閑話 道化師と失恋とクッキー 前編
秋編の「銀色と道化と甘い金色」を読んでいただいてからのほうが、わかりやすいかなあと思います。
テオ視点です。
――冬は静寂が支配する季節。僕は、常々そう思っている。
他の季節ならば、鳥たちの歌声や木々の喧騒に包まれる森の奥も、冬の今は静寂に包まれている。
動物たちは寒さに身を縮こませ、身動ぎひとつせずに息を潜め、凍てつく季節が過ぎ去るのを今か今かと待っている。木々の葉はすべて落ちきり、裸の枝が寒々しい。動物たちが気配を消し、葉擦れの音がしない森とは、どうしてこうも静かなのだろう。
生憎と今日は風もなく、聞こえるものと言えば、空から舞い降りた綿雪が、自らの外套の上に降り積もる瞬間の、かさりという虚しい音だけ。
その音が酷く寒々しく思えて、僕はぶるりと身を震わせる。
人間でなくなってから久しいが、温もりを求める習性だけは捨てきれない。
白い手袋を嵌めた手で、外套の上から体を擦ってみても、一向に温まらないことに嫌気が差しそうになる。
――虚しいなあ。
そう、口の中で呟いて、目の前に広がる温かそうな光景を眺める。
そこは一面白銀の世界に唐突に現れた、円形に切り取られた麗らかな春。
その中では、僕の想い人が幸せそうに微笑んでいた。
「ケルカ。これからは、ずっと共に在ろう」
その人は、愛しい人の名を呼び、手の中の紅い輝きに頬ずりしている。
夏の空の如く澄み切った瞳には、溢れんばかりの涙を湛え。
抜けるような白い肌を、嬉しさのあまりに薔薇色に染めて。
降り注ぐ太陽の光は、彼女を優しく照らし、まるで世界が祝福しているよう――。
……かさり。
また、僕の肩に綿雪がひとつ降り積もった。
雪で覆われたこの場所は、残酷なほどに空気が冷え込んでいて、末端から侵食してきた冷気は、僕の体から熱を容赦なく奪っていく。
……かさり、かさり。
その音は、恐らく僕にしか聞こえないくらいの、ほんの小さな音。
けれど、それがやけに気に触って――僕は乱暴に肩の上の雪を払った。
――ああ、虚しい。虚しいなあ。
僕の愛しい人。
僕の大切な主。
僕が求めてやまなかった、彼女の温かな気持ち。
それは今まで一度だって僕に向かうことはなく、そしてこれからも――。
「……滑稽だなあ」
綿雪が舞う空を見上げる。
ああ、なんて僕は馬鹿なんだろう。
彼女が永遠の番を手に入れられたのは、僕が彼女の友人をここに連れてきたからじゃないか。
がらんどうで、あるべきはずの目玉がなくなってしまった、自分の眼窩を意識する。
愛するものすら見分けがつかない、そんな自分に絶望して、僕は自分の眼球を抉り出した。
もう何も見なくていいように――そう思ってやったのに、永いこと精霊界を彷徨い続けて、人外と成り果てていた体は、勝手に眼球の代わりとなるものを、僕に授けた。
……それは、魔力で形作られた偽りの眼。おとぎ話にでも出てきそうな、未来が視えるというくだらない能力を持つ。
その眼が、視たくもないのに僕に視せるのだ。愛しの妖精女王が、番の亡骸の傍で泣き崩れる姿を。また、独りになるのかと嘆く姿を。絶望に染まって、酷く傷つくその瞬間を。
――どうすればよかった?
――傷心の彼女が、僕を見てくれる未来に期待して、何もしなければよかった?
僕の目に映る未来――それは、確定された未来ではない。
あくまで、僕に視える未来は、これから先訪れる可能性が高い未来だ。
何かのきっかけで、真逆の事が起きることもしばしばだ。
何度も未来視で視たものが覆されるのを目の当たりにして、運命なんてものはないのだと実感した。運命の相手だと、恋に浮かれてすべてを捨てて精霊を追いかけた自分にとっては、なんとも皮肉なものだ。
「未来は変えられる」
耳障りの良いその言葉は、人にとっては希望と成り得るのだろう。
僕の手で、悪戯に未来を変えたことは何度もある。気に入らない未来であれば、変えたいと思うのは自然なことだろう。
でも、自分の手で変えた未来を見るたびに、これは最善の結果だったのだろうかと、変えなければよかったのではないのかと、自問自答するはめになる。その度に、心が酷く乱れ、精神をすり減らしてきた。
だから、ここ最近は未来が視えても、手を加えることはなかった。
――でも、今回は動かざるを得なかったのだ。
切り取られた春のなか、柔らかく微笑む妖精女王を見て、僕は僅かに微笑む。
「君が不幸になる未来なんて、耐えられなかったんだ」
聖女の姉を、この古の森に連れてきた。その瞬間に未来は変わった。
永遠の番を手に入れた彼女は、きっとどんな寒い冬であっても、もう凍えることはない。
「いつだって主役になれないのが道化。出番を終えた道化は、おとなしく舞台袖に消えるべきだ」
「……?」
僕の言葉に、近くに居た木の精霊が小首を傾げた。
そんな木の精霊の不思議そうな視線を無視して、僕は白く染まったため息を吐く。
――僕が妖精女王に付き従っていたのは、彼女への恋心故。これからはもう、共にいる理由がない。
温かな春を横目に見ながら、凍える冬の森のなかで、僕はこの日随分と長い間患っていた恋の病に終止符を打った。
そして、古の森の一件がすべて終わった時、僕は妖精女王の下僕であることを辞めた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
大きな月が、雲の合間から顔を見せて、銀色の光で地上を照らすそんな夜。
妖精女王に別れの挨拶を済ませた僕は、数日間、ふらふらと宛もなく彷徨っていた。特にやることもなく暇を持て余していた僕は、気まぐれに眠りに沈む王城に忍び込み、姫君の寝室へと入り込んだ。
この国で言う姫君とは、金と銀の姫のことだ。
通称「ふたご姫」――そう呼ばれているうちの銀の姫君とは、面識がある。
秋頃のこと。妖精女王に、宴の賑やかしを連れてこいと言われた僕は、気まぐれに銀の姫君を城から連れ出して、空の散歩と洒落込んだのだ。
どうして、他の誰でもない、銀の姫君を選んだのか――。
それは単なる悪戯心からだった。
一国の姫として生まれた彼女は、温かな陽だまりのなかで、余計なことは何も知らず、真綿に包まれるようにして育っている、正に箱入りと言った風に僕には見えた。
朗らかに金の姫君と笑う彼女は、まるで、真っ白なカンバスのようになんの色にも染まっていない。
そんな彼女を見た瞬間、僕の中に、人外らしい仄かな悪意が芽生えた。
狭い世界しか知らない彼女が、初めての体験をしたり、見たことのない世界を見たら、どういう反応をするのだろう。
わざと空中から落としたら、わざと高速で空を飛んだら、わざと――……城からは決して見られない、美しい光景を見せてやったら。
小さな姫君は、その美しさに魅入られて、城という箱庭で生きることに嫌気がさしやしないか。
――面白いことになりそうだ!
そんな思惑を胸に抱いて、あの時の僕は、今日みたいにこの寝室に忍び込んだんだ――……。
ふたご姫の寝室のど真ん中にある、大きな寝台の傍に立つ。
そして、銀の髪をシーツの上に広げて、健やかな寝息を立てている銀の姫の頬に触れた。
「あの時の君は、純粋に秋の森の風景に感動して、空の旅を楽しんで――僕の望んだとおりに、新しい世界に魅了されていたように見えた。でも、君は普通の生活に戻っていった。戻ることが出来た。……僕とは違ってね。人生とは、ままならないものだ。ああ、そういえば僕は既に人ではなかったっけ」
「……う、ん……」
すると、僕の声が届いたのか、銀の姫君――シルフィがゆっくりと瞳を開けた。
嘗ての想い人の血を受け継いだ証である澄んだ碧色が姿をあらわすと、窓から差し込む月の光を反射して、ゆらりと煌めくその美しさに思わず見惚れる。
すると、その碧色はゆっくりと細められていき、可愛らしい銀の姫君の顔は、あっという間にふくれっ面になってしまった。
「テオ。やっと来たのね。わたくし、ずっと待っていたのよ」
「おや、君と再会する約束をしていたっけ? こんなに愛らしい姫君を待たせるなんて――知らぬ間に、僕は随分と罪作りな男になっていたようだ」
「もう! 茶化さないで。わたくしの描いた絵を見に来てくれるって、言っていたじゃない」
「ああ、それかい」
僕は、月の光を象徴するような銀の髪を一房指で掬うと、その手触りを楽しむ。そして、銀の髪に仮面の唇の部分を触れさせた。
それを見ていたシルフィは、ほんのりと頬を染めている。
「君が一生懸命描いているところを、こっそり覗いていたからね。見に来たつもりになっていたよ」
「……み、見ていたの!?」
「ああ、とても上手だった」
僕がそう言うと、シルフィはふんにゃりと表情を緩め、くすぐったそうに身をよじった。
上手だった――その言葉は、お世辞でもなんでもなく、紛れもない僕の本音だった。銀の姫君の描いた秋の森の風景は、拙くはあったが、色彩が素晴らしく、秋の森の土の香りが匂い立つような、そんな雰囲気があったのだ。
「君は、将来良い画家になるよ。この道化が保証するよ」
「道化の保証って」
「あまり、信用しないほうがいいかもね?」
「もう!」
シルフィはベッドから体を起こすと、軽く僕を小突いて、くすくすと楽しげに笑った。
柔らかそうな白い寝間着を着たシルフィが、月の光を浴びながら笑うと、それこそ月の妖精のようだ――なんて気障なことを考えていると、銀の姫君は僕のローブの裾を引っ張った。
「ねえ、今日もどこかへ連れて行ってくれるのでしょう?」
その表情は期待に満ち満ちていて、僕は仮面の下で思わず頬を緩めた。
本当は、姫君の寝顔を見て、そのまま去ろうと思っていたのだ。
けれどそんな顔で見られたら――道化師としては張り切らざるを得ない。
僕は小さく華奢な手を取ると、まるで求婚する騎士がするように、その場で跪いた。
「勿論さ。今日も銀の姫君が見たことのない、素晴らしい光景をご覧に入れてみせようじゃないか――」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
銀の姫君は幼くはあるが、レディには間違いない。たっぷりと時間を掛けて、念入りに身支度をした姫君を抱き上げる。毛皮のコートに、帽子にマフラーに、手袋に……と毛皮で全身を固めたシルフィは、小さなポシェットを肩から下げて、遠目から見ると冬毛でもこもこになった小動物にみえなくもない。
僕は、シルフィを落とさないようにとしっかりと抱き上げると、そのまま魔力を使って空を駆ける。
高度が高くなってきたら、空に浮かぶ雲をぽん、ぽん、と蹴って進む。
シルフィは、ひゃあ! とか、うわあ! とか、最初は怖がっていたようだけれど、そのうち慣れてきたのか、眼前に広がる光景に見惚れているようだった。
冬の特徴と言えば、静寂の他に澄んだ空気がある。雪で浄化された冬の空は、どの季節よりも多くの星の姿を届けてくれる。夜空を見るなら、最適な季節だ。
「ああ、なんて星が綺麗な夜なの。まるで宝石箱みたいだわ。ほら、赤、緑、ちかちか瞬いているのもある! あっ、流れ星よ! テオ! 見て!」
「見えているよ、銀の姫君」
寒さで鼻を真っ赤にしたシルフィは、届きもしないのに小さな手を星に向けて伸ばして、あれやこれやと僕に色々と報告をしてくる。あの星は綺麗だの、月が大きいだの……いちいち報告しなければ気が済まないのか、泣き顔の仮面に満面の笑みを向ける。
幼い姫君の無邪気さに、胸の奥が温かくなるのを感じていると、周囲が見慣れた景色に変わっていた。どうやら、知らぬ間に目的地に到着していたようだった。
シルフィに見せたかった光景が目に入り、それを見た瞬間の反応を予想して、口角を持ち上げる。
そして、シルフィの耳元に口を寄せると、そっと囁くように語りかけた。
「ほら、みてごらん、銀の姫君。足元の星空を」
「え? ……!!」
シルフィは眼下に広がる光景を目にして、息を飲んだ。
僕たちの遥か下、足元に広がるのは、広大な湖――その鏡面のように凪いだ湖面に、夜空の無数の星々が映り込んでいたのだ。
ふたつの夜空に挟まれると、自分が星々の間に浮かんでいるように思える。
それは、まるで別世界に迷い込んでしまったような、なんとも幻想的な光景だ。
「綺麗……!」
シルフィは真っ赤に頬を染め、僕の腕の中から身を乗り出してはしゃいでいる。
予想通りの反応に、頬が緩むのを感じていると、僕は続けて言った。
「美しいだろう? でも、この光景はもっと美しい景色を彩るための、始まりを告げる序章に過ぎない。ほら、見ていてごらん」
この湖は、普段は多くの川が流れ込んでいて、常に湖面が揺らいでいる。
それに、この辺りは山に囲まれていて風が強く、滅多に湖面が凪いでいるということはない。
けれど、今日のように風が無く、更には湖に流れ込む川が凍りつくほど冷え込むと、湖面は凪ぎ、美しい星空を写し取った後に、劇的に変化を遂げる。
――ぱきん。ぱき、ぱきん。
どこかで、不思議な音がしている。
その音を聞いたシルフィは首を傾げ、正体を知ろうと、あちこちに視線を遣っている。その間にも、何かが割れるような、更には硬いもの同士が触れ合うような音は、湖の至る所で鳴り始め、段々と音が大きくなっていく。
そしてその音と共に、唐突に湖面に白い何かがぼう、と浮かび上がった。
「ひっ……!」
それを目にした瞬間、シルフィが小さく悲鳴を上げた。
それは、人間の女性に見えた。
けれど、その女性は頭の天辺から足先まで、すべてが白く染まっていた。
白い、というより色がないと言った方が正しいかもしれない。人の姿をとってはいるが、人と言うには不自然でどこか不完全。石膏の石像のような白さは、暗闇の中にあってぼんやりと不気味に浮かび上がっていた。
「――湖の貴婦人」
それは、そう呼ばれている人外だ。
貴婦人と言われる所以は、ひとつは時代を感じさせる、古めかしいドレスを纏っているから。そして、もうひとつは――湖の上で、まるで舞踏会のように、優雅に踊るところにある。
ややうつむき加減で、湖面から僅かに浮いていた貴婦人は、手を滑らかな動きで持ち上げると、あたかも一緒に踊るパートナーがいるかのように、ゆっくりと動き出した。そして、軽やかな足取りでワルツを踊り始めたのだ。
貴婦人が、くるりと回転するたびに、ひらり、ひらひらとドレスの白い布が宙に舞う。
そのとき、貴婦人の顔は、どこか恋をしているように恍惚に染まっていて、けれども舞踏会会場であれば優雅に思えるその踊りは、山奥の湖の上にあって異様な雰囲気を醸し出している。
「……怖い」
シルフィは、ぽつりと呟くと、体を縮こませ、僕にしっかりとしがみついてきた。
青白い月明かりの下、得体の知れないものが舞い踊る姿は、確かに恐怖を誘うものかもしれない。
自分にはとうになくなってしまった人間らしい感覚に関心しながらも、声を潜め、怯える姫君の耳元でそれの正体を明かしてやる。
「あれは、湖の貴婦人さ。寒い時期になると現れて、悪戯に湖を凍らせる人外さ。一説には、古く淀んだ水から生まれた、精霊の成れの果てなんて言われているね。あれと似たような人外で、北海の貴婦人というのもいる。知っているかい? あれに見つかった人間は、容赦なく氷漬けにされて、貴婦人の舞踏会の飾り付けにされてしまうのだよ。恐ろしいだろう? 怖いだろう? さあ、息を潜めて。音を立ててはいけない」
「……!!」
シルフィは、可愛らしいぽんぽんが着いた手袋で自分の口を抑えると、コクコクと無言で頷いた。
僕の言葉に、素直に恐怖を感じている様子を可笑しく思いながら、貴婦人へと視線を戻す。貴婦人は、白いドレスをゆらり、ゆらゆらと靡かせて、優雅に湖面でダンスを踊る。そのたびに、軋んだ音がして湖面に白い氷の筋が走るのだ。
やがて、貴婦人が更に何体か現れ、舞踏会会場が賑やかになってきた。
更には湖が凍りついたせいで、辺りの気温は急激に冷え込み、白いもやが立ち込め始めた。
それも、舞踏会を彩る舞台効果のように思えて、僕は嬉しくなる。
彼女たちは、競い合うように踊りながら交差し、楽しそうに星空の照明の下で踊り続けている。
「貴婦人は、命あるものに対しては、非常に冷酷で残酷で容赦がない。水底に逃げ遅れた魚や、羽を休めていた鳥をも全部凍りつかせて、自分の世界を作るんだ。――ああ、なんて美しいのだろう」
先程までは、星が瞬く夜空を映し出していたはずの湖面は、今は殆どが凍りついてしまった。
足元に広がる星空は失われたが、結晶化して隆起した氷の断片は、動かなくなった魚や水草を内包したまま、月の光を浴びて水晶のように煌めいている。
「……わたくしには、美しいとはおもえないわ」
シルフィの、そんな小さな呟きが耳に届く。
価値観の相違だね、なんて耳元で囁くと、シルフィは困り顔で僕を見上げた。
僕にとっては最上の美しい景色に見蕩れていると、段々と気分が良くなってきて、思わずワルツを口ずさむ。その時、腕の中の小さな姫君が、体をねじったのが解った。見ると、小さな手で仮面の口の部分を一生懸命抑えているではないか。
どうやら、僕が呑気に歌いだしたものだから、貴婦人に氷漬けにされやしないかと焦っているらしい。
――仮面の口を抑えたって、意味がないのに。
けれど、懸命な姿がなんとも微笑ましくて、その優しさに報いるために、僕は口をつぐんだ。
眼前を、白く美しい……けれど、恐ろしい湖の貴婦人が通り過ぎていく。
そんな湖の貴婦人が踊るワルツを、ふたり無言で眺める。
そこに流れる空気は、温かくもなく、柔らかくもない。どこか緊張感の孕んだ不思議なものだったけれど、僕にとっては悪くない空気だった。
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ダージル初登場の晩酌回です!