
「これは、僕が未熟な証さ。せめて、成竜であれば違うんだろうけどね……。まだまだ子どもなんだから、仕方ないよね。僕が連れてきた竜も、若い奴らばっかりだ。……古龍たちを説得できなかったのは、悔しいけど」
竜の掟――それは、「星と共に生きて、星と共に死ぬ」というものだ。
邪気のせいで、たとえ自らの棲み家や命を邪気で失ったとしても、それが星が生み出したものによるのであれば、運命を受け入れるべきだというものだ。
ユエの説得によって、若い竜は邪気の浄化に参加してくれることになったらしい。竜族の長である古龍は、それは容認してくれたそうだ。けれど、古龍をはじめ力ある伝説級の竜たちは、掟に従って今回も傍観を決めたのだそうだ。
「頑張って説得してくれたんでしょ? それで、若い竜たちが来てくれることになったんだし。ユエは頑張ったよ」
「……うん。そうかなあ。そうだね。僕は頑張った。……それにこの痛みだって、友達を守るためだからね。なんてことないさ」
ユエはそう言うと、儚げな笑みを浮かべた。すると、カインが徐に動き出した。ユエに向かって手を伸ばし、いつものように頭をぐしゃぐしゃに撫でてやる。すると、ユエは途端に元気になって「やめろー!」と必死に抵抗し始めた。そんなふたりを見て、私とセシルは笑い合い――カインに加勢した。
「ぎゃああああ! なんで、ふたりまで来るのさ!」
「ユエってば、可愛い!」
「ユエは可愛いですねえ」
「男だな! ユエ!」
「いっぱい褒めてくれていいけど、撫でるなああああああ!!」
テントの中は大騒ぎだ。この時の私たちは、それぞれ胸に何かしらを抱えていた。でも、このときばかりはすべてを忘れて、友達同士で楽しく過ごしていた。
するとそこに、ひとりの兵士が駆け込んできた。
「カイン王子! また、『北海の貴婦人』が現れました……!!」
カインは顔色を変えると、近くにあった防寒着を手にした。
「弓兵を集めろ!」
「はい!!」
そして、慌ただしくテントを出ていってしまった。セシルもすかさず後を追う。取り残された私たちは、顔を見合わせる。するとユエは、毛布で体を覆って横になった。
「僕は寝る。ひよりは暇なんでしょ? 行ってきたら?」
「いいのかな」
「いいんじゃない? 知らないけどね」
ユエはそう言うと、穏やかな寝息を立て始めた。
確かに、ここにいてもうじうじ考え込むだけだ。
私は防寒着を手に取ると、テントの外へ出ることにした。
ひゅう、と冷たい風が肌に染みて、思わず顔を顰める。
防寒着の襟元を手で押さえ、体を縮こませて寒さに耐える。うっかりマフラーを忘れてしまったけれど、いちいち戻るのも面倒だ。
強い風に煽られた雪が、煙のように舞い上がっている。純白に染まった世界は、分厚い雲を透過したあとの薄い太陽の光すら乱反射させて、眩しくて仕方がない。
すると、目の前を弓兵が慌ただしく走って行った。恐らく、あの弓兵の行き先にカインたちもいるのだろう。私は、彼の後についていくことにした。
弓兵の後を追って十分ほどすると、やがて海岸沿いに出た。
そこでは皆、弓を手に海に向かって矢を射っていた。――いや、海にじゃない。海上にゆらりゆらりと浮かんでいる、全身青色に染まった異形の女性に向かって、だ。
『北海の貴婦人』。それは、この地に現れるという人外の名だ。冬の間だけ出現し、海を凍らせながら海面を踊るようにして舞う、ただそれだけの存在。彼女たちが一体どうして海を凍らせるのかは、判明していないのだという。
私は、指揮を飛ばしているカインの横に並び立つ。
弓兵のひとりが、泥で汚したハンカチーフを、鏃に括り付けて弓で射る。ひゅん、と空を切って飛んだ矢は、ひとりの貴婦人に命中し、断末魔の叫びとともに姿が掻き消えた。
「……ちくしょう。次から次へと沸いてくるな。普段なら、好きに踊っていてくれて構わねえんだけどな……」
「貴婦人たちが、流氷の隙間を埋めてしまうのは、こちらとしても都合が悪いですからな。今年は、パーティの開催は暫く我慢してもらいましょう」
ダージルさんとツェーブルの騎士団長が、渋い顔をして話し合っている。
するとまた一体、ゆらりと青い貴婦人が現れた。
貴婦人目掛けて、弓兵が一斉に矢を射る。間髪入れずに上がる絶叫に、思わず顔を顰めた。
「……ひより?」
私に気がついたカインは、身につけていたマフラーを外すと、私の首に巻き付け始めた。男性ものの長いマフラーは、私の顔半分と耳まですっぽりと覆い隠してしまった。
「ここは冷える。風邪を引く前に、テントに戻ったほうがいい」
「あ。うん……ごめん」
カインに促されて、素直にテントに戻る。
帰り際、ふと後ろを振り返る。すると、猛吹雪のなか、遠くに黒い島影が見えたような気がした。