聖女が遺したものと、魚介トマト鍋 6
ユエは、手元にある魔石をじいっと見つめると、小走りで魔法書の下へと駆け寄った。
そして、指先に紺色の魔力を纏わせると、そっと魔石に触れた。
――その瞬間、魔法書から光が溢れ出す。一瞬、あまりに眩しくて思わず目を逸らした。そして、光が収まったころに、視線を戻すと――本の前に、椅子に腰掛けた半透明の人物が姿を現していた。
それはまるで古ぼけた映画のフィルムが宙に投影されているような、そんな不思議な光景だった。
その人物は本に手をかざして、なにか作業をしている。
黒髪を頭の天辺で結い上げて、地味な紺色のドレスを着ているその人物は、70代ほどに見える老女だった。顔や手には年相応の皺が刻まれ、髪にも白髪が入り混じっている。表情はとても穏やかで、優しげな印象を与えるその老女……その眼差しには見覚えがあった。
「……マユ。マユ、だ。おばあちゃんになってるけど、マユだ……!」
ユエは興奮気味にそう言い、ほっぺを真っ赤にさせて、涙を滲ませている。
『はい。それで完成ですよ。マユ様』
すると、先代聖女以外の人間が忽然と現れた。
それは、先代聖女よりも若干年上に見える老紳士。白髪を刈り上げにしている優しげな口ひげの男性は、本に手をかざしたままだった先代聖女の手を降ろさせた。
『これで完成? もうちょっと、魔力を注いだほうがいいんじゃないかしら?』
『もう、充分すぎるほど注いでありますよ。これ以上、魔力を注いだら、本が聖遺物かなにかになって、呪いを振りまき始めてしまいますよ』
『あら、酷いわ。私、こうみえても一応は聖女なのよ! そうなったとしても、きっと金運が上がるとか、そっち系よ』
『……どうして、そこで金運ですか』
ふたりは軽口を叩き合うと、クスクスと笑いあった。これが、このふたりの日常なのだということが、見ていてわかる。先代聖女と男性の間に流れる空気は、とても穏やかなものだった。すると、先代聖女が小さくため息を吐いた。
『……私の知識が、後世にいい影響を残すようにと願うばかりだわ。私がもっと博識であれば、もっとこの国は栄えたでしょうに』
『あなたは、充分にこの国に貢献しましたよ。マユ様』
『それならいいのだけれど。この国は、私の第二の故郷なのだもの。ありがとう、コルデア』
どうやらこの男性が、先代聖女の最期まで付き従ったという料理人らしい。
コルデアは、先代聖女にお茶を淹れると、自身のぶんも用意して座った。どうやら、暫くここで休憩するようだ。ふたりは、お茶を飲みながら談笑を始めた。その様子を、ユエは複雑そうな表情で見ていた。
「ね、このコルデアってやつ、マユとどう言う関係なわけ」
「……なに、ユエ。嫉妬しているの?」
「ち、違う! マユにはフェルがいるのにって、思っただけだ」
すると先王様が、コルデアと先代聖女が結婚したという記録は残ってはいないと教えてくれた。
彼は先代聖女が亡くなる瞬間まで、ずっと傍で支え続けた。そして、先代聖女が亡くなった二年後に、病死したのだそうだ。
ユエはそれを聞いて、安心したようにほっと息を吐いた。
王子と先代聖女の仲睦まじい姿を知っているからこそ、複雑な気分だったのだろう。
すると、ユエはどこか切なそうな表情で、楽しげにお茶をしている先代聖女を見ながら言った。
「……もう、泣き虫で怖がりのマユはいないんだね。ここにいるのは、立派な聖女様だ」
私も、小さく頷く。宝物庫で見た肖像画よりも、随分と歳をとって老いてはいるけれど、この先代聖女の姿は、何かを成し遂げた人間独得の、オーラのようなものを放っているような気がする。
隣を見ると、ジェイドさんも先代聖女の姿を、どこか眩しいものを見るような表情で見ていた。
「とても、良い笑顔をしているね。ツェーブルを第二の故郷とまで言っている。……ここが、彼女の帰るべき場所になったんだろう」
あの皮の手帳に書かれていた、彼女の苦しみや絶望。目を逸らしたくなるほどの、辛い日々。死にたいとまで思い詰めていた彼女が、こうして目の前で朗らかに笑っている。
私にとっては、会ったこともない人だ。けれど、ユエが心から大切に思っている人で、ずっと思い悩んでいたのを知っていたから、彼女の笑顔をとても嬉しく感じた。
「……マユが穏やかに最期を過ごせたようで良かった」
ユエはぽつりとつぶやくと、安堵の表情を浮かべて言葉を続けた。
「ヒトは変わるものなんだね」
『人間って変わるものよね』
ユエの言葉に、先代聖女の声が被る。
思わず、三人で顔を見合わせて、雑談していた先代聖女の姿に視線を戻した。
『若い頃は、何時間だって座っていられたのに。ああ、腰が痛くなっちゃったわ。いやねえ、歳を取ると』
『自分が聖女だって言った傍から、年寄りくさいこと言わないでくださいよ……』
『ふふふ、そうかしら。年寄りには年寄りらしさがあっていいじゃない。歳を取ると、渋い緑茶を飲みながら、おせんべいを食べて、ワイドショーを観たくなるものね。不思議と』
『単語がひとつとして理解できませんよ、聖女様』
ニコニコと笑っていた先代聖女は、ふと切なそうな表情に戻る。
そして、遠くを見るとぽつりとつぶやいた。
『あれほど、嫌っていた元の世界のことも、最近は懐かしく感じるもの。やっぱり人間って、変わるものだわ』
『……』
『でも、歳を取ると駄目ね。思考が後ろ向きになってしまうわ。もうすぐ、自分の命が尽きると知っているからこそ、ああすればよかった、こうすればよかったって、どうしようもないことを思い悩んでしまうの。思い出すのは昔のことばかり。……勿論、フェルのことも』
フェルファイトス王子の名前が出た瞬間、ユエの表情がこわばる。
『あの時、私が何事も恐れないような強い心を持っていたら。……そうしたら、巨大な魔物に不意打ちで襲われたとしても、冷静に立ち回って、逃げることが出来た――』
『聖女様』
『……ごめんなさいね。これこそ、どうしようもないことだわ。ああ、それと。あとひとつ、大きな後悔があって』
先代聖女は、空になったカップを見つめて、何かを思い出しているような、そんな遠くを見るような目をした。
『雪原で出会った、黒竜。彼との約束を果たせなかったのが、本当に悔しい』
「――ッ!!」
ユエは途端に苦しそうに表情を歪めた。今にも零れ落ちそうなほどに金色の瞳に涙を溜めて、何かを恐れるように、一歩後ずさった。
『あの子とした、約束。何一つとして実現できなかったわ。結婚式にも招待できなかった。子どもを祝福してもらうことも、棲み家の森へと遊びに行くことだって――私が自分の殻に閉じこもって、泣き暮らしているうちに、時がみるみるうちに経ってしまった』
『今からでも行けばいいじゃないですか』
『馬鹿ね。もう、何年経っていると思っているの? どんな顔をして行けと? それに、もう私のことなんか、忘れてしまっているわ』
先代聖女はそう言って、悲しそうに瞼を伏せた。
すると、ユエは先代聖女の近くへと走り出す。そして――。
「――――忘れてない! 忘れてないよ!」
魔法書の見せる幻だとわかっているはずなのに、先代聖女に向かって、話しかけ始めた。
『もし待っていてくれていても、怒っているかもしれない』
「怒るもんか、ずっと楽しみに待っていたんだ。ふたりが遊びにくるのを――!」
『私は友人だと思っていたけれど、あの子はどう思っていたのかしら』
「友達だよ。友達だと言ってくれたじゃないか! 僕だって……僕だってそう思ってる!」
先代聖女は、苦しそうに顔を歪めている。
そんな彼女に、ユエは必死で呼びかけた。
『きっと、あの子に嫌われているに違いないわ』
「そんな、そんなことないよ。マユ。大丈夫……大丈夫だから。僕も、大好きだから!」
すると、先代聖女がふと何かに気がついたように、ユエの方を見た。
そして、喋るのを止めて、じっとユエを見つめた。
「……あ」
ユエは先代聖女と視線が合っているのに気がつくと、酷く戸惑って、硬直してしまった。
私も、自分の鼓動が早くなるのを抑えることが出来なかった。
――魔法のあふれるこの世界だもの。もしかしたら、もしかしたら……奇跡が起きたのかもしれない。
そんな期待で胸が高鳴る。
……すると、先代聖女はニコリと優しげな笑顔を浮かべた。……そして。
『……あらあら。泣き虫ね、どうしたの? ……いらっしゃい』
そう言って、ユエに向かって手を伸ばしたのだ。
途端、ユエの瞳から、堪えていた涙がこぼれ始めた。
ぽろり、ぽろり、と大粒の涙は頬を伝って床に落ちていく。ユエは歯を食いしばり、唇を震わせ、眉をこれ以上ないくらいに下げて、ぐっと足を踏ん張った。
先代聖女の眼差しは、これ以上ないほど優しさを含み、その眼差しを注がれているユエの瞳は大きく揺れていた。
『ほら、我慢しないで。さあ』
「……マユ」
先代聖女が重ねて声を掛けると、ユエはそろそろと手を伸ばした。まるで、迷子の子どもが、やっと母親に再開できたときのような……そんな表情で。
けれど――その手は、無情にも先代聖女に触れることはなく、空を切った。
ユエは、何も触れていない自分の手を眺めると、次の瞬間がくりとその場で脱力して崩れ落ちた。そして、呆然と自分の体と重なる先代聖女を見つめていた。
『あらあら。どうしたの? 転んでしまったの?』
『聖女さまああ、痛いの……』
『じゃあ、手当をしないとね。さあ、行きましょう』
先代聖女は、抱きついてきた少女を撫でながら、どこかへと去ってしまう。そして、魔法書に残っていた記録も、それで終了なのか、コルデアも一緒に掻き消えてしまった。
「マユ……う、うう……うあ……マユ。マユ……ッ!」
誰も彼もが、沈黙したままその場に立ち尽くす中、ユエの泣き声だけがその場に響いている。
泣き崩れているユエの様子はひどく痛々しくて――見ていられなかった。
「……茜」
ジェイドさんがそっと私の肩を抱いてくれる。
彼を見上げると、小さく頷いてくれた。私は、唇を噛み締めて、ユエのその姿を見守った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
ふらふらと施設を出ていくユエを追いかける。
その行き先は、荒波が叩きつける、崖っぷちだった。
それに気がついた瞬間、嫌な予感で胸がいっぱいになり、必死でユエに追いつく。
「ゆ、ユエ。駄目よ! 変なこと考えちゃあ!」
「――ん? 何が?」
ユエはきょとん、とした様子で私を見ている。
意外なことに、ユエの表情は何処か晴れ晴れとしていて、自殺なんて欠片も考えていそうになかった。どうやら、私の考え過ぎだったようだ。
私は、その瞬間、体から力が抜けてしまって、その場にへたり込んでしまった。
「なにしてるのさ、茜」
「だって、ユエがこんなところに来るから!」
「こんなところってなんだよ。言われたでしょ? 先王様に、海を見ておいでって」
確かに、そんなことを言われた気がするけれど、荒波が打ち付ける崖っぷちというと、自殺の名所かサスペンスドラマの解決編くらいしか思い浮かばない。……ああ、私なんか毒されてる!?
気がつくと、ジェイドさんも私たちを追いかけてきていた。
「――こら、ふたりとも! 勝手にどこかへ行くなよ! 心配するだろう」
「ごめんなさい……」
「まったく、ジェイドは心配性だなあ。そんなんじゃ、僕のこれからすることを聞いたら、心配で死んじゃうんじゃないか」
ユエの言葉に、ジェイドさんとふたり顔を見合わせる。
そんな私たちに、ユエははっきりと宣言した。
「――僕は、穢れ島の浄化に参加することに決めた」
思わず息を飲む。確か、竜には「星と共に生き、そして死ぬ」という掟があり、星の自浄作用である邪気を、聖女の力で無理やり浄化することに反対していたはずだ。特にユエは竜族の次期長であり、その掟に逆らうなんて――。
「……僕は、竜族の長にはならない」
ユエは不安そうではあるけれど、決意の篭った視線をこちらに向けて、はっきりと言い切った。
「竜族の長になるべきものが、率先して掟を破るわけにはいかないからね。……決めたんだ。随分と迷ったんだけどね。この国に来て、マユの姿を見ることが出来て安心した。けど、元々はフェルが――あいつが、穢れ島で死ななければこんなことにはならなかったんだ。だから僕は行く。僕は、僕に出来ることをやるんだ」
縦長の瞳孔の金色の瞳。人間とはまったく違う作りの瞳が、不安と決意を浮かべて揺れている。
自分に出来ることをやる。自分にしか出来ないことを成し遂げる。成し遂げたい! それは聖女である妹や私も、自分を奮いたたせるために、度々口にする言葉だ。
けれど、その言葉がユエの口から発せられた瞬間、私の心は酷く揺さぶられた。
なぜだろう。……怖い。そう思ってしまった。
「ユエ。それはお前が自分で決めたことなんだな? 誰にも、強制された訳じゃないんだな?」
私が何も言えないでいると、ジェイドさんがユエに問う。ユエは、ジェイドさんの言葉にこくりと頷いた。それで、ジェイドさんは少し安心したようだ。
「古龍には言ったのか」
「……まだ。この国から戻ったら古の森に行くよ。それと、説得もしてみる。掟に縛られて、守れるはずのものを守れなかった挙句、誰かが悲しい思いをするのは、もう懲り懲りだ!」
「そうか」
すると、ジェイドさんは暫く目を瞑って、考え事をしていたかと思うと、まっすぐにユエを見据えて言った。
「なら、俺たちはお前が帰ってくるのを待っている。お前を信じて待っている。……だから、約束を守れ」
「――!」
「いつまでだって、待っているんだからな。絶対に帰ってこい。……また、皆で茜の美味い飯を食おう」
「……うん!」
ユエはぱあっと表情を明るくすると、大きく頷いてくれた。
その後は、三人で海を暫く眺めた後、記念館の舞台で劇の練習を見させてもらった。
子どもたちが演じた、先代聖女の一生を描いた劇は、見事な出来だった。けれど、私は劇に集中することが出来なかった。前に進むことを決意したユエ。妹と共に、穢れ島の浄化に行くと決意してくれたことは、感謝しなければならない。でも、でも……私は。私は――。
――まだ、この世で最も穢れ、最も危険だと言われている場所に、大切な人たちを送り出すには、心の準備が出来ていなかった。
子どもたちが演じる舞台の上――そこに飾られた、先代聖女の晩年の姿を描いたのだという絵画を眺める。
沢山の半獣人の子どもに囲まれてこちらを見ている彼女は、幸せそうな笑みを浮かべていた。
――帰り際、先王様に私だけが呼ばれた。言われるままに手を差し出すと、そこには色とりどりの飴玉。
「子どもは笑顔でいるべきだよ。さあ、甘い飴玉だ。お食べ」
ひとつ口に入れた飴玉は、どこまでも甘く甘く――……。
でも、笑顔にはどうしてもなれなくて、自然と視界がじわりと滲んだ。
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