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ルヴァン視点 堅物宰相と胴長犬と天津飯

ルヴァン視点です。

「くうん」



 犬。犬だ。

 目の前に異様に胴の長い犬がいる。

 長い胴をくねらせて、何故か腹をさらけ出し、黒いつぶらな瞳でこちらをじっと見つめてくる。

 さほど大きくはない。

 両腕に収まるほどの大きさの犬だ。

 毛色は茶。しかし、飼い主は毛色は金だと主張している。確かに、ふさふさの毛を蓄えた尾や、垂れた耳の辺りの毛は金に見えなくはないが、その他は茶にしか見えない。

 金は高貴な色として周知されているこの国で、この程度で金毛だと主張するには些か無謀と言えるだろう。



「きゅん!」



 暫くじっと見つめていても、その犬は腹をさらけ出したままそこから動こうとはしない。鼻から甘えたような高い声を出し、恐らく撫でろと言っているのだろう。

 尻尾を誘うように左右に振って、短い足を折りたたんだその姿は一般的には可愛らしいと言われるに違いない。



「ふん」



 私はそんな獣の本性を忘れた犬に、冷たい視線を投げかけて、無視を決め込む。

「縁側」に腰掛けると、私は手の中のメモを読み返し始めた。

 もうすぐ昼時を迎えるこの時間帯は、騒がしい食事時の前だからか、やたらと静かで穏やかだ。風もなく、裏にある鶏小屋から時折小さな鳴き声が聞こえるだけ。

 そんな空気が私を弛緩させ、緊張感を取り去っていく。「縁側」と住民が呼ぶその場所は、警備の点で見れば無防備この上ないが、平和な時分であれば寛ぐのには丁度いいのだろう。風もなく、春の麗らかな日差しが注ぐ「縁側」は温かく、眠気を誘ってしょうがない。



 宰相としてこの国のため、常日頃忙しく過ごしている私だが、こんな静かな時間は今までの人生でどれだけあっただろうか。

 不本意ではあるがこの古びた家はなかなか落ち着く。

 静かな雰囲気や、この「縁側」も一因ではあるが――一番の要因は、ここは私の興味の対象に溢れているからだ。

 もし私が宰相でなければ、それを研究して暮らしたいと夢想する位には心惹かれるもの。そのひとつが魔道具だ。そんな夢は叶うはずもないが、出来るだけ関わり合いを持ちたいと常日頃から考えていたし、そうあろうと努力もしている。

 そこに、聖女召喚に巻き込まれ、異界の建物が城の中庭に突如現れたと聞いたときは、事後処理の面倒さよりも、見たことのない魔道具の予感に胸が高鳴ったものだ。

 今では仕事の合間に時間を見つけては、魔道具の宝庫であるこの家に立ち寄り、調べ物をするのが私の貴重な息抜きになっている。

 手の中のメモには、この家にある異界の魔道具の情報が書き記されている。異界の魔道具は、どれもこれも素晴らしい。再現できれば、このジルベルタ王国は一層栄えるだろう。



 今日メモをした分の内容をじっくりと読み返し、深淵なる魔道具の歴史と今後の展望、発展へと思いを馳せていると、視界に時折茶色い動くものが目に入り、その度に集中が途切れる。



「…なんで、お前は私に擦り寄ってくるのだ」

「くん!」



 いつの間にか私の側にあの犬が寄り添っていた。

 何故だろう。この、私はこのレオンとかいう犬に積極的に構った事は一度もないし、食べ物も与えた事はない。懐かれるようなことは決してしていないはずだ。

 けれど、この犬は何故か私の顔を見つけると、尻尾を左右に振りながら、こちらへトコトコとやってくる。

 犬は仰向けの体勢で待っていても、撫でてはもらえないと気づいたのか、今は私の太ももに顔を乗せて、こちらをじいっと見つめている。

 太ももから感じる犬の体温は心地よく、なんとなく追い払う気にもなれない。

 この犬はダックスフンドという犬種だと聞いた。

 飼い主によると、その犬種は元々は穴の中の獲物を獲るのに適した短い足と長い胴を持つ狩猟犬だという。そう…信じられないことに、狩猟犬らしい。

 …短い後ろ足を、まっすぐ伸ばしたまま寝そべり、だらりと弛緩している様は狩猟犬にはとても見えないし、なれそうもない。短い脚で速く走れるのか疑問だし、それにむちむちした胴はまるで大きなソーセージのようだ。

 飼い主曰く、こちらに来て侍女やら兵士からおやつを沢山貰ったせいで太ったらしい。おなかのくびれ(・・・)が無くなってしまったと嘆いていた。今は各所に通達が出され、この犬におやつを無断であげるのは禁止されている。

 ――狩るより狩られる方がお似合いなのではないか?

 そんな風に思われているとは本人は知る由も無い。舌をだらりと口からはみ出させ、なんとも呑気な顔で私の手のひらに鼻先を押し付け、ぐいぐいと自らの頭を撫でるように強請る。



「………」



 眉間に皺が思わず寄ってしまった。

 ぐりぐりと指で眉間をほぐす。

 貴重な癒しの時間を、犬ごときの考察に思考が割かれていることに、なんだか無性に腹が立ち、私はすっくと立ち上がり、位置を少しずらして座り直す。

 その犬は、首をもたげてこちらの動きをみていたが、すぐさまぴょんと立ち上がってまた私の側に落ち着いた。そして、また私の太ももに顔を乗せて「くうん」としつこくこちらを見つめてくる。

 ――素直に撫でてやる義理はない。

 私は暫く犬を無視していたが、犬はあまりにもしつこく私の手を鼻先でぐいぐい押してくる。

 その度に盛大に揺れるメモを我慢して眺めていたが、揺れる視界に段々と苛々が募り、また立ち上がって場所を移す。

 犬はまたつぶらな瞳でこちらをみて、ぴょん、トコトコトコ…と、軽快な足取りで私の側に来た。



「………………」

 わしわしわしわしっ!!!

「ブフッ、ハフッハフッ」



 いい加減堪忍袋の尾が切れたので、些か乱暴な手つきで犬の全身をグチャグチャに掻き混ぜた。

 嫌がるだろうと予想していたが、予想外に犬は尻尾を千切れんばかりに振り、変な呼吸音をさせながら非常に楽しそうに身をくねらせる。



 ――ぐッ…!!喜ばせてしまった…!!



 今までの小動物と関わった事がなかったので、どういった行為を好むのか、はたまた嫌がるかが判らなかった。

 …いや、それは言い訳だろう。実際に行動に移す前に調査、考察を行わなかった私に非がある。

 後悔の念を込めて、じっと犬を観察する。

 犬は興奮気味にくるくると縁側をはしゃいで走り、頭を低くしてお尻を高くするポーズを時折こちらに向かってする。その間尻尾ははち切れんばかりに振り回されて、尻尾どころか腰まで尻尾につられて左右に振っている始末。



「ルヴァンさん、レオンが遊んでって言ってますよ」

「…む。君か」



 そこにこの犬の飼い主である茜――召喚された聖女の姉が現れた。



「そのお尻を高くして尻尾をふりふりするのは、犬が遊ぼうって誘うときのポーズなんですよ。…ルヴァンさん、随分レオンに気に入られましたね?」

「君の犬が勝手に絡んで来ているだけだ。懐かれたつもりはない」



 そう言うと、何故か茜はクスクス笑いながら「そうですか」と言い、昼食がそろそろ出来ることを告げる。

 最近はこうして時たまこの家で昼食を頂くことにしている。珍しい食べ物を食べることも私の興味をそそる事柄の一つだ。異界の料理は、この辺りの料理には見られない調理法や知らない調味料が使われていて非常に興味深い。

 すると、茜は何かを思い出したように、ぽんと手を打つと今夜晩酌をするのでどうかと誘ってきた。



「ダージルさんも来ますし、今日はおつまみも珍しいものを用意したので是非」

「君は相変わらず酒を飲むことに関しては積極的だな?」

「ははははは。お酒をひとりで飲むと碌な事がないですからね!みんなで飲むのが一番ですからして、皆様を誘っているんですよ!はははー」



 何故か涙目で言葉遣いがおかしくなっている茜を、じろりと睨む。この娘は隠し事が下手だ。きっと、何かあったに違いない。

 茜は私からあからさまに視線を逸らして、ふらふらと台所へ戻っていく。

 その後ろ姿を見送って、小さく溜息を吐く。

 …聖女や護衛騎士、警備の兵士から情報を集めねばなるまい。

 茜は聖女とこの世界を繋ぐ楔だ。

 まだ若い聖女は姉であり親代わりの茜に依存している。聖女の健全な精神に彼女は必要不可欠だ。だから、彼女の安寧を守ることが、如いてはこの世界の安定に繋がる。

 …いや。違うか。

 私は頭の中の考えを自ら否定する。

 聖女、そして茜。あんな幼気(いたいけ)な少女にこの世界の運命を背負わせている――それだけの罪を犯している我々が、彼女たちのために尽くすのは当たり前のことではないか。世界のため、国のためと偉そうに宣っても、結局は…。

 私は歯をぐっと食いしばり、こめかみを指でほぐした。そして、どさくさに紛れて膝の上で寛いでいる犬を降ろし、立ち上がって居間へ向かった。



「…何だ。まだ用意が出来てはいないではないか」



 私が居間へ足を踏み込むと、まだ何も乗っていない食卓が目に入る。

 不審に思い、台所へ続く引き戸を開けると、忙しそうに動く茜と、彼女の護衛騎士がいた。

 護衛騎士はこちらに気付くと、軽く頭を下げて茜に声をかける。



「ああ。ルヴァンさん、ごめんなさいね。出来立てが一番美味しい料理なので、いつも食べるギリギリまで仕上げないんですよ。座って待っててくれますか?」



 そう言って大きなボウルの中身を菜箸でカシャカシャ混ぜている。

 私はその姿を見て、ふと思いついて茜のそばに近寄る。



「へ?ルヴァンさん?」

「異界の調理器具というのも中々興味深い。…見学させてもらおう」



 はじめは面食らっていた茜だが、「はあ。」と気の抜けた返事をすると、調理を再開する。



「ふむ。…茜、それは卵か?」

「はい。今日は天津飯なので、卵を使うんですよ」

「きゅーん。きゅーん」

「この缶はなんなのだ?」

「カニ缶です!今日の天津飯は豪勢にカニ缶を使うんですよ!いつもはカニカマっていう、もうちょっと安い食材なんですけど、今は手に入らないので」

「きゅううん。きゅっ、きゅうーん」

「ほほう。それと干したきのこか?」

「はい。干し椎茸です。この戻した汁も美味しいので使います」

「きゅーんきゅーん、きゅっ、きゅううううん」



 自然と大きなため息が私の口から漏れる。

 私は眼鏡の位置を指で直すと、引き攣る顔をなんとか取り繕って、後ろで待機していた護衛騎士に振り向きざまに問いかける。



「君。ジェイドだったか。…今君は何をしている?」

「はっ…。護衛対象を護衛中です」

「そうか。では、ここは私がみよう。…君に新しく任務を与える。暫く、その犬を君に預ける」



 私は居間と台所の間の引き戸のわずかな隙間に鼻を突っ込んで、こちらに物悲しげな声を未だにあげている犬を指差す。鼻先しか見えない姿は、なんとも滑稽だ。



「欲求不満のようだから、思う存分発散してやるがいい」

「…………はっ」



 護衛騎士は一瞬不満そうな顔をしたが、言われた通り犬を抱えて台所を後にした。

 残されたのは私と茜のみ。あの甲高い甘えた声が聞こえなくなると、急に台所が静かになった。

 すると、隣に立っていた茜が笑いを堪えきれずに吹き出す。

 あはははは、と大きな声で笑い腹を抱えて蹲る。

 私はなんとなく、面白くない気持ちになる。



「――全く。飼い主もそうだが、あの犬も実に厄介だな」

「ぶっ、くくくく…!ご、ごめんなさいね?飼い犬共々ご迷惑をお掛けします…ぷぷっ」

「普段から甘やかしているから、ああなのだろう」

「いいえ。普段はあんなんじゃありませんよ。ルヴァンさんがいる時は、特別甘えん坊なんです」



 茜は目の端の涙を拭いながら、実に楽しそうにそう言う。



「…それでは、私が甘やかしているように聞こえるではないか」



 そんな事実は一切ない。

 寧ろ無視を決め込んでいることの方が多いはずだ。



「犬はね、甘やかしてくれそうな人を、本能的にえらびとるんですよ」

「………」



 ――全くもって理解不能だ。

 私は微かな目眩を覚えて、眉間を指でほぐした。



 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇



「溶き卵に、あらかじめ炒めて粗熱をとったカニ缶と干し椎茸を入れて混ぜておきます。小鍋に、干し椎茸の戻し汁と醤油、酒、砂糖、鶏がらスープの素を入れて煮立たせて、片栗粉でとろみをつけて、醤油あんの完成です」



 茜は簡単に「これで大体準備完了です」と私に説明すると、服の袖をまくり気合を入れ温まった「中華鍋」の前に立つ。



「中華は仕上げにかかるとあっという間にできますから」



 中華とやらが何なのかはわからないが、茜はやけに張り切っているようにみえる。

 茜は「ガスコンロ」の火力を強め、多めの油を注ぐ。そして、鍋にボウルから卵を注ぐと、じゅわわわっと油と水分が反応する軽快な音がして、鍋に丸く広がった金色の卵の縁がぶくぶくしゅわしゅわと膨れる。

 ちらりと茜の方を見てみると、その目は何処までも真剣で、ぐっと眉間にしわを寄せて鍋から決して目を離さない。

 段々と卵が縁から内へ向けて火が通り固まっていく。

 それに合わせるように険しくなる茜の顔。

 ――この先に一体何があるのだろうか。

 もしかして茜の言う中華というのは、こんな緊張を伴うような恐ろしく難易度が高いものであったり、危険なものなのだろうか。

 いや、それにしては茜の様子はただ事ではない。

 何か特別な事を成し遂げようとしているようにも見える。そう、例えば一子相伝の技を繰り出そうとしている匠のような、そんな気配。

 もしや異界の料理の真髄を今ここで――?

 …私はもしかしてとても貴重な場面に立ち会っているのだろうか。そんな結論にたどり着き、ドクン、と胸が高鳴る。

 私も茜の発する緊迫した空気に呑まれ、僅かに緊張してきた。

 汗がにじむ手を握りしめ、私がごくりと唾を飲み込んだその時、茜が動き出す。

 それは、卵がちょうど半熟の頃。

 中華鍋の柄を、力一杯握りしめた茜は、鍋をゆらゆらと揺らす。

 すると中の卵も鍋肌をくるくると円を描き、鍋の中で踊り出す。その様子を確認した茜は、決意したように「よし!」と気合を入れる。

 期待に胸が高まる。

 遂に。遂に異界の料理の真髄が――!!

 茜は、ぐっと唇を噛み締め、息を止めたと思うと、徐に勢いよく鍋を振り――ぽん、と卵を空中に放り出した。

 そして放り出された卵は、ゆっくりと空で美しい弧を描き――また鍋に着地した。

 …つまりは。

 卵が鍋の上でひっくり返ったのだ。



「うおっし!」



 茜は拳を握りしめ、結果に満足したようで頰を染めて喜んでいる。

 …どうやら、いままでの緊迫した様子は全て卵をひっくり返すためだったらしい。



「…それだけか?」

「へ?」



 茜は間抜けな顔をこちらを見る。

 その顔があの犬とダブって見えるのは気のせいだろうか。

 …私は眼を瞑り腕を組むと、自分の愚かさについて考察をはじめた。



 食卓には、白米に卵を乗せ、艶々としたあん(・・)がかかった「天津飯」という料理と、「わかめ」とネギが入った「わかめスープ」という料理が並ぶ。



「今日はひよりは少し遅れるそうですから、食べてしまいましょう」



 食卓には茜とジェイド。この家では身分や立場に関係なく同じ食卓を囲む。

 地べたにクッションを敷いて座るスタイルも、何度か体験していてもう慣れたものだ。



「きゅん!」

「ジェイド。…先ほど私は君に犬を預けた筈だが」

「申し訳ありません。その…レオンは余程貴方の事がお好きなようで」



 私は自分の足元を見る。

 食卓の下で舌を出した犬が此方を丸い瞳でみつめ、伏せをしている。



「ルヴァンさん、ごめんなさい。何度も退かしたんですけれど」

「…全く。仕方あるまい」

「ありがとうございます」



 そういった茜の顔がやけに嬉しそうで、思わず眉が引き攣る。

 …気を取り直して、食事に専念する事にしよう。

 スプーンを「天津飯」に差し込む。

 ふわっとした卵に容易にそれは飲み込まれ、持ち上げるとねっとりとしたあん(・・)が糸を引く。

 口へ運ぶと、見た目通りのふわふわとした卵の食感。卵の中のカニの身の濃厚な旨味。

 少し濃い目の醤油あんのしょっぱさと、カニの味が満遍なくする甘い卵が、もう一口、もう一口と私を誘う。



「…む」



 この時ばかりは素直にもう一口。

 ほろほろとした白米と、とろとろのあん(・・)が絡んで、ねっとりと口の中で混ざり合う。カニの味に隠れがちだが、何かの優しい旨味を感じる。それは茶色いきのこ――椎茸を含んだ時にその正体を知った。干したものを水でわざわざ戻した上で調理したと言う椎茸を噛むと、中からじゅわっと出汁が溢れる。その出汁からする強い旨味、これがこの料理の根底にある旨さだ。

 ――成る程、だからこれの戻し汁を使うのだな。

 なんとも理にかなっている。

 …スープも口に含む。スープと共に、わかめという海藻も一緒に口に入る。少しだけ感じる滑りと、しゃきしゃきとした歯触り。

 鶏がらの出汁なのだろうか。塩で整えられたあっさりとしたその味は、「天津飯」の濃い味を程よくリセットしてくれる。



「お味はどうですか?」

「ふん。…悪くない」



 ――この料理ならまた食べてやってもいいかもしれない。

 残りの「天津飯」をスプーンで軽快に食べ進める。

 昼に食べるにはちょうどいい量で、あっという間に皿の上は空になった。

 食べ終わる頃を見計らって、茜が緑茶を出してくれた。ひとくち口へ含むと、甘さと渋みが舌を舐める。すうっとする爽やかな緑茶の香りは、食後に飲むと口の中がさっぱりして心地よい。思わずふう、と息を吐く。

 その時、私の膝の上に何か乗った感触がした。

 ふと見ると黄色いボールが乗っていて、あの犬が置いたものらしい。

 珍しい異界の料理を食べた後で、気を良くしていた私は、この時きっとどうかしていたに違いない。

 特に深く考えずに、邪魔なそのボールを手に取り――ぽんと遠くへ投げる。



「「あっ」」



 茜とジェイドの驚いた声が重なった、その瞬間。



 ――だだだだだだだだだっ!!!



 あの胴長短足の犬が、私の予想を上回るスピード、そしてとてもはしゃいだ様子でボールへ飛びつく。

 犬はがぶりとボールを咥えたかと思うと、直ぐさま一直線に私の元へ戻ってきた。

 犬はボールをぽとりと床へ落とすと、その場へ座り、口を大きく開いて長い舌を垂らしながら、へっへっへっへっと激しく息をする。そしてこちらをじっと見つめてくる。

 尻尾を激しく振り、少しだけ目を細めてこちらを見ているその様子は、獣なのになんだか笑っているようだ。



「ルヴァンさん…」

「………皆まで言うな………」



 ――私としたことが…!!

 途轍もなく大きな敗北感が私を襲う。

 己から…己から犬に遊びを提供してしまうとは…!

 その後、犬は嬉々としてボールを押し付けてきたり、鼻で私の手をぐいぐい押して投げろとせがんできたりした。余りにもしつこいので、私も我慢ができなくなり、ボールを排除するために全力で庭先へそれを投げるという行動に出た。

 けれども、弾丸のように飛び出した犬がボールをあっという間に持ち帰り、結局は藪をつついて蛇を出すような結果となった。

 きらきらと輝く犬の顔からは、私への信頼や好意がはっきりと見てとれる。潤んだ瞳で見つめられると、私の顔が引き攣る。

 黒々とした丸い瞳が今も私をじっとみている。

 そこには邪心はなく、唯々遊びへの期待のみ。

 ふと、頭の隅に普段顔を合わせる、腹が読めないどろりと目が濁った貴族どもの顔が浮かぶ。



「くん!」



 犬が楽しそうな声を上げる。

 私はいつもの癖で、ついつい眉間を解そうと手を上げたが――やめた。

 大きくため息を吐く。

 私はその手で黄色いボールを掴み、できるだけ遠くへ投げてやった。



 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇



「…で。今や執務室にお犬様を連れ込んで仕事をしているって訳か!?」

「知らぬうちに私の執務室の場所を嗅ぎつけた上に、何度追い返しても、飼主が連れ帰っても戻ってくるのだ…仕方あるまい」



 ダージルは私の執務室にきてからずっと笑いっぱなしだった為に、腹筋が痛くなったのか片腹を押さえて、やや斜めに傾いでいる。



「…ッ、でも、ヒヒヒッ、膝に乗せて仕事をする理由にはならねぇだろ!?」

「乗せるまで足元で甲高い声で鳴かれるのだ。…煩くて仕事にならぬ。レオン(・・・)は膝にさえ乗っていればあとは大人しい。特に問題は無いだろう」



 私がそういうと、また笑いのツボに入ったのかダージルが息も絶え絶えな様子でその場で蹲る。

「鬼の霍乱」だの、「犬にトチ狂った」だの失礼な発言が聞こえるが聞こえないふりをする。

 私は膝のレオンのさらさらの毛並みを撫でる。

 その毛並みは、飼主が丁寧に毎日梳っているお陰かしっとりと手に馴染んで心地よい。

 レオンも、撫でられるのが心地良いのか、つぶらな瞳をうっとりと細めて、今にも眠りそうなほど体を弛緩させている。



「…ふん」



 執務に差し支えが無ければ、特に問題は無い。

 レオンを撫でながら考え事をすると執務も捗るような気もする。実際処理速度は上がっている。

 …だから、この小さな友人が遊びにくるぶんには何も問題は無いのだ。

 窓からは暖かな日差しが注ぐ。

 春の日差しはレオンにも降り注ぎ、ふかふかの毛で覆われた体を明るく照らす。

 ――なんだ。

 ――やはり飼主のいうとおり、金毛であったのか。

 そっと首筋のあたりを撫ぜる。

 レオンは私の手にすり、と鼻を擦り付け、尻尾をゆっくりと揺らしたあと、気持ちよさそうに昼寝を始めた。

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