薬草売りと梅仕事 後編
さあ、次は梅干しだ。
目の前の残った梅の実を眺める。
青々としてまだ熟して居ない実は、固くあまり香りも強くない。
本来なら数日部屋の中においてやわらかく熟すまで待つ…のだけれど。
何故かレオンを抱きしめてぐったりしているジェイドさんを縁側から引き摺り下ろし、梅の実のそばまで連れてくる。
「ジェイドさん、魔法を使いたいです!」
「ええと。茜?」
いきなり何を言い出すのか、という顔のジェイドさんへ説明する。
「薬草売りのお兄さんが教えてくれたんです。魔力を浴びせれば、この…梅…じゃない、チコの実を簡単に成熟させられるって」
黄色い熟した実が手に入らないかと聞いた私に薬草売りが魔力で追熟させる方法を教えてくれたのだ。流石、異世界。魔力で何とかなるなんて素晴らしい。
「そうですか。では、試しにひとつやってみましょう」
そう言って梅をひとつ渡される。
そしてそれを持つ私の手をジェイドさんは徐に両手で包み込む。
お互い向かい合って、両手を握り合っているような格好になってしまった。
近い。ものすごい近い。
魔力を融通してくれる為なんだろうけれど、この格好は非常に恥ずかしいし、むず痒い。
温かいジェイドさんの手が、直ぐそこにあるジェイドさんの顔が、わずかに感じる吐息が。
私の全てが彼を意識してしまうのを止められない。
――ひえええええ!
心の中で悲鳴をあげながら、何とか手の中の梅に集中しようと努力する。
じわじわと心地いいジェイドさんの魔力の波動が、私を満たしていく。優しく広がる感覚が私の心を段々と落ち着けてくれる。
手の中の梅を中心に、私とジェイドさんの魔力が混じり合う。その感覚はとても心地よくて、ずっと身を任せていたい位。
そっとジェイドさんを見ると、彼と目が合う。
ジェイドさんもこの心地よさを感じているのだろうか、とても穏やかな顔をしている。
「あっ」
途端、繋いだ手を急に引き寄せられた。
――近づいた顔。
――こめかみのあたりに感じる柔らかい感触。
「〜〜〜〜っ!?!?」
思わず一歩後ずさると、繋がった手が離れてしまう。
その瞬間、二人の間を循環していた魔力が一斉に外に放出されて虹色の輝きを放った。
その現象は数瞬の後に収まり、辺りはいつも通りの風景を取り戻す。
一瞬、幻想的なその光景に気を取られていたけれど、直ぐにハッとして、後ろを振り向き熱い頰へ手を当てて冷やす。
「な、何をするんですか!?」
と、誤魔化すように叫ぶと、後ろの方で彼が笑った気配がする。
「すみません、つい」
悪びれた様子のないジェイドさんの声。
――つい、って何!?なんなの!?
あれか、キスとハグは挨拶的な文化なのか。
それにしたって挨拶なんてするタイミングじゃなかったし!!
混乱する頭でぐるぐると考えていると、ふわりと爽やかな果実の香りが鼻をくすぐった。
握りしめっぱなしだった手のひらを開くと、さっきまでは青々として硬かった梅の実が黄色く、ところどころ紅く染まっている。手触りもふんわり柔らかくなり、その少しだけすっぱさを感じる爽やかな香りはなんとも芳しい。
だけれど、辺りに漂う香りの量は手のひらの中のひとつの果実から香るには多すぎる。
ふと、残りの梅の実が入った木箱を見て見ると、そちらまで黄色く、そして紅く綺麗に色づいていた。
どうやら手を離したどさくさで周囲に撒き散らされた魔力に当てられて、残った梅までも成熟させたようだ。
呆然と梅の実を見つめていると、
「ああ。全部熟してしまいましたか。ひとつひとつ丁寧に変えようと思ったのに」
――残念。
そんなジェイドさんのいつもとは違う艶やかな声が耳元で聞こえた。
ジェイドさんは気がつかないうちに私の背後に立って、肩越しに手の中の梅の実を見つめていたのだ。
そのことに気づいた瞬間、
――うわあああ!だめ!
私はぐるっと体を回転させて、ジェイドさんの顔を両手で挟み込み、ぐにゅっと変顔にする。
そして一言。
「せ、セクハラッッ!」
「せひゅはら?」
タコのような顔になっているジェイドさんは、うまく発音出来ない。イケメン台無しなその顔に私は決意を込めて強く宣言した。
「今度許可なく変なことしたら、セクハラで訴えますからッッッッ!!!」
ジェイドさんは意味もわからず目をパチパチ瞬いている。
今度は手の形を変えてジェイドさんの頰をつねる。ぐいーんとほっぺを痛くなるように引っ張って、セクハラの意味と、恋人でもない人にこめかみとは言えキスをするのは失礼だと言い含めた。
手を離したジェイドさんの頰は赤くなっていたけれど、心配してやる義理もないのでそっぽを向く。
――悪戯に人の心を掻き回すのはやめて欲しい。
――妹の使命が終わったら、私は帰るのに。
――会えなくなる人を好きになること程辛いものはないのに。
――好きになったらどうしてくれるのか!
心の叫びをなんとか飲み込む。
ジェイドさんは暫く呆気にとられたような顔をしていたけれど、私の言葉を理解した途端、ぶっと大きく吹き出した。そして肩を震わせながら、「はい」と楽しそうに返事をした。
その後、なんとか心を落ち着けて、梅干し作りを再開する。
といっても作業はこれも簡単。
熟した梅の実に塩をまぶし、樽に入れ、蓋をして重石を乗せる。――以上。
これで梅干しの第一段階は終了だ。
明日にでもなれば梅から滲み出た梅酢が梅の実が浸かるほど溜まる。全ての実が梅酢に沈むように重石を調節して、このまま夏のはじめの頃まで漬けておくのだ。
そして、晴れそうな日を選んで3日ほど天日で干せば梅干しの完成。
今から夏が待ち遠しい。
漬け込んだ梅酒の瓶や、梅干しの樽をジェイドさんと協力して食料庫へ持ち込む。三往復ほどしたところでやっと全てしまい終えた。
さすがに疲労感を覚えたので、お茶にする。
縁側の一番日当たりのいい気持ちいいところに座布団をふたつ。
座布団の間にお盆に乗せたお茶のセットを置く。
お茶受けは生姜を効かせた春キャベツの浅漬け。
お茶は…去年つけたものと祖母がつけた10年ものの梅酒だ。
「こんな時間から飲むのですか」
「嫌ですねえ、試飲ですよ試飲。新しい梅酒がつかるまえに、前のものがどんな味だったか確かめておかないと。あ、ちゃんと緑茶もありますよー」
ふふー、と小さくわざとらしく笑って、うきうきで用意を始める。
…正直さっきのアレのせいで、ジェイドさんの顔が見れないとか、それを誤魔化すために飲みたい気分だとか、言えない。
小さめのグラスに氷をころりといくつか入れて、そこに梅酒を注ぐ。去年の梅酒は綺麗な琥珀色。瓶の中の梅の実もひとついれる。
10年ものはウイスキーのような暗めのべっ甲色。こちらは梅の実は残っていない。
まずは去年のもの。
一口飲むと爽やかな梅の香りと甘み。
若いからだろう、さらりとしていて深みはあまり感じない。なにより甘さが先に立つ。これからに期待の味。
次は10年もの。
まずとろみからして違う。グラスを傾けるとお酒がとろとろとゆっくりと滑り落ちてくる。
とろん、と舌の上にたどり着くと、濃厚な梅の香り。舌先がきゅん、とするくらい濃い梅の味。梅のエキスが氷砂糖の甘さと完全に馴染みきって、ずっと口に含んでいたいしあわせな味。
そのままの流れで、春キャベツの浅漬けをつまむ。
パリッパリッといい歯ごたえ。生姜をたっぷりと塩と一緒に揉み込んだから、生姜の風味でパンチが効いている。噛んでいると、はじめに生姜、その後に春キャベツの甘さが追いついてくる。
シャキシャキと噛みしめながら、これは去年の梅酒の方が合うなぁ、としみじみ思う。
10年ものは、どっちかというとナッツでも齧りながら、梅酒メインで楽しみたいそんな感じ。
「甘いお酒はあまり飲みませんけれど、なかなか美味しいですね。――この実も食べるんですか?毒は?」
「お酒に漬けてありますから、毒はもうないですよ」
折角なので私も梅の実に齧り付く。
しっとりと酒で濡れた果実に歯を差し込むと、一番に感じるのは濃縮されたお酒の風味。むしろ梅酒を飲む以上に感じるアルコール。噛むごとに、アルコールのくらくらするような風味と、氷砂糖の甘くて優しい味が口の中で一緒になって、なんだか梅酒を食べている気分。
「うん。美味しいー!」
「本当ですね。これはこれで…。でも、なんで古い方には果実が入ってないんですか?」
ジェイドさんが不思議そうに10年ものの方の瓶を眺めている。
「うちの祖母が言ってたんですが。ずっと梅の実を入れっぱなしにしておくと、えぐみがでたり、濁ってきたりしちゃうんですって」
時たま梅の実が入ったままで何年も放置されている梅酒があった、なんて話をきくけれど、正直そういう梅酒は美味しくない。梅の実をきちんと一年程度で引き上げて、一度濾しておく。それだけで梅酒はぐんと長持ちする。
「じゃあ、その瓶の中の実も捨てるんですか?」
「そうですね。そろそろ引き上げようかと思ってます」
――かたかたかたんっ!
…今変な音が聞こえたような。
ちらりとジェイドさんの様子を伺うけれど、その音には気付かなかったようで、特に変な様子はない。
一応周りを見渡してみるけれど、特に変わった様子もない。あえていうならば日向でお腹をさらけ出して眠る愛犬の姿に、犬の本能について一度本人に小一時間くらい問い質したいなあと思う程度。
――勘違い?
不思議に思ったけれど、さほど気にもせずその音の事は忘れてしまった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
後日、小さめの瓶に漬けておいた完成前の梅酒を携えて、市場の露店が立ち並ぶ区画へとやってきた。
いつもの場所に店を構えていた薬草売りは、こちらへ気づくと、にんまりと嬉しそうに笑う。
「やあやあやあ。それが件の酒かい?」
「そうですよ。はいどうぞ」
何故か少し芝居掛かった喋りで、早く早くと手を差し出してくる。私は少し苦く笑いながら、瓶を手渡した。
「ほお。こりゃあ。もう飲めるのかい?」
くるくるまわしてみたり、光に透かしてみたり、薬草売りは実に楽しそうに瓶を眺める。
「まだですよ。最低でも3ヶ月。美味しく飲むなら半年から一年は待たないと」
「ふうん」
私の言葉に、薬草売りは話半分で返事をすると、瓶に沿ってそっと手をかざした。
――途端。
ぶわっ
中の梅が急に萎れ、丸みを失う。
酒が透明から琥珀色、さらには暗いべっ甲色へと変化し、酒のかさが少し減った。
「ふふん。こんなものかなあ」
――まるで10年ものの梅酒みたいだ。
一瞬にして熟成させられたその酒を、薬草売りは懐から取り出した、美しい文様の入った切子のような蒼いグラスに注ぐ。きらきら陽を浴びて輝くそのグラスは手のひらほどの大きさだ。
少しとろみを帯びた酒はグラスの中でゆらりと揺らめくと、薬草売りの口へと運ばれる。
薬草売りは、くん、と匂いを嗅ぎ、一気に煽る。
ごくりと飲み込むと、はあ――っと大きく息を吐いた。
「うん、うん。ああ。美味いなあ」
細い目を薄っすら開けて、紅い瞳で嬉しそうに僅かにグラスに残った酒を眺める。
「塩漬けと砂糖漬けもあるのかい?」
「そちらはまだできてないので…また、お持ちしますね」
そう、と小さく答えた薬草売りは、余韻に浸ってここではないどこかを見ているようだ。
なんだか放っておいた方がいい気がしたので、私は黙り込んでしまった彼に小さく挨拶をして、踵を返そうとした――その時だった。
「ああ。気分がいい」
不思議な調子の薬草売りの声が聞こえた、そう思った途端。
――市場の騒めきが遠くなる。
――周りの人々の動きが止まる。
――風が空気が、全てが止まる。
全てが切り取られて置いていかれる。全てが色褪せる中――今私のいるここだけが鮮やかに浮かび上がる。
「懐かしいものを思い出させてくれて、ありがとう。実に嬉しいね…是非御礼をさせておくれ」
すっと薬草売りが立ち上がる。いつも座っていてわからなかったけれど、彼の身長は見上げるほど高い。
広げられた薬草などの商品を一足で跨ぎ、私の目の前に立つ。
そして薬草売りは懐から先程彼が使っていた小さなグラスの、色違いを取り出した。
「僕の故郷で作られている硝子の杯だよ。紅い色が綺麗だろう。これをひとつ、お嬢さんにあげよう。砂糖漬けと塩漬けを持ってきてくれれば、またあげるよ」
「…でも。大分安くチコの実を売ってくれたはずですから…それだけで充分ですよ?」
――ああ、おかしい。何故私はこんなにも冷静なのだろう。
頭が動かない。こんなにもおかしい状況なのに、当たり前のように感じている自分がいる。自分なのに自分でないような、不思議なふわふわした感覚。
薬草売りは私の手を取り、グラスを握らせる。
「お嬢さんが僕にくれたものは、ただの値引きなんかじゃあ足りないし、釣り合わないさ。本当に感謝しているんだよ。受け取ってほしい」
「でも」
「お嬢さん」
薬草売りはグラスを握りしめた私の手を持ち上げて、自分の頰へ擦り寄せる。
そして懐かしむような顔で少しだけ長い話をした。
「僕の故郷ではね。生のチコの実をね、こういう風に酒に漬け込んだりしていたのさ。大昔のことだけれどね。
知っているかい?チコの花の香は魔物を呼ぶのさ。だけど、それは元々そうだったわけじゃないんだよ。
――よくある御伽噺さ。ある愚かな男の所為で人外の怒りをかって、チコの木に呪いを受けたんだ。それ以来魔物を呼ぶようになったチコの木は、人里から消えて、森の奥深くに自生するだけになった。そんな森の奥深くから生の実を持ち出す酔狂なものはあまり居なくてね。男の愛する故郷の味はだんだんと廃れていったのさ」
ふふ、と静かに笑った薬草売りは、私の手を離すと梅酒の瓶を手に取り、愛おしそうに中身を陽の光にかざす。
べっ甲色の酒が陽に透けて、金色にも琥珀色にも変化する様はとても綺麗だ。
「罪を犯した男が思い出す故郷の色は、いつもこういう色だったという。そういう話さ。うん。確かにね。きらきらして、優しくて――あったかい色だよねえ…」
梅酒の瓶を見上げた薬草売りのローブのフードが僅かにずれる。そこからみえたのは、幾何学文様の美しい耳飾りのついた長く尖った耳。
「お嬢さんと出会えて良かった。こんないい気分は随分久しぶりさ。だから受け取っておくれよ。ほら、杯のここの紋様をみてごらん」
薬草売りが指差す先には、花が咲いたような細い美しい紋様。
「チコの花をモチーフにしているんだよ。私の故郷の伝統的な紋様でね。贈る相手の幸せを願ってグラスに彫られるんだ」
――遠くから市場の喧騒が聞こえる。
――僅かに風を感じる。
――色が、周囲に戻りかけている。
「君に幸せが訪れるように、これを贈るよ。大切に使っておくれ」
気がつくと、私はただそこに立ち尽くしていた。
目の前の露店には、ローブを深く被った薬草売りが座っている。相変わらず市場は人でごった返して騒がしい。
薬草売りは透明な酒の入った瓶を抱えたまま、いつもの様に背中を丸めて座り、もう此方をみていない。
私は踵を返して、いつもの様に人混みを縫う様に歩く。
なんだか、狐につままれた様な気分だ。
ちらりと後ろを振り返ってみても、人混みの隙間から見える薬草売りはいつもの様に地べたへ座り、そこにいるだけだ。
――だけど。
いつの間にかポケットに差し込まれていた私の右手は、小さな切子のグラスを握りしめている。
つるつるぼこぼことしたその表面を指でなぞりながら、さっきまでの不思議な時間に想いを馳せる。
彼の話した故郷の話をもっと聞きたいと思う。
もしかしたら遠い遠い過去の事かもしれない、彼の大切な思い出を。
――聞かせてくれるだろうか。聞かせてくれればいいなあ。
ふんわり薄い雲が広がる春の空をそっと見上げる。
梅シロップが出来た頃、また来ようと思いながら。