ふたご姫とふわふわドーナツ 後編
クルクスさんの独壇場が終わり、生地も捏ね終わった。それを私は、生地の表面がぴん、と張るように丸めて、閉じ目を下にしてボウルにいれる。
しゅっしゅっと霧吹きをして、乾燥しないようにラップで蓋をして、これでとりあえずはひと段落。
しばらく放置して発酵だ。
春も終わりが近いのか、段々と気温が上がってきたこの頃は、生地の中のイースト菌をいい感じに働かせてくれるだろう。
発酵を待つ間、1時間ほど休憩にすることにして、捏ね台を片付けてお茶の準備をする。
幼いふたご姫には甘い方がいいかなと、ふと思いついて冷蔵庫からゆずシロップを取り出す。
これはこちらにくる前に作ったもので、金色のとろとろのシロップに細切りにしたゆずの皮と、種を取り除いた果実が入っているもの。
作り方は簡単だ。刻んだゆずと氷砂糖を容器に入れて、2週間ほど毎日容器を振って撹拌しながら置いておくだけ。夏は炭酸で割ってもいいし、夜は焼酎に入れてもいい。でも一番のオススメはお湯割だ。
耐熱のガラスカップにスプーンで中の具材ごと掬って入れて、お湯を注ぐ。スプーンでくるくるとよく混ぜると、シロップが溶けてゆずのいい匂いが立ち昇る。
耐熱ガラスのカップ越しに見える、薄く黄色に色づいた湯の中で柚子がふわりふわりと泳ぐ様は、とても綺麗だ。
ふたご姫の前にそれを置くと、ふたりは顔を輝かせて、カップの中を繁々と眺めている。
ふたりはお互いにちらりと顔を見合わせる。まずセルフィ姫がふうふうと息を吹きかけて、ごくりとひとくち飲んだ。
セルフィ姫は、ぱあっと顔を明るくさせて、勢いよくシルフィ姫をみる。シルフィ姫もその様子を見て安心したのか、慎重に息を吹きかけてごくり。
ふにゃっと顔を緩めて、やっぱりセルフィ姫のほうをみて嬉しそうに笑った。
「シルフィ、美味しいの」
「セルフィ、あまーいの」
…っ!おかわりなら無限にあげるよ…!!
なんだかいけない扉を開いてしまいそうな程可愛らしいふたご姫に癒される。生地を捏ねた疲れなんて、ぱーっとどっかにいってしまいそうだ。
「それにしても、フェルファイトス…でしたか。その人の聖誕祭…初めて聞きました。聖人に因んだお祭りというのは、この国では多いんですか?」
ふと疑問に思ってジェイドさんに聞いてみる。
すると、ジェイドさんは少し言いにくそうにしながら、
「…いえ。フェルファイトス様は、この国にとって特別ですから」
少しだけ微笑んでこう言った。
その後すぐに、お茶のお代わりを要求してきたふたご姫の相手をするのにジェイドさんは行ってしまったので、これ以上この話は続けられなかった。
のんびりとお茶をして、1時間経った頃、生地を確認してみると、ボウルのなかでおよそ2倍程度に膨れ上がっていた。どうやらうまく発酵してくれたようだ。
おおー、と歓声をあげてそれを眺めるふたご姫に、拳を作ってその膨らみを潰してもらう。
ぷっくり膨らんだ生地に拳を減り込ませると、ぷしゅう、と萎む様が面白かったらしい。ふたご姫はケラケラと楽しそうに笑った。
その生地を丸く纏める。発酵させる前よりも更にしっとりすべすべしている生地は、とても触り心地がいい。
その生地をひとつ分ずつに切り分けて、断面を内側に入れ込むようにしてまた丸める。
切り分ける事で、切った断面の生地が傷んでいるので、そこを馴染ませるために少し休ませる。大体15分くらい。
そこまでいったら、やっと成形だ。
休ませている間にもまた少し膨らむので、軽くガス抜きをして、まんまるの生地の真ん中にお箸をぶっすりと刺す。
「うひっ」
「ひゃあ」
ふたご姫のツボにはまったらしい。何だか変な笑い声をあげて、お箸で開いた穴から向こう側を覗いて楽しそうだ。
ふにふに、もちもちの生地を親指を差しこんで輪っかにする。
そして、四角く切ったクッキングペーパーの上に乗せて、霧吹きをしてラップをする。これが2次発酵。大体40分くらい。そのあとラップを外して、敢えて何も被せずに5分ほど置いておく。
生地の表面が乾いてしまうけれど、それはわざとだ。表面を少しだけ乾かすと、揚げたときに皺にならずに綺麗な出来上がりになる。
「さあ、揚げていきますよー」
「わたし、やり…」
「駄目です」
私が速攻却下すると、セルフィ姫のほっぺたがぷくっと膨らんだ。
可愛いけれど、油の取り扱いは大人になってからにしましょうね。
普段の揚げ物よりも低めの温度にして、クッキングペーパーの部分を上にして揚げていく。
しゅわしゅわ細かい泡が出てきて、いい感じに色が変わってきたらひっくり返す。クッキングペーパーはこの時点で油の中で剥がしておく。
あまり揚げすぎないように気をつけて、油からあげるとこんがり美味しそうなきつね色。
ボウルに粉砂糖と蜂蜜、レモン汁と牛乳を混ぜたものを用意して、揚がったドーナツを半分浸して乾かせば…ふわふわグレーズドドーナツの完成だ!
プレゼントにするぶんは選り分けて、残りのドーナツは自分たちのおやつにする。
出来立てのドーナツは格別な味。是非ともみんなで味わいたい。
お皿にひとつずつドーナツを乗せて、大人には挽きたての豆を使ったブラックコーヒー。子どもには香りのいい紅茶にお好みでミルクか砂糖。
みんなでちゃぶ台を囲んで――いただきます!
「「ふあああ!」」
ふたご姫が、ほっぺたを真っ赤にして可愛く叫ぶ。
足をパタパタさせて、にこにこうっとりしているふたご姫は、口いっぱいにドーナツを含んでまるで栗鼠のような頬っぺただ。
ふわふわのドーナツは、とても軽い口当たり。
充分に発酵した生地は、噛むとふわっと歯を受け止めて、油を感じる前に甘みと一緒に消えていく。
ひとくち食べると、しゃくっとグレーズがいい音をたてる。しゃりしゃりといい歯触りのグレーズともちもちの生地。これがたまらない。生地がそんなに甘くないぶん、グレーズの甘みが補ってくれる。
グレーズに入っているレモン汁もなんとも爽やか。甘いだけじゃない、仄かに感じる酸味が、何口食べても飽きさせてくれない。
「このコーヒーって奴と一緒だと、甘いのが苦手でもいけるな」
クルクスさんは甘いのはあまりお好みでないらしい。
コーヒーの香りを嗅ぎながら、ドーナツと交互に口に運んでいる。
私もコーヒーをひとくち。
鼻を抜ける香ばしく焙煎された豆の香り。なんてことのない安めのブレンド豆だけれど、久しぶりに飲む淹れたてのコーヒーの香りは堪らない。
ずず、と飲むと甘さで丸くなった口の中を、苦味と酸味が蹂躙する。ドーナツに甘やかされた口が、コーヒーで引き締められる。
――けど、すぐに甘やかして欲しいのが乙女ごころ。
ぱくっとドーナツに齧り付けば、またもや口の中は甘々な世界。幸せを最高に感じる瞬間だ。
「おいひい、しるひー」
「おいひい、せるひー」
ふたご姫も限界まで口にドーナツを詰め込んで、ふごふご言いながら幸せそうだ。
ふたりは暫くもぐもぐ咀嚼していたけれど、漸くごくん!と飲み込んで、紅茶を一口含む。それで一息着いたのか、満面の笑みでこちらに話しかけてきた。
「おねえさま、素晴らしいわ!」
「おねえさま、美味しいわ!」
「これなら特別な贈り物にふさわしい」
「これなら素敵な贈り物にきっとなる」
「「おねえさま、ありがとう」」
2人揃って立ち上がって、小さく膝を折る姿に、私の胸に嬉しさが湧き起こる。
――本当によかった。
「姫様がたのお役に立てて、光栄です」
私も少し畏まってふたご姫に礼をする。
そして、ふたりと目を合わせると、どちらともなくふんわり笑い合った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
後片付けをして居間へ戻ると、ふたご姫はちゃぶ台の上に広げたたくさんのリボンと睨めっこをしていた。
プレゼントにつけるリボンを、あれでもないこれでもないと品定めしている。
かなり時間をかけて、ふたご姫は何本か青い色のリボンに絞り込み、可愛らしい口をへの字にしながらうんうん唸っている。
その様子をのんびりとコーヒーを飲みながら眺めていた私に、唐突にふたご姫が声をかけてくる。
「おねえさまは何にしたの?」
「おねえさまは何を贈るの?」
「…それは、聖誕祭の贈り物のこと?」
ふたご姫は同時にこくこくと頷く。
「聖女さまへの贈り物は特別にしないと」
「聖女さまへの贈り物は素敵にしないと」
ふたご姫の無邪気な声が響く。
「特別に…?ええと、何か理由があるんですか?カイン王子の贈り物も特別だって言ってましたけど、他の人と一緒じゃ駄目なんですか?」
「「そうよ、おねえさま」」
ふたご姫は互いに顔を見合わせて、じっとこちらを綺麗な碧眼で見つめてくる。
「「フェルファイトス様の事は知ってるでしょう?」」
ふたご姫はさも当然のようにそう言った。
――正直今日初めて知ったんだけれど。
ふたご姫が私が知ってると思うくらい、この国では有名な聖人なんだろうか。
私の戸惑う様子にはふたご姫は気付かずに、歌うように、交互に話し続ける。
「聖女さまは邪気を祓う旅にでるのでしょう?」
「にばんめのおにいさまも共に行くのでしょう?」
何故だかジェイドさんが慌ててふたご姫をを止めようとするけれど、間に合わずにふたご姫の言葉は無情にも続く。
「邪気を祓う聖女さまが」
「一緒に行くにばんめのおにいさまが」
「「聖人フェルファイトスのように」」
首の後ろあたりがもやもやする。
何故だかその言葉の続きをききたくない。
「「邪気を祓う旅先で死んでしまわないように」」
「「特別に願いを込めなければ」」
可愛らしいふたご姫の口から出てきたその言葉は、私の心の奥の、真っ黒い澱をずるりと引き摺り出した。
…その後、クルクスさんがふたご姫を引き摺って帰って行って、家には私とジェイドさんふたりきりになった。
きゅ、と使い込まれた細かな傷がついたちゃぶ台を拭いていると、ジェイドさんが所在なさげに立っているのに気がついた。何か言いたそうに、じっとこちらの様子を伺っている。
時計を見ると、そろそろ夕食の支度をしなければならない時間だ。
私は立ち上がって、台所へ向かおうとしたのだけれど、目の前にジェイドさんが立ち塞がる。
「…?ジェイドさん?」
「聖人フェルファイトスは…大昔のジルベルタ王国の王族です」
ジェイドさんの蜂蜜色の瞳が、彼の心中を表しているように揺れている。
「前回の聖女召喚に伴い、彼は今のカイン王子のように聖女と共に浄化の旅に出ました…そして、彼は」
ジェイドさんの瞳が伏せられ、微かに震える唇は、一旦言葉を飲み込んで――それでも、なんとか言葉を吐き出した。
「浄化の最中――魔物にやられて亡くなったそうです」
まるで体が石像になったように動けなくなっていた私は、ジェイドさんの言葉に反応できない。
「茜、話を聞いていただけますか」
何とか無理やり固まった体を動かして、ソファーに座る。私の隣に座ったジェイドさんはゆっくりと、そして慎重に口を開いた。
「はじめに謝らせてください。隠していたわけではないのですが…貴女に明日の聖誕祭の事は話すつもりはありませんでした」
「…何故」
からからの喉の奥から、声を絞り出す。
ジェイドさんは、瞼を僅かに伏せて、静かに話してくれる。
「先ほども言ったように、フェルファイトス様は…浄化の旅で亡くなったことによって聖人化されたお方です。身内がこれから浄化の旅にでるあなたにとって、この事を知るのは…辛いだろうと思ったからです」
耳の奥で耳鳴りがする。
――聞きたくない。やめて。
「いつも朗らかなあなたを、煩わせたくなかった」
喉の奥がひりひりする。
――煩わせるって何。
ひり付く喉から、何とか声を絞り出す。
きっと今の私の顔は、最高に歪んでいる。
「ジェイドさんは、私を甘やかしすぎ…ですよ」
ジェイドさんの顔が悲しそうに曇る。
私は彼から目をそらして、足元に視線を落とす。
――これ以上は、今は何も聞きたくない。
「おねえちゃん?」
そこに居間の引き戸を開けて、不思議そうな顔をした妹が帰ってきた。
私はぎこちなく微笑んで「おかえり」と、いつものように声をかけた。
その晩。
お風呂に入って、部屋で髪を乾かしていると妹が声をかけてきた。
「ね、おねえちゃん。久しぶりに、一緒に寝よ」
「ひより」
「いいでしょう?」
私は黙って頷く。ひよりは嬉しそうに笑って、「枕持ってくる!」と、部屋に小走りで戻った。
ごそごそと、狭いシングルベッドにふたりで潜り込む。枕をぴったりとくっ付けて、真っ暗では眠れない妹のために、常夜灯をつける。
常夜灯の灯りでぼんやり暗いオレンジ色に部屋が染まる。
妹は寝やすい体勢を探して、もぞもぞしていたけれど、なんとか落ち着いたのか布団から顔を出してにっこり笑った。
「ひひ。おねえちゃんの匂い〜」
「…私がまるで臭いみたいじゃない」
「いい匂いって意味!おねえちゃんは被害妄想が酷いね」と、明るく言う妹は、私の腕に甘えるように手を絡めてくる。
腕に妹の体温を感じながら、天井を見つめていると、自然にふたりとも無言になって、静かな時間が過ぎていく。
――だけれど、この静かな時間は直ぐに終わる事を妹も私も知っている。
暫くして、妹が口を開いた。
「おねえちゃん。私ね、夏になったら邪気を祓う旅にでるよ」
「…そう」
「大陸中をまわるんだよ。一気に全部まわるのは大変だから、この王城を拠点に、王城と穢れ地と行ったり来たりするんだって。…夏の最初の旅は、東の方。結構な田舎らしいよ。いま一番邪気に困ってる所なんだって。だから、早くいって浄化してあげなきゃね。あ、夏だから暑過ぎないかなぁ。日焼け止め、持っていかなきゃ」
「うん…」
ひよりはにっと白い歯をみせて笑う。
「おねえちゃん、フェル…なんとかっていう、聖人の話聞いたでしょ」
私は言葉が詰まって何も喋れない。
「死んじゃったんだよね。その人。なんかえらい国民から好かれてた人らしくてね、死んだ後にみんな凄い後悔したんだって。もっといろんな事をしてあげたり、大切だよって、大好きだよって気持ちを伝えれば良かったって。だから、その人の産まれた日に、大切な人に感謝を伝えるようになったらしいよ」
ひよりは遠くを見ながら、「優しいよね。この国の人たち」とぽつりと言う。
「ねえ。おねえちゃん。私さ。いきなり異世界に喚ばれてさ。聖女さまー!とか言われてさ…。最初びっくりしたけど、自分に凄い力があるって知って、嬉しかったんだよね」
妹は、布団から片手を出して、目の前に掲げて見つめている。
その手は今も昔と変わらず、女らしい細くて小さな手だ。とてもではないけれど、その身の内に聖女としての膨大な魔力を内包している様にはみえない。
「もしかしたら、私が物語の主人公みたいに、不可思議な魔法で色々活躍したり、伝説になるんじゃないかって思ったら…わくわくした。不安もあったけど、自分にしかできないって言われて、カッコいいと思った。成功したらきっと、凄いことになるって…下心丸出しで聖女になるって決めた」
――私ほど肩書きに相応しくない聖女っていないと思う。
そう言うひよりの声は、少し弱気だ。
「この国を救いたい!とかいう動機じゃないもんね。…酷いもんだよ」
一瞬顔を顰めた妹は、すぐに顔を上げて「まあ、こんな幼気な女子高生を、邪気を祓うために勝手に喚びだしたこの国の人も、結構酷いけどね!」と、言ってふん、と鼻を鳴らす。
いつも通りの妹の調子に戻ったことに、私は安心しつつも少し苦笑いをしてしまう。
だって、きっと私も妹とおんなじ境遇であったなら、聖女として張り切ってしまうだろうとそう思うから。そういう意味では似た者姉妹なのは間違いない。
妹は「だからね」と前置きして、私の目を至近距離でじっとみつめてくる。
「私、やりたくて聖女やってるの。やりたい事、やってるんだから、私絶対にやり遂げるよ」
「ひより」
「私、絶対に死なないよ!」
気がつけば妹のまんまるの目には溢れんばかりの涙。
「フェルなんとか、とか言う人みたいにはならない!絶対に死なないから!おねえちゃん――私を信じて待っててくれる?」
私の視界が涙でぼやける。
遠くで、居間の柱時計がぼーんぼーんと鳴る音がきこえる。恐らく12時になったのだろう。
私も、言わなきゃ。
――妹に伝えたいことがある。
「ひより。聞いてくれる?私、ね。最近まで、あんまり実感が無かったの」
声が震えてみっともないことになっている。
いつも妹の前では姉らしくしていたいのに、なんて情けない。
「異世界に来た実感。妹が聖女だっていう実感。…妹が命を掛けようとしている実感。…実感が無かったから、カイン王子に謝られても、ルヴァンさんに自覚を持てって諭されても、平気な顔して全部わかってますよーって澄まし顔でいられたの。自分は物分かりのいい人だって装って…格好つけてた。…本当はなんにもわかってなかったのに」
涙が次から次へと溢れ出て止まらない。
拭っても拭っても、抑えることができない。
「ひよりが死ぬかもしれないって頭のどっかでは気付いてた。危険な旅だって、聞いてたのに知らないふりをしてた。いつも通りウチでご飯を作って待ってれば、ひよりはいつも通りに帰ってくるって、勝手に思ってた。日常があんまりにも平和すぎて、ひよりが何のために勉強して訓練してるかって事を忘れかけてた。――今日、フェルファイトスのことを聞いて、ショックだったの。馬鹿みたいでしょ。今更、ひよりが死ぬかもしれないって事を自覚して、動揺して…私、本当に馬鹿だ」
私の顔は涙でぐちゃぐちゃだ。
グスグスと鼻をすする音が部屋に響いている。
「本当は、妹を返せって。あんたらの事情に巻き込むな!って怒鳴り散らして、逃げたかった。…でも、ひよりはやる気だったし、何より私は何の特別な力もない役立たずで」
私の立場は、下手をするとひよりに対しての人質にもなりうる立場だ。
この国の人たちが、悪い考えを持っていたならば、私を盾に妹に言うことをきかせていたに違いない。
妹は自分がやりたいから聖女になったと言った。けれど、その決断をするときに姉である私がいるという事は全く影響を与えなかったのだろうか。
私がいなければ――妹は聖女にならないという道を選べたのではないか。
そんな可能性が頭を掠める。
…私は妹の足枷でしかない。
「ほんと、この国の人たちが清々しいくらい悪人だったら良かったのに。そしたら、心置きなくふたりで逃げるのに」
「あ、レオンもね」と、鼻をすする。
ひよりは、私の言葉に少し笑って、でも直ぐに真面目な顔になる。
「でも、この国の人たちは悪人じゃないし、凄く良くしてくれた」
「…本当、厄介なことにね」
思わず眉をしかめる。
私たちに関わるこの国の人たちはみんな優しい。しかも、その優しさの裏に、誰かにこの国の命運を託さなければならない歯がゆさと、私たちに対する罪悪感が時たま垣間見える。
優しくするなら、最後まで完璧に優しくして欲しいものだ。罪悪感を感じるのは自由だけれど、そんなもの隠し通して欲しい。
ああ。――多分、私も妹も、この国の人達も結構なお人好しなのだ。もっと冷酷に、残酷になれたなら、きっと心は今よりずっと楽な筈なのに。
ぐちゃぐちゃになった顔を袖でごしごしと拭って、ギュッと妹を抱きしめる。
「…信じて待ってるから。死なないで、ひより」
「可愛くて、泣き虫のおねえちゃんをひとりにはしない。…絶対に死なないよ、私は」
「ふふ。私泣き虫じゃないよ」
「おねえちゃんは他じゃ絶対に泣かないのに、家族の前だと泣き虫じゃない」
「私に迷惑ばっかりかけるトラブルメイカーが偉そうに」
「いつもすみません…今回も迷惑かけます」
ひよりの頭をぐしゃぐしゃに掻き混ぜる。
ひゃあああ!?とひよりが変な悲鳴をあげるけど、気にしない。
「…可愛い妹から迷惑をかけられるのがおねえちゃんの仕事だからね」
ふふん、と偉ぶってそう言うと、ひよりもにっこりと笑って私の頭をぐしゃぐしゃに掻き混ぜてきた。
その晩は、疲れて眠くなるまで――ふたりでベッドの中でワーワーキャーキャー言って戯れ続けた。
妹の寝息が聞こえる。
私はそれを確認すると、ぱちりと目を開けて、ゆっくりと部屋を出た。
薄暗い廊下の向こう、真っ暗な闇の中からそれが浮かび上がってくる。
「ほほ。願い事は決まったかの」
「ティターニア」
白い妖精の女王は、薄っすらと笑って言う。
「それで?何がいいかの…流石にお主を元の世界へ帰す事はできぬが…さあ。富か?栄誉か?それとも…愛する雄の心かの?」
「妹を守って」
ティターニアが眉をひそめる。
「ティターニア、妹を守って…」
私が力無くそう言うと、ティターニアは愉快そうに肩を揺らす。
「ほ。聖女を守れと言うか。己のことではなく。…ふ。ふふふ」
「……駄目なの」
「邪気を祓う旅が近いか。それでお主は焦っておるのじゃな――妹をこの国に差し出しておいて、勝手なことを言う」
「…っ!」
ぎしり、と私の心が軋む。
妹にも見せられない、私の心の一番奥で澱んでいた黒い感情が、表面に出ようと蠢きだす。
「まあよい。ヒトというのは、そういうものじゃ。儚きヒトの生を、身勝手に生きるのがヒトというもの。浄化をする聖女も。聖女が聖女であることを、それを当たり前だと思っているこの国のヒトも。…勿論お主も。いつだってヒトは愚かで愛おしい。妾は気まぐれな妖精女王。気まぐれに、お主の妹を守ってやろう――結果がどうなるかは、お主次第じゃ」
ティターニアは美しいその顔に、完璧な笑顔を貼り付けて、私の手を取る。
「さ、茜。酒じゃ。酒を飲もう――」
しゃらり、とふんだんに使われたレースが溢れ、闇夜に浮かび上がるティターニアから目を離せない。
「充分に、妾をもてなせよ」
そう言って、私を居間の方へ導いた。
春編、了。
ふたご姫に悪気はありません。ふたご姫はこの後お説教の時間が待っています。クルクスさんの髪の毛はあの発言の後、確実に何本か抜けたはず。若白髪から、若ハゲに進化する日は近い。
次話から夏編にはいります。