晩酌3 そらまめと幻想への誘い 後編
それには名前は無いという。
けれど、名前が無いと色々と不便だ。だから、その時々で気に入った誰かに、気まぐれに暫くの間使う名を名付けて貰うという。
…そして、今回は私に名付けを任せるというので、妖精の女王と名付けた。
――因みにシェイクスピアの真夏の夜の夢に出てくる妖精の女王の名だ。
それ――ティターニアは、何度かその名を口にして、「美しい響きじゃの」と、輝く様な笑顔を見せてくれた。その笑顔につられて私の頰も少し緩む。
だけど、ティターニアの表情は複雑そうな顔にすぐに変わり、顔を指で掻きながらポツリと呟いた。
「お主が異界から来たことを失念しておったわ。妾を一目見て妾だと気づかぬ者がいるとは…――妾も永く生きてきて慢心しておったかの」
「…異界から?」
「ふふん。お主、ここではない世界から喚ばれてきたのじゃろ?」
耳聡くティターニアの言葉を聞きつけた私の疑問に、何故か自慢げに彼女は答えた。ティターニアは、聖女が異界からこの世界に喚ばれた事は、妖精の間ではとても有名な事だと教えてくれる。
「邪気には妾たちも大概困っておってな。あれにあてられて狂う同胞も多い。それを祓う事が出来る聖女を皆待ち望んでおったのよ…妾は、暇じゃったからの。噂の聖女っちゅうもんを、一目見てやろうと思ってな」
だから久しぶりに人里へ降りてきた、と子供の様な顔でティターニアは言う。
「聖女とやらを探してこの辺りを彷徨いていたら、何やら美味そうな酒の匂いがしてのう。もう、堪らずこっちへ来てしまったのじゃ」
「お酒…好きなんですか?」
「そりゃあもう!」
私の発言から間をおかずに、少し興奮して答えるティターニアは、本当にお酒が好きらしい。
いつの間にか空になっているティターニアのグラスに梅酒を注ぐ。
嬉しそうに注がれる酒を見つめていたティターニアは、グラスが酒で満たされると一口煽り、唇についた酒をぺろりと舐めとる。
「妾は甘い酒が好きじゃ。…辛いのも嫌いではないけどの。特にこの酒に浸かった果実が一等好きじゃ」
かぷ、と梅の実に齧り付き、ううん。と悩ましい声をあげる。
頰が薔薇色に染まり、果実をうっとりと見つめて咀嚼する様は、なんとも言えず色っぽいような可愛らしいような。絶妙な塩梅だ。
「ああ。美味い、美味いのう。お主、もひとつ妾におくれ」
「はいはい」
瓶からもうひとつ掬い取り、グラスに入れてやると、嬉しそうにそれを摘み小さな口で果実を齧っては美味しさに身を震わせる。
そんなティターニアの可愛らしい姿に、思わず私はほっこりして見守っていたけれど、ふと頭を過ぎった疑問を口にする。
「ティターニア、貴女は有名なんですか?…ええと、一目見てみんなが直ぐに判るくらい」
そう、さっきの物言いだと知らない者はいないような感じだった。
私のその問いに、ティターニアは梅の実に釘付けだった視線を上げて、一転して人形のような表情が読めない顔をこちらに向ける。
「そうじゃな。白の妖精女王といったら、童話にもなっておるし、童歌にも歌われるくらい有名じゃ」
そういうと、ティターニアは空色の瞳を三日月型に歪めて、「歌ってやろうか?但し、妾の歌には魅了の力がある故、聴いた後の保障はしかねるが」という。
そのティターニアの表情は、美しさも相まって何処か…恐ろしく不気味だ。人らしい人情とか、そういう温かいものが何処にも見つけられない。――表情は笑っているのに、瞳には何の感情も篭っていない。
…先ほどまでの可愛らしい妖精はどこへ行ってしまったのか。忘れかけていた、相手が人外であるという実感をひしひしと感じる。
私は声が震えない様に注意しながら、丁寧にそれを辞退しておいた。
…なんだか、話していても油断ならない。
ティターニアの楽しそうな軽い調子に引き摺られ、のほほんとしていると、いつの間にかとんでもない方向に話が進みそうな気がして恐ろしい。
それは昔見た御伽噺の狡猾な魔女と雰囲気がどこか似ていて、話していても体の奥底が常に冷え込んでいる感覚がする。
「…それにな、妾はヒトの家に入り込む人外として知られておる。ヒトの家に入り込み、好き勝手したあげく、一等上等な酒を巻き上げるのだ。ヒトの親なんぞは、子に早く寝ないと、妖精の女王がきて攫っていくなんて言い聞かせておる…んふふ」
ティターニアはうっとりと梅の実を種ごとガリゴリと噛み砕く。そして、手元に梅の実が無くなったのに気づくと、不満そうにグラスを見つめる。
目が座ってきたティターニアから漂う異様な雰囲気に良くないものを感じて、私は慌てて新しい梅の実を渡す。
「…はむ。美味いの。お主、誤解するなよ。妾が実際にヒトの家から持ち去るのは、酒だけじゃからの。ヒトの子なんぞ攫わぬ。まあ、酒を差し出さぬヒトを呪ったことはあるが」
「呪……」
夜な夜なヒトの家に忍び込み酒を持ち去る妖精女王…。酒を差し出さないヒトには呪いを与える存在。
目の前の存在がどういうものかやっと理解して、少し震える。
無邪気に梅の実を嚙るティターニアに、一瞬心を許しそうになっていた自分を、過去に遡って叱りつけたい。
もし、もしもだ。ティターニアに出会ってからの対応を間違えていたらどうなっていたのか。場合によっては呪われていた?
ひやりと冷たいものが背中を流れる。
そんな私の内心を知ってか知らずか、ティターニアは「うっかり呪う様な事にならなくて良かった良かった」と、チータラを一本咥えて呑気な顔だ。
「こういうのは、妾のことをわかっている相手にやるのが人外の矜持というもの。呪いをチラつかせて、恐怖に引き攣るヒトのとっておきの酒を持ち去るのが良いというに。妾を知らぬ者にやったとて、何も楽しい事はない。妾としたことが無粋なことをしてしまったの」
――この女王様、趣味が悪い!
あからさまに引き攣る私の顔をみて、ティターニアはまた心の底から楽しそうに笑い、自らの髪を手櫛で梳きながら、またひとつ梅を噛み砕いて飲み込んだ。
「ほほ。そんな怖い顔をするでない。詫びにお主の願い事を1つ聞いてやろう。妾がこんな事をするのは滅多にない。…特別じゃぞ?」
「へ?」
「ふふ、妾が与えるのは呪いだけではないという事じゃ…ほれ、願い事。あるじゃろう?ヒトの望みは尽きないものじゃ」
ティターニアはそう言うと、こてん、と首を傾げて少し考え何か思いついたのか、ぱっと顔を上げる。「そうじゃ!」と顔を輝かせた後、にんまりと悪戯を思い付いた子供の様な顔で、私にずいっとにじり寄ってきた。甘い花のような香りが鼻をくすぐる。意地悪そうな笑みを浮かべた美しい顔が、私の眼前に迫る。
「お主のような若い雌のヒトならば、好いておる雄のひとりやふたりいるじゃろう。なんなら、魅了の魔法でお主の虜にしてやろうか」
「いやいやいやいやいや」
ティターニアがとんでもないことを言いだしたので慌てて止める。
「なんじゃ、嫌なのか?…贅沢者め。確かに魔法を掛けられた相手はちょっとボーッとして思考力が落ちるし、所構わずお主に迫ってくるようになるけれども、浮気もせぬし雌としては悪くは無いと思うがな」
「いや、悪いも何も!所構わず迫ってくるとか怖すぎます!」
「むう。つまらぬ」
ティターニアは、つんと唇を尖らせて不満げだ。
とりあえず、魅了の魔法の件はティターニアは諦めたようでほっとする。
けれど、ふと過ぎった妄想を振り払うために、頭を軽く振る。
――どろりとした目で熱烈に迫ってくる…黒髪金目の男の人。
ティターニアの言葉を聞いた時に、何故かその人が思い浮かんでしまった。
――なんで、ジェイドさんが出てくるの!
ひとり青くなったり赤くなったりしている私を見ていたティターニアは、ふふん、と不敵な笑みでこちらをピッと指差して言う。
「やっぱりお主、好きな雄がおるのじゃろ?」
「いません!」
「嘘じゃろ?素直になれ、ヒトの子よ。ほら、あれか!いつも一緒にいる鎧の雄か。あやつもお主に気がありそうじゃったからの!魅了の魔法なぞ、余計なお世話かの」
「〜〜〜ッ!何を言ってるんですか!」
ティターニアの言葉に頰が熱くなる。
――な、なんで私こんな動揺してるのよ!
半ば自棄になって盆の上のそらまめを掴むと、皮を乱暴に剥いて口へ放り込む。
ひとつ、ふたつともりもり食べていると、興味津々なティターニアがこちらをちらちら見てくる。
「なあ。なあ。それは豆じゃろ?…ただの豆じゃろ?豆なんてそんな美味くないじゃろう?美味いのか?なあ」
ティターニアは、私の袖を指先でくいくいと引っ張って、甘えるような声を出す。
私はそらまめを食べるのをやめて、そんなティターニアをじっと見つめた。
無邪気な子供のような妖精、狡猾な魔女のような妖精、恐ろしい得体の知れない化け物のような妖精。
ティターニアの本当の姿は一体どれなんだろう。
今日の私は、コロコロ変わるティターニアに振り回され、遂には自分自身で変な妄想をしてしまい、そのせいで処理能力の限界をとうに過ぎている。
「なあ、お主。その豆はどうなのじゃ。早う答えよ」
「食べてみればいいでしょう」
疲れきった私は、無意識にぶっきらぼうにそう言って、そらまめをひとつ剥き、しつこく絡んでくる彼女の口にそれを押し込んだ。
その直後、「あ。」と自分が相手しているものが何かを思い出して後悔する。たらり、と背中を汗が伝った。
「ぬ。むぐ…ほほっ!確かに豆じゃな!それも大層美味い豆じゃ!」
そんな私の様子に気付かずに、ティターニアは、頬を薔薇色に染めたかと思うと、それを随分と気に入ったらしく、そらまめの皿を抱え込み、うきうきしながら食べ始めた。
…今の私の横暴な態度は、ティターニアにとって問題にすらならなかったらしい。
「この豆は、あれじゃな。春になると魔木が飛ばしてくるやつじゃろ?」
「へ?」
またティターニアが変なことを言い出すので、私は思わずポカンと見つめてしまう。
「トレントの爺が言っておったぞ。春になると住処の森に立ち入ってくる人間が多くなるのでな、それらをこの豆を沢山飛ばして追い払うらしい。尻のあたりにわざと当てて、尻を押さえて無様に逃げるヒトが大層笑えると、爺が自慢していたのう。最近は何故か籠を持ったヒトが態々やってくると言っておったが…まさか、こんなに美味いとは!爺もやりおるわ」
…絶対その爺とかいうトレントの意図と違うよね?
もしかして誰かの尻に当たったかも知れないそらまめをじっと見つめる。
…これは鞘に入って売っていたし、違うと信じたい。
その後も梅の実を次々と要求するティターニアに付き合って梅酒を飲んでいたけれど、正直私は随分と参っていた。
梅酒のコップを置いて、飾り棚の奥から小さな清酒の瓶を取り出す。
なんだか頭が混乱して、甘い梅酒じゃあ酔えない。
きりっとした強いアルコールが恋しい。
ああ。無性に現実味溢れる何かを肌で感じたい。
妖精とか、魔法とか…呪いとか尻とか!が、出てこない現実らしい何か。
そう思って出窓に腰掛け、窓の外をみる。
今日は新月らしい。月が見えないおかげか、いつもより星が煌々と光り輝いている。
「おお。美しい夜空よな。ほれ、お主見てみよ。春の渡りじゃ」
いつの間にか私のそばに来ていたティターニアと夜空を並んで見上げ、彼女の指差す先を見る。
そこには、星の瞬く昏い夜空のなか、何かが空を悠然と泳いでいた。
一瞬鳥かと思ったけれど、それが近づくにつれて鳥にしてはかなり大きいことに気づく。
それは丸い体に大きなひれをひらひらとはためかせ、体をくねらせて進んでいた。
――随分と沢山居る。それが星の光を遮って、夜空の一部を占領しているせいで、まるでそこだけ黒い川かのように星が見えない。
「ほ。殊勝なことよ。妾に気づいて挨拶にくるようだぞ」
ティターニアの言葉通り、その中の数体、先頭を泳いでいたものがこちらへ段々と近づいて来た。始め米粒ほどだったそれは、見る見るうちに大きくなり、窓から見える範囲いっぱいにまで大きくなったかと思うと、ふっ…と搔き消える。
「えっ」
あまりのことに思わず声をあげると、次の瞬間。
窓の外を黒い影が覆ったかと思うと、そこに私の頭よりも大きな目玉がぎょろりと現れる。
「…ひっ…!」
思わず悲鳴が喉から漏れる。
それは、部屋の中をぎょろぎょろと見渡し、ティターニアを見つけて視線を固定すると、また急にふっ…と窓の外が暗くなり、姿を消す。
「ほれ、お主。そこに座り込んでいないで、窓を開けて見てみよ。あれとは中々出会えぬ…見ておいて損はないじゃろう」
ティターニアは、グラスから梅酒を飲みながら、星が煌めく空をうっとりと眺めている。
驚きと恐怖のあまり、出窓からずり落ちて畳に座り込んでいた私は、力の入らない体に鞭打って、恐る恐る窓を開ける。
そして、出窓から体を少しだけ乗り出して、冷たい春の夜の中にそれを探す。
それは探すまでも無く直ぐそばに居た。
――それを例えるならば途轍もなく大きい金魚。
決して鯉ではない。夜店でよく見るまあるいフォルムのあの真っ赤な金魚だ。
規則的に並んだつやつやした赤い鱗が、星の光できらきらと美しく光る。赤いドレスの様に大きな派手な尾が、ひらりひらりと空を翻る度に風が巻き起こり、窓がカタカタと揺れる。
数体がまるで水の中で踊る様にくるくると夜空を舞う。暗闇の中で幾つもの赤色が、入れ替わり立ち替わり、掠めるように近づいたり遠のいたり。その様子はまるで遊んでいるようだ。
暫くそこで旋回していたそれは、一体ずつ何度かティターニアに近づき、何か話しているのだろうか、ぱくぱくと口を開閉して空の一団に戻っていく。
星の煌めく夜空を泳ぐ沢山のそれらは、段々と遠ざかり、何体か迎えに来ていた仲間と合流して、楽しそうにくるりくるりと回りながら空を泳いでいく。
その様子はとても幻想的で――泣きたくなるほど美しい。
私は我を忘れてその様をじっと見ていた。
さっきまでは現実的なものが見たいなんて思っていたのに、その美しい光景に心奪われてしまった。
じわじわと胸に広がる感動が心地いい。涙が溢れないように、少し上を向いて堪える。
「あれは何故かは知らぬが、春が終わると北に渡る。春と夏の境目をずっと旅しておる。…この時期にしか出会えぬ、季節の境目を旅するおとなしい精霊じゃ。ヒトはあれが夏を運んでくると有難がっておるな」
「夏…」
「あれが見れたと言う事は、あとひと月ほどで夏の風が吹き込んでくるのじゃろう。麗らかな春の終わりじゃ」
「あれの名前はなんていうのですか」
「ほ。名なぞ知らぬよ。名をつけたがるのは、ヒトぐらいのものじゃ。あれはあれ。季節を渡る空飛ぶ魚じゃろ」
「…ティターニアは、情緒というのを学んだ方がいい気がします」
「ほっほ。お主、女王の妾に随分と言うようになったのう」
愉快、愉快とまた梅酒を飲むティターニアは、機嫌よく夜空を遠ざかるそれらを見つめている。
私といえば、次から次へと起こる不可思議な出来事のせいで、体が震え、季節外れの大汗をかいて、終いには幻想的な光景に心まで震わされて――…もういっぱいいっぱいだ。
今晩だけで、異世界の醍醐味というのを嫌という程味わった気がする。山の主の件で、不可思議な事には慣れたような気がしていたけれど――甘かった。
――今夜は一体なんなのだろう。やっぱり誰かに黙ってひとりでこそこそ晩酌しようとした罰が当たったのかな。…うん、そうに違いない。ダージルさんを蔑ろにした罰が当たったんだ!許してくださいダージルさん!私はビールをけちって、ひとり静かにそらまめを味わいたかっただけなんです!
――そんな私の祈りは天には届かなかったらしい。
悶々としている私の耳にティターニアの楽しそうな声が聞こえる。
「ふふ、お主。妾に頼む願い事もなかなか決まらぬようじゃし、今夜ももう遅い。また来た時で良いぞ。その時は美味い酒を振舞うのじゃぞ。ついでつまみもな。…あっ、お主、この間鎧の雄とこの酒の中の果実を捨てるとか話してたじゃろう!これは妾のじゃから、捨てることは許さぬぞ!捨てたら呪ってやるからな!絶対に捨てるなよ!わかったか!」
そうして、きまぐれで、恐ろしく…そしてとんでもなく美しい妖精の女王は、「近いうちに友を連れてまた来よう!」と元気に挨拶をして、燐光を残し夜空に消えた。
残された私は、脱力して畳に大の字で寝転がる。
「と、友ぉ……?」
私の情けない声が闇に溶けて消える。
物凄い疲労感を感じているけれど、現実離れした体験に興奮している頭では、すんなり寝れそうもない。
私は天井をぼーっと見つめて、悪いことはするものではないなぁと、独りごちた。




