ほろ酔いは、お豆腐と共に 1
古の森の奥深く、チコの林に訪れた一足早い春の盛り。
白銀の世界を彩ったチコの花たちは、一瞬の輝きを見せた後、あっという間に花を散らして、冬枯れた寒々しい姿へと戻った。けれども、散った花びらは、白い雪の上に絨毯のように広がり、色鮮やかに冬の森を彩っている。春本番にすら、なかなか目にすることがない、雪と花びらの共演に、私たちは暫く見惚れていた。
「――泡沫の春。美しいものよなあ」
そんな私たちの耳に、突然、少女の声が飛び込んできた。
「……はなこ」
美しい光景に浮かれていた気分が、あっという間に萎んでいく。
はなこは、ニィ、と口角を釣り上がらせると、私に向かって一歩踏み出す。その瞬間、はなこの姿に変化が現れた。
全身を覆っていた木肌が、するすると後退していき、その下から人間のような白い肌が姿を現した。更には、頭上から茂っていた葉が形を変え、まるで着物の打ち掛けのような形を取って、体を包み込む。化け物じみた大きな口があった場所には、品の良い小さな口が現れ、濡れた紅い唇が艶めいている。それに、小さな鼻に黒目がちな瞳が、緑の葉の間から見え隠れしていて、その目尻は朱色に染められていた。
変化後のその姿は、まるで和服を着崩している人間の少女のように見えた。
「……さあ、約束は果たした。代償をおくれ」
背中を冷たい汗が伝う。それは、ただそこに立っているだけなのに、恐ろしいほどの威圧感を発していて、どうにも逃げ出したい気持ちになる。
「……茜、下がって」
「まったく。どういうことか、後で説明してもらうからね!」
ジェイドさんとユエが、私を庇うようにして前に立つ。ジェイドさんは剣を構えて、ユエは口の端から青い炎を漏れ出させていた。
すると、はなこはさも可笑しそうに口角を釣り上げ、肩を揺らして笑った。
「ぐふ。ヒトと幼竜ごときが、あちきの前に立つのかえ? ぐふ、ぐふふ。……面白い」
はなこから発せられている威圧感が、更に増す。ジェイドさんもユエも、緊張した面持ちではなこと対峙している。すると、私たちの前にティターニアが出て言った。
「ほ。お主らでは、こやつにはどう足掻いても勝てぬよ。これは、木の精霊の『核』じゃ。そこらの精霊とは違う。規格外の存在じゃ。……そうじゃろ? フォレ」
ティターニアは、いつもは仕舞っている光沢のある黒い蝶の羽根を、まるで威嚇するようにはなこ――フォレに向けて広げている。その羽根からは燐光が舞い散り、ティターニアを守るように周囲に漂った。
そんなティターニアを、フォレは鼻で笑った。
「妖精女王か。まるで、あちきだけを化物みたいに言わないでおくれよ」
「創世記から在り続けているお主は、化物以外のなにものでもないじゃろう」
「ふふ! お主も大して変わらぬだろうに、何を言っておるのやら」
「数百年は違うわ! この阿呆め」
ふたりは互いに火花を散らして、周囲に魔力を渦巻かせて牽制しあっている。
一触即発の雰囲気に、どうすればいいかわからず戸惑っていると、古龍が大きな頭を廻らせて、ふたりの間に割り込んだ。
『……フォレ。お前は、ヒトの娘をどうするつもりなのだ』
フォレは、案外ティターニアとの口論を楽しんでいたのか、割って入ってきた古龍を睨みつけた後、つまらなそうにむくれると、私を指差して言った。
「そこのヒトと約束したのよ。あのエルフに時間を与えれば、料理を作ってくれると。それ故、ヒトを貰い受けに来た。……あちきは約束を果たしに来ただけよ」
「……貰い受けに?」
料理を作るのは良いとして、その一言がどうも引っかかったので、その意味を問う。すると、フォレはにやあと、またいやらしい笑みを浮かべた。
「お主を精霊界に連れ去り、我らが母への料理を作って貰う」
「精霊界!?」
精霊界というと、夏の終わりにまめこに連れられて行ったあの場所だ。現在過去未来、生者死者、色々なものが入り混じり、何が起きるか知れない危険な場所でもある。そして、行ったが最後、戻ってこられる保証はない。そんな場所だ。あの時、精霊界から無事に戻ってこられたのは、本当に幸運だったからだ。
「そして母が満足するまで、料理を作り続けて貰うのよ。母もお主の料理が気になっていた様子だった故、大層喜ぶであろう。そうしたら、あちきは母より更なる愛を賜るのじゃ! 他の核よりも、ずっとずっと深い愛をな。うふ、ぐふふふふふ!」
フォレはうっとりとして、頬を紅潮させ、瞳を蕩けさせている。
「安心するがよい。母が料理に満足したら帰してやろうではないか。偉大なる母が、ヒトの一生の間に、満足すればの話だが」
その言葉に、背筋が凍った。
ああ、これって、さっきユエが言っていた、監禁飯炊き女ルート……! 精霊界で死ぬまで料理をし続けるやつ……!?
すると、大きくため息を吐いたティターニアが「下僕よ」と虚空に呼びかけた。すると、瞬時にテオがティターニアの傍に現れ、更には無数の妖精たちがそこらじゅうに現れた。
妖精は一体一体が光を放っているから、急に増えた光量に思わず目を細める。その光の中で、ティターニアは眉を下げて、どこか呆れたような、それでいて泣きそうな顔でこちらを振り返った。
「妾のために、無茶をしおって。やはり、ヒトは短絡的で愚かじゃの」
すると、ティターニアは「でもそれがお主なのじゃから、仕方あるまい」と、柔らかく微笑んだ。
――その表情が、何故か酷く遠く感じて、心臓が大きく跳ねる。
脳裏を過る、不吉な予感。それは、このままだと大切な友人を失ってしまいそうな、そんな予感だった。
フォレはそんなティターニアを満足気に眺めると、また嫌らしい笑みを浮かべた。
「あくまで、あちきの邪魔をするというのかえ。……ほほほ、愉快」
「……言っていろ。妖精を統べる女王の力、見せてやろうではないか」
ティターニアはそう言うと、フォレに向かって一歩踏み出した。
――駄目!
「ティターニア!」
堪らず、ユエとジェイドさんの間をすり抜けて、ティターニアへ駆け寄ろうとしたけれど、ふたりに止められる。
「茜、駄目だ。危ない!!」
「そうだよ、ここは妖精女王に任せればいいんだ。どっちにせよ、僕たちには敵う相手じゃないんだから」
「でも、でも……!」
ふたりに押さえつけられながら、光の中、フォレと対峙するティターニアを見る。
――規格外だというフォレ。喩え、妖精女王だとしても、無事で済むはずがない!
すると、誰かが私の目の前に立った。じゃら、と服に着けられたたくさんの宝石が擦れ合って、音を立てる。
「退場の時間だ。物語は止められない。出番を終えた演者は、舞台から去らねば。――さあ、飛ぼう。君たちの帰る場所。聖女の待つ国へ」
「テオ、待って。ティターニアは!?」
「言っただろう? 舞台上は、主役に明け渡さねば」
テオは私たちに気取った礼をすると、ここに来た時のように旋風を起こし始めた。そして、十分に風が巻き起こったのを確認すると、風の外に出る。どうやら、テオ自身はここへ残るつもりらしい。
「……ありがとう、君のお陰で妖精女王は救われた。その恩を返せる機会が、こんなにも早く訪れるとは」
そして、徐にシルクハットを取った。初めて見るテオの髪は、まるで初雪のような純白。長い白髪を風に靡かせたテオは、もう一度深く深く頭を下げた。
「この恩は、必ず返そう」
「やめて。そんなこといいから! ねえ、皆で帰ろう!?」
「ふふ。君は物語の登場人物としては、最高だね。喜怒哀楽が豊かで、物語を盛り上げる役としても、観客として観るにも最高だ。……大丈夫。直ぐにまた――会えるさ」
「テオ!」
テオの最後の言葉と共に、旋風が一層強く吹き荒れ始める。風は、白い雪と色とりどりのチコの花びらを巻き上げて、私の視界を容赦なく覆い始めた。ふと見ると、ユエも旋風から逃れ、古龍の傍に立っていた。恐らく、浄化の旅に参加することを、これから話すのだろう。ユエは眉を下げ、少し不安そうな表情で私たちに向かって手を振っていた。
その時、ジェイドさんが私を後ろから強く抱きしめた。もしかしたら、この旋風の中、私が飛び出すのを警戒したのかもしれない。
「……茜」
「わかってます。わかってますけど……っ!」
視界がじんわりと滲む。折角、幸せを掴み取った友人に、迷惑を掛けてしまった自分が情けない。
大きく息を吸って、ティターニアに向けて叫ぶ。
私の大切な友人に、その声が果たして届くかどうか――それでも、頭を過ぎった嫌な予感を振り払いたくて、思い切り喉が痛くなるまで叫んだ。
「――ティターニア! 待っていますから! ……待っていますからね! 一緒に、美味しいお酒を飲みましょう! とっておきのおつまみを用意して、待ってますから……!!」
白い雪と、花びらの舞う向こうで、ティターニアが背を向けたまま、軽く手を振ったような気がした。
……そして、次の瞬間、視界に飛び込んできたのは見慣れた我が家の庭だった。
帰ってきた――そう思った瞬間。
――ドオオオオオオオオオオン!!
大気が震えて、我が家の窓がガタガタと鳴る程の大きな爆発音が聞こえた。
思わずその場から駆け出す。城の城壁からであれば、古の森の方向を見る事が出来るはずだ。
隣を見ると、足の遅い私に合わせて、ジェイドさんも付いてきてくれていた。互いに頷きあうと、必死で城内を駆け抜ける。そして三十分後、漸く辿り着いた城壁から、古の森があると思われる方向を見る。テスラとの国境の境にある山脈。その更に向こう――そこから、もうもうと白い煙が立ち上っているのが見えた。
「……ティターニア……!!」
まるで心がズタズタに切り裂かれたように痛む。私は、どうしても立っていられず――その場にへたりこんでしまった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「……ほら、茜。しっかり」
「う、ぐすっ……ご、ごめんなさい。ごめんなさい……」
涙と鼻水で、大変なことになりながら、なんとか我が家に戻ってくる。
道中、城の人たちにかなり変な目で見られたけれど、それどころではない。ティターニアが、今どういう状況にあるかと思うと、どうしても涙が止まらなかった。
「大丈夫だよ。あの妖精女王のことだから、きっと直ぐに平気な顔をして戻ってくるさ」
「そうだったら、いいんですけど……」
私を慰めてくれているジェイドさんの表情も、どこか冴えない。
今ここにいる私たちには、どうすることも出来ない。出来ることと言えば――ただ待つだけ。
……ああ、また「待つことしか出来ない」のか。私はいつも、そればっかりだ!!
自分自身に怒りを覚えながら、玄関の引き戸に手を掛ける。そして、カラリと玄関を開けた――その先には。
「……げほっ。おお、茜。妾は腹が減ったぞ、何か作れ」
何故か煤だらけで、玄関に座り込んでいる妖精女王に、
「あー! もー! 痛い、痛い、痛い! この糞女王! もうちょっと手加減をせい!」
「はっはっは! ふたりとも、愉快な格好だね! 髪の毛がチリチリになっているじゃないか!」
同じく煤と傷だらけになって、足をジタバタさせて悔しがっている精霊の核と、お腹を抱えて笑い転げている妖精女王の下僕の姿があった。
「な、な、な、な……!!」
「なんじゃ、茜。間抜けな顔をしおって。こんな奴、妾の敵ではないわ! 祝杯の準備をせい!」
「い、え、あ、ああああああああああああ〜〜〜!?」
思わず、奇声を上げる私に、ティターニアは嬉しそうな顔をすると、よろよろと立ち上がって私に抱きついた。
「……ふん。きっと、長引くとお主が死ぬほど心配するだろうと思ってな。短期決戦で決めてやった。褒めるがよい。ほれほれ」
そして、ぐりぐりと顔を私のお腹に擦り付けて、「おや、腹が随分と柔らかい」なんて言っている。
私は堪らず、ティターニアを力いっぱい抱きしめる。ぐえ、なんて聞こえたけれど、そんなの気にしない。
「〜〜もう! もうもうもうっ!! 死んじゃったのかと思ったじゃないですか!? 死亡フラグが、誕生日のケーキの蝋燭くらいに立ってたでしょ!?」
「しぼうふらぐ?」
「ああ、もう。それはいいんです! 本当に、本当に良かった……!!」
ぽろぽろと、温かい涙が溢れ落ちる。胸の奥が温かくて、腕の中のティターニアの存在が、嬉しくて嬉しくて。どうにも、涙が止まらなかった。
すると、ティターニアは私の腕の中で、くすくすと楽しそうに笑うと、ちょっぴり偉そうに言った。
「妾が負けるはずなかろうに。馬鹿め」
「うん……うん……! そうだね……!」
私とティターニアは、互いをぎゅうぎゅう抱きしめ合って、そして笑いあった。
「言っただろう? 直ぐに会えるって! やはり君は、どこまでも心配症だなあ。はっはっは!」
そんな私たちを眺めて、テオも満足げに笑っていた。