幕間 精霊王の見る夢
精霊王は夢を見る。
それは遠い、遠い昔の夢だ。
彼が産声を上げたときに、優しく抱き上げてくれた人の夢だ。
彼に星を創る使命を与えてくれた、厳しい人の夢だ。
「上手に出来たね」と、大きな手で撫でてくれた人の夢だ。
――暗闇の中に彼を置いていき、二度と戻らなかった人の夢だ。
その夢を見た時の気分は最悪で、やるせない気分になる。
けれど、新しい夢で彼の人の夢を上書きしようとしても、幸せな夢なんてそうそう見られるわけもなく。次に精霊王の瞼の裏に映し出されたのは、憤怒の表情を浮かべて責め立ててくる、血で塗れた人間の群れ。
『憎い……憎い……憎い……』
それらは明らかに生者ではない。胸から剣を生やしたり、体の一部が欠損したり、全身黒焦げになっているものすらいる。先頭に居る、一際豪奢な神官服を着た人間は巨大な真珠が嵌った杖を支えに、顔の半分から髑髏を覗かせながらも、真っ赤に充血した瞳で、精霊王を刺し貫くほど睨めつけている。
その瞳から逃げたくて、夢から無理やり目覚めた精霊王は、煩わしいものから自分を隔離するために創り出した、小さな繭の中で寝返りを打つ。
「……もう、いやだ。ゆめはもうみたくない」
だが夢をみないようにするなんて、精霊王であっても無理なこと。
けれど、小さな繭に閉じこもっている現状では、眠ることぐらいしかすることはない。
緩やかに遅い来る眠気に、ゆっくりと瞼を閉じる。
そしてまた、望まない夢を見るのだ。
――精霊王は鬱屈した想いを胸に、今日も現実逃避のために夢を見る。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
精霊王。その人は、創造神が創り出した使徒のなかの、大勢のうちのひとりだった。
使徒とは、いずれ神となるべく選ばれた卵のようなものだ。
創造神は、使徒たちに星を創り出すように命じた。優秀な星を創り出したものには、寵愛を与えようとそう言って。
精霊王は創造神の言う通り、ふたつの星を創った。どうも、片方の星は創造神のお気に召したらしい。けれど、創造神の寵愛を得るまでは行かなかったようだ。
――星を創り終えた後、精霊王は暗闇のなかにひとり取り残された。
漆黒に塗りつぶされた世界で、精霊王はひとり待ち続けた。あの創造神の温かな手が、暗闇の向こうから現れるのを只管待ち続けた。
同時に、遠くない未来に自分を訪れるだろう創造神のために、精霊王は残された星の育成を始めた。花の形をしたその星が上手く育てば、創造神の気を引けるような気がしたからだ。
それからというもの、精霊王は気が遠くなるほどの時間、星の育成に時間を掛けた。
星の育成は、途中までは上手く行っているように思えた。
精霊王にとって初めての躓きは、星の内部に澱んだ穢れを見つけたときだった。
黒く蠢くそれは、精霊王が創り出した星に生きるものたちから発せられた感情の残滓。
魔力と感情の残滓が結合して生まれた、後に邪気と呼ばれるものだった。やがて、地上に溢れ出した邪気は、精霊王が丹精込めて育てた星を穢し、見るも無残な姿に変えていく。
――ああ! あんなものを、彼の人には見せられない!!
精霊王は大いに焦った。なんとか、黒い残滓を消し去ろうと色々と手を尽くしてみたが、どうにも上手く行かない。これこそが、花の星の欠陥だった。だからこそ、創造神はこの星を選び取らなかったし、精霊王自身をも選ばなかったのだ。
「あれをなんとかしなければ。こんどこそ、みすてられてしまう」
精霊王はぽろりぽろりと大粒の涙を零しながらも、邪気をなんとかする方法を模索した。
自分が選ばれなかった原因を自覚したことは、精霊王にとって辛いことだった。けれど、それを解決できれば、道が見えてきそうな気もしたのだ。
――愛されるためには努力を惜しまない、精霊王にはそういうところがあった。
精霊王は暫く思案に暮れると、感情の残滓を生み出す人間自体を活用する方法を考え出した。
人間の祈りの力に乗せて、感情の残滓を精霊の下へと運ばせ、エネルギーへと変換して消費してしまう。感情の残滓が、魔力と結合して邪気になるのを防ぐのだ。最も多くの感情の残滓を生み出す、ことの原因とも言える人間を歯車に組み込むことは、とても良い考えのように思えた。それは、如何にも星を管理するものの判断らしい。まるで、全知全能である創造神のようではないか――。
精霊王は小さく笑うと、自分の考えを実行するために動き出した。如何に星を生み出した本人とはいえ、新しい理を実現するまでには、多大な時間を要した。精霊王の頭は、この頃には花の星のことでいっぱいだった。そうして、日々過ごしているうちに、精霊王の胸のなかにある想いが生まれた。
始め精霊王が抱いていた想いは、いずれ神に至るべき使徒でありながら、創造神に愛されたいという、ただそれだけだった。精霊王は気がついていないようだが、それも創造神に選ばれなかった理由のひとつなのだろう。
しかし、これを切っ掛けに、精霊王はいつかは自分も創造神のような神になりたい。そんな夢を抱くようになった。
すると、精霊王はいつの間にか自分の体が成長しているのに気がついた。
つい先程までは幼子と言ってもいいほどの体だったのに、今は人間で言えば成体と言えるまでに成長している。
「……うん。がんばろう」
体の奥底から力が溢れているのを感じながら、精霊王は自らの眷族を地上に遣わした。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
そうして、精霊王はそれまでは生命体のひとつとしか見てこなかった人間に、初めて接触した。精霊のなかでも一際優秀なものを選び取り、「核」として地上へと遣わしたのだ。
「核」たちの働きもあり、精霊信仰は徐々に広まっていった。結果、邪気自体は完全に消え去ることはなかったが、地上に溢れることはなくなった。星は正常な状態を取り戻したのだ。
――精霊王は成果に満足し、また星を見守りながら彼の人の訪れを待つ日々に戻った。
こうして、初めての躓きはなんとか解決の目処が付いた。
それは精霊王に達成感と満足感を与え、益々「立派な神」になりたいという想いを募らせた。
同時に、精霊信仰の最高指導者である神官と、精霊王は供物を通じて交流を持った。
思慮深く有能な神官は、精霊王に誠意を持って尽くし、精霊信仰がこの世界に何故必要なのかも理解した上で、これからも布教に努めると約束し行動に移した。
「核」に「人間」の働きも加わると、精霊信仰はみるみる内に広まっていき、世界は祈りに溢れた。祈りに溢れた世界は、精霊王にとっては非常に心地よいものだった。
待ち人が来ない寂しさはあったが、人間から注がれる祈りの言葉に癒やされる日々。
精霊王にとって、花の星が……そこに生きる人間が、なによりも大切なものに思えた。
――全ては順調だった。人間によって、精霊王は満たされた。けれど、それをぶち壊したのも人間だった。
精霊王は人間の欲深さと愚かさを知らなかった。自らの欲のためには、周囲の破壊をも厭わない者がいることを知らなかったのだ。
結果、多くの血と涙が流れ――精霊信仰は廃れ、邪気が一気に溢れ出し、地上は見るに堪えないほど荒れ果ててしまった。きっと嘗ての精霊王であれば、こんな状況になったとしても、創造神の寵愛を夢見て、また別の手段を模索したのかも知れない。
けれど、信じていた、大切だと思っていた人間に裏切られた精霊王の心は、既にズタズタだった。何よりも一番精霊王を傷つけたのは、精霊信仰の最高指導者であった神官の断末魔だった。
精霊王を象った石像の下、衆人環視の中で殺された彼は、死の間際こう思ったのだ。
《――どうして、精霊王は我らを助けてはくださらないのか。あれほどの力を持ちながら、我らを見殺しにするなんて。ああ、ああ! 死にたくない。死にたくない、死にたくない……!! ……ああ、憎い。欲望のままに我らを迫害したやつらが憎い。愚かな自分が憎い。憎い、憎い、憎い――精霊王が、憎い……!!》
自分をよく知るものからの呪詛。
それは、悪意を向けられたことのない精霊王にとっては、耐え難いものだった。
初めての躓きはなんとか乗り越えられた精霊王も、二度目の躓きからは立ち上がることが出来なかったのだ。
こうして、精霊王はすべてを投げ出した。星の管理者としての役目も、創造神からの寵愛を受けるという夢も、抱いていた夢もなにもかも。
すべてを拒絶し、塞ぎこむ前。……いちばん最後に、当時のジルベルタ王国の王族に、聖女召喚の秘術を授けたのは、彼がその星を愛していた証だったのかも知れない。
「にんげんなんて、しんじなければよかった。そもそも、なにもほしがらなければよかった。あいしてほしいなんて、じぶんにはすぎたことだったんだ」
精霊王のその呟きは、何度も何度も繰り返されたものだ。
今日もまた、まどろみから目覚めた精霊王は、いつものように呟いた。
「あいしてくれないのなら、いらないのなら、いっそのことすててほしい」
――そんなときだ。精霊王の耳に、笛の音が聴こえてきたのは。
ぴゅるり、ぴゅるりらぴゅるるるる……。
軽快な笛の音。軽やかなその調べは、よく地上を覗いていたあの頃、人間たちが奏でていたものに似ていた。同時に、太鼓の音も聴こえてきた。リズム良く打ち鳴らされる太鼓の音。それは、どこか心を沸き立たせる力強さがあった。
……しゃん! しゃん! しゃん!
――春を寿ぐ月夜の晩に、愛しきひとの腕の中……。
やがて、笛の音と太鼓の音に、鈴の音が混じり始める。同時に、美しい女性の歌声が聴こえてきた。
待ちに待った春の訪れ。月明かりが照らす、めでたい春の夜は愛しい人の傍に居たい。そういう、情熱的な愛の歌だ。
その歌に混じって、誰かの笑い声が聞こえる。
風に乗って匂ってくるのは、食べ物の匂いだろうか。
肉から発せられる、脂と調味料の香ばしい匂い。酸味と甘味を含む匂いも時折入り混じる。それらは、なんともいえず食欲をそそる匂いだ。
――ぐう。
途端に、空腹を覚えた精霊王は顔を顰め、腹部を擦った。
そういえば先日、「核」の中のひとりが持ってきた食事を食べて以来、なにも口にしていない。本来ならば、食事などは必要のない体だ。けれど、刺激が少ない精霊界にあって、時たま人間が捧げる供物の、その複雑な味、立ち昇る匂い、未知の食感……それらは、精霊王を誘惑するに十分な威力を持っていた。精霊王は食物を口にするうちに、舌で味わい、腹を満たすことの虜になっていたのだ。
「だめ。がまん」
精霊王は自分を戒めるために、そう呟いた。
あの美味しそうな匂いの元を確認するためには、この繭から出なければならない。
けれど、もうこの繭から出るつもりはない。だって、すべてを諦めたのだから。
――それに、忌々しい人間がまだ外に居たらと思うと、怖気がする。
精霊王は必死に沸き上がってくる好奇心に抗った。けれど、どうにも押さえきれそうにない。精霊王は、聞くだけならと、外部から聞こえる音に耳を傾けた。
音楽に混じって、食器が触れる音が聞こえる。それに、幼い子どもがはしゃぐ声。美酒の味に酔いしれ、歓談する声。
……一体、自分が寝ている間に、なにがあったのだろう。
不思議に思って、僅かに体を起こす。
けれども、自分でこしらえた繭の内側からは、外の様子を見ることもままならない。
その時、繭の周辺がにわかに明るくなった。同時に、大きな破裂音がする。
一瞬、誰かに攻撃でも受けたのかと身構えるも、どうやらそれは違うようだ。
パラパラとなにかが弾ける音がする。歌と食事を楽しんでいた者たちは、光り、弾けたそれをみて、歓声を上げた。
「これが花火というものか! フレア! もっと! もっとじゃ!」
「ふふふ。仕方ないなあ。僕の花火は高いよ? ほら、ボーデン。僕を肩車して!」
すると、もう一度大きな破裂音と閃光が走った。
――すごい!
――たーまやー!!
――わははははは!!
それはとてもとても楽しそうな笑い声。
精霊界という場所で、ひとり過ごしていた精霊王にとっては、ついぞ耳にすることもない声だ。
精霊王は、そわそわして堪らなかった。一体、この繭の外ではなにが起きているのか、確かめずには居られなかったのだ。
だから、二本の指でそっと繭をこじ開けた。
そして――繭の隙間から外を見た瞬間、一際大きな花火が弾けた。
あまりの眩しさに、僅かに目を細める。やがて、空を彩っていた光が収まると、外の光景がくっきりと見えるようになった。
そこは、先程まではなにもない小高い丘のはずだった。
けれど、今はどうだろう。
一面、満開の薄桃色の花が咲き乱れる林となっていたのだ。
その花は、指先ほどの小さな花だ。それは地球では「桜」と呼ばれる花ではあるが、精霊王の知るところではない。小さな花が、まるで寄りそうように咲き乱れ、枝先を薄桃色に染め上げている。それが、風がそよぐ度に花びらを散らし、まるで吹雪のように地面に降り注ぐ。そして、木々の合間には、発光する赤い照明が張り巡らされ、暗闇のなかの花たちをぼんやりと浮かび上がらせている。
月明かりが照らす、精霊界の夜の景色。そのなかで、照明で浮かび上がった、風にざわめく桃色の林。
そして、木々が取り囲む広場では、敷物を布いてその上で食事をしている人々の姿があった。
それは、人間と精霊の「核」たちの姿だ。周囲には、沢山の精霊も集まっていて、皆思い思いにこの時を楽しんでいる。
人間と精霊。その垣根はなく、誰も彼もが力を抜いて、まるで親しい友人のように笑顔を交わしている。
それはまるで――夢のような光景だった。
その光景は、精霊王をどうしようもなく惹きつけた。無意識のうちに、繭を自らの手でこじ開け、体を乗り出すほどには、惹かれていた。
「……母上。ようやっと、お顔を出してくださった」
すると、直ぐ側に精霊の「核」のうちのひとりが立っていたのに気がつく。
その「核」は、精霊王の手を自分の手で包み込んだ。
小さな、それでいて柔らかいその手は、精霊王の冷え切った手をじわじわと温めていく。
「母上のために宴席を用意したのじゃ。美味しいお酒に、美味しいご飯。歌と踊りもある。さあさ、早う。おいでくださいませ」
小さな手が精霊王の手を引く。
このとき、精霊王は「核」の手を振り払い、再び繭に引きこもることも出来た。
けれども、然程強い力で引かれたわけでもないのに――精霊王の体は、不思議とすんなり繭の外に出てしまったのだった。