逝く者、遺された者、最後のご馳走6
――ティターニアは本当に嬉しそうに、蕩けるような、恋をしている乙女のような表情で、ケルカさんの手に頬を寄せた。そして、愛する番と最後にまた話したいがために、黄金茸を探していたのだ、と語った。
「なら、最初から言ってくれればよかったじゃないですか。すごく驚きました」
私がそう言うと、ティターニアはふふ、と小さく笑った。
「黄金茸のことは知ってはいたものの、世界中あらゆるところに存在する妖精ですら、滅多にお目にかかれないくらい希少なものじゃ。実際に言い伝え通りの効果を表すかも不明であったし、そもそも本当に見つかるとは思わなんだ。……まさか、ドライアド自ら、お主に件の茸を差し出すとは。茜、お主のお陰じゃ。のう? 古龍よ」
思わず古龍を見上げる。彼は優しげな眼差しをケルカさんへと注いでいた。
『思いの外、こやつの樹木化が速くてな。妖精女王が来たときには、既に喋ることもままならなかった。我らは、もっとこの友人と語り合いたかった。黄金茸と言えど、寿命を伸ばすほどのことは出来ぬ。……が、ほんの僅かな時間を得ることは出来よう。我らのわがままに付き合わせてしまったな、ヒトの子よ』
古龍は目を伏せると、ゆっくりとその巨大な頭を下げた。
「……力になれたのなら、嬉しいです」
そっと、横たわるケルカさんを見る。ケルカさんは、黄金茸を食べる前と変わっていないように見えた。
けれど、口らしき部分を動かすことは出来るようだし、腕もゆっくりとだが動かしている。
それだけで、先程よりも人間らしく感じるのだから、不思議なものだ。
すると、ティルカさんがケルカさんの傍へと寄って行った。
「――兄さん」
「ああ。ティルカか。話すのは久しぶりだね。今日は、酸っぱいチコの実を口に入れる悪戯はしなかったんだね?」
「……そんなこと、そん……な、こと。するわけないだろ……? 兄さん。僕は兄さんにとっていい弟だったろ?」
「ああ、そうだな」
ティルカさんの声は震えていた。
覚悟を決めていたのに、言葉を交わす機会を予想外に得られて動揺しているのだろう。
元々糸みたいな目を更に細めて、眉を思い切り下げて――困ったような、嬉しそうな、辛そうな……相反する表情を浮かべて、ケルカさんと話をしている。
私は、そんな彼らから離れるために一歩下がった。
今この時間を共有することを許されるのは、本当にケルカさんと親しかったものだけだ。私はそれには値しないだろう。
ジェイドさんやユエもそう思ったのか、「春」から出て雪に覆われた外側に出る。
そして――三人で「春」の中を眺めた。
それは、最期の時を穏やかに過ごす、家族と友人の光景。
暖かな「春」は、そんな彼らを包み込んで、優しく見守っているように見えた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
暫くすると、ティターニアが私たちを呼んだので、「春」の中へと戻る。
ケルカさんは、私たちにも声をかけてくれた。
「――茜さん。私と子猫のために、たくさん迷惑をかけたようだ。本当にありがとう」
「……キティ?」
「ああ、私の奥さんのことさ。猫みたいに気まぐれで、気高くて――子猫みたいに甘えん坊だろう?」
「こら、ケルカ。余計なことを言うでない。それに、その呼び名は妾とお主の間だけでと言ったであろう!」
ティターニアは、珍しく顔を真っ赤にして動揺している。
ケルカさんの傍にいるティターニアは、とても可愛らしくて素直だ。
きっと、これが彼女の嘘偽りない本当の姿なのだろう。
ケルカさんは怒りを顕にするティターニアを優しく宥めると、ゆっくりと腕を持ち上げて私へと伸ばした。
「けれどね、うちの奥さんは困ったことに、子猫みたいに素直に甘えられないんだ――でも、君には気を許しているように見える。どうか、これからも奥さんのいい友達でいてやってくれないかい」
それは託す言葉。
もう自分には出来ないことを、誰かに託さなくてはいけない。大切なものを手放さなければいけない、これから逝く者の言葉だった。
きゅう、と胸が苦しくなる。喉の奥がひりついて、視界がにじみそうになるけれど、必死に堪える。
脳裏に、死んだ祖父母や両親の亡骸が浮かんできて、挫けそうになる。置いていかれる――遺された時の感覚が蘇って、酷く動揺した。
だけど……笑顔で送り出さなければいけない。泣いては駄目だ。
私は、笑顔を作って、ケルカさんの手を握った。
「……はい。任されました」
少し声が掠れてしまった。けれど、今はこれが精一杯の言葉だった。
それでもケルカさんには、私の気持ちが伝わったらしい。彼はほう、と長く息を吐くと、ジェイドさんにも同様のことを頼んでいた。それに――。
「君の恋人は、随分頑張り屋さんのようだ。しっかりと支えてあげるんだよ」
私を気遣う、優しい言葉まで添えてくれた。
ジェイドさんは胸を叩くと、大きく頷いた。
「勿論です。任せてください。まあ、ふたりとも飲ん兵衛なので、お酒が入ると止まらないかもしれませんけどね」
「ははは。それはそうかもね。飲み過ぎには注意しなくっちゃね? キティ、茜さん」
「……うっ」
「余計なお世話じゃ。阿呆が」
ティターニアとふたりで、顔を顰める。けれど、同時に胸の奥が温かくて、切なくて。結局、ティターニアとふたり、顔を見合わせて曖昧に笑った。
次に、ケルカさんはユエを呼ぶと、傍に座るように促した。
ユエは、ゆっくりとケルカさんの傍に座ると、その手を取った。
「――ユエ。言いたいことは言えたかい?」
「……それは、どういう」
「ずっと、我が友を気にしてそわそわしていたじゃないか。見えずとも気配で感じていたよ。話さないといけないことがあるんだろう? 告白する勇気は出来たかな」
すると、ユエは眉を下げて俯いてしまった。
「……ケルカ。僕は自分が思っていたよりも、弱虫だったみたいなんだ」
「そう」
ケルカさんは、ほんの少しの間考え込んでいたかと思うと、ゆっくりと優しくユエに語りかけた。
「何事も、前へ進むことを恐れてはいけないよ。間違うことを恐れてはいけない。喩え、結果的にそれが間違いであったとしてもね。そうしないと、私のようににっちもさっちもいかなくなって、後悔ばかりすることになるよ」
「……ケルカ?」
「それに、我が友は君よりもずっと、ずっと長く生きてきたんだ。きっと、幼い君の考えていることなんて、お見通しさ。必要なのは君の勇気だけ。なあ、そうだろう? 我が友よ」
『……』
「歳を重ねると、間違いが怖くなるのはわかるけれどね」
『……ふん』
すると、古龍は鼻を鳴らして、そっぽを向いてしまった。
そんな古龍を見上げていたユエは、苦しそうに顔を歪めると、こくりと頷いた。そして、ケルカさんの傍から離れていった。入れ替わりに、ティターニアがそっと傍に寄り添う。
ケルカさんはふう、とまた息を吐き出した。もしかしたら、体が辛いのかもしれない。胸が上下する間隔が早くなっている気がする。
「キティ。そこにいるのかい。ああ、随分と偉そうなことを言ってしまったよ。君から逃げ出した私が、何を言っているのだろう……ははは。新しい後悔が生まれてしまった。死ぬ間際に……げほっ」
ケルカさんは大きく咳き込むと、苦しそうに体を歪めた。ティターニアは慌ててケルカさんを擦ってやっている。暫くして激しい咳が収まると、彼はティターニアに体を起こすように頼んだ。
そして、ティタニーアに抱きしめられるような格好で、静かに語り始めた。
「――私の最期の言葉を聞いておくれ」
その言葉に、誰もが息を飲む。
そして、誰もがその言葉を聞き漏らしてはならないと、本能で理解したのだろう。全員が、じっとケルカさんの言葉に耳を傾けた。
「これから私は、理想郷へと招かれるのだろう。そこでは、きっと素晴らしい生活が待っているに違いない。先に行った仲間たちも、温かく迎えてくれるだろうね。私はここまで生きながらえたことを満足している。最愛の奥さんと、最高の友人たちに見送ってもらえる喜びで、全身が包まれている。なんとも幸せな気分だ」
ティターニアが僅かに唇を噛み締めたのが見えた。
ケルカさんはそんなティターニアの肩に頭を乗せると、甘えるようにほぼ木と化してしまっている頭を、彼女に擦り付けた。
「――でも、同時に体の奥底で、別の感情が燻ってもいる」
「……ケルカ?」
予想外の言葉に、ティターニアが驚愕の表情を浮かべている。けれど、ケルカさんは構わず続けた。
「ねえ、ティターニア。私に何か言いたいことがあるのだろう? そのために黄金茸なんてものを探したんだろう? 話がしたかったなんて、それだけじゃあないだろう? 私の答えが聞きたくて、態々死の縁から呼び戻したんだ」
「……そ、それは」
ケルカさんは、ティターニアの言葉を引き出そうとしているようだった。
けれど、ティターニアは、未だに迷っているようだった。視線を宙に彷徨わせ、不安そうな顔をしている。
すると、ケルカさんは小さく笑って言った。
「迷うなんて、君らしくもない。もしかしたら――君が心から愛した紅の色を失った私に、言葉をかけるのは嫌になってしまったかい?」
「……な、何を言うておる」
「もう私の瞳は失われてしまったからね。何度も何度も君が見惚れてくれた紅色。自慢だったんだ。それが君と私を繋ぐ絆だと、勝手に思っていたのだよ」
ケルカさんはゆっくりと自分の顔に触れる。
彼の瞳があるべき場所は、まるで木の虚のようだ。秋の萌える紅葉のような、美しい紅色をした瞳が嘗てはそこにあった。けれど、目玉はとうに失われ、紅色の名残すら見えない。
ティターニアは困ったような顔で、ケルカさんを見つめている。次の瞬間、自嘲気味に笑ったケルカさんは、だらりと手を下ろした。
「今のは意地悪だったね。まるで子どもみたいだ。私にそんな一面があったなんて。……げほっ……新しい発見だね……」
「ケルカ……妾は」
ケルカさんの言葉を受けても尚、ティターニアは話すのを躊躇していた。
ティターニアに抱かれたケルカさんは、じっと愛する人が話してくれるのを待っている。
なかなか決心がつかないのだろう。ひらり、ひらひらと蝶が舞う「春」の中で、静かな時間が只々流れていった。
――そして、暫くして。
散々迷っていたティターニアが、とうとう口を開こうとしたその時、ケルカさんがまた一層激しく咳き込みはじめた。
口を手で抑えて体をくの字に折り曲げ、非常に苦しそうだ。ティターニアは真っ青になって、背中を擦ってやっている。すると、ケルカさんの手の隙間から、ぽろぽろとおかしなものがこぼれ落ちた。
「――ああ、もう時間のようだ」
ケルカさんが、ぽつりと呟く。
その手からこぼれ落ちたもの――……それは色鮮やかな緑の葉や、白い花びらだったのだ。
途端、まるでそれが合図だったかのように、ケルカさんの体に、劇的な変化が現れ始めた。
――それは、新緑の若芽。それは、細い木の枝。
人間の体から出てくるはずがない、緑の異物が、次から次へと体中から生え始めたのだ。
それはまるで早送りの映像のようだった。
若芽はぐんぐんと背を伸ばしどこまでも伸びていき、白く小さな花をつけては散るを繰り返す。細かった枝は、伸びるにつれてみるみるうちに太さを増し、枝分かれをして、空に向かって自身を伸ばしていく。
「――ケルカ! まだ、まだだ!! 妾は、まだなにも――!」
ティターニアがケルカさんに縋り付く。ケルカさんの名を呼びながら、必死になって伸びてくる若芽を毟るけれど、あっという間に新しい緑が芽生えて、意味を成していない。
ケルカさんは、何かを喋ろうと口を動かしている。けれど、口の中からも緑が伸びてきていて、それは言葉になることはなかった。
「嫌じゃ。嫌。ケルカ……ケルカッ!! いやああああああああああああああ!!!」
ティターニアは絶望の表情を浮かべて、悲痛な叫びを上げた。
――ああ。ティターニアの想いが。
想いを伝えられないまま、終わってしまう――……!!
私は呆然と立ち尽くす皆の方へと振り返った。
なんとかしたい。してやりたい。このままでは、後悔しか残らないではないか!
「あと少しだけでも、ケルカさんの樹木化を止める方法は無いんですか!?」
「すまない、茜。俺にはどうしようもない」
『寿命なのだ。こればかりは……』
ジェイドさんと長様が沈んだ声で答える。
ユエもティルカさんも、辛そうな表情で押し黙ったままだ。
その間にも、ティターニアの悲痛な叫びが、辺りに響き渡っている。
テオに請われて、ティターニアの力になりにきたのに、何もしてあげられないなんて。
――ああ、これほどまで奇跡が起こればいいと願ったことはない。
私が自分のあまりの無力加減に打ちひしがれていると、誰かが私のコートの裾を引っ張った。
――その瞬間、すべての音が止んだ。