番外 騎士団長と鯵のなめろう 3
エスクエル国の浄化が終わり、数日レイクハルトで過ごした聖女一行は、続いて隣国の浄化を順調に終えて、ジルベルタ王国を出発してから約一ヶ月半後。漸く、王都へと凱旋した。
王都の城へと続く大通りを、馬でゆっくりと進む。
道端には、沢山の国民が溢れ、無事に帰ってきた聖女へと歓声を浴びせていた。
聖女は疲れを見せることもなく馬車から顔を出し、ひと目聖女を見ようと詰め寄った人々へと手を振り、歓声に笑顔で応えていた。
俺ですら、体中に溜まった疲労で動くのも億劫で、一刻も早く柔らかなベッドに飛び込みたいくらいなのに……。あの娘は、若いながらも本当によくやっていると思う。
俺は観衆に気づかれないように、小さくため息を吐いた。早く帰りたい。美味い酒を飲んで眠りたい。けれど、この先俺を待ち受ける膨大な書類仕事……それを考えると、酷く憂鬱な気分だ。
その時、一際大きな歓声が上がった。
後ろを見ると、カイン王子と聖女が揃って馬車から体を乗り出して、笑顔で手を振っていた。
――若いもんには、負けてられんな。
俺は無理やり笑顔を作って、父親に肩車され、こちらに懸命に声援を送っている子供へ手を振った。
それから数日は、各所への報告と、書類仕事に追われていた。
毎日毎日、机に向かう日々。体がなまって仕方がない。書類仕事をやるくらいなら、山で夜間訓練でもしたほうが数段マシだ。けれども、その日の俺はここ数日とは違って、真剣に書類に向かい合っていた。
サラサラと羽ペンを走らせる。今日に限っては、書類の内容が面白いくらい頭に入ってきた。
思わず鼻歌が出てしまいそうになる。今の俺は、酷く浮かれている自覚がある。
そんな俺に、呆れた様子で副官が声を掛けてきた。
「団長、今日は張り切っておられますね。もしかして……」
「おう! 今日は茜のところで飲むんだ! 仕事なんて、チョチョイのチョイと片付けて、早くキンキンに冷えたビールで乾杯するんだ!」
「団長は、あそこで飲む約束があると、いつもの倍以上の速さで仕上げますね……。まあ、私も早く帰れるので良いのですが」
「だろう? 良いことづくめだ。酒とは良いものだ!」
「せいぜい飲みすぎないようにしてくださいよ」
「おう!」
俺が満面の笑みを浮かべて、手元の書類へと視線を落とすと、副官の深い溜め息が聞こえた。
溜め息の理由は知っている。いつも、これぐらいやる気を出して書類仕事をすればいいのに……くらいのことを思っているんだろう。
無理無理。酒っていう極上のご褒美が無いと、書類仕事なんてやる気になるわけねえだろ!
俺はにんまり笑うと、ボチャン! と、乱暴に羽ペンをインク壺に突っ込んだ。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
からりと引き戸の扉を開けて、そこの住民に声をかける。
引き戸の奥にはあまり日の差し込まない、板張りの薄暗い廊下があった。途端に、古びた家の独特の匂いが鼻をくすぐった。異界の建物は、煉瓦や石で作られることが多いこの国の建物とは違って木造だ。しかも大分古びていて、使い込まれて飴色に染まった天井や床板は、この家が過ごしてきた長い年月を感じさせる。この世界の建築様式とは全く違うこの建物は、一歩中に入るだけで異界に踏み込んでしまったような錯覚を起こさせる。
けれども、見慣れないはずなのに、何故か落ち着く印象を受けるのは、きっとここの住民の持つ雰囲気のせいなのだろうなあと、ぼんやり思う。
俺の呼びかけに、いつまでたっても反応が返ってこない。どうやら聞こえなかったらしい。仕方なく、もう一度声をかける。おうい、なんて何度か声をかけると、廊下の奥から聞き慣れた声が返って来た。
「ダージルさん? ああ、すみません。今、手を離せなくって……! 居間で待っていて貰えますか!」
その声の主は、王城の中庭のど真ん中に現れた異界の家の持ち主、聖女の姉である茜だった。
台所のある方向が、なにやらバタバタと騒がしい。どうやら料理の真っ最中のようだった。
俺は適当に返事をしながら、玄関に座って、履いてきたブーツを脱いだ。
この家では土足厳禁だ。けれども膝下まであるブーツを脱ぐのはなかなか骨が折れる。苦労して片方のブーツを脚から引き抜いていると、誰かの足音が聞こえた。
「だ、団長様……」
「おう。マルタか?」
振り向くと、そこにはいつもの白いローブを着たマルタが居た。
マルタは何処か複雑そうな顔をして、頬をほんのり赤く染めつつ、座った俺を見下ろしていた。
「マルタ、今日は招待してくれてありがとうな。でもいいのか? こないだの食事の誘いの代わりがこれで。どっかで美味いもんでもご馳走するつもりだったのに」
「い、いいんです。大丈夫ですから……その代わり、あたしの手料理食べてくださいね」
「おう! なんだっけ、練習中なんだっけか。味見なら任せろ! 腹は滅多に壊さねえからな」
「はは……。ど、どうぞ、よろしくお願いします」
マルタはそう言うと、ペコリと頭を下げて、台所の方へと消えていった。
そうなのだ、先日マルタとした約束。ドラッドを一緒に食べた時にした、食事に行くという約束なのだが、色々あって延び延びになっていた。それを、マルタから食事に行くよりも、手料理の「味見」をしてほしいと言われたのだ。
どうも、マルタは茜から料理を習っているらしい。その成果を見て欲しいと頼まれたのだ。
正直、それで詫びになるのかわからないが、俺が了承するとマルタは酷く喜んでいたから……まあ、いいんだろう。
「手料理なあ……誰か食わせたい奴が居るのかな」
そんなことを呟きながら、もう片方のブーツを脱ぎ捨てる。
まあ、例えそういうことではないとしても、おそらく花嫁修業の一貫だろう。平民は、自分で料理をするのが一般的だ。自分の将来を見据え、色々と考えているのだろう。いい心がけだ。
それならば、協力してやらねばなるまい。先日のマーマンの時も、マルタのお陰で事なきを得た。お陰で、騎士団や上層部の中で、マルタの評価はうなぎ登りだ。
もしかしたら、その才能を買われて、これから出世するかもしれない。
そうすれば、きっとどこかの誰かとの縁談が持ち上がるだろう。
そのときに美味い料理が作れれば、円満な家庭が築けるに違いない。
……味見くらいなら、いくらでもしてやらあ! 美味い酒に、美味いつまみ。俺はそれがあれば、なんでもいい。
俺は、にやけそうになる顔を堪えながら、漸く脱げたブーツを適当に玄関の端に寄せて、居間に向かって歩き始めた。
居間に足を踏み入れると、俺の他には誰の姿もなかった。まあ、犬はいたが。
パタパタと尻尾を揺らして寄ってくるレオンを軽く撫でてやり、床に座って遊んでやる。すると、レオンは嬉しそうに、鼻息も荒く俺の手にじゃれ付き始めた。
しばらくすると、茜が料理を手に居間に入ってきた。
茜の手には、幾つかの料理が乗っていた。そこには見慣れた豆の姿があった。それは、『枝豆』という異界の豆だ。茜は、いつも塩ゆでしたものを出してくれるのだが、これがまあ美味い。ただ茹でた豆と侮ることなかれ、こりこりの豆とほんのりとした塩加減がなんとも酒に合う。
ドライアドから収穫するというこの不思議な豆は、俺もお気に入りだ。
しかし、今日の豆はどこかおかしい。何故か皮に所々焦げがある。……もしかして、失敗したのだろうか?
……まあ、「味見」だからなあ、なんて内心思っていると、茜が申し訳なさそうに話しかけてきた。
「ダージルさん。すみません、出迎えが出来なくて」
「いや、いい。美味い酒を出してくれればな」
「ふふふ。そこは抜かりありませんよ! さあさ、座ってください。今、他の料理も持ってきますから。ジェイドさんは少し遅れるそうですよ。先に飲んでいて良いそうです」
「おう! わかった」
そう言い残して、茜は『枝豆』を置いて台所に戻った。
俺は、自分で部屋の隅に積んであった座布団を引きずってきて座り、ウキウキ気分で酒が来るのを待つ。
ふと、台所に繋がる扉に目を遣ると、こちらを覗いていたマルタと目が合った。すると、マルタは顔を真っ赤にして、すぐに顔を引っ込めてしまった。
「うーん……」
俺は自分の頭をワシャワシャと掻いて、料理が来るまで考え事をしていた。
「今日のおつまみはですね。『焼き枝豆』と『秋茄子の揚げ浸し』それと『鯵のなめろう』です!」
茜は満面の笑みを浮かべて、ちゃぶ台に料理を次々と並べていった。美味そうな料理の数々に、思わず喉が鳴った。
どうやら、『枝豆』の殻が焦げているのは、失敗ではなかったようだ。「茹で」ではなく「焼き」の『枝豆』。そういう料理だったかららしい。茜曰く、「塩茹でもいいんですけどね〜焼いても美味しいですよ」とのこと。護衛騎士から、宰相から、この国の王様まで料理の虜にしてきた茜がそう言うのだ。きっと美味いに違いない。
それに、濃い紫色をした格子状に切り目が入った秋茄子。その茄子は、つゆにたっぷりと漬かって、つやつやと光を反射して、俺に食べられるのを今か今かと待っている。
上には薬味として生姜のすりおろしが乗っていて、一体どういう味になるのか想像がつかない。
「秋茄子を油で揚げて、つゆに漬け込んだ料理なんですよ。これもなかなか美味しいんです! マルタが、飾り切りから、つゆづくりまで全部やったんです。期待していてください」
そして、最後の一皿。
『鯵のなめろう』……これは。
「茜。これって、生の」
「そうですよ! 生の鯵です。美味しそうでしょう!」
茜はそう言うと、自慢げに皿をこちらに寄せてきた。
皮を剥いだ跡が銀色に光る魚の身。それが細かく刻まれて、薬味と一緒に混ぜられている料理。それが『鯵のなめろう』なのだという。
正直、俺は生の魚は苦手だった。それはこの国の人間の大半がそうだろう。元々生の魚を食べる文化なんてなかったのだ。どうやら、茜や聖女のいた世界では、生魚を食べるのは普通だったらしく、初めて生のドラッドを出された時は、どうしようか迷ったものだ。
まあ、実際に食べてみたら、大層美味かったけどな。
それでも、今も苦手意識は残っている。内心複雑に思っていると、それが顔に出ていたのだろう。茜は苦笑いをしながらも料理の説明を続けた。
「これはですね、鯵のお刺身……こっちでは鯵はケレルって言うんでしたっけ。それを包丁で叩くんですよ」
茜は手刀を作って、上下に軽く動かした。どうやら手刀は包丁の動きを現しているらしい。
「そしてですね、そこに刻んだ大葉とねぎ。生姜のすりおろしを入れて、お味噌とちょっとだけ醤油を入れてまた――こう、叩くんですよ! それとですね、みょうが! みょうがも刻んだのを入れてあります。
ふふふー。みょうががあるとは思わなかった! こっちの世界じゃあ、お薬に使われるそうですけど」
「お、おお……」
「ダージルさんは、お刺身は苦手だと思うんですけど、なめろうは一味違います! お酒に絶対に会いますから。是非ともお刺身を克服するためにも」
「む。……そうだな、茜がそう言うなら」
俺がそう言うと、茜は嬉しそうに笑って、マルタの方を見ながら言った。
「これも、ケレルを捌くところから、全部マルタがやったんです。マルタ、上手なんですよ、包丁捌き。器用なんですねえ。きっといいお嫁さんになりますよ」
「ちょ……っ、茜ってば。お嫁さんとか! もう!」
茜は始終ニコニコとして、料理の説明を終えた。
茜の「お嫁さん」という言葉に、マルタは過剰に反応をして、また真っ赤に顔を染めていた。そして、ちらりと俺に視線をやると、すぐに目を逸した。
その様子に、俺は自分の予想が当たっていることを確信して、なんとなく嬉しくなった。
「おお、やっぱり花嫁修業だったのか」
「う、い、いや。そんなことは」
「今、付き合っている奴がいるのか?」
「いません!!!!」
俺の言葉に、マルタは急に大きな声で叫んだ。息も荒く、肩で息をしている。
俺が驚いていると、マルタはまた真っ赤になり、小さな声で大声を出したことを謝った。
……ははーん。恥ずかしいんだな。確かに、マルタはこの国の平均からみれば結婚が遅れている。
けれども、マルタは決して見た目は悪くないし、性格も良い。寧ろ、なんでこの歳になるまで相手がいなかったのか不思議なくらいだ。
――ふむ。じゃあ、俺がひと肌脱ぐかな!
そう思った俺は、少しおせっかいかなと思いつつも、マルタに前から考えていたことを告げた。
「じゃあ、もしも、いい関係の奴が居なかったら、俺が紹介してやるよ!」
どうやらそれは言ってはいけないことだったらしい。
俺がそう言った瞬間、空気が凍ったのがわかった。
マルタは俺を凝視したまま固まり、茜は「あーーーーー!!」といきなり叫んだ。
茜は固まってしまったマルタの両肩を掴んで、必死に呼びかけている。
マルタはゆさゆさと茜に揺さぶられるままに、体を揺らし、遠くを見て呆然としていた。
俺はそんなマルタの様子を見て、何故か脳裏に物凄い剣幕で怒鳴っている女房の姿が浮かんでいた。
――あれ? 俺、変なこと言ったか?
大騒ぎしている茜を眺めて、俺は首を捻った。




