炎の儀式とミネストローネ 2(茜視点)
たっぷりと時間をかけて炊いたブイヨンは、美しい黄金色をしていて、ゆらりと炎の灯りの下で揺らめいている。
厨房中にブイヨンから立ち昇る、なんとも言えない匂いが充満していて、ここにいるだけでお腹が空いてきそうだ。ジェイドさんと私は、ふたりでお鍋の中を覗き込んで頷き合う。
「これで、最後の工程ですね」
「ああ。丁寧にやろう」
大鍋に入ったブイヨンをゆっくりと丁寧に、木綿を敷いたザルで濾していく。ここで、乱暴に扱って、煮込んでいた野菜が崩れてブイヨンが濁ったら台なしだ。
そうっと、そうっと優しく、細心の注意を払って、ブイヨンを濾していった。
「……なんとか、出来ましたね」
「うん。そうだね。味見してみようか」
ふたり頷き合う。そして、小皿に取り分けたブイヨンを口に含んだ。
「〜〜〜〜!!」
その瞬間、口の中に広がった豊かな風味に思わず悶える。
鶏から染み出た旨味に、野菜の優しい甘さ。それがほんのひとくちに凝縮されている。
「……出汁の段階で、この美味しさ。具材を入れたら、どうなるんでしょうね……」
「うん。本当にね。……茜、美味く出来たな。やったな!」
ジェイドさんはそう言うと、私の頭を乱暴に撫でた。ぐらんぐらん視界が揺れるけれど、ブイヨンが上手く作れた達成感と、ジェイドさんに褒めて貰えたことで、そんなの気にならないくらい嬉しい。
「へへへ。これで第一関門突破ですね……」
「後はヴィルマさんと一緒に、初代聖女の味に近づけるだけだね。じゃあ、俺がヴィルマさんを呼んでくるよ。茜は、少し休憩していて。勝手に出歩かないように!」
「子供じゃないんですから。わかってますよ!」
ジェイドさんの後ろ姿を見送った後、椅子に腰掛けて一息つく。……けれど、休めと言われたものの、なんだか手持ち無沙汰だ。そわそわして落ち着かないので、次の材料の準備に取り掛かることにした。
厨房には既に下ごしらえが終わった材料が山積みになっている。
材料はヴィルマさんの記憶にあるものを一通り揃えた。まずはオーク肉のベーコンに、にんじん、玉ねぎ、キャベツにセロリ、じゃがいも。じゃがいもはサイコロ状に切って、ベーコンは短冊切りに。そのほかの材料はすべてみじん切りにしてある。ヴィルマさん曰く、初代聖女のミネストローネにたっぷり入っていたという豆は、下茹でしておいた。
ミネストローネの主役とも言えるトマトは湯剥きして、芯を抜いて、種を取り除いてある。いつもは水煮缶を使うのだけれど、今回は生の完熟トマトをたっぷりと入れる予定だ。これも、ブーケガルニに使ったハーブの様に、炎の神殿にある温室育ちのトマトたちだ。私は正直言って、この季節にトマトがあることに驚いていた。この世界は、日本のスーパーなんかとは違って、その季節ごとの旬のものしか手に入りづらい。それは、とても自然なことなのだけれど、便利な日本の流通に慣れている身としては不便だと思わざるを得ない。その中で、温室という施設は異質だった。
「温室なんて、あったんだなあ……」
「それも、初代聖女様がもたらしてくれた恩恵なのですよ〜」
なんとなく呟いた言葉に反応が返ってきたので、驚いて声がした方を見ると、そこにはジェイドさんとヴィルマさんが居た。
「初代聖女様は、浄化の旅が終わった後に、炎の神殿で生涯を過ごされたのです。その際に、色々と異界の知識を私たちに遺してくれたのだと言われています。……さあ! 仕上げに掛かりましょう!」
ヴィルマさんは手に持った小さな瓶を作業台に置くと、腕まくりをして笑った。チロチロと、肩に乗っているサラマンダーが赤い舌を出していて、まるで笑っている様に見えた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
大鍋でにんにくをオリーブオイルで炒めていく。にんにくの色がきつね色に変わってくると、ぷん、といい匂いがしてきて、思わず唾を飲んだ。……にんにくの香りって、なんでこんなに食欲をそそるのか。
そうしたら、ベーコン。ベーコンの表面が程よく油でジュクジュクと沸いてきて、いい感じに焦げ目がついてきたら、そこに野菜たちを入れていく。にんじん、玉ねぎ、セロリ、キャベツ……それらを木べらで軽く混ぜたら、塩、コショウ、ローリエを……。
「あらあら、お待ちになって〜?」
すると、調味料を入れようとした私の腕を、ヴィルマさんが止めた。
ヴィルマさんは、私に持ってきた小瓶の中身を使って欲しいと言ってきた。
「ええと。これは……?」
「炎の神殿特製の塩ですの。以前から、儀式の際にはこの特製の塩を使っていたのです〜。これは、サラマンダーの炎で精製した塩で、更にサラマンダーの卵の殻を混ぜてあるものなのです」
ヴィルマさんが見せてくれた瓶の中身は、見た目は普通の塩と変わらない。
炎で精製するのはまだわかるけれど、卵の殻が混ざっているって……食べられるのだろうか。
不安に思っていると、ヴィルマさんはにっこり微笑んで、指先でその塩をつまむとひとくち食べた。
「……うん。しょっぱい。人間が食べても何ら問題ありませんわ〜。寧ろ、炎の精霊の加護を得るために、神官たちはサラマンダーの卵の殻を、普段から積極的に摂取しているのです。そうすると、サラマンダーが良く懐くんですよ〜。初代聖女様も、骨が丈夫になるんじゃないか、なんてお言葉を遺していらっしゃいます」
――カルシウム目的なの!?
衝撃の事実に慄きながらも、そっとその塩を摘む。万が一変な味がしたりして料理が台無しになっては困るのだ。私はぎゅっと目を瞑ると――それを思い切って舐めてみた。
……ぱち、ぱちぱちぱち……。
「ふわぁ!?」
「ふふふ、あらあら」
口にその塩を入れた瞬間、弾ける綿菓子を食べた時の様な感覚がして、思わず変な声を上げてしまった。
水瓶に走りより、柄杓で水を掬って飲む。
「――ぷはっ! 何なんですか……!? 今の!」
「サラマンダーの卵の殻は、水分に触れると一瞬弾けるのです。でも味は普通のお塩でしょう〜? 煮込んでいるうちに、このぱちぱちとした感じは消えますから、お料理に使う分には問題ありませんわ」
「そ、そうなんですか……」
ヴィルマさんは口元に手を当てて、コロコロと楽しそうに笑った。
……この人、私の反応を楽しんでないだろうか。
そんな嫌な予感がしつつも、確かに味は塩そのものだったので、調理に利用することにした。晩酌に供される以前に、これはサラマンダーへと捧げる供物でもあるのだ。サラマンダー好みの方がいいだろう。
けれど、得体の知れない調味料を使うのは、若干緊張する。ドキドキしながら、炒めている野菜にその塩を振りかけると、色鮮やかな火花がぱちぱちと弾け、野菜の表面を飛び交った。
……だ、大丈夫なんだよね!?
内心ハラハラしつつも、その後はコショウ、あとはローリエを入れて炒めていく。
この段階だと、スープを作っているというよりは、炒め物をしている様だ。けれど、ここでじっくり炒めておくと、野菜の甘味が引き出されて、スープの味がぐんと良くなる。大きなお鍋の中の野菜を混ぜるだけで、かなり腕力を使うけれど、ここがふんばりどころだ。
ゆっくりじっくりと。焦がさないように丁寧に炒めていく。大体4〜50分くらいだろうか。すると大量にあった野菜がしんなりとして、大分かさが減った。
「……料理とは、大変なものですのね」
ヴィルマさんがそう言ったのは、私の調理する姿を見たからだろう。竈からは常にかなりの熱が発せられていて、私の顔は暑さと熱さで真っ赤に染まっていた。まるでシャワーを浴びた後の様に、滝のような汗が滴り落ちている。実際、傍で見ているだけのヴィルマさんも、うっすらと汗を滲ませているくらいだ。ジェイドさんが時折り気を使って、タオルや水を差し入れてくれるから、なんとかやっていけるけれど、全工程サポートなしでひとりで全部やれと言われたら、気が滅入りそうだ。
「大変ですけどね。苦労を重ねた分だけ、美味しくなるような気がするんですよ」
「……そうなのですか?」
「ええ。私の料理なんて、ただの家庭料理なんです。料理人のものと比べると、随分劣るんだと思います。
だからその分を補う……じゃないですけど、食べてくれる人の顔を思い浮かべながら、その人にとって美味しい味になれーって、願いながら作るんですよ」
そう言うと、ヴィルマさんは目を見開いて、驚いた様子だった。
私は今まで、私の料理を食べてくれた人たちの笑顔を思い出しながら、話を続けた。
「いつもいつも、不安でいっぱいなんですよ。そもそも、私の料理はここではない世界の味付けで、この世界の人たちの口に合うかどうかなんて、確証はないでしょう? 人間にとっては食事をするっていうことは、特別な事情でもない限り、楽しみのひとつじゃないですか。その貴重な一回を私の料理で無駄にするんじゃないかって、ドキドキしてしまうんです」
すると、ジェイドさんがそんなことはないとフォローをしてくれたけれど、私はその言葉を遮って続けた。
「まあ、ジェイドさんの言う通り、今までたくさんの人に私の料理を食べてもらって……ありがたいことに、今のところ拒否されたことはありませんからね。そのお陰で自信は付きました。でも、今回は今までにないくらい、沢山の人に食べてもらうんでしょう? それにサラマンダーにも」
話しながら鍋を掻き混ぜていると、竈から立ち昇った熱風が頬を撫でて、チリチリと痛む。ふと、竈を見ると、沢山のサラマンダーが炎の中に集まってきていた。炎の中でも尚、煌めいているサラマンダーの赤い瞳をじっと見る。こうしてみると、爬虫類も結構可愛いものだ。
「私の料理、お前たちの口に合えばいいんだけどな」
そっとサラマンダーに話しかけると、くりん、と丸い目を動かしたサラマンダーは、そろりそろりと四肢を動かして、真っ赤に燃えた木に脚をかけて、炎の中から私を見つめた。
「私は、まだ食べたことはありませんけれど。きっと、あなたの料理は美味しいのでしょうね」
ヴィルマさんの言葉に視線を上げる。彼女は優しげな笑みを浮かべて私を見つめていた。
「素人の家庭料理ですよ?」
「ふふふ、そういうことにしておきましょうか。楽しみにしています」
私が納得できずに首を傾げていると、ジェイドさんとヴィルマさんに呆れ顔で見られた。
……何故!?
さあ、残った工程はそう多くない。野菜が炒め終わる頃にじゃがいもと豆を入れて少し炒める。そうしたらそこに下処理した完熟トマトを入れて、ブイヨンを注いで煮込んでいく。またアクが出るので掬いながら、塩で味を調整しつつ、じっくりコトコト煮込んでいけば完成だ。
「……後は、野菜が蕩けるくらいまで煮込むだけですね。あんまり混ぜすぎるとじゃがいもが煮崩れるので、注意してくださいね。水分量は常に具がひたひたに浸かるくらいが理想です。足りない様なら、途中で足してください」
「わかったよ。後は引き受けた。少し休憩してなよ」
「ありがとうございます。流石に疲れました……ちょっと休憩……」
その時、廊下を誰かが走ってくる音が聞こえた。足音からするとひとりの様だ。その足音の主は、廊下にある部屋をひとつひとつ覗いているらしく、扉を開く音が何度かしたかと思うと、漸く私たちの居る厨房まで辿り着いた。
「――おねえちゃん!」
「ひより?」
それは、聖女である私の妹。妹は、見慣れない赤い衣に身を纏って、息を切らして厨房に飛び込んできた。
今日の活動報告で、ひよりとレオンのキャラクターデザインを公開中です!
是非御覧ください。